2015年11月02日

もののあわれについて766

御かたち異にても、なまめかしうなつかしき様に、うち忍びやつれ給ひて、うるはしき御法服ならず、墨染の御姿、あらまほしう清らなるも、うらやましく見奉り給ふ。
例の、まづ涙おとし給ふ。「わづらひ給ふ御様、ことなる御悩みにも侍らず。ただ月ごろ弱り給へる御有様に、はかばかしうものなども参らぬつもりにや、かくものし給ふこそ」など聞え給ふ。




お姿は、僧であるが、美しく、優しい様子で、目立たぬように、粗末にされて、正式の御法服ではなく、ただの墨染めのお姿で、理想的と思われるほど、美しいのも、うらやましく、拝される。
いつものように、まず、涙を落とされる。源氏は、患っていらっしゃるご様子は、特別のお苦しみでも、ございません。ほんの一月あまり、お弱りになっているご様子で、さっぱり、お食事もなさらないせいか、このような様子でございます。など、申し上げる。




源氏「かたはらいたきおましなれども」とて、御帳の前に御褥参りて、入れ奉り給ふ。宮をも、とかう人々つくろひ聞えて、床の下におろし奉る。
御几帳少し押しやらせ給ひて、朱雀院「夜居加持僧などの心地すれど、まだ験つくばかりの行にもあらねば、かたはらいたけれど、ただおぼつかなくおぼえ給ふらむ様を、さながら見給ふべきなり」とて御眼おしのごはせ給ふ。




源氏は、申し訳ない御座所でございますが、と、御帳台の前に、お座布団を差し上げて、お入れ申し上げる。女宮をも、あれこれと、女房達が、身の回りのお世話をして、御帳台の、浜床の下に、下ろして差し上げる。
御几帳を少し押しやり、朱雀院は、夜居の加持僧のような気持ちがしますが、まだ、効験があらわれるほど、修行をしてもいないので、恥ずかしいけれど、ただ、会いたがっておいでの、私の姿を、ありのままに、御覧になるがいい。と、御目を、ぬぐわれる。




宮も、いと弱げに泣い給ひて、女三「生くべうもおぼえ侍らぬを、かくおはしまいたるついでに、尼になさせ給ひてよ」と聞え給ふ。
朱雀「さる御本意あらば、いと尊き事なるを、さすがに、限らぬ命の程にて、行末と置き人は、かへりて、事の乱れあり、世の人に謗らるるやうありぬべき」など宣はせて、おとどの君に、朱雀「かくなむ、進み宣ふを、今は限りの様ならば、片時の程にても、その助けあるべき様にて、となむ思ひ給ふる」と宣へば、源氏「日頃もかくなむ宣へど、邪気などの、人の心たぶろかして、かかるかたにてすすむるやうもはべなるを、とて、聞きも入れ侍らぬなり」と聞え給ふ。朱雀「物怪の教へにても、それに負けぬとて、悪しかるべき事ならばこそ、憚らめ、弱りにたる人の限りとてものし給はむことを聞き過ぐさむは、後の悔、心苦しうや」と宣ふ。




宮も、弱々しくお泣きになって、生きながらえそうにも思われませんので、このように、お出であそばした機会に、尼にしてくださいませ。と、申し上げる。
朱雀院は、そのような、お気持ちがあるならば、大変結構なことだが、病気とはいえ、死ぬと決まったものではない、寿命。若い人が、出家して、かえって、具合の悪いことが起こり、世間の人に、悪く言われるようなことがあることも。などと、仰せられて、ご主人の君、源氏に、このように、望んでおっしゃるのだから、もし、今が、最後の様子ならば、少しの間でも、末世での功徳があるようにしてやりたいと、思います。と、おっしゃる。源氏は、ここ何日も、このようにおっしゃいますが、物の怪などが、人の心を騙して、こういう仕方で、その気にさせることも、ございますそうですから、と、申して、賛成できないのです。と、申し上げる。朱雀は、物の怪の勧めであっても、それに負けたとて、悪いことならば、控えなければならないが、衰弱した人が、最後の状態でおっしゃることを、聞き流しては、後々になって、悔やまれ、困ることもあろうかと。と、仰せられる。




御心のうち、「限りなう後やすく譲りおきし御事を受け取り給ひて、さしも心ざし深からず、我が思ふやうにはあらぬ御気色を、事に触れつつ、年ごろ聞し召し思しつめけること、色に出でて恨み聞え給ふべきにもあらねば、世の人の思ひ言ふらむ所も口惜しう思しわたるに、かかる折りにもて離れなむも、なにかは、人笑へに、世を恨みたるけしきならで、さもあらざらむ、おほかたの後見には、なほ頼まれぬべき御おきてなるを、ただ預け置き奉りししるしには思ひなして、憎げにそむく様にはあらずとも、御処分に広く面白き宮賜はり給へるを、つくろひて住ませ奉らむ。我がおはします世に、さる方にても後めたからず聞きおき、又かのおとども、さ言ふとも、いとおろかにはよも思ひ放ち給はじ。その心ばへをも見はてむ」と思ほしとりて、朱雀「さらば、かくものしたるついでに、忌む事受け給はむをだに、結縁にせむかし」と宣はす。




朱雀院は、心の内で、この上なく安心して、お任せした姫を、引き受けてくださりつつも、それほど愛情は深くなく、自分の予期に反した態度を、何かの事につけて、世間の評判、噂を、ここ何年も聞いてきたのだから、口に出して、恨み言を言うべきではない。世間の評判、噂も、残念と思い続けていられたのに、こういう時に、出家して、六条院から離れるというのも、別に人聞きの悪いことでもなく、夫婦仲が良く無いと言うことでもない。一通りのお世話役には、今も頼りになれそうだから、それだけを、お預けしたと思うことにして、面当てのようにではなく、形見分けに、広くて、趣のある邸を頂戴されているのを、修理して、宮を住まわせよう。
ご自分の御在世中に、尼としての生活であっても、心配ないと耳にし、またこの邸の主人も、あのように言っても、冷淡に見捨てることはないだろう。その心の底を見届けようと、考えて、それでは、このようにやってきたついでに、戒だけでも、お受けになって、仏縁を結ぶことにしょう。と、仰せになった。




おとどの君、うしと思す方も忘れて、こは、いかなるべきことぞ、と悲しく口惜しければ、え堪へ給はず、内に入りて、源氏「などか、いくばくも侍るまじき身を限り捨てて、かうけ思しなりにける。なほしばし、心をしづめ給ひて、御湯参り、物などをも聞し召せ。尊き事なりとも、御身弱うては、行もし給ひてむや。かつは繕ひ給ひてこそ」と聞え給へど、頭振りて、いとつらう宣ふと思したり。つれなくて、恨めしと思す事もありけるにや、と見奉り給ふに、いとほしうあはれなり。




源氏は、嫌だと思っている、事情のあることも忘れて、これは、どうしたことかと、悲しく残念に思い、堪えきれず、几帳の中に入って、どうして、余命の少ない私を捨てて、こんな気におなりなのですか。やはり、暫く心を静められて、お湯薬を上がり、食べ物でも、召し上がれ。尊い出家ではあっても、お体が悪くては、お勤めも、できましょうか。一つには、御養生をされてからに。と、申し上げるが、頭を振り、大変辛いことを、おっしゃると、思うのである。お顔には出さないが、恨めしいと、思いのこともあり、と御覧になると、愛しく、あはれである。

いとほしうあはれなり
お気の毒であり、心が動くのである。



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2015年11月03日

もののあわれについて767

とかく聞えかへさひ、思しやすらふ程に、夜明け方になりぬ。帰り入らむに、道も昼ははしたなかるべし、と急がせ給ひて、御祈りに候ふ中に、やむごとなう尊き限り召し入れて、御髪おろさせ給ふ。いと盛りに清らなる御髪をそぎ捨てて、忌む事受け給ふ作法、悲しう口惜しければ、おとどはえ忍びあへ給はず、いみじう泣い給ふ。院はた、もとよりとりわきてやむごとなう、人よりもすぐれて見奉らむと思ししを、この世にはかひなきやうにない奉るも、あかず悲しければ、うちしほたれ給ふ。朱雀「かくても、平らかにて、同じうは、念誦をも勤め給へ」と聞え置き給ひて、明け果てぬるに、急ぎて出でさせ給ひぬ。




