2015年11月12日

玉砕83

サイパンの玉砕は、大本営の「絶対国防圏」の、最も重大な一角である、中部太平洋方面が、破綻したことである。
より具体的には、太平洋戦線に、新しく出現した、長距離爆撃機B29の、日本本土直撃の前進基地と化すこと。

首相経験者などの、重臣を中心とする、一部の人たちの間には、以前から、反東條内閣への動きがあったが、この時期に至り、これらの人たちの動きが、にわかに積極性を帯びてきた。

戦争終結の声も、一部では、囁かれたのである。
そして、今振り返れば、戦争終結を早々に成していれば・・・
あれほどの、被害はなかったのである。

だが、開戦も、難しいが、終結もまた、難しいのである。

昭和19年、1944年、7月17日、七名の重臣が、平沼邸に集まり、陸軍の長老阿部信行をはぶく、全員が、東條の退陣に一致した。

木戸幸一内大臣は、参内して、天皇に重臣会議の結論を上奏した。
だが、東條は、その情報を未明に知らされ、即座に辞職を決意した。

7月18日、東條内閣総辞職にともなう、後継内閣首班の奏請につき、重臣会議を開いて、結果的に、上請されたのは、当時の朝鮮総督、小磯国昭陸軍大将、および、米内光政海軍大将だった。

重臣会議の発言では、戦争完遂が第一目的、戦い抜かねばならないという、内容が主流を占めた。
つまり、戦争続行内閣である。

小磯内閣は、東條内閣とは、変わりなく、あったということだ。

サイパン、ビアク島の、玉砕により、絶対国防圏が一挙に崩壊した後、フィリピン、沖縄、台湾を結ぶラインにおいて、連合軍の進攻を迎えなければならなくなった。
そればかりか、直接本土に対する、上陸作戦さえも、懸念されるに至ったのである。

当時、大本営海軍部は、三つの選択肢を考えていた。
一つは、マッカーサーが、ニューギニア西北部から、フィリピン奪還の後、日本本土に至る。
二つ目は、ニミッツ攻勢をもって、一挙に台湾、南西諸島を衝き、フィリピン奪還のマッカーサー勢力と、合流して、九州に進攻するというもの。
三つ目は、ニミッツ攻勢による、マリアナ諸島から、日本本土に至る。
である。

特に、二つ目の可能性が高いと、見ていた。

いずれにせよ、連合軍は、艦艇の修理、航空機の整備などに、二ヶ月を要すると考え、以上の、いずれかの攻勢ルートを進攻してくるとの、確信である。

それは、大本営海軍部においては、本土、南西諸島、台湾、およびフィリピンを最後の防衛要所として、八月以降に行われる、連合軍の侵攻に対処しなければならなくなったということだ。

しかし、攻撃態勢というものの、連合艦隊においては、「あ」号作戦の敗北は、米空母部隊との艦隊決戦は、不可能となっていたのである。

連合艦隊としては、次の作戦を、基地航空部隊を中心に進めるしかなかった。

いずれにせよ、日本軍にとっての最後の防衛要域である、フィリピン、台湾、沖縄などは、それらの、どれ一つを失っても、また、各要域を維持することが出来たとしても、海上交通の確保が出来なければ、戦争の続行は、無理であった。

この窮地に追い込まれた日本が、今後も、戦争を継続するとすれば、本土の防衛のみならず、蘭印を始めとする、南方資源地帯をも、確保しなければならない。
そして、そのルートを確保するためには、以上の要域の防衛が絶対に、必要であった。

米軍の次期進攻に対する海軍の作戦構想は、否応なしに、ギリギリの、最終決戦の形相を帯びてくる。

陸軍もまた、従来のソ連に対する配慮を捨てて、最後の要域防衛に、全力を傾注する姿勢を見せていた。

つまり、この時点で、戦争の趨勢は、決していたのである。
つまり、敗戦である。

戦争を終結するという問題・・・
はじめる時より、複雑化している。

そして、結局、対米決戦指導要領では、フィリピン方面における、地上決戦の方面は、北部比島付近とすることになった。
それは、作戦上の要求というよりも、主として、地上兵力量の関係から、やむなくとられた処置である。

「捷」号作戦の策定・・・
この言葉、文字の意味は、戦勝、勝ち戦を意味する。
捷、しょう号作戦である。

捷一号作戦は、フィリピン方面。
捷第二作戦は、九州南部、南西諸島、台湾方面。
捷第三作戦は、本州、四国、九州方面。小笠原諸島。
捷第四作戦は、北海道方面である。
以下、仔細については、省略する。

大本営は、そのほかに、源田実参謀の着想を採用した。
それは、悪天候に乗じた奇襲作戦、または夜間攻撃を、専門にする特別部隊の編成である。

これを、基地航空兵力の中核にして、米機動隊打倒の突破口を開くものである。

フィリピン、沖縄、台湾など、当面予想される、決戦正面は、台風のコースである。
源田の立案した、この特殊部隊は、台風観測の、気象班を加えて、全海軍から抜擢された、精鋭飛行隊をもって編制され、T攻撃部隊と呼称された。

その総兵力は、実動約150機で、戦闘機二隊、攻撃機六隊からなり、指揮官には、久野修三大佐が、任命された。

米機動部隊は、依然連合軍進攻の、中核的兵力をなしていたが、これに対するわが機動部隊には、もはや、その本格的な再建を期待することは、出来なかったのである。

当時、第三艦隊に所属する各種空母は、近く就航予定を含めて、九隻存在していたが、それに搭載する、艦上機が、間に合わないという状態であった。

更に、これらの空母は、内海西部に留められた。
空母搭乗員の養成が、基地航空部隊よりも、時間を要したのである。






posted by 天山 at 06:14| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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