2015年10月16日

もののあわれについて765

夜なども、こなたには大殿籠もらず、昼つ方などぞ、さしのぞき給ふ。源氏「世の中のはかなきを見るままに、ゆくすえ短う、物心細くて、おこなひがちになりにて侍れば、かかる程の、らうがはしき心地するにより、え参りこぬを、いかが、御心地は。さはやかに思しなりにたりや。心苦しうこそ」とて御几帳のそばより、さしのぞき給へり。御髪もたげ給ひて、女三「なほ、え生きたるまじき心地なむし侍るを、かかる人は、罪も重かなり。尼になりて、もしそれにや生きとまると試み、又、なくなるとも、罪を失ふ事もや、となむ思ひ侍る」と、常の御けはひよりは、いとおとなびて、聞え給ふを、源氏「いとうたて。ゆゆしき御事なり。などてか、さまでは思す。かかる事は、さのみこそ、恐しかなれど、さて、ながらへぬわざならばこそあらめ」と聞え給ふ。




夜なども、こちらには、お休みにならず、昼間などに、お顔を出して、源氏は、人の世の常のなさを、見ますと、余命も少なく、何か心細くて、お経ばかりを読んだりとしていますゆえ、こんな時には、落ち着けない気がするために、あまり参りませんが、いかがですか、お気持ちは。爽やかになりましたか。大変でしたね。と、御几帳の端から、覗かれる。女三の宮は、御髪をもたげて、とても、生きていられそうもない、気持ちがします。お産で、死ぬ人は、罪も重いと申します。尼になって、もし、それで生きられるのか、試し、また、死んだとしても、罪を無くすことにもなるからと、存じます。と、いつもより、大人びて、申し上げされるので、源氏は、とんでもない。縁起でもないことです。どうして、そんなことを、お考えになるのです。出産は、実際、恐ろしいことですが、それで、駄目になるならばのこと。と、申し上げる。




御心の内には、「まことに、さも思しよりて宣はば、さやうにて見奉らむは、あはれなりなむかし。かつ見つつも、事にふれて心おかれ給はむが、心苦しう、我ながらも、え思ひなほすまじう、憂き事うち交じぬべきを、おのづからおろかに人の見咎むる事もあらむが、いといとほしう、院などの聞し召さむ事も、わがおこたりにのみこそはならめ。御なやみにことづけて、さもやなし奉りてまし」など思し寄れど、又、いとあたらしうあはれに、かばかり遠き御髪のおひさきをしかやつさむ事も心苦しければ、「なほ、強く思しなれ。けしうはおはせじ。限りと身ゆる人も、たひらかなるためし近ければ、さすがに頼みある世になむ」など聞え給ひて、御湯参り給ふ。いといたう青み痩せて、あさましうはかなげにて、うち臥し給へる御様、おほどき、美しげなれば、いみじき過ありとも、心弱く許しつべき御様かな、と見奉り給ふ。




お心の中では、本当に、そのように考えて、おっしゃるなら、そんなことにして、お世話申すとすれば、許す気にもなるだろう。こんな状態を見ながら、何かにつけて、気兼ねされるのが、可哀相だし、自分でも、昔の気持ちに戻ることは出来ず、酷い仕打ちもないではないから、いずれ、冷淡な人と見て、怪しむこともあると、大変可哀相だ。院などが、お耳にされても、自分の落ち度にされるばかりだろう。御病気にかこつけて、尼にして差し上げようか。などと、思いつかれるが、一方、大変惜しくて心も痛み、こんなに御髪も、長く余生も長い宮を、そのようにして、尼にしてしまうことも、お気の毒なので、源氏は、そんなことを言わずに、元気を出してください。たいしたことはないでしょう。駄目だと思った人が、治った例もあるから、やはり、頼みにしている、世の中です。などと、申し上げて、御薬湯を差し上げる。
酷く青白く痩せて、全く元気の無い状態で、ぐったりと、寝ているご様子が、おっとりとして、可愛らしく見えるので、酷い過失があるにしても、心弱くしてしまいそうな、ご様子だと、御覧になる。