あれこれと、反対を申して、戸惑ううちに、夜明け方になった。
朱雀院は、山にお帰りになるのに、昼、道を行くのは、世間体も悪いだろうと、急がせて、御祈祷に控えていた中で、身分の高く、徳のあるものばかりを、お呼び入れて、御髪を下ろさせになった。
いまが盛りで、美しいおぐしを、削ぎ捨てて、戒を受けられる儀式が、悲しく、残り多くて、源氏は、我慢が出来ずに、酷く泣く。院もまた、もともと大事にし、他の誰よりも、よくしようと、お世話しようとの思いであったので、この世に、生きているかいのないように、させるのは、いくら考えても、悲しく、涙ぐみされる。
朱雀院は、こんな姿になっても、丈夫にして、同じことなら、念仏読経も、お勤めなさい。と、申し上げ、夜が明けてしまったので、急いで、お立ちあそばした。




宮はなほ弱う消え入るやうにし給ひて、はかばかしうもえ見奉らず、ものなども聞え給はず。おとども、「夢のやうに思ひ給へ乱るる心惑ひに、かう昔おぼえたる御幸のかしこまりをも、え御覧ぜられぬらうがはしさは、ことさらに参り侍りてなむ」と聞え給ふ。御送りに人々参らせ給ふ。朱雀「世の中の今日か明日かにおぼえ侍りし程に、また知る人もなくて漂はむ事の、あはれにさり難うおぼえ侍しかば、御本意にはあらざりけめど、かく聞えつけて、年頃は心安く思ひ給へつるを、もしも生きとまり侍らば、さまことに変はりて、人しげき住まひはつきなかるべきを、さるべき山里などにかけ離れたらむ有様も、又さすがに心細かるべくや。様に従ひて、なほ思し放つまじく」など、聞え給へば、源氏「さらにかくまで仰せらるるなむ。かへりて恥づかしう思ひ給へらるる。乱り心地、とかく乱れて侍りて、何事もえわきまへ侍らず」とて、げにいと耐へ難げに思したり。




宮は、今も弱々しく、息も絶えそうになり、はっきりと父院を拝することもできずに、ご挨拶も、申し上げない。源氏は、夢のように、心が乱れておりますので、このような昔懐かしい、御幸のお礼も、御覧いただけない御無礼は、日を改めて、参上いたします。と、申し上げる。お供に、家臣を差し上げる。
朱雀院は、命も、今日、明日かと思われましたので、他に世話する人もなく、この世に、うろうろするのでは、可哀相で、放っておけないと、思われましたのですが、お気持ちに、添わなかったでしょうか。このようにお願いして、長年、安心していましたのですが、もしも、命をとりとめましたら、尼姿になってでは、賑やかな御殿での生活は、具合が悪いでしょうが、適当な山里などに、離れて住むとしても、これもまた、心細いことでしょう。尼は尼らしく、今後も、お見捨てされないように。などと、申し上げるので、源氏は、わざわざと、このようにまで仰せられて、かえって、恥ずかしく思われます。心は、色々と乱れますが、何事も、判断がつきかねます。と、本当に、堪えきれないご様子。




後夜の御加持に御物怪いで来て、「かうぞあるよ。いとかしこう取り返しつと、一人をば思したりしが、いと妬かりしかば、このわたりにさりげなくてなむ。日ごろ候ひつる。今は帰りなむ」とてうち笑ふ。いとあさましう、さはこの物怪の、ここにも離れざりけるにやあらむ、と思すに、いとはしう悔しう思さる。宮、少し生きいで給ふやうなれど、なほ頼み難げに見え給ふ。候ふ人々もいといふかひなうおぼゆれど、かうても平らかにだにおはしまさばと念じつつ、御修法また延べて、たゆみなく行はせなど、よろづにせさせ給ふ。




後夜の、御加持に、御物の怪が出て来て、「それごらん。見事に取り返したと、あちらの一人を思いだったのが、嫌だから、この辺に、気づかれないようにして、ずっと、控えていたのだ。もう、帰りましょう」と、声を上げて、笑う。驚く他無い。それでは、この物の怪が、ここにも離れないでいたのかと、思うと、可哀相でもあり、後悔もされた。
宮は、少し正気に戻るが、矢張り、頼りなさそうに、見られる。お付きしている女房たちも、お話にならない思いはするが、こんなお姿でも、せめて元気でいらしたならばと、御修法を、更に延期して、熱心に行わせたりするなど、源氏は、万事に計らう。

この、物の怪は、六条の御息所である。




かの衛門の督は、かかる御事を聞き給ふに、いとど消え入るやうにし給ひて、むげに頼む方少なうなり給ひにたり。女宮のあはれにおぼえ給へば、ここに渡り給はむ事は、今更にかるがるしきやうにもあらむを、上もおとども、かくつと添ひおはすれば、おのづから、とりはづして見奉り給ふやうもあらむに、あぢきなし、と思して、柏木「かの宮に、とかくして今ひとたび参うでむ」と宣ふを、さらに許し聞え給はず。




あちらの、衛門の督、柏木は、このことを耳にされて、いよいよ、息も絶えそうになり、すっかりと回復の望みが薄くなった。
女三の宮が、かわいそうに思われて、こちらにお出でになるのは、いまさらご身分に障るし、母君も父大臣も、このように、付きっ切りでおいでなので、気をつけていても、うっかり、宮のお顔を御覧になるようなこともあると、困ると思い、あちらの御殿に、何とかして、もう一度、伺おうと、おっしゃるが、絶対にお許しにならないのである。




誰にも、この宮の御事を、聞えつけ給ふ。はじめより、母御息所は、をさをさ心ゆき給はざりしを、このおとどのいたちねむごろに聞え給ひて、心ざし深かりしに負け給ひて、院にも、いかがはせむと、思し許しけるを、二品の宮の御事、思ほし乱れけるついでに、朱雀「なかなかこの宮は、行くさき後安く、まめやかなる後見まうけ給へり」と宣はす、と聞き給ひしを、かたじけなう思ひ出づ。柏木「かくて、見捨て奉りぬるなめりと思ふにつけては、さまざまにいとほしけれど、心よりほかなる命なれば、堪へぬ契恨めしうて、思し嘆かれむが、心苦しき事。御心ざしありて、とぶらひものせさせ給へ」と母上にも聞え給ふ。母「いで、あなゆゆし。おくれ奉りては、いくばく世に経べき身とて、かうまで行く先の事をば宣ふ」とて、泣きにのみ給へば、え聞えやり給はず、右大弁の君にぞ、大方の事ども詳しう聞え給ふ。




会う人ごとに、宮のことをお頼みになる。最初から、母の御息所は、いっこうに満足ではなかったが、この大臣が奔走し、熱心にお願いして、誠意が篤いのに負けて、院も、しかたがないと、思われて、お許しになったのだが、二品の宮の、御事をご心配された折に、朱雀院は、かえって、この宮は、将来も安心な、忠実な夫をお持ちになった、と仰せられたとお聞きになったのを、勿体無いことだと、思い出す。
柏木は、こういうことで、宮を後に残すことについては、あれこれと、お気の毒であったが、思うに任せない命であれば、添い遂げられなかった夫婦の仲が、恨めしい。死後、宮が、嘆かれるのは、たまらない気持ちです。どうぞ、忘れず、いつもお見舞いを申し上げてください。と、お母様にも、願いする。母は、まあ、なんという縁起でもないこと。万が一、あなたに先立たれては、どれほど、この世に生き残れる私だと思って、こうまで、後々の事などを、おっしゃるのか。と、ひたすら泣かれるばかりで、十分には、頼むことが出来ないので、右大弁の君に、生活の世話などを、詳しく、申し上げる。

