2015年10月22日

玉砕78

昭和20年3月13日、急遽、キャウセ付近への転進命令があり、わが中隊はイラワジ河を東に渡河した。
マンダレーを守備する「祭」第十五師団が、敵に包囲されて苦戦におちいり、この脱出撤退を援護するためだった。各中隊は合同し、カドウより自動車輸送で出発した。頑強に守りとおした中州も、放棄のやむなきにいたった。
自動車から見るマンダレー街道には、退却する友軍の姿はあったが、前線に向う兵隊は、われわれ以外にはまったくなかった。

夜明け前に道路端の草むらの中に入った。通過部隊が入ったあとなので、トンネルのようになっていた。そこで私は大型ナイフと磁石をひろった。六一四高地を脱出するさい、ビルマ人に私物を持ち去られ、不自由していたのでありがたかった。
付近一帯はひろい平野がつづき、早朝から、敵の観測機がゆっくりと旋回をはじめていた。炊事も思うにまかせず、舗装路付近の濠もないところでは、このうえない危機感をいだいた。

三月中旬、わが山田小隊および第一機関銃の一個小隊は部隊とはなれ、キャウセ北方ピリン地区の新任務につくため、夜を待って出発した。マンダレーからラングーン鉄道にそって、北方のマンダレーに向って進んだ。

敗戦の年である。
日本軍は、撤退、退却が大半だった。
それでも、前線の兵士は、戦うために、進んだ。

私は漠然と思っていた。一個師団の友軍を敗走させた敵にたいし、わずか二十数名で迫撃あるいは迂回してくるのを迎え撃ち、なおかつ友軍の退路を確保できるだろうか。その前に、敵の大部隊に圧殺されてしまうのではなかろうか。考えながら行くうちに、幅が五十メートルほどの川にでた。左方向に鉄橋がみえる。
「この鉄橋付近は陣地に近いな」
「ああ、ここか」

大隊本部は後方ピリン地区の村にあり、ここから四キロ以上の道程である。わが小隊との連絡係として、斎藤清治軍曹と兵二人がいた。
この本部には、糧秣を受領するため、一度行ったことがあったが、本部は第一線陣地から、四キロ離れたにすぎないのに、濠一つ掘るでもなく、のん気なようすを見て驚いた。昼をあざむく月光の明るさのなかを、夜半、敵の出撃はないものと、自分たちも気楽に水田を横切りながら帰隊した。

三月十七日の夜、斎藤軍曹、木村幸一郎上等兵、大聖寺雄一一等兵の三人が、小隊陣地への連絡を終わり、帰途についたとたん、ダーン、パパンと銃声がした。
「やられたのでは、それ」
小隊でも陣地から応援に出発すると、まもなく木村が駆け戻ってきた。
報告によると、水田を歩行中、英印軍の待ち伏せ攻撃をうけ、大聖寺一等兵戦死、斎藤軍曹重傷とのことだった。斎藤軍曹を助け出して草むらに担ぎ入れ、天幕でおおってローソクの灯で手当てしたが、出血多量でまもなく絶命した。

それ以後は、犠牲者が益々と多くなる。
その頃になると、大半の戦場では、日本軍の敗北である。
そして、戦争は、最終的に、沖縄本土決戦となる。

三月二十四日、真昼の太陽が、さえぎるものもない濠のうえに、容赦なく照り付けていた。
ドードーというにぶいエンジン音が、濠内のわれわれの耳に伝わってきた。敵車両か、敵戦車か、対岸の藪がどうしてもじゃまをする。エンジン音はやがて、ググーンと力強い音になった。

全員、日中は濠に入ったまま離れず、じっと中にいた。目だけを草の間から出して、音のする方を見つめていた。
やがて、五十メートル側方の偽装陣地正面対岸の藪の切れ目に、戦車一両が姿を見せた。長い椰子の葉を車体に取り付けたべつの一両が、その横に並んだ。先頭車の合図で、さらに右に左にと、計四両のM型戦車が全容をあらわした。
われわれは息を殺して凝視していた。渡河してくる気か。それとも戦車砲で撃ってくるのか。