いとあたらしうあはれに
大変、改めて、あはれ、に思う。
これは、新しい表現である。




山の帝は、めづらしき御事、平らかなり、と聞し召して、あはれにゆかしう思はすに、かく悩み給ふ由のみあれば、「いかにものし給ふべきにか」と、御おこなひも乱れて、思しけり。




出家された帝は、珍しいご出産が、無事であったと、お耳にされて、しみじみ、お会いになりたくなり、と思うが、このように、ご病気でいられるという、報告ばかりなので、どうしたことか、と、仏道修行にも、乱れて、考えなさる。

あはれにゆかしう思す
現代語にはない、表現である。
文の前後から、とても会いたく思い・・・




さばかり弱り給へる人の、ものを聞し召さで、日ごろ経給へば、いと頼もしげ無くなり給ひて、年ごろ見奉らざりし程よりも、院のいと恋しくおぼえ給ふを、女三「又も見奉らずなりぬるにや」と、いたう泣い給ふ。
かく聞え給ふ様、さるべき人して、伝へ奏させ給ひければ、いと堪え難う悲し、と思して、あるまじき事とは思し召しながら、夜に隠れて出でさせ給へり。




あのように、弱った方が、何もお召し上がりにならず、何日も続くので、すっかり心細い風情になり、ここ何年間お会いにならなかった間よりも、院が、大変恋しく思われるので、女三の宮は、二度とお顔を見ずに終わるのか、と、酷く泣かれるのである。
このように、申し上げされるご様子を、適当な人から、院のお耳にお伝え申し上げたので、院は、堪えきれないほど悲しいと、思いになり、いけないことと、思うが、夜に紛れて、山を出られたのである。





かねてさる御消息も無くて、にはかに、かく渡りおはしまいたれば、あるじの院、驚きかしこまり聞え給ふ。朱雀院「世の中をかへりみすまじう思ひ侍りしかど、尚、惑ひさめ難きものは、この道の闇になむ侍りければ、おこなひも解怠して、もし後れ先立つ道の、道理のままならで別れなば、やがて、この恨みもや、かたみに残らむ、と、あぢきなさに、この世のそしりをば知らで、かくものし侍る」と聞え給ふ。




前々から、このようなことと、お便りもなくて、急に、このように、お出であそばしたので、源氏は、驚いて、恐縮申し上げる。朱雀院は、俗世をかえり見はすまいと、思っていましたが、やはり、煩悩を捨てきれないのは、子を思う道の闇です。勤行もなまけて、もし、年の順で死ぬという、道理のままならなくて、別れたならば、このまま逢わずに終わった恨みが、お互いに残るだろうとの、情けなさに、世間の非難も構わない気になり、このように、やってきたのです。と、申し上げる。


posted by 天山 at 06:07| もののあわれ第13弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月19日

玉砕75

タムについて、やっと古い米にありついたわれわれは、追撃してくる敵に対峙するため、少しでもはやく体力をつけようと、むさぼるように食った。しかし、飯盒で炊いたせっかくの飯は、喉を通らなかった。

いよいよおれも終わりかと思っていると、隊員たちも騒ぎだした。長い間、ドロドロしたジャングル野草に馴らされたわが身のためだった。三分粥に炊きなおして、やっと胃にいれた三ヶ月ぶりの米の飯も、期待したほどうまいとは感じなかった。どうしたことかと心配したが、たずねてみると、だれも同じだったのでひと安心した。

七月三十日ごろ、部隊はヤナン渡河点にさしかかった。だが、ここには撤退する患者が集い、昼間敵機がアラカンを越えて銃爆撃を繰り返した。やがて砲弾も落下するようになると、友軍の混乱はますますひどくなった。

われわれはミンタミ山系に入り、チンドウィン、ユー川支流にそって南下し、ミンタミ河を渡河しようとした。
渡河は、対岸まで張られた鉄線を自力でたぐりながら越えるのである。一回四名ずつが川に入って、鉄線をにぎり交互に手をのばす。
大きな川ではないが、流れははやく水量が多いので、両足が川底からはなれると、鯉のぼりのような格好で流されてしまう。それでも対岸に近づこうと腕をのばす。