右大弁とは、柏木の弟である。
二品の宮とは、柏木の妻だった宮。









posted by 天山 at 07:11| もののあわれ第13弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月04日

もののあわれについて768

心ばへののどかによくおはしつる君なれば、弟の君達も、まだ末々の若きは、親とのみ頼み聞え給へるに、かう心細う宣ふを、悲しと思はぬ人はなく、殿の内の人も嘆く。朝廷も、惜しみ口惜しがらせ給ふ。かく限りと聞し召して、にはかに権大納言になさせ給へり。喜びに思ひ起こして、今一度も参り給ふやうにもやある、と思し宣はせけれど、さらにえためらひやり給はで、苦しきなかにも、かしこまり申し給ふ。大臣も、かく重き御おぼえを見給ふにつけても、いよいよ悲しうあたらしと思し惑ふ。




人柄が、おうようで、よく出来た方なので、弟の君達の中でも、まだ幼い末の人たちは、まるで、親のように頼りにしていらしたのに、このように、心細くおっしゃるので、悲しいと思わない人はなく、御殿に仕える人も嘆く。
主上も、惜しがり、残念に思う。もう危険だと、お聞きになり、急に、権大納言に任じられた。喜びに元気づけられて、もう一度、参内されることもあろうかと、思いになったが、一向に病気は、よくならず、苦しい中ながら、お礼を申し上げる。
源氏も、このように重い帝のご寵愛を拝するに、ますます悲しく、惜しいと、心が乱れる。




大将の君、常にいと深う思ひ嘆き、とぶらひ聞え給ふ。御喜びにも、まづ参うで給へり。このおはする対のほとり、こなたの御門は、馬車立ちこみ、人騒がしう騒ぎ満ちたり。今年となりては、起き上がる事もをさをさし給はねば、重々しき御様に、乱れながらはえ対面し給はで、思ひつつ弱りぬる事と思ふに、口惜しければ、柏木「なほ、こなたに入らせ給へ。いとらうがはしきさまに侍る罪は、おのづから思し許されなむ」とて、臥し給へる枕上の方に、僧などしばし出だし給ひて、入れ奉り給ふ。




大将の君、夕霧は、いつも大変心配されて、お見舞い申し上げる。
お祝いにも、真っ先に、お出でになった。このお住まいの、対の屋のあたりや、こちらの御門は、馬や車が一杯で、大勢の人が、煩いほどだ。そこらじゅうに、がやがやとしている。今年になり、起き上がることもなくなり、大将の重々しいご様子に対して、乱れた姿では、対面することができずと、思いながら、会えずに、衰弱してしまったらと思うと、残念なので、柏木は、どうぞ、こちらに、お出で下さい。まことに、失礼な格好でおります、罪は、申さずとも、許してくださると思います。と言って、寝ていられる、枕元の所に、僧など、しばらく、外に出して、お入れ申し上げる。




早うより、いささか隔て給ふ事なく、睦びかはし給ふ御仲なれば、別れむことの悲しう恋しかるべき嘆き、親兄弟の御思ひにも劣らず。




幼い頃から、少しも分け隔てなく、仲良くされていた方々であるから、別れては、悲しく、恋しいに決まっている嘆きは、親兄弟の思いに、劣ることはない。




今日は喜びとて、心地よげならましを、と思ふに、いと口惜しうかひ無し。夕霧「などかく、頼もしげ無くはなり給ひける。今日はかかる御喜びに、いささかすくよかにもやとこそ思ひ侍りつれ」とて、几帳のつき引き上げ給へれば、柏木「いと口惜しう、その人にもあらずなりにて侍りや」とて、鳥帽子ばかりおし入れて、少し起き上がらむとし給へど、いと苦しげなり。白き衣どもの、なつかしうなよよかなるをあまた重ねて、衾ひきかけて臥し給へり。おましのあたり物清げに、けはひ香ばしう、心にくくぞ住みなし給うへる。うちとけながら用意ありと見ゆ。重くわづらひたる人は、おのづから髪髭も乱れ、ものむつかしき気配も添ふわざなるを、痩せさらぼひたるしも、いよいよ白うあてなる様して、枕をそば立てて、ものなど聞え給ふ気配、いと弱げに、息も絶えつつ、あはれげなり。




今日は、お祝いで、少しは、体の調子も、よかろうと思っていたが、大変残念で、来た甲斐がない。
夕霧は、どうして、こんなに心細くなったのです。今日は、このような、お祝いゆえ、少しは、元気と思ったのです。と言って、几帳の端を、引き上げなされたので、柏木は、残念なことに、昔の面影もなくなってしまった。と言い、鳥帽子だけを頭にかぶり、少し起き上がろうとされるが、大変苦しそうである。白い着物で、小奇麗に着慣れたものを、何枚も重ねて、その上に、衾をかけて、寝ていらっしゃる。
御座所のあたりは、さっばりとして、いったいに、香が薫り、奥ゆかしい住み方をしている。くつろいで、十分、行き届いている雰囲気である。重病人というものは、いつしか、髪も乱れ、髭をはえて、嫌な感じがするものだが、痩せて衰弱していられるのも、前より、いっそう色白に、上品な感じがして、枕を立てて、話しなどをされる様子は、たいそう弱々しく息も絶え絶えで、見ていて、気の毒なほどである。

あはれげなり
そのまま、あはれげ、でいいが・・・
可哀相である。









posted by 天山 at 06:57| もののあわれ第13弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月05日

もののあわれについて769

夕霧「久しうわづらひ給へる程よりは、ことにいたうもそこなはれ給はざりけり。常の御かたちよりも、なかなかまさりてなむ見え給ふ」と宣ふものから、涙おしのごひて、夕霧「後れ先立つ隔て無くとこそ、契り聞えしか、いみじうもあるかな。この御心地の様を、何事にて重り給ふとだに、え聞きわき侍らず。かく親しき程ながら、おぼつかなくのみ」など宣ふに、柏木「心には、重くなるけぢめもおぼえ侍らず。そこ所と苦しき事も無ければ、たちまちに、かうも思ひ給へざりし程に、月日も経で弱り侍りにければ、今はうつし心も失せたるやうになむ。惜しげなき身を、さまざまに引き留めらるる折り願などの力にや、さすがにかかづらふも、なかなか苦しう侍れば、心もてなむ、急ぎ立つ心地し侍る。さるは、この世の別れ、去り難き事は、いと多うなむ。親にも仕うまつりさして、今更に御心どもを悩まし、君に仕うまつる事もなかばの程にて、身をかへりみる方、はたまして、はかばかしからぬ恨みをとどめつる、おほかたの嘆きをばさるものにて、また心の内に思ひ給へ乱るる事の侍るを、かかる今はのきざみにて、なかには漏らすべきと思ひ侍れど、なほしのび難きことを、誰かに憂へ侍らむ。これかれあまたものすれど、さまざまなる事にて、更にかすめ侍らむも、あいなしかし。




夕霧は、長い間、ご病気でいらしたわりには、たいして、衰弱してはいらっしゃらない。いつものお姿よりも、かえって美しく見える。とは、おっしゃるものの、涙を拭い、後れたり、先立ったり、別な時に、死ぬことなどないように、お約束しましたのに、酷いことです。このご病気が、どうして、重くなったのか、それさえも、聞いていません。このように、親しい間柄なのに、言ってくださらない。などと、おっしゃる。
柏木は、私には、重くなる理由も分りません。どこといって、苦しいこともありませんので、急に、このようになるとは、思いもよらないうちに、長くもかからず、衰弱してしまいました。今は、意識もはっきりしない状態で、惜しくはない身ですが、あれこれと、引き留められる祈りや、願の力でしょうか。片付かずにいるのも、かえって苦しいものですから、自分から、進んで、あの世に行ってしまいたい気持ちです。そのくせ、今生の別れに、捨て去りにくいことが、沢山あります。親にも孝行をせず、その上に心配をかけて、主上におかれましては、お仕えすることが中途半端ですし、反省すると、それ以上に、つまらない恨みを残すという、嘆きは、別にして、その他、心ひそかに、考えあぐねることがあります。このような、臨終のときになり、どうして、口に出そうかと思いますが、どうしても、堪えきれないこと。それを、あなたの他、誰に言えましょう。誰彼と、沢山人はおりますが、色々な理由があり、どうせ、ほのめかしても、何にもなりません。

