2015年11月09日

玉砕80

戦記を紹介しているが、何度も言う、ビルマ戦線とは、インパール作戦だけのことではない。
敗戦まで、戦い続けたのが、ビルマ戦線である。
そして、日本兵は、ビルマの独立という大義を、持っていたのである。

タイ・ビルマ戦線とは、ビルマ戦線全体のことを言う。

登っては下り、下っては登る。動けなくなった兵隊も出てきた。これがインパール撤退の繰り返しにならなければよいがと心配する。
雨は降りそそぎ、道は泥濘になった。歩かなければ万事休すだ。だいぶ疲れが出てきたようだ。疲れなおしの気休めからか、
「どーせ下まで降りるんなら、登らなければよかったのに」
「また登りか、さっき降りなければよかったんだ」
「なるほどな。何いってやがる。それじゃあ日本に帰れねえじゃないか」

山岳内を二昼夜で五十キロ以上歩いた日もあり、われわれは連日の行軍の歩度をゆるめなかった。山中にふりつづく雨は全身をぬらし、部隊の通過でできた道に水溜りが光る。昼なお暗い樹林の下を急ぐわが舞台は、自分たちでも驚くほどに速かった。

急坂がいつの間にかなくなり、稜線なのだろうか、歩行がしだに楽になったが、泥んこ道は変わりなくつづいた。両側はどこまでも深いジャングルで、木々の間には根が複雑に地上に露出している。ふと前方を見ると、みょうな格好の兵隊が歩いている。
「難だ、あの丸腰の兵隊は」
「あれでも兵隊か」
兵隊服に帽子だが、どうも弱々しく、杖をつく者もいる。
「女だ」
だれかが叫んだ。そうだとすれば、軍隊と行動をともにしているのは、慰安婦以外には考えられない。

「師団のやつら、女たちを連れて歩いていたのか」
「くそ面白くもない。女なんか歩かせたら、山の中でへたばって死んじまうぞ」
近づくにしたがって頭髪、襟足と腰の形、なよなよと歩く姿がはっきりと見える。
「死んではもったいないねえ・・・」と口には出たが、体の消耗がはなはだしいうえに、緊張した状況下のため、性欲どころではない。
追い越しながらまぢかで振り返ると、やっぱり女である。白い顔には化粧っ気はないが、弱々しい体に疲れがめだち、悲しそうな顔で歩いている。前方を元気に歩くわれわれをうらめしく思ったのか、うつむい顔を上げた。

敗戦とはみじめだ。慰安婦も女の身で軍に協力しつつ、こんな苦労を味わうとは哀れな人生だと思う。六名の彼女たちの運命に幸あらず、山を越えることができずに死んだと、戦後、人づてに聞いた。

とくに悲惨だったのは、患者部隊であった。シャン高原を横断して、タイのチェンマイに出ようとした兵隊は、食糧医療品もないまま、自力で行軍を強いられ、山中に倒れていった。われわれの通過したあとの道すじには、病魔と戦いながらつぎつぎと体力を消耗し、倒れ伏した兵隊が、屍を山野にさらしていたと聞いた。

タイ、チェンマイ・・・
タイ・ビルマ戦線の兵士の遺骨、多数あり。
チェンマイには、野戦病院があった。
といっても、そこは、お寺である。

ムーサン寺という。
そこに、慰霊塔がある。
毎年、日本人の有志が集い、慰霊祭を開催している。

また、チェンマイから、車で30分程度の場所に、バンカート学校があり、その校舎の敷地に、慰霊塔がある。
そこには、井戸に捨てられた、日本兵の遺骨が、今でも、眠る。

そして、チェンマイ一帯に、12000柱の兵士の遺骨がある。
その慰霊のために、梵鐘も、設けている。

この戦記の作者、井坂氏は、最後は、カレゴ島という、小島に渡ることになる。
そして、そこで、敗戦を迎えた。

五月一日にラングーンが陥落した後、ペグー山中に立てこもった第二十八軍司令官桜井省三中将指揮下の将兵たちは孤立し、激戦中であると聞いた。第一線兵士の苦労を思うと、人ごととは言えない。脱出の成功をひたすら祈った。
後日、豪雨のシッタン平地の湿原と、濁流渦巻くシッタン河を渡るにさいし、敵の空陸からの火力をあび、凄惨な状況のもとで精根つきた彼ら各師団は、膨大な犠牲を出すにいたった。終戦を目前にして兵士たちの多くが、無惨な姿でビルマの露と消えた。

わが第三十三師団はモールメン付近に司令部を置き、シャイン河以北のテナセリウム地区で、英印軍の上陸にそなえ、海外船の防備についた。

そこで第一大隊本部はコドーに、第一中隊はカレゴ島に布陣することになった。カレゴ島はマルタバン湾上にあって、コドーから八キロの海上に浮かぶ島である。

戦争終結が、決まるまでは、兵隊は、戦う。

この五月・・・
六月には、沖縄戦が始まる。

井坂氏に、敗戦が知らされたのは、八月十七日である。

部隊全員、はるかな祖国に向って皇居遥拝を終えると、連隊長が、
「ただいまより、謹んで、天皇陛下の御言葉をお伝え申し上げる」
奉読されたのは、終戦の詔勅であった。日本は降伏したのだった。奉唱なかばにして熱い涙が止めどなく流れ落ち、胸もとまでも濡らした。

「何のために、苦しい戦いをがまんして頑張ってきたのだ。戦友の隊員たちは、何のために死んだのだ。それなのに降伏とは、われわれはもう生きる必要はないのか」

あまりにも、犠牲の多い、ビルマ戦線だった。
しかし・・・
終わったのである。

時は、前後するが、これからサイパン陥落について、書くことにする。
サイパン島玉砕は、昭和19年7月7日である。

つまり、インパール作戦中止の、三日後。

一般人を巻き込んだ、壮絶な玉砕の島である。
そして、隣の島である、テニアン島玉砕は、8月3日。
この、テニアン島から、原爆投下の、エノラゲイが飛び立つ。





posted by 天山 at 06:50| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。