川のなかほどで進めなくなった隊員が、精魂つきたのか手を放してしまい、あっという間に押し流された。
「助け・・・くれえ・・・」
と絶叫し、水面に二度、姿をあらわしたが、やがて濁流が渦巻く下流に消えてしまった。三途の川を渡らなければ、われわれには生きる望みはなかった。

それでも、敵がその後を、追ってくるという、状態である。
撤退、ではなく、もはや、逃げるのである。

この記述は、他のビルマ戦記にも多くある。
川で流れて、死ぬ。
また、ワニに襲われて、死ぬ。

敗走する日本軍は各地で防戦をつづけ、雨期の病魔と飢餓に苦しみつつ行軍した。昼なお暗い谷底の水にジャングルの落葉がくさり、山中はすさまじい臭気となる。
一ヶ月前、この悪路を中隊に追及しようとした補充兵の一隊があった。しかし、中隊に到着したのは二名だけで、あとは途中から引き返し、名前すらわからない兵隊もあった。

今あえて、当時の、大本営、軍の幹部たちについて、非難、批判するのは、避ける。
しかし、どの戦場、それは、日本だけではなく、他国の兵士たちも、死ぬのは、若者である。

戦争を始め、指揮する者たちは、戦場にはいない。
特に、当時の日本軍の悪質さは、天皇を盾にして、その天皇のために、戦えと、激励したことである。

洗脳・・・
当時の、洗脳の中で、不可抗力を生きなければならなかった。

大東亜戦争、第二次世界大戦という、人類史上初の、大戦を日本が戦ったということだけを、考える。

戦記は、細部を見つめるものである。
そして、大局を見つめる必要がある。

大局とは、この戦争の意義である。
結果的に、この戦争は、世界の植民地解放の、重大な大戦となったということ。

白人支配の、植民地が、すべて独立を果たした。
それが、何よりの、意義である。

戦った兵士たちは、日本のために・・・だけではなく、世界の植民地のために、戦った。
それを、言うのが、独立した国々である。

日本に対する、独立した国々からの感謝と、賞賛の言葉が、救いである。

そして、更に、恐ろしいのは、白人たちの、人種差別である。
敗戦になり、突然、日ソ不可侵条約を破棄して、開戦を宣言した、ソ連などは、悪魔の形相である。

そして、アメリカの、原爆投下は、全く必要なかった。

更に、日本が原爆投下を受けて、その有様が悲惨であり、使用出来ないものだとの、認識がありながらも、核兵器を造り続ける世界。

人間とは、何か・・・
この世は、魔の世界が支配しているとしか、思えないのである。

中隊は大隊とともに、八月五日にモーク付近に到着し、敵を迎え撃とうと悲壮な覚悟で前線の高地を確保し、陣地構築に専念した。・・・

七月二十日より、モークに集結した患者が後送された。八月二十日までにわが中隊からは十三名が後送されたが、彼らは回復することなく全員が亡くなった。

この作者も、遂に、歩くことが出来なくなった。
それでも、這いずりながら、隊員のために、食事を作ったという。

牟田口軍司令官は戦闘司令所から後退するさいに、兵隊の襲撃をおそれ、みずから兵隊の服を着用して後方へ逃走した、と兵隊間につたわった。牟田口司令官はウ号作戦(インパール作戦)を策定し、無謀な攻撃をおしつけておきながら、第一線の視察すらしなかった。

われわれの考えとはうらはらに牟田口中将は、ビルマ方面軍司令官河辺中将とともに、八月三十日付けで参謀本部付きに発令され、ビルマをあとに日本へ帰ってしまった。数万の兵士を犠牲にし、屍のつづく白骨街道を見ておりながら、その重大な責任の所在はいまもって明らかにされていない。