急ぎ立つ心地し侍る
急ぎ、死出の旅に立つ。




六条の院に、いささかなる事のたがひめありて、月ごろ心の内に、かしこまり申す事なむ侍りしを、いと本意なう、世の中心細う思ひなりて、病つきぬ、と、覚えはべしに、召しありて、院の御賀の、楽所の試みの日参りて、御気色を賜はりしに、なほ許されぬ御心ばへある様に、御目尻を見奉り侍りて、いとど、世に長らへむ事も憚り多う覚えなり侍りて、あぢきなう思ひ給へしに、心の騒ぎそめて、かくしづまらずなりぬるになむ。人数には思し入れざりけめて、いはけなうはべし時より、深く頼み申す心の侍りしを、いかなる讒言などのありけるにか、と、これなむ、この世の憂へにて残り侍るべければ、ろなう、かの後の世の妨げにもや、と思ひ給ふるを、事のついで侍らば、御耳とどめて、よろしうあきらめ申させ給へ。なからむ後にも、この勘事許されたらむなむ、御徳に侍るべき」など線ふままに、いと苦しげにのみ見えまされば、いみじうて、心の内に思ひ合はする事どもあれど、さして確かには、えしも推し量らず。




六条の院に、少しばかり、不都合なことがあり、幾月か、密かに恐れ入ることが、ありました。大変、不本意で、世の中が、心細くなり、病気になったと、思われました頃、お召しがあって、院の御賀の、楽所の試楽の日に、参上して、ご機嫌を伺いましたところ、矢張り、許されないお心があるように、そのお目つきを拝見しまして、いっそう、生き長らえることも、憚り多く思うようになりまして、淋しく感じました。その時、胸が騒いで以来、このように静まらなくなったのです。
一人前の者と、思ってくださらなかったのでしょう。幼い頃から、深く頼り申す気持ちがございましたので、どのような、中傷があったのかと、これだけが、この世の恨みとして、死後に残りましょうから、勿論、後世の往生の、妨げにならないかと、何か機会がありましたら、覚えていてください。よろしく、弁解を申し上げてください。私が死にましたら、このお叱りが許されましたならば、あなたの、お陰です。などと、おっしゃる。その間も、とても苦しそうに、なるばかりなので、可哀相で、心の内に思い当たることもあるが、それとは、はっきりと、推測できないのである。

最後の思いは、夕霧である。




夕霧「いかなる御心の鬼にかは、さらにさやうなる御気色も無く、かく重り給へるよしをも、聞き驚き給ふこと、限りなうこそ、口惜しがり申し給ふめりしか。など、かく思すことあるにては、今まで残い給ひつらむ。こなたかなた、あきらめ申すべかりけるものを、今は言ふかひなしや」とて、取り返さまほしう、悲しく思さる。柏木「げに、いささかもひまありつる折、聞え承るべうこそ侍りけれ。されど、いとかう、今日明日としもやは、と、みづからながら知らぬ命の程を、思ひのどめ侍りけるも、はかなくなむ。この事は、さらに御心より漏らし給ふまじ。さるべきついで侍らむ折には、御用意加へ給へとて、聞えおくになむ。一条にものし給ふ宮、事にふれて訪ひ聞え給へ。心苦しきさまにて、院などにも聞しめされ給はむを、つくろひ給へ」など宣ふ。言はまほしき事は多かるべけれど、心地せむ方なくなりにければ、柏木「山でさせ給ひね」と手かき聞こえ給ふ。加持まいる僧ども近う参り、上、おとどなど、おはし集まりて、人々も立ち騒げば、泣く泣くいで給ひぬ。




夕霧は、どんな疑心暗鬼なのでしょう。全くそのようなご様子もなく、このように、重くなられたことを、お耳にされて、驚き、お嘆きになり、限りなく、残念だと、口にもしていらしたように、承知しております。どうして、こんなお考えがあったなら、今まで言わずに、いられたのです。こちらにも、あちらにも、弁解して、差し上げましたのに。今となっては、何もならない。と言って、元に戻せるものならと、悲しく思うのである。
柏木は、お言葉通り、少しでも、病気の良かった時に、申し上げて、ご意見をたまわることでした。でももう、こんなに、今日か明日かになろうとは、自分ながら、分らない寿命です。なのに、のんびりしていましたのも、儚いことです。このことは、決して、誰にも、仰らないで下さい。適当な機会がありました時には、ご意見も加えられて、六条の院に、申し上げていただきたいと、お耳に入れるのです。一条にお出での宮を、何かの折には、お見舞い申し上げてください。お気の毒な様子でいられると、院などのお耳にも、入りましょうが、よろしくお計らいください。などと、おっしゃる。
言いたい事は、沢山あるだろうが、お気持ちが、不安定なので、柏木は、お帰りになってください、と、手招きで申し上げる。加持をして差し上げる僧たちも、近くに参り、母上、父大臣など、集まりになられて、人々も、立ち騒ぐので、夕霧は、泣く泣く、お帰りになった。

気の病に、衰弱する、柏木の姿である。



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2015年11月06日

もののあわれについて770

女御をばさらにも聞えず、この大将の御方なども、いみじう嘆き給ふ。心おきての、あまねく、人のこのかみ心にものし給ひければ、右の大殿の北の方も、この君をのみぞ、むつまじきものに思ひ聞え給ひければ、よろづに思ひ嘆き給ひて、御祈りなど、とりわきてせさせ給ひけれど、やむ薬ならねば、かひなきわざになむありける。女宮にも、つひにえ対面し聞え給はで、泡の消え入るやうにて亡せ給ひぬ。




女御は、申し上げるに及ばず、この大将の北の方なども、大変お嘆きになる。そのされ方が、誰に対しても、お兄様らしくいらしたので、右大臣の北の方も、この君だけを、頼りになる兄と思っていらした。万事につけて、嘆かれて、お祈りなど、特別にさせたが、思いを消す薬ではないので、何の役にも立たない。
女二の宮も、とうとうお会いになることが出来ずに、泡が消えるように、お亡くなりになった。

女御は、柏木の妹であり、冷泉院の女御である。
大将の北の方とは、夕霧の北の方、雲居の雁。
右大臣の北の方とは、髭黒の北の方、玉葛である。




年ごろ下の心こそ、ねむごろに深くもなかりしか、大方には、いとあらまほしくもてなしかしづき聞えて、けなつかしう、心ばへをかしう、うちとけぬさまにて過ぐい給ひければ、つらき節もことになし。ただ、かく短かりける御身にて、あやしく、なべての世すさまじう思ひ給ひけるなりけり、と思ひいで給ふに、いみじうて、思し入りたるさま、いと心苦し。御息所も、いみじう人笑へに口惜しと、見奉り嘆き給ふ事、限りなし。




長年の間、深く愛していたわけではないが、一応は、文句ないほど、大切に、お扱いだった。優しく、心立てが立派で、わがままも言わずに、辛いと思うことも、特に無かった。
ただ、このように、短命な方であったので、変わったことに、普通の生活を、面白くないと思っていたと、思い出すにつけても、悲しくて、沈み込んでいられる様子は、痛々しい。御息所も、大変、外聞が悪い、残念だと、宮を拝しては、お嘆きになること、限りなし。

女二の宮の心境である。




おとど、北の方などは、まして言はむ方なく、我こそ先立ため、世のことわりなう、つらい事と、こがれ給へど、何のかひなし。尼宮は、おほけなき心もうたてのみ思されて、世に長かれとしも思さざりしを、かくなむと聞き給ふは、さすがにいとあはれなりかし。若宮の御事を、さぞと思ひたりしも、げに、かかるべき契りにてや、思ひのほかに心憂き事もありけむ、と思しよるに、さまざまもの心細うて、うち泣かれ給ひぬ。