敵戦車は動きがとまると同時に、機関銃を発射した。
「ダダダダダダッ」
歩兵のもつ機銃とちがい、すさまじい連続発射だ。弾道が高いとマンゴーの樹木に、低い弾道は川岸の土砂をはねとばす。バシバシッ、バシッと枝と葉がとびちり、空中に舞う。やがて四両がいっせいに撃ち出した。

以前、私は黄色火薬をつめた布団爆雷を小隊長が持っていると、だれかに聞いたことがある。ここまで生き長らえてきたんだ、死んだ戦友を思えば長生きすぎた。同じ死ぬなら、いっそのこと戦車一台を吹っ飛ばして、刺し違えてやろうと覚悟を決めた。よし、おれが目にもの見せてやる。
「小隊長殿。布団爆雷、井坂に貸してください」
小声で近くの濠へ話しかけた。
「いや、あわてるな。まだだ」
だが、少尉は渡してくれない。決心して高ぶった気持ちが、ふたたび不安に落ち込んだ。
いざその時では間に合わないのだ。天蓋が締まっていては手榴弾も使いようがない。爆雷だってゆっくりと雷管をつけるくらいの余裕はほしい。布団爆雷以外には、破甲爆雷、火炎瓶など一つとしてなく、戦う武器のない兵隊ほどつらく悔しいものはない。小銃弾の一発も撃たず、濠の中にじっとひそんでいた。

突然、射撃の最中に、ピッピーと戦車の合図があった。前進するのか、砲を撃つ気か、われわれはいっせいに目をそそいだ。後尾一両が後退して動き出した。さらに、ピッピーと合図があり、また一両退がった。
合図があるごとに、四両すべてが潅木と藪の向こうに隠れた。まもなく、ドードードーとエンジン音をたてて、遠ざかっていった。
「まだ油断はできないぞ、渡河してくるかもしれん」
「歩兵があらわれないのは変だ、どこかに来ているはずだ」
「どっちから来る気だ、野郎」
遮断物のない地形にある濠は敵の意表をつき、偽装陣地は二度も敵をだましとおした。われわれもがまん強かった。必要以上には壕から出ることもなく、夜も、昼も、戦闘のさいにも敵に姿をみせず、偽装は毎日新しく交換し、努力したかいがあった。

今日も太陽がやっと西にかたむき。夜まであと二時間ほどと思ったとき、ゴーゴー、ドードーという音響が急速に接近してきた。
「来たな、敵部隊が」
お互いが目でうなずきあい、固唾をのんだ。エンジン音がつぎつぎと停止し、藪と潅木の後方で、ガヤガヤ、ワイワイと車から降りた敵兵たちの高調子の話し声とともに、陣地構築をはじめた。

友軍野砲の五、六発も援護射撃してくれたなら、思いきり敵中に突入し、撹乱してやれるだろうに、敵を目の前にして打つ手がない。
「明朝になったら、敵は砲爆撃の後に総攻撃に出てくることはたしかだ」
「こんどこそ年貢の納めどきがきたか」
「今晩のうちに撤退命令がなければ、全滅だ」
退路は平坦な水田地帯がひろがり、日中の撤退はおそらく死をまぬがれない。満月にちかい月が煌々と冴え渡り、付近を青白い風景に浮き出させた。
それにしても、ビルマの月の明るいことよ。陣地構築中は出撃して来ないだろうが、敵の濠掘りは楽々と進んでしまうことだろう。

明日の一日、いや一時が生死を決するであろう。今宵だけの命だ。夢を見る眠りに入れないいまでは、せめて故郷を思い出し、最後の別れとしよう。家族の一人ひとりの顔、村の風景、山や川で幼児のころ遊んだことなど、つぎからつぎへと脳裏をかすめ、消えてはまた浮かぶ。故郷の思い出を胸に明日は死ぬのだ。

私は、人間を、ここまで、追い詰めてはならないと、考える。
そして、誰にも、そんな権利はないのである。

だが、兵隊になった以上、この、死ぬ覚悟が求められた時代。
ただ、あはれ、極まる。





posted by 天山 at 06:52| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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