2015年10月20日

玉砕76

運命とは不可解なもので、英印軍との戦闘の前に私は鴨志田中隊長と入れ替わるように、十月上旬、モークをあとにしてカレワをめざして急いだ。
死刑を宣告された者が無罪放免になったようなものか、あるいはそれ以上だ。全員が死刑のなかから、一人だけ助けられたのも同然だった。

西に低い山々がつづき、わずかに開けた平地の道路を、今日も傷病兵の群れが助け合いながら歩いている。闇の中を行軍してゆくと、やがて野戦病院の付近らしく、患者輸送の車を待つ一団が、道路近くに集まっていた。昨夜は来なかったが、今夜は来てくれるのかと待っているという。病舎の小屋があるのかと見回したが、暗い木立の中にはなにも見えなかった。

足もとを這う二人の患者がいたので、私は声をかけた。
「どうしたんだ」
「状況が悪いので殺される。自動車が来てませんか」
夜露にぬれながら、しばらく這ってきたのか、その兵隊は体をふせたまま苦しそうに、泥にまみれた手で顔をおおって泣いていた。いくらなんでもそんなことが、病院で動けない者を殺すなんて、あるわけがないと思った。
しかし、病院を閉鎖する直前に、動けない患者を注射で死なせ、残りの者には手榴弾をくばって、自爆をすすめたというモーレ野戦病院のうわさを聞けば、本当かもしれないと、ぞっとした。それがここでも行われているのだろうか。

患者の悲憤の涙、だれにすがることもならず、死ぬ一瞬までひとり煩悶する兵士たち。彼らの胸中を思うと涙がでてくる。第一線同士の傷つき病んだ二人の戦友に、
「きっと迎えがくるよ。自分らは命令で急がなければならないが、至急もどってくるんだよ。力を落とさないでがんばれよな」
力づけたつもりだが、何もしてやれずに別れる弁解だったかも知れない。

戦記を読まずにいたら、こういう事態も、知らずにいた。
動けない兵士を、射殺する。
傷病兵を殺す。
これは、地獄である。

雨期も終わりに近かったが、道路にはいまだに水たまりも残っていた。われわれは夜行軍のあとも、つづけて昼間も歩くことにした。道を避けるように両側に休んで寝ている兵隊がいる。彼らは生きている兵隊ではない。永久に眠りつづける若き骸だった。

死骸の状態はそれぞれ異なっていたが、悪臭はおなじで、気分が悪くなる。彼らは背嚢と兵器は持たないが、軍服を着て、頭蓋骨が戦闘帽をかぶり、足の骨が靴をはく。大きな目の穴、小さな鼻の穴、白い歯のならぶ口。そのとなりで口や目から蛆があふれ出て、地面にうごめいている。この世のものとは思えない光景がしばらくつづく。

息絶えたばかりの苦しそうな顔、憤怒の形相にはさもあろうと思い、眠るがごとき安心した顔には、われわれも心がやすまる思いがした。
だが、いったい、これらはどこまで続くのか。やぶれた襦袢の腹から、傷からこぼれる蛆虫、汚れた軍服と対照的な白い蛆が、兵隊の肉を食べていた。われわれは休憩したくとも場所がない。いまさらに驚く死体の数。敗け戦とはあまりにも悲惨だ。親兄弟が、妻や子が、恋人がこれを見たらどう思うだろう。

これからも果てしなくつづく戦闘に、ふるえるであろう亡き数に入る兵士たち。その一人が自分でもあるのだ。
「おれもこの中の一人になるのかよう。悔しいなあ」
銃床をにぎる手がしびれるほどに力が入る。死んだ兵隊も残念だろうが、生きている自分のゆくすえを思うと、無念の涙で狭い道がかすんでしまう。ビルマ鳥が不気味に鳴いて飛んでいった。

ここに斃れている兵隊たちは、パレルから、モーレ、モーライクから、独自で後退した傷病兵たちだ。五十キロも百キロも歯を食いしばって、杖をつき、生きたい、生きようと最後の一歩まで歩いた、ここがその終点である。

この長い道のりは、靖国の社で家族や戦友に会えると信じて疑わなかった亡き兵隊たちにかわって、生き残りの戦友たちが名付けた「靖国街道」であったのだ。

靖国街道、白骨街道・・・
目に浮かべることさえ、躊躇われる。

だが、ビルマ戦線は、敗戦まで、転戦、転戦が続く。
終わりの無い戦いになっていた。
それも、撤退、撤退の戦いである。




posted by 天山 at 07:01| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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