父の大臣や、北の方などは、それ以上に、言いようもないほど、自分こそ、先に死にたいと、世間の道理に外れた、辛い事と、慕われたが、何にもならない。尼宮は、大それた心も、嫌なことと思いになるばかりで、生きていて欲しいと、思うことはなかったが、こういうことと、お聞きすると、さすがに、大変に可哀相だと思う。若宮のことを、自分の子だと思っても、なるほど、こうなる前世からの約束事で、思いもかけないことも、あったのだろうと、あれこれと、考えるに付けて、何やら心細く、涙が、ふっと、ごぼれるのである。

尼宮とは、女三の宮のこと。

さすがにいとあはれなりかし
さずかに、とても、あはれ、可哀相なことである。





三月になれば、空の気色もものうららかにて、この君、五十日の程になり給ひて、いと白う美しうほどよりはおよずけて、物語りなどし給ふ。おとど、渡り給ひて、源氏「御心地はさわやかになり給ひにたりや。いでや、いとかひなくも侍るかな。例の御有様にて、かく見なし奉らましかば、いかに嬉しう侍らまし。心憂く、思し捨てけること」と涙ぐみて恨み聞え給ふ。日々に渡り給ひて、今しも、やむごとなく、限りなき様に、もてなし聞え給ふ。




三月になると、空の気色も、うららかで、この君は、五十日ほどになり、たいそう白く、可愛らしく、年の割には、おませで、物を言ったりなさる。
殿様、源氏が起こしになって、ご気分は、すっきりとしましたか。本当に、全く、何もならないことです。普通のご様子で、このように、お祝い申し上げるのでしたら、どんなにか、嬉しいことでしょう。情けない私を捨てて、ご出家されるとは。と、涙ぐんで、お恨みする。
毎日毎日と、お渡りになって、今になって、お生まれに相応しく、丁重に、おもてなし申し上げる。

この君とは、女三の宮の子である。柏木の子。





御五十日に、餅参らせ給はむとて、かたち異なる御様を、人々、いかに、など聞えやすらへど、院渡らせ給ひて、源氏「何か。女に物し給はばこそ、同じ筋にて、忌々しくもあらめ」とて、南面に、小さき御座などよそひて、参らせ給ふ。御乳母、いと花やかに装束きて、御前の物、色々を尽くしたる籠物、檜破子の心ばへどもを、内にも外にも、もとの心を知らぬことなれば、取り散らし、なに心も無きを、いと心苦しう、まばゆきわざなりや、と思す。




五十日の、お祝いに、お餅を差し上げようとされて、母君が、普通ではない姿なので、女房たちは、どうしたものかと、申し上げ、ぐずぐずするが、源氏がお越しあそばして、何の、構うものか。女でいらしたら、同じ事で縁起が良くないこともあろうが、と、仰り、南座敷に、小さな御座所をしつらえて、お餅を差し上げる。御乳母は、派手な着物を着て、御前のもの、色々な色彩を使った、籠物、檜破子の趣向の数々を、御簾の内でも、外でも、本当のことを知らないので、取り散らして、気にもしないのを、源氏は、大変可哀相な、見ていられないことだと、思われる。


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2015年11月09日

玉砕80

戦記を紹介しているが、何度も言う、ビルマ戦線とは、インパール作戦だけのことではない。
敗戦まで、戦い続けたのが、ビルマ戦線である。
そして、日本兵は、ビルマの独立という大義を、持っていたのである。

タイ・ビルマ戦線とは、ビルマ戦線全体のことを言う。

登っては下り、下っては登る。動けなくなった兵隊も出てきた。これがインパール撤退の繰り返しにならなければよいがと心配する。
雨は降りそそぎ、道は泥濘になった。歩かなければ万事休すだ。だいぶ疲れが出てきたようだ。疲れなおしの気休めからか、
「どーせ下まで降りるんなら、登らなければよかったのに」
「また登りか、さっき降りなければよかったんだ」
「なるほどな。何いってやがる。それじゃあ日本に帰れねえじゃないか」

山岳内を二昼夜で五十キロ以上歩いた日もあり、われわれは連日の行軍の歩度をゆるめなかった。山中にふりつづく雨は全身をぬらし、部隊の通過でできた道に水溜りが光る。昼なお暗い樹林の下を急ぐわが舞台は、自分たちでも驚くほどに速かった。

急坂がいつの間にかなくなり、稜線なのだろうか、歩行がしだに楽になったが、泥んこ道は変わりなくつづいた。両側はどこまでも深いジャングルで、木々の間には根が複雑に地上に露出している。ふと前方を見ると、みょうな格好の兵隊が歩いている。
「難だ、あの丸腰の兵隊は」
「あれでも兵隊か」
兵隊服に帽子だが、どうも弱々しく、杖をつく者もいる。
「女だ」
だれかが叫んだ。そうだとすれば、軍隊と行動をともにしているのは、慰安婦以外には考えられない。

「師団のやつら、女たちを連れて歩いていたのか」
「くそ面白くもない。女なんか歩かせたら、山の中でへたばって死んじまうぞ」
近づくにしたがって頭髪、襟足と腰の形、なよなよと歩く姿がはっきりと見える。
「死んではもったいないねえ・・・」と口には出たが、体の消耗がはなはだしいうえに、緊張した状況下のため、性欲どころではない。
追い越しながらまぢかで振り返ると、やっぱり女である。白い顔には化粧っ気はないが、弱々しい体に疲れがめだち、悲しそうな顔で歩いている。前方を元気に歩くわれわれをうらめしく思ったのか、うつむい顔を上げた。

敗戦とはみじめだ。慰安婦も女の身で軍に協力しつつ、こんな苦労を味わうとは哀れな人生だと思う。六名の彼女たちの運命に幸あらず、山を越えることができずに死んだと、戦後、人づてに聞いた。

とくに悲惨だったのは、患者部隊であった。シャン高原を横断して、タイのチェンマイに出ようとした兵隊は、食糧医療品もないまま、自力で行軍を強いられ、山中に倒れていった。われわれの通過したあとの道すじには、病魔と戦いながらつぎつぎと体力を消耗し、倒れ伏した兵隊が、屍を山野にさらしていたと聞いた。

タイ、チェンマイ・・・
タイ・ビルマ戦線の兵士の遺骨、多数あり。
チェンマイには、野戦病院があった。
といっても、そこは、お寺である。

ムーサン寺という。
そこに、慰霊塔がある。
毎年、日本人の有志が集い、慰霊祭を開催している。

また、チェンマイから、車で30分程度の場所に、バンカート学校があり、その校舎の敷地に、慰霊塔がある。
そこには、井戸に捨てられた、日本兵の遺骨が、今でも、眠る。

そして、チェンマイ一帯に、12000柱の兵士の遺骨がある。
その慰霊のために、梵鐘も、設けている。

この戦記の作者、井坂氏は、最後は、カレゴ島という、小島に渡ることになる。
そして、そこで、敗戦を迎えた。

五月一日にラングーンが陥落した後、ペグー山中に立てこもった第二十八軍司令官桜井省三中将指揮下の将兵たちは孤立し、激戦中であると聞いた。第一線兵士の苦労を思うと、人ごととは言えない。脱出の成功をひたすら祈った。
後日、豪雨のシッタン平地の湿原と、濁流渦巻くシッタン河を渡るにさいし、敵の空陸からの火力をあび、凄惨な状況のもとで精根つきた彼ら各師団は、膨大な犠牲を出すにいたった。終戦を目前にして兵士たちの多くが、無惨な姿でビルマの露と消えた。