チンドウィン河の付近に残された日本軍将兵は、これからふたたび血みどろの戦闘に入り、終戦までねばり強い戦闘をつづけた。

敗戦から、今年で70年を経た。
どこまで、当時の戦争を理解している人がいるのかは、知らない。

そして、平和を叫ぶ人たちが、どこまで、当時の戦争の有様を知っているのか、知らない。

日本は、それから、70年、戦争をしていない。
そして、日本は、70年経ても、当時の戦死者たちに対する、当然の処置をしていない。

未だに、帰還しない、兵士たちの遺骨は、113万人である。
もう、遺骨収集は、無理だろうと思う。
自然と同化した。

残る行為は、ただ、追悼慰霊である。




posted by 天山 at 06:22| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月20日

玉砕76

運命とは不可解なもので、英印軍との戦闘の前に私は鴨志田中隊長と入れ替わるように、十月上旬、モークをあとにしてカレワをめざして急いだ。
死刑を宣告された者が無罪放免になったようなものか、あるいはそれ以上だ。全員が死刑のなかから、一人だけ助けられたのも同然だった。

西に低い山々がつづき、わずかに開けた平地の道路を、今日も傷病兵の群れが助け合いながら歩いている。闇の中を行軍してゆくと、やがて野戦病院の付近らしく、患者輸送の車を待つ一団が、道路近くに集まっていた。昨夜は来なかったが、今夜は来てくれるのかと待っているという。病舎の小屋があるのかと見回したが、暗い木立の中にはなにも見えなかった。

足もとを這う二人の患者がいたので、私は声をかけた。
「どうしたんだ」
「状況が悪いので殺される。自動車が来てませんか」
夜露にぬれながら、しばらく這ってきたのか、その兵隊は体をふせたまま苦しそうに、泥にまみれた手で顔をおおって泣いていた。いくらなんでもそんなことが、病院で動けない者を殺すなんて、あるわけがないと思った。
しかし、病院を閉鎖する直前に、動けない患者を注射で死なせ、残りの者には手榴弾をくばって、自爆をすすめたというモーレ野戦病院のうわさを聞けば、本当かもしれないと、ぞっとした。それがここでも行われているのだろうか。

患者の悲憤の涙、だれにすがることもならず、死ぬ一瞬までひとり煩悶する兵士たち。彼らの胸中を思うと涙がでてくる。第一線同士の傷つき病んだ二人の戦友に、
「きっと迎えがくるよ。自分らは命令で急がなければならないが、至急もどってくるんだよ。力を落とさないでがんばれよな」
力づけたつもりだが、何もしてやれずに別れる弁解だったかも知れない。

戦記を読まずにいたら、こういう事態も、知らずにいた。
動けない兵士を、射殺する。
傷病兵を殺す。
これは、地獄である。

雨期も終わりに近かったが、道路にはいまだに水たまりも残っていた。われわれは夜行軍のあとも、つづけて昼間も歩くことにした。道を避けるように両側に休んで寝ている兵隊がいる。彼らは生きている兵隊ではない。永久に眠りつづける若き骸だった。

死骸の状態はそれぞれ異なっていたが、悪臭はおなじで、気分が悪くなる。彼らは背嚢と兵器は持たないが、軍服を着て、頭蓋骨が戦闘帽をかぶり、足の骨が靴をはく。大きな目の穴、小さな鼻の穴、白い歯のならぶ口。そのとなりで口や目から蛆があふれ出て、地面にうごめいている。この世のものとは思えない光景がしばらくつづく。

息絶えたばかりの苦しそうな顔、憤怒の形相にはさもあろうと思い、眠るがごとき安心した顔には、われわれも心がやすまる思いがした。
だが、いったい、これらはどこまで続くのか。やぶれた襦袢の腹から、傷からこぼれる蛆虫、汚れた軍服と対照的な白い蛆が、兵隊の肉を食べていた。われわれは休憩したくとも場所がない。いまさらに驚く死体の数。敗け戦とはあまりにも悲惨だ。親兄弟が、妻や子が、恋人がこれを見たらどう思うだろう。

