2015年11月06日

もののあわれについて770

女御をばさらにも聞えず、この大将の御方なども、いみじう嘆き給ふ。心おきての、あまねく、人のこのかみ心にものし給ひければ、右の大殿の北の方も、この君をのみぞ、むつまじきものに思ひ聞え給ひければ、よろづに思ひ嘆き給ひて、御祈りなど、とりわきてせさせ給ひけれど、やむ薬ならねば、かひなきわざになむありける。女宮にも、つひにえ対面し聞え給はで、泡の消え入るやうにて亡せ給ひぬ。




女御は、申し上げるに及ばず、この大将の北の方なども、大変お嘆きになる。そのされ方が、誰に対しても、お兄様らしくいらしたので、右大臣の北の方も、この君だけを、頼りになる兄と思っていらした。万事につけて、嘆かれて、お祈りなど、特別にさせたが、思いを消す薬ではないので、何の役にも立たない。
女二の宮も、とうとうお会いになることが出来ずに、泡が消えるように、お亡くなりになった。

女御は、柏木の妹であり、冷泉院の女御である。
大将の北の方とは、夕霧の北の方、雲居の雁。
右大臣の北の方とは、髭黒の北の方、玉葛である。




年ごろ下の心こそ、ねむごろに深くもなかりしか、大方には、いとあらまほしくもてなしかしづき聞えて、けなつかしう、心ばへをかしう、うちとけぬさまにて過ぐい給ひければ、つらき節もことになし。ただ、かく短かりける御身にて、あやしく、なべての世すさまじう思ひ給ひけるなりけり、と思ひいで給ふに、いみじうて、思し入りたるさま、いと心苦し。御息所も、いみじう人笑へに口惜しと、見奉り嘆き給ふ事、限りなし。




長年の間、深く愛していたわけではないが、一応は、文句ないほど、大切に、お扱いだった。優しく、心立てが立派で、わがままも言わずに、辛いと思うことも、特に無かった。
ただ、このように、短命な方であったので、変わったことに、普通の生活を、面白くないと思っていたと、思い出すにつけても、悲しくて、沈み込んでいられる様子は、痛々しい。御息所も、大変、外聞が悪い、残念だと、宮を拝しては、お嘆きになること、限りなし。

女二の宮の心境である。




おとど、北の方などは、まして言はむ方なく、我こそ先立ため、世のことわりなう、つらい事と、こがれ給へど、何のかひなし。尼宮は、おほけなき心もうたてのみ思されて、世に長かれとしも思さざりしを、かくなむと聞き給ふは、さすがにいとあはれなりかし。若宮の御事を、さぞと思ひたりしも、げに、かかるべき契りにてや、思ひのほかに心憂き事もありけむ、と思しよるに、さまざまもの心細うて、うち泣かれ給ひぬ。




父の大臣や、北の方などは、それ以上に、言いようもないほど、自分こそ、先に死にたいと、世間の道理に外れた、辛い事と、慕われたが、何にもならない。尼宮は、大それた心も、嫌なことと思いになるばかりで、生きていて欲しいと、思うことはなかったが、こういうことと、お聞きすると、さすがに、大変に可哀相だと思う。若宮のことを、自分の子だと思っても、なるほど、こうなる前世からの約束事で、思いもかけないことも、あったのだろうと、あれこれと、考えるに付けて、何やら心細く、涙が、ふっと、ごぼれるのである。

尼宮とは、女三の宮のこと。

さすがにいとあはれなりかし
さずかに、とても、あはれ、可哀相なことである。





三月になれば、空の気色もものうららかにて、この君、五十日の程になり給ひて、いと白う美しうほどよりはおよずけて、物語りなどし給ふ。おとど、渡り給ひて、源氏「御心地はさわやかになり給ひにたりや。いでや、いとかひなくも侍るかな。例の御有様にて、かく見なし奉らましかば、いかに嬉しう侍らまし。心憂く、思し捨てけること」と涙ぐみて恨み聞え給ふ。日々に渡り給ひて、今しも、やむごとなく、限りなき様に、もてなし聞え給ふ。




三月になると、空の気色も、うららかで、この君は、五十日ほどになり、たいそう白く、可愛らしく、年の割には、おませで、物を言ったりなさる。
殿様、源氏が起こしになって、ご気分は、すっきりとしましたか。本当に、全く、何もならないことです。普通のご様子で、このように、お祝い申し上げるのでしたら、どんなにか、嬉しいことでしょう。情けない私を捨てて、ご出家されるとは。と、涙ぐんで、お恨みする。
毎日毎日と、お渡りになって、今になって、お生まれに相応しく、丁重に、おもてなし申し上げる。

この君とは、女三の宮の子である。柏木の子。





御五十日に、餅参らせ給はむとて、かたち異なる御様を、人々、いかに、など聞えやすらへど、院渡らせ給ひて、源氏「何か。女に物し給はばこそ、同じ筋にて、忌々しくもあらめ」とて、南面に、小さき御座などよそひて、参らせ給ふ。御乳母、いと花やかに装束きて、御前の物、色々を尽くしたる籠物、檜破子の心ばへどもを、内にも外にも、もとの心を知らぬことなれば、取り散らし、なに心も無きを、いと心苦しう、まばゆきわざなりや、と思す。




五十日の、お祝いに、お餅を差し上げようとされて、母君が、普通ではない姿なので、女房たちは、どうしたものかと、申し上げ、ぐずぐずするが、源氏がお越しあそばして、何の、構うものか。女でいらしたら、同じ事で縁起が良くないこともあろうが、と、仰り、南座敷に、小さな御座所をしつらえて、お餅を差し上げる。御乳母は、派手な着物を着て、御前のもの、色々な色彩を使った、籠物、檜破子の趣向の数々を、御簾の内でも、外でも、本当のことを知らないので、取り散らして、気にもしないのを、源氏は、大変可哀相な、見ていられないことだと、思われる。




posted by 天山 at 07:03| もののあわれ第13弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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