わが第三十三師団はモールメン付近に司令部を置き、シャイン河以北のテナセリウム地区で、英印軍の上陸にそなえ、海外船の防備についた。

そこで第一大隊本部はコドーに、第一中隊はカレゴ島に布陣することになった。カレゴ島はマルタバン湾上にあって、コドーから八キロの海上に浮かぶ島である。

戦争終結が、決まるまでは、兵隊は、戦う。

この五月・・・
六月には、沖縄戦が始まる。

井坂氏に、敗戦が知らされたのは、八月十七日である。

部隊全員、はるかな祖国に向って皇居遥拝を終えると、連隊長が、
「ただいまより、謹んで、天皇陛下の御言葉をお伝え申し上げる」
奉読されたのは、終戦の詔勅であった。日本は降伏したのだった。奉唱なかばにして熱い涙が止めどなく流れ落ち、胸もとまでも濡らした。

「何のために、苦しい戦いをがまんして頑張ってきたのだ。戦友の隊員たちは、何のために死んだのだ。それなのに降伏とは、われわれはもう生きる必要はないのか」

あまりにも、犠牲の多い、ビルマ戦線だった。
しかし・・・
終わったのである。

時は、前後するが、これからサイパン陥落について、書くことにする。
サイパン島玉砕は、昭和19年7月7日である。

つまり、インパール作戦中止の、三日後。

一般人を巻き込んだ、壮絶な玉砕の島である。
そして、隣の島である、テニアン島玉砕は、8月3日。
この、テニアン島から、原爆投下の、エノラゲイが飛び立つ。



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2015年11月10日

玉砕81

サイパン島守備隊が、玉砕したのは、昭和19年、1944年、7月7日である。

斎藤義次第四十三師団長が、サイパンに着いて、その防備が進んでいないことに、唖然となった。
勿論、防備の貧弱さに驚いたのは、斎藤一人ではない。
先着の各指揮官も、同様であった。

サイパン島の最高指揮官は、南雲忠一中将であったが、陸上作戦指揮は、陸軍が担当という、協定が決められていた。

その第三十一軍が採用していた作戦は、水際撃滅戦法である。

サイパン島の東海岸は、断崖が続いていて、上陸するとしたなら、西海岸しかなかったのである。
その点は、陣地構築に、迷うことはなかった。

だが、艦砲や空襲に対抗するためには、海岸に防御線を敷くより、山、谷を利用して、縦深陣地を構築しなければならなかった。
軍としては、分りきっていることだが、セメントその他の資材は、水際の陣地を作るにも足りず、大部分は、素掘りの、タコツボを作るしかなかった。

サイパン、つまり、マリアナ方面の防備が遅れたのは、大本営の敵情判断の誤りである。
大本営は、敵の主反攻線は、マリアナではなく、ニューギニアから、フィリピンが、確実とみていたのである。

ダグラス・マッカーサーが、フィリピン進攻を主張して、内紛があった末に、米軍のマリアナ攻略は、三月の半ばに決定した。
実施の時期は、秋ごろである。
しかし、それが、六月の半ばに繰り上げられた。

何故か・・・
マーシャル、およびトラックに対する、機動部隊による空襲の結果、日本軍の基地航空部隊の戦力が、意外に弱いことが分ったからだ。

更に、マリアナ攻略の決定要素は、空の要塞といわれる、ボーイングB29の完成である。

第二次世界大戦に出現した最大の、長距離爆撃機は、四トンの爆弾を積んで、約2800浬を飛ぶことが出来た。

それを持って、サイパンを基地として、日本の首都東京を爆撃しても帰還することが、可能になったのである。

さて、大本営海軍部が、直轄部隊として帰隊を寄せていた、角田中将の基地航空部隊は、決戦を前にして、すでに壊滅状態となっていた。

それは、西ニューギニア・ビアク島方面に、敵上陸の報告を受けた、連合艦隊司令部は、「コン」作戦を発動していた。
角田中将以下の、二十三航戦は、すでに濠北方面にあり、続く、二十二、二十六航戦も、480機を「コン」作戦支援のかたちで、ビアク方面に派遣した。

結果、空戦による損耗のほかに、搭乗員たちの技量未熟と、基地の未完成などのために、移動中事故が頻発したのである。
加えて、パイロットの多くが、熱帯病にかかるなどのアクシデントが続出し、角田部隊は、戦力として、存在するのを、止めていた。

トラック諸島、グアムなどにある飛行機をかき集めても、総勢二百数十機である。
サイパン、テニアン周辺では、わずかに、三、四十機を残すのみである。

決戦を前に、制空権は、すでに敵の手にあり、更に、潜水艦が、跳梁跋扈するようになっていて、制海権も危うい状態である。

そのために、民間人のサイパン脱出も、思うようにはかどらない。
島民約4000名を含めて、一般市民は、約25000名とみられていた。
つまり、大量の市民を巻き込んだ、太平洋の最大の、戦場と化す可能性があった。

サイパンに対する、米機動部隊の空襲が開始されたのは、6月11日であった。

グアム島東方200浬付近に現れた、敵機動部隊は、数群に分かれて、サイパン、テニアン、グアムに対して、同時攻撃をはじめた。

翌日12日も、同様の空襲を続行し、サイパンに来襲した敵機は、延べ500機にのぼった。

現在、グアム、サイパンは、観光地として、多くの日本人が出掛ける。
しかし、玉砕の島であることを知る人は、少ないだろう。

13日は、空襲と併行して、戦艦八隻、巡洋艦三隻、駆逐艦約三十隻が、サイパン島に、接近した。
そして、猛烈な艦砲射撃を始めた。
14日には、前日の作戦を繰り返し、舟艇を繰り出して、島の西岸の偵察を始めた。

敵の上陸企図は、明らかである。

内地にあった、豊田副武連合艦隊長官は、小澤空母部隊と、角田基地航空部隊に対し、「コン」作戦の中止と、「あ」号作戦用意を下令した。

しかし、頼みの角田部隊は、疲弊して、戦力としては、期待出来る状態ではなかった。
一方、小澤部隊は、待機していたフィリピン南西部タウイタウイ泊地から、飛行訓練のために、中部フィリピンのギマラに向けて移動中、敵機動部隊来襲の報告を受けて、サイパン方面を目指した。

6月15日、未明、敵輸送船約40隻が、サイパン西岸沖に姿を現し、空襲、艦砲射撃の援護のもとに、西海岸南部に、上陸を始めた。

この朝、小畑軍司令官は、ヤップ島に滞在していた。
井桁軍参謀長は、小畑軍司令官の名をもって、第四十三師団および、第五根拠地隊に対して、敵上陸の壊滅を命じた。
その後、サイパンの、陸上戦闘の総指揮は、斎藤師団長に委ねられる。

豊田連合艦隊長官は、小澤部隊に、「あ号作戦発動」を電令し、サイパン島上の南雲中将は、敵上陸の模様を、刻々と、東京に打電した。

だが、これから、サイパンの悲惨、悲劇の玉砕が始まる。
市民も巻き添えになり、阿鼻叫喚の様である。

サイパンの悲劇の場所のひとつ、バンザイクリフ・・・
市民が、崖から身を投げるという。
それを見た、米兵は、銃を持ったまま、呆然と眺めたという。



posted by 天山 at 06:44| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月11日

玉砕82

サイパンにおける、日本軍の反撃は、当然激しかった。
だが、空と海からの敵の援護射撃もまた、熾烈だった。

午前7時40分、舟艇の第一波が、海岸に到着し、敵の上陸は、その後も途切れることなく続いた。
ことに、敵の艦砲射撃により、通信施設が破壊され、そのことが戦闘にひびいた。
日本軍は、指揮系統が混乱し、各個小部隊が孤立して、戦うことになる。

この日、米軍は、夕刻までに、チャランカノアの海岸に、約二個師団の海兵隊を上陸させた。

翌日、16日も、米軍は、夜明けと共に、依然として艦砲射撃と、飛行機のもと、チャンランカノア西側に上陸を続けた。

16日夜、斎藤四十三師団長は、師団独自の夜襲を企図した。
実質、歩兵四個大隊の師団主力と、戦車一個連隊を指揮して、敵の橋頭堡の右翼方面に向って、夜襲を決行した。
海軍の唐島部隊も参加した。

