2015年10月07日

打倒・韓国33

戦後に書かれた書物には、朝鮮人が半島から流出したのは日本人が土地を奪ったからだとか、あるいは日本官憲による強制連行があったからだとかいう記述が多い。しかし、19世紀における朝鮮半島からの流出は日本とまったく関係なく、李朝社会の崩壊が最大の原因であった。両班の官吏、地主の苛斂誅求を避けて、ぞくぞくと満州やシベリアの沿岸州へと職を求めていったのである。
黄 文雄

統計交渉通商事務衛門日記の記述では、
農民、流民の越境問題について、具体的な数字が出ている。
高宗時代の、1894年1月、ロシア側からの通牒で、朝鮮人1058世帯を送還させることとなった。
次ぎに、日省録では、
平安道国境の九邑から、10余万人もの人たちが、清国に不法越境していた。

日本には、朝鮮人強制連行に関する、書物が多いが、そのどれ一つも、説得力の無い物ばかりである。
更に、日本史を見ても、農民、住民を強制連行した記述はない。

強制連行というならば、唐以後の朝鮮の歴史では、半島の人間が、大陸の諸民族に、強制連行されることが、多々あった。

そして、強制連行という、言葉が使用され始めたのは、すべて、1975年、昭和50年以後である。
勿論、従軍慰安婦に関しても、である。

強制連行は、たいてい夜間寝ているとき、とつぜんたたき起こされて連衡される。すがりつく家族に暴力をふるって振り切り、家族と引き離す。そして、逃げられないように手錠をかけ、トラックに押し込むなど、まるで奴隷狩りのような話だ。一時は、在日朝鮮人はすべて強制連行者だという主張が出て、200万人が被害者であるとされたが、最近では70万人ていどに落ち着いている。
黄 文雄

嘘八百の韓国であるから、致し方ないが・・・
日本人の中にも、それを主張する者がいるから、不思議だ。

反日日本人は、多く、左翼系であるが・・・
それでも、不思議なことだ。

現在でも外国人労働者が問題になっているように、労働の原理からいえば、低賃金のところから高賃金のところへと労働者は移動するのが一般的である。そしてその原理どおり、日韓合邦後、半島の労働者は内地の日本列島にぞくぞくと流入していった。これら低賃金労働者は、内地の失業者を増やしただけではなく、犯罪者となって悪事をする者も多かった。日本の中央政府は朝鮮総督府に対して、なんとか半島の人間が日本に流入しないよう、制限または阻止してほしいと協議や要請をすることしばしばだった。強制連行どころか、阻止したいほど勝手に流入してきたのだ。
黄 文雄

そして、現在も、それが続いている、何よりの証拠である。
韓国人不法滞在者は、中国人と、一、二位を争そうほど、増えている。
更に、犯罪率も高いのである。

日韓併合後、朝鮮人が日本へ入国することは、今と同じほどに、厳しい規制があった。
しかし、当時の日本は、朝鮮を植民地とみなす法的根拠なく、あくまで日本国籍を有する者として、みなしていた。
だから、実際に、入国出来たのである。

当時の、内務省警保局は、朝鮮人に対して、
渡航阻止の手続きは、政策的な問題であり、何ら法的根拠に基づく絶対的のごときにあらず
と、見なしていた。

だが、あまりにも、朝鮮人の入国が多く、総督府は、日本企業の朝鮮人募集攻勢に対して、「労働者募集取締り」という、行政指導を行い、厳しく規制したのである。

旅行も同じく。
海外への渡航は、厳しく規制された。
戦後から、90年代に至るまで、韓国政府も、それを引き継ぎ、海外渡航を制限していた。

黄氏によれば、
この、渡航制限に関して、当時の民族紙「東亜日報」は、社説で不満を述べた。
それは、「朝鮮人全体を無視し侮辱する悪法」だとして、撤廃キャンペーンを張った。
1922年12月、これを撤廃した。

ところが、朝鮮人が日本に殺到していることを鑑みて、警保局と、総督府は、再び協議する。
1924年5月17日、釜山港では、渡航制限撤廃を訴える五万人ほどの市民集会が開かれ、朝鮮労農同盟、朝鮮青年総同盟の、二団体が、内務省と総督府を相手どって、渡日制限撤廃の抗議を、繰り広げている。

これに対して、日本は、現在の不法入国韓国人と同じように、1928年から、水上警察を動員し、出発港と、各地方の末端警察機関による、二重渡日取締りを行なった。

それでも、朝鮮人は、日本に殺到したというから、驚く。
1925年の在日朝鮮人は、13万人弱である。
それが、33年には、46万人にも、増えている。

一体、これは、どういうことなのか・・・
どこが、強制連行なのか。

まだ続きがある。
日中戦争に入った後の1938年、昭和13年4月、国家動員法が成立し、翌年七月、国民徴用令が施行された。
それは、内地の日本人に対するものであり、朝鮮には、適用されなかった。

内地企業が、自由に朝鮮人を募集出来るのは、その後である。
これを、「統制募集」という。

だが、それでも、「内鮮一体」のスローガンの下で、朝鮮人の渡日取締りと、規制緩和を要求する声が、大きくなり、一時は、部分的な規制緩和を強いられるほどだった。

1934年から37年までの、渡日者数は、10万人を超えていたというから、驚く。

大東亜戦争中の台湾、朝鮮に対する渡日規制は、どちらも同じく強化されていたが、台湾では、それが成功したが、朝鮮では、緩和せざるを得ない事態となったのである。

1942年2月から、「官斡旋」がはじまった。これは強制ではなく、斡旋に応じたければ、応じてもいいという。また転職も自由である。

朝鮮人に日本人と同じ、徴用令が適用されたのは、1944年4月からである。
しかし、日韓の航路は、危険水域を通過するため、この徴用令による、人的な流通は、多くは無かった。

一方で、不法な密航を含めた渡日者は、増え続けた。
1940年の在日朝鮮人は、119万人、49年は、210万人と、急増している。

強制連行どころか、いくら渡日を規制しても、朝鮮人はみずから希望して日本に殺到したというのが、歴史の事実である。

更に、現在も、密入国を続けているという、状態である。
呆れる。







posted by 天山 at 06:20| 打倒・韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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