2015年10月12日

もののあわれについて761

柏木

衛門の督の君、かくのみ悩みわたり給ふ事なほ怠らで、年もかへりぬ。大臣、北の方、思し嘆くさまを見奉るに、しひてかけ離れなむ命かひなく、罪重かるべき事を思ふ心は心として、またあながちに、この世に離れがたく惜しみとどめまほしき身かは、いはけなかりし程より思ふ心ことにて、なに事をも、人に今ひときはまさらむと、公私の事にふれて、なのめならず思ひのぼりしかど、その心かなひがたかりけりと、ひとつふたつのふしごとに、身を思ひおとしてしこなた、なべての世の中すさまじう思ひなりて、のちの世の行ひに本意深く進みにしを、親たちの御恨みを思ひて、野山にもあくがれむ道の、重きほだしなるべく覚えしかば、とざまこうざまに紛らわしつく過ぐしつるを、つひに、なほ世に立ち舞ふべくも覚えぬ物思ひの、ひとかたならず身に添ひにたるは、われよりほかに誰かは辛き、心づからもてそこなひつるにこそあめれ、と思ふべき人もなし。




衛門の督の君、柏木は、こんなに病気が続くばかりで、一向に良くならないで、年も改まった。
父の大臣、母、北の方が、嘆く様を拝すると、無理に、捨てようと思う命の捨てがいもなく、先立つ罪は、重いことを思う気持ちは、変わらない。だが、しかし、この世に、執着して生きる身だろうか。幼い昔から、理想を高く持ち、何事にも、人より一段と優れようと思い、公の事も、私の事も、並外れて、望み高くあったが、思うとおりに行かないものだと、一つ二つのつまずき事に、次第と、自信を失い、世の中全体が、面白くないものだと、御世のための、修行に心が強く向ったのだが、両親の嘆きを考えると、野山に憧れ出る道にとっては、大きな絆であろうと思われたので、あれやこれやと、気を紛らわせ月日を過ごして来た。だが、結局、矢張り、世間に交わることが出来そうにないと、物思いが一つならず、身に生じたのは、自分以外に、誰のせいだろうか、自業自得で、このようになったと思うと、恨むべき人もいないのである。




神仏をもかこたむかたなきは、これ皆さるべきにこそあらめ、誰もちとせの松ならぬ世は、つひに止まるべきにもあらぬを、かく人にも少しうちしのばれぬべき程にて、なげのあはれをもかけ給ふ人あらむをこそは、ひとつ思ひに燃えぬるしるしにはせめ。せめてながらへば、おのづから、あるまじき名をも立ち、我も人も安からぬ乱れいでくるやうもあらむよりは、なめしと心おい給へらむあたりにも、さりとも思し許いてむかし。よろづのこと、今はのとぢめには、皆消えぬべきわざなり。また異様のあやまちしなければ、年頃ものの折節ごとには、まつはしならひ給日にしかたのあはれもいできなむ、など、つれづれに思ひつづくるも、うちかへしいとあぢきなし。




神仏のせいにもできないのは、これも皆前世の因縁なのだろう。誰も千年の松ではない、この世は、結局、死なずにはいられないのだ。このように、誰かに、少しは死後、思い出してもらえる間に、かりそめながらも、可哀相にと、思ってくれる方があろうということを、一筋の思いに燃えた、そのしるしとするとしよう。無理矢理に、生き続けるとすれば、いつしか、不都合千万との評判も立ち、自分にも相手にも、大変、面倒なことが起こることもある。それよりも、無礼者、けしからぬと思っているお方でも、いくらなんでも、死後は、お許しくださるだろう。何もかもが、臨終の際には、消えてしまうはず。
あれ以来、別に間違いもなく、今まで何年もの間、何かある度に、自分をお呼びになり、お傍に置いてくださるのが常だった、六条院の憐れみも、生じるだろう。などと、何も出来ないままに、考え続けているが、いくら考えても、実に、おもしろくないのである。

当時の、死生観である。
また、死ぬという意識を、このように感じていたということが、分る。




などかく程もなくしなしつる身ならむと、かきくらし思ひ乱れて、枕も浮きぬばかり、人やりならず渡し添へつつ、いささかひまありとて、人々立ち去り給へるほどに、かしこに御ふみ奉れ給ふ。




何故、このような身の置き所のないほど、自分でしてしまったのか。と、闇のような思いがして、枕が浮いてしまうほど、自分のしてしまったことで、涙を流し続ける。少し具合が悪いとあり、一同がお傍を離れた隙に、女三宮に、文を差し上げる。




柏木「今は限りになりにて侍る有様は、おのづから聞し召すやうも侍らむを、いかがなりぬるとだに、御耳とどめさせ給はぬも、ことわりなれど、いと憂くも侍るかな」など聞ゆるに、いみじうわななけば、思ふことも皆書きさして、
「今はとて 燃えむ煙も むすぼほれ たえぬ思ひの なほや残らむ

あはれとだに宣はせよ。心のどめて、人やりならぬ闇に惑はむ道の光にもし侍らむ」と聞え給ふ。




柏木は、今は、もう臨終になってしまったことは、自然、お耳に入っていることでしょう。どんな様子かさえも、お気にとめてくださらないのは、無理も無いことですが、辛いことでございます」など、申し上げるのだが、酷く手がふるえて、書きたいことも、皆書きかけにして、
これを最後と、燃える煙も、もやもやして、いつまでも火が、諦めきれない思いが、死後に残るでしょう。

せめて、あはれと、一言おっしゃってください。それで、心を静めて、自分から求めて、無明の闇を行く道の、光としましょう。と、申し上げる。




侍従にも、こりずまに、あはれなる事どもを言ひおこせ給へり。柏木「みづからも、今ひとたび言ふべき事なむ」と宣へれば、この人も、童より、さるたよりに参り通ひつつ、見奉り慣れたる人なれば、おほけなき心こそうたておぼえ給へれ。今はと聞くはいと悲しうて、泣く泣く、小侍従「なほこの御返り、まことにこれを。とぢめにもこそ侍れ」と聞ゆれば、女三「我も、今日か明日かの心地して。もの心細ければ、おほかたのあはればかりは思ひ知らるれど、いと心憂き事と思ひこりにしかば、いみじうなむつつましき」とて、さらに書い給はず。




侍従に対しても、懲りずに、あはれなことを数多く書いて、お渡しになる。柏木は、直接対面して、もう一度言いたいことがある。とおっしゃるので、この人も、子どもの頃から、伺う機会があり、よく顔も始終見ている女なので、身分不相応な願いには、嫌なと思われもしたが、もはや、最後と聞くと、悲しくて、泣き泣き、小侍従は、女三の宮に、嫌ではございましょうが、この御返事は、お書きください。本当に、これが、最後でございましょう。と申し上げる。
女三の宮は、私も、今日か、明日かの気持ちがして、何やら、心細く、死ぬのは、可哀相ぐらいは思うけれど、とても、たまらないことと、こりごりしたので、全く、気が進まない。と、おっしゃり、全く、返事を書かない。













posted by 天山 at 05:59| もののあわれ第13弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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