実際に攻撃を開始したのは、翌日17日の午前三時半になっていた。
攻撃は、戦車四十四台を中核として、砲兵の援護下に実施された。
敵拠点の一部を突破して、指揮所、砲兵陣地付近まで迫ったが、米軍は、艦砲による照明弾を打ち上げた。
それは、昼間のように明るく、敵は、おびただし火力で、反撃してきた。

その威力は、絶対で、ほどなく夜が明け、日本軍の夜襲は、失敗に終わった。

米軍は、17日も新たな師団単位の兵力を、上陸させた。
翌日、18日は、兵力を二分し、全線に渡り、攻撃を開始した。

更に、隣の島、テニアンに対しても、砲撃を開始するに至る。

その間、一般市民は、戦乱を避けて、島の東海岸沿いに、北へと避難した。
老人、子供を伴った逃避行は、難渋を極めた。
着の身着のまま、持てるだけの荷物を手にした人々の列が、北へと移動していく。

サイパンは、河川が少なく、飲料水に不自由した。
更に、米軍は、水源地のほとんどを、占領していたのである。

日本軍司令部と、斎藤師団長は、残存兵力を、北部タナパグ南東地区に集結させて、最後の抵抗を試みることにした。
しかし、米軍の急迫は厳しく、日本軍が二二一高地と呼んでいた、西側から日本軍陣地に侵入し、戦況は、急速に最終的段階に達した。

繁華街である、ガラパン地区に、最後まで踏みとどまっていた、海軍第五根拠地隊も、玉砕した。

7月5日、中部太平洋方面艦隊長官、南雲忠一中将、第四十三師団長、斎藤義次中将、第三十一軍参謀長、井桁少将、初期の段階で、潜水艦の指揮に任じていた、第六艦隊長官、高木武雄中将らは、それぞれ中央に対し、訣別電を発した後、6日に、自決したのである。

残存兵力、約3000は、7日、三時三十分以後、おのおの正面の米軍に対して、総攻撃を行い、サイパンの地上戦闘は、終わった。
玉砕である。

9日、サイパン島の北端に、組織系統を失った兵士と、約4000名といわれる市民が、追い詰められていた。
市民の多くは、「生きて虜囚の辱めを受くるなかれ」という、戦陣訓を守り、軍から手渡された手榴弾で、自決した。

悲惨だったのは、女性達である。
マッピ岬の断崖から、身を投げて命を絶つ。
幼児を抱いて、宙に身を投げる姿を見ていた米兵たちは、銃を握り締めて、ただ、その場に、立ち尽くした。

つまり、「あ」号作戦の失敗は、サイパン同様に、グアム、テニアンをも、孤立させた。

当時、グアム島に留まっていた兵力は、第二十九師団を基幹とした、約18500名である。

グアムに対する、米軍の上陸は、7月21日から、開始された。

28日、高品二十九師団長が、戦死し、その後は、小畑軍司令官が、約5000名の残存兵力を指揮したが、8月10日を最後に、外部との連絡を絶った。

テニアン島は、第一航空艦隊長官角田覚治中将が位置していたが、多くの航空機と、搭乗員を失い、その務めは、すでに終わっていた。

7月24日以来、米軍の上陸を受けていたが、8月3日、その組織的抵抗は終わっていた。
玉砕である。

ここで、サイパン、グアム、テニアンが、玉砕した。

私は、サイパンに慰霊に出掛けた。
美しい海の色・・・
至る所で、祈りつつ、歩いた。

今も、観光地として、多くの日本人が出掛ける。

私の慰霊の、きっかけとなった、話しは、このサイパンに軍人たちの、霊が出るというものだった。
それは、もう、30年も前の話である。
その際に、戦後、50年を経ても、幽霊になると言う話しに、是非、慰霊の旅をしたいと、思った。

霊の存在の、有無ではない。
そういう、記憶が残るという、悲しさである。

霊とは、思念であり、念であり、思い、である。

その、思いを深く受け止める行為が、慰霊である。
そして、祈りである。

敗戦後、60年から慰霊の旅を始めた。
そして、良かったと思う。
それにより、私は、戦争のことの、多々を知った。
平和運動をせずとも、慰霊の行為は、そのまま、平和への行為であることを、知ったのである。
posted by 天山 at 07:28| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月12日

玉砕83

サイパンの玉砕は、大本営の「絶対国防圏」の、最も重大な一角である、中部太平洋方面が、破綻したことである。
より具体的には、太平洋戦線に、新しく出現した、長距離爆撃機B29の、日本本土直撃の前進基地と化すこと。

首相経験者などの、重臣を中心とする、一部の人たちの間には、以前から、反東條内閣への動きがあったが、この時期に至り、これらの人たちの動きが、にわかに積極性を帯びてきた。

戦争終結の声も、一部では、囁かれたのである。
そして、今振り返れば、戦争終結を早々に成していれば・・・
あれほどの、被害はなかったのである。

だが、開戦も、難しいが、終結もまた、難しいのである。

昭和19年、1944年、7月17日、七名の重臣が、平沼邸に集まり、陸軍の長老阿部信行をはぶく、全員が、東條の退陣に一致した。

木戸幸一内大臣は、参内して、天皇に重臣会議の結論を上奏した。
だが、東條は、その情報を未明に知らされ、即座に辞職を決意した。

7月18日、東條内閣総辞職にともなう、後継内閣首班の奏請につき、重臣会議を開いて、結果的に、上請されたのは、当時の朝鮮総督、小磯国昭陸軍大将、および、米内光政海軍大将だった。

重臣会議の発言では、戦争完遂が第一目的、戦い抜かねばならないという、内容が主流を占めた。
つまり、戦争続行内閣である。

小磯内閣は、東條内閣とは、変わりなく、あったということだ。

サイパン、ビアク島の、玉砕により、絶対国防圏が一挙に崩壊した後、フィリピン、沖縄、台湾を結ぶラインにおいて、連合軍の進攻を迎えなければならなくなった。
そればかりか、直接本土に対する、上陸作戦さえも、懸念されるに至ったのである。

当時、大本営海軍部は、三つの選択肢を考えていた。
一つは、マッカーサーが、ニューギニア西北部から、フィリピン奪還の後、日本本土に至る。
二つ目は、ニミッツ攻勢をもって、一挙に台湾、南西諸島を衝き、フィリピン奪還のマッカーサー勢力と、合流して、九州に進攻するというもの。
三つ目は、ニミッツ攻勢による、マリアナ諸島から、日本本土に至る。
である。

特に、二つ目の可能性が高いと、見ていた。

いずれにせよ、連合軍は、艦艇の修理、航空機の整備などに、二ヶ月を要すると考え、以上の、いずれかの攻勢ルートを進攻してくるとの、確信である。

それは、大本営海軍部においては、本土、南西諸島、台湾、およびフィリピンを最後の防衛要所として、八月以降に行われる、連合軍の侵攻に対処しなければならなくなったということだ。

しかし、攻撃態勢というものの、連合艦隊においては、「あ」号作戦の敗北は、米空母部隊との艦隊決戦は、不可能となっていたのである。

連合艦隊としては、次の作戦を、基地航空部隊を中心に進めるしかなかった。

いずれにせよ、日本軍にとっての最後の防衛要域である、フィリピン、台湾、沖縄などは、それらの、どれ一つを失っても、また、各要域を維持することが出来たとしても、海上交通の確保が出来なければ、戦争の続行は、無理であった。

この窮地に追い込まれた日本が、今後も、戦争を継続するとすれば、本土の防衛のみならず、蘭印を始めとする、南方資源地帯をも、確保しなければならない。
そして、そのルートを確保するためには、以上の要域の防衛が絶対に、必要であった。

