2015年11月13日

玉砕84

「捷」号作戦実施の直前になり、突如、第一航空艦隊指令官長官、寺岡謹平中将が、更迭された。
この人事の裏には、「ダバオ誤報事件」がある。

これは、フィリピン・ダバオにおける、見張り所が、沖合いの白波を、米軍の上陸用舟艇と、見誤ったことに端を発した、事件である。

寺岡中将が、第三代目にあたる、一航空長官に新補されたのは、昭和19年8月7日である。早速、幕僚を帯同して、ダバオに着任したのが、8月2日だった。

ダバオに開設された、新司令官部の前には、早急に解決しなければならない問題が、山積みされていた。

まず、フィリピンにおける、決戦に備えて、機材や搭乗員を補充し、その訓練に努める。同時に、ミンダナオ、セブ、ルソンなどの、フィリピンと各地に散在している、航空基地の整備も、急ぐ必要があった。

「あ」号作戦当時、指揮下にあった数多くの航空隊は、大部分が解隊されて、戦闘機隊の、第二○一航空隊、陸攻隊の、第七六一航空隊、偵察機隊の、第一五三航空隊、輸送機隊の、第一○二一航空隊などが、発展解消の形で残っていた。

ただし、以上の部隊は、ダバオではなく、サンボアンガ、セブ、ニコルスの各基地に、それぞれ駐留していた。

特に、二○一航空隊は、セブ島において、爆弾を搭載した、ゼロ戦による、反跳攻撃の特訓を行っていた。
この攻撃法は、昭和18年の中期、米軍によって開発された必殺中の、新戦法だった。

爆弾を直接的艦隊に命中させるのではなく、いったい海面に叩き付け、空中に反跳させて、目標にぶち当てるという、方法である。

威勢に乗る米機動隊に対して、いまや従来の方法では、歯が立たない。
更に、搭乗員の技量は、低下の一途を辿っていた。
技術を獲得するだけの、時間が、無かったのである。

この、反跳爆撃は、従来の攻撃法に比較すれば、錬度の低い搭乗員でも、かなりの成功率を期待できるとされた。
ただし、反面、敵艦に対して、正横方向から超低空で、接近しなければならないため、当然、犠牲も大きいことが、予想された。

だが、結局、この必殺攻撃法は、九月半ばの米機動部隊による、セブ島空襲により、大量の航空機が失われ、中止となった。

そして、このことにより、「体当たり攻撃をも辞せず」という考え方が、醸成されたのである。
つまり、特別攻撃隊の萌芽である。
特攻攻撃のことだ。

いったん芽生えた、悲壮な感情の素地は、のちに同隊員たちにより、「神風特別攻撃隊」の案が、すんなりと受け入れられたことと、無関係ではないのである。

さて、一航艦司令部は、ミンダナオ島の、ダバオの街外れの、林の中にあった。

低地でもあり、しかも基地には、偵察の飛行機もなく、受信能力は皆無で、艦隊司令部は、現地の根拠地隊からの、情報を、唯一の頼りにしている有様である。

寺岡長官は、不自由さをしのび、暫くは、戦う舞台ではなく、再建整備のための、司令部に徹しようとしていた。
当初、司令部は、マニラに移動する予定だった。
その移転先も、通信施設が不十分ということで、9月10日に延期していた。

その矢先に、ダバオ誤報事件が、起こったのである。

9月9日、ダバオは、初めて、米艦載機群の、猛烈な急襲を受けた。
温存主義の上に、ダバオには、戦力の備えがなかった。
敵の、思うがままの攻撃に、ただ任せるしかない。

米機は、翌日も、来襲した。
昼近く、敵の上陸用舟艇多数が、サマル島の沖をダバオ基地に向っているという報告が入った。
サマル島は、ダバオ湾の奥に浮かぶ島である。

敵がダバオに上陸という報は、全軍を駆け巡った。
取り返しがつかなかったのは、連合艦隊司令部が、「捷一号作戦警戒」を発したこである。

寺岡長官は、移動中の一航艦の指揮を、マニラにあった、二十六航戦司令官、有馬正文少将に委ねた。

その後、疑念を抱いた、一五三空所属の、第九百一隊長美濃部正大尉が、応急処置をほどこしたゼロ戦で、ダバオ湾内をくまなく偵察した結果、敵上陸は、見張りの誤認と判明し、一航艦は、取り消しに、大わらわとなった。

そして、翌日の11日、一航艦司令部は、予定通り、マニラに移動した。
ところが、それだけに終わらなかったのである。

ダバオを去った翌日、12日、米機動部隊が、セブ島等を、攻撃し、主力である、二○一空が、思わぬ大打撃を受けた。

実は、10日、マニラにあって、ダバオに敵上陸を知った、有馬正文二十六航戦司令官は、当時、ルソン島にあった、二○一空の戦闘機隊に、セブ基地集中を命じていたのである。

その後、敵上陸が誤報と分り、一部は元に戻したが、なおセブ基地には、100機余の戦闘機が残っていた。
そこを、急襲されたのである。
邀撃に飛び立ったゼロ戦も、不利な態勢からの空戦を強いられ、その大半が撃ち落された。

地上撃破と共に、約半数を失い、残りの約30機も、中小の損害を被ったのである。

それから、一ヵ月後の、10月15日、有馬少将が、衝撃的な戦死を遂げる。
マニラ北部の、クラーク基地において、攻撃に飛び立つ一式陸攻に乗り込み、そのまま帰ることがなかった。

有馬は、以前から、「この戦争では、上に立つ者が死ななければならぬ」と、口にして、死処を求めていた様子であった。
当時は、セブ島での、大損害に責任を感じてのこととして、認識されたが・・・

いずれにしても、司令官の身で、攻撃機に直接搭乗するなどとは、異例の行動であり、寺岡中将の衝撃は、あまりにも、大きかった。

これより先の、10月5日、第一航空艦隊司令長官として、軍事省航空兵器総局総務局長だった、大西龍治中将が、発令された。
この、大西中将こそ、特攻隊の決断者である。





posted by 天山 at 06:01| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。