これからも果てしなくつづく戦闘に、ふるえるであろう亡き数に入る兵士たち。その一人が自分でもあるのだ。
「おれもこの中の一人になるのかよう。悔しいなあ」
銃床をにぎる手がしびれるほどに力が入る。死んだ兵隊も残念だろうが、生きている自分のゆくすえを思うと、無念の涙で狭い道がかすんでしまう。ビルマ鳥が不気味に鳴いて飛んでいった。

ここに斃れている兵隊たちは、パレルから、モーレ、モーライクから、独自で後退した傷病兵たちだ。五十キロも百キロも歯を食いしばって、杖をつき、生きたい、生きようと最後の一歩まで歩いた、ここがその終点である。

この長い道のりは、靖国の社で家族や戦友に会えると信じて疑わなかった亡き兵隊たちにかわって、生き残りの戦友たちが名付けた「靖国街道」であったのだ。

靖国街道、白骨街道・・・
目に浮かべることさえ、躊躇われる。

だが、ビルマ戦線は、敗戦まで、転戦、転戦が続く。
終わりの無い戦いになっていた。
それも、撤退、撤退の戦いである。


posted by 天山 at 07:01| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月21日

玉砕77

六一四高地から三日間の脱出行が終わりをつげ、私は背中の戦友をおろして軽くなったが、帯革のあたった部分が擦り切れて血がにじみ、しばらくのあいだ汗がしみて痛かった。一大隊への合流復帰は、一月二十八日であった。

この年が、敗戦の年となる。
その敗戦まで、戦い続ける兵士たちである。

モニワ付近のタメンガン村東南二キロの六一四高地を撤退し、第一大隊主力に追及したわが中隊は、南下中の敵第二十インド師団を阻止、防戦すべく、イラワジ河畔に向って転進した。
一月二十九日、サメイコン周辺の、イラワジ河とチンドウィン河の合流地点の中洲に、われわれは配備された。第一中隊は、その後、追及者もあり、稲葉少尉、山田少尉以下の二十名になった。

いたるところに進出した敵は優勢をきわめ、日一日と緊張の度がくわわる。この平野部で戦車、砲、飛行機を有する敵にたいし、どうしたら有利な戦いが展開できるのだろうか。いよいよ中州が最後の地となるのか。前にも後ろにも大河をひかえ、これがまさに背水の陣であろうと観念した。

二月中旬ごろ稲葉少尉は、各中隊から三名を選び、十五名をもって師団直轄斬り込み隊を編成した。それぞれナベ川を渡河出撃し、一中隊は山田少尉が指揮をとった。

この、斬り込み隊とは、特攻攻撃と同じである。
特攻隊のみが、特攻ではないのだ。
斬り込み隊も、命掛けで、敵に対処する。

斬り込み隊は各師団、各隊ごとに連夜、無数に出されており、英印軍は戦々兢々たるありさまで、夜の警戒もしだいに厳重になった。
したがって斬り込み隊においても、戦死傷者が出るようになり、二人やられた、三名の犠牲を出したと、戦果とともに損害も伝わっていた。

これは、今で言えば、自爆テロの形相である。
連合軍は、日本軍の、その斬り込み隊、特攻攻撃に、恐怖したのである。
それも、玉砕である。

日中の強烈な日ざしで熱せられた地面と川の水面から、乾期の夜の冷え込みで霞が発生し、あたりの平地に白くたなびいている。
隊員はやがて、南から西に方向をかえて進んでいった。小さい川は水量が少なく、渡渉は容易であった。二つ目の川は水量が多かったが、杭木を打ち込んで雑木でせき止められたところを見つけた。ここはナベ川のようだった。雑木の上を歩くと、中央の堰のうえの水面に、丸木船が横付けされてある。あふれた水が滝となり、一メートルくらい下に白く光って流れ落ちていた。
その後、川はなく二、三時間の時が過ぎた。月も沈み、星空だけになった暗い畑のなかを急いだ。

前方に森が盛り上がって見えてきた。われわれは静かに停止した。上竹軍曹が、
「あの村のようだ、偵察してみる」
「おれも行くか」
「多数だと発見されるから、一人のほうがいい」
上竹軍曹のいうのも的を得ている。
「気を付けて」
「うん、おれが発見されて撃たれたら、てい弾筒を撃ちこめ」
軍曹は真っ暗な原野に音もたてず入っていった。村まで三百メートルくらいあるだろうか。待つ時間がやけに長く感じられた。