米軍の次期進攻に対する海軍の作戦構想は、否応なしに、ギリギリの、最終決戦の形相を帯びてくる。

陸軍もまた、従来のソ連に対する配慮を捨てて、最後の要域防衛に、全力を傾注する姿勢を見せていた。

つまり、この時点で、戦争の趨勢は、決していたのである。
つまり、敗戦である。

戦争を終結するという問題・・・
はじめる時より、複雑化している。

そして、結局、対米決戦指導要領では、フィリピン方面における、地上決戦の方面は、北部比島付近とすることになった。
それは、作戦上の要求というよりも、主として、地上兵力量の関係から、やむなくとられた処置である。

「捷」号作戦の策定・・・
この言葉、文字の意味は、戦勝、勝ち戦を意味する。
捷、しょう号作戦である。

捷一号作戦は、フィリピン方面。
捷第二作戦は、九州南部、南西諸島、台湾方面。
捷第三作戦は、本州、四国、九州方面。小笠原諸島。
捷第四作戦は、北海道方面である。
以下、仔細については、省略する。

大本営は、そのほかに、源田実参謀の着想を採用した。
それは、悪天候に乗じた奇襲作戦、または夜間攻撃を、専門にする特別部隊の編成である。

これを、基地航空兵力の中核にして、米機動隊打倒の突破口を開くものである。

フィリピン、沖縄、台湾など、当面予想される、決戦正面は、台風のコースである。
源田の立案した、この特殊部隊は、台風観測の、気象班を加えて、全海軍から抜擢された、精鋭飛行隊をもって編制され、T攻撃部隊と呼称された。

その総兵力は、実動約150機で、戦闘機二隊、攻撃機六隊からなり、指揮官には、久野修三大佐が、任命された。

米機動部隊は、依然連合軍進攻の、中核的兵力をなしていたが、これに対するわが機動部隊には、もはや、その本格的な再建を期待することは、出来なかったのである。

当時、第三艦隊に所属する各種空母は、近く就航予定を含めて、九隻存在していたが、それに搭載する、艦上機が、間に合わないという状態であった。

更に、これらの空母は、内海西部に留められた。
空母搭乗員の養成が、基地航空部隊よりも、時間を要したのである。




posted by 天山 at 06:14| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月13日

玉砕84

「捷」号作戦実施の直前になり、突如、第一航空艦隊指令官長官、寺岡謹平中将が、更迭された。
この人事の裏には、「ダバオ誤報事件」がある。

これは、フィリピン・ダバオにおける、見張り所が、沖合いの白波を、米軍の上陸用舟艇と、見誤ったことに端を発した、事件である。

寺岡中将が、第三代目にあたる、一航空長官に新補されたのは、昭和19年8月7日である。早速、幕僚を帯同して、ダバオに着任したのが、8月2日だった。

ダバオに開設された、新司令官部の前には、早急に解決しなければならない問題が、山積みされていた。

まず、フィリピンにおける、決戦に備えて、機材や搭乗員を補充し、その訓練に努める。同時に、ミンダナオ、セブ、ルソンなどの、フィリピンと各地に散在している、航空基地の整備も、急ぐ必要があった。

「あ」号作戦当時、指揮下にあった数多くの航空隊は、大部分が解隊されて、戦闘機隊の、第二○一航空隊、陸攻隊の、第七六一航空隊、偵察機隊の、第一五三航空隊、輸送機隊の、第一○二一航空隊などが、発展解消の形で残っていた。

ただし、以上の部隊は、ダバオではなく、サンボアンガ、セブ、ニコルスの各基地に、それぞれ駐留していた。

特に、二○一航空隊は、セブ島において、爆弾を搭載した、ゼロ戦による、反跳攻撃の特訓を行っていた。
この攻撃法は、昭和18年の中期、米軍によって開発された必殺中の、新戦法だった。

爆弾を直接的艦隊に命中させるのではなく、いったい海面に叩き付け、空中に反跳させて、目標にぶち当てるという、方法である。

威勢に乗る米機動隊に対して、いまや従来の方法では、歯が立たない。
更に、搭乗員の技量は、低下の一途を辿っていた。
技術を獲得するだけの、時間が、無かったのである。

この、反跳爆撃は、従来の攻撃法に比較すれば、錬度の低い搭乗員でも、かなりの成功率を期待できるとされた。
ただし、反面、敵艦に対して、正横方向から超低空で、接近しなければならないため、当然、犠牲も大きいことが、予想された。

だが、結局、この必殺攻撃法は、九月半ばの米機動部隊による、セブ島空襲により、大量の航空機が失われ、中止となった。

そして、このことにより、「体当たり攻撃をも辞せず」という考え方が、醸成されたのである。
つまり、特別攻撃隊の萌芽である。
特攻攻撃のことだ。

いったん芽生えた、悲壮な感情の素地は、のちに同隊員たちにより、「神風特別攻撃隊」の案が、すんなりと受け入れられたことと、無関係ではないのである。

さて、一航艦司令部は、ミンダナオ島の、ダバオの街外れの、林の中にあった。

低地でもあり、しかも基地には、偵察の飛行機もなく、受信能力は皆無で、艦隊司令部は、現地の根拠地隊からの、情報を、唯一の頼りにしている有様である。

寺岡長官は、不自由さをしのび、暫くは、戦う舞台ではなく、再建整備のための、司令部に徹しようとしていた。
当初、司令部は、マニラに移動する予定だった。
その移転先も、通信施設が不十分ということで、9月10日に延期していた。

その矢先に、ダバオ誤報事件が、起こったのである。

9月9日、ダバオは、初めて、米艦載機群の、猛烈な急襲を受けた。
温存主義の上に、ダバオには、戦力の備えがなかった。
敵の、思うがままの攻撃に、ただ任せるしかない。

米機は、翌日も、来襲した。
昼近く、敵の上陸用舟艇多数が、サマル島の沖をダバオ基地に向っているという報告が入った。
サマル島は、ダバオ湾の奥に浮かぶ島である。

敵がダバオに上陸という報は、全軍を駆け巡った。
取り返しがつかなかったのは、連合艦隊司令部が、「捷一号作戦警戒」を発したこである。

寺岡長官は、移動中の一航艦の指揮を、マニラにあった、二十六航戦司令官、有馬正文少将に委ねた。

その後、疑念を抱いた、一五三空所属の、第九百一隊長美濃部正大尉が、応急処置をほどこしたゼロ戦で、ダバオ湾内をくまなく偵察した結果、敵上陸は、見張りの誤認と判明し、一航艦は、取り消しに、大わらわとなった。

そして、翌日の11日、一航艦司令部は、予定通り、マニラに移動した。
ところが、それだけに終わらなかったのである。

ダバオを去った翌日、12日、米機動部隊が、セブ島等を、攻撃し、主力である、二○一空が、思わぬ大打撃を受けた。

実は、10日、マニラにあって、ダバオに敵上陸を知った、有馬正文二十六航戦司令官は、当時、ルソン島にあった、二○一空の戦闘機隊に、セブ基地集中を命じていたのである。

その後、敵上陸が誤報と分り、一部は元に戻したが、なおセブ基地には、100機余の戦闘機が残っていた。
そこを、急襲されたのである。
邀撃に飛び立ったゼロ戦も、不利な態勢からの空戦を強いられ、その大半が撃ち落された。

地上撃破と共に、約半数を失い、残りの約30機も、中小の損害を被ったのである。

それから、一ヵ月後の、10月15日、有馬少将が、衝撃的な戦死を遂げる。
マニラ北部の、クラーク基地において、攻撃に飛び立つ一式陸攻に乗り込み、そのまま帰ることがなかった。

有馬は、以前から、「この戦争では、上に立つ者が死ななければならぬ」と、口にして、死処を求めていた様子であった。
当時は、セブ島での、大損害に責任を感じてのこととして、認識されたが・・・

いずれにしても、司令官の身で、攻撃機に直接搭乗するなどとは、異例の行動であり、寺岡中将の衝撃は、あまりにも、大きかった。

これより先の、10月5日、第一航空艦隊司令長官として、軍事省航空兵器総局総務局長だった、大西龍治中将が、発令された。
この、大西中将こそ、特攻隊の決断者である。



posted by 天山 at 06:01| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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