実際に敵はいるだろうか。もし目的地でなかったら、ふたたび先へ潜行しなければならない。これ以上、前進時間をついやせば、途中で夜が明けてしまい、帰途は危険である。発見されて不意討ちされまいか、と気遣っていたところに、軍曹が戻ってきた。
「おい、いたぞ、敵の歩哨が、五人で近づいたら完全に発見されたよ」
「歩哨が立っているところは、どこあたり」
「それが、右も左も間隔をせまくして立っていて、警戒は厳重だぞ」
上竹軍曹は、ちょっと考えてから、
「よし、同士討ちさせるか、てい弾筒用意」
筒手が照準をきめ、弾薬手が横にならんだ。
「距離三百、つづけて三発だ。撃ちこめ」
小声で指示が出るやいなや、軽い音をたてて発射された。ダーン、ダーン、ダーンと森の中央で炸裂した。

そうすると、同士討ちが始まったのである。
この、戦いの臨場感は、想像しか出来ない。
こうして、日本兵は、敗戦まで、戦い続けたのである。

敗戦の年の戦いは、英印軍の物量により、大人と子どもの戦いの形相を呈してくる。

ビルマに来てからというもの、私はどこでも、自分のことをゴ・サンニュと名乗っていた。そして、日本人とビルマ人は兄弟だ、肌の色も同じだといって腕を見せてくらべさせ、イギリス人はわれわれと色がちがうと主張した。日本軍はビルマ独立のために戦っているのだと言い聞かせ、事実、私もその信念で戦っていた。
わが連隊正面の頑強な抵抗と勇戦にあい、敵はイラワジ河の突破を断念した。
第二十インド師団は騎兵一個連隊、砲兵一個中隊を残し、ミンム方面に転用され、ミンム付近よりイラワジ河を渡って橋頭堤を築いた。
また、遠く南方ニャング付近では、英印第四軍団の第七インド師団、第十七インド師団ならびに第二百五十五旅団が、二月十五日、イラワジ河を渡河して進撃を開始した。そして、われわれのいる中州のみが敵中に突出、包囲されつつあった。

ある日、陣地の上空に飛来した敵機が、伝単を投下した。
内容は、硫黄島が米軍により占領されたことがくわしく記してあり、米兵が日本の子供を抱かかえた写真がそえられていた。
そして、・・・あなたたち兵隊は軍閥に騙され死ぬことはない。この伝単を持って投降すれば優遇する。楽しい給養が待っています。英軍の献立はライスカレー、サラダ、肉料理、日本の献立は胡麻塩、梅干しーーーと書かれてあった。
「なにを寝言いいやがる。胡麻塩と梅干しがどこにある」
「おれたちは塩だけなんだ」
「少しひろっておくか、尻ふきに使えるぞ」
ひろってはみたが、登校するとき持って来いというのが気に障る。戦死したとき、自分の体から出てきたら、末代までの笑い者になると考え、いちど使用してから焼き捨てた。

この、投降呼びかけは、至る所の、戦場でも、行われた。
すでに、連合軍は、日本が敗戦することを、知っていたのである。

だが、多くの日本兵は、それを、信じなかった。
また、負ける訳が無いと、信じていた。

戦線は混沌たる情勢にあり、われわれはもちろんのこと、小隊長や中隊長ですら、現状をつかんでいなかった。牛車の上の私には、このたびの連絡事項さえしらされていない。ただ襲撃をうけたときの処置さえ分ればよいのだった。

現場の兵士達は、戦争の全体が、全く分らずにいたのである。



posted by 天山 at 05:35| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月22日

玉砕78

昭和20年3月13日、急遽、キャウセ付近への転進命令があり、わが中隊はイラワジ河を東に渡河した。
マンダレーを守備する「祭」第十五師団が、敵に包囲されて苦戦におちいり、この脱出撤退を援護するためだった。各中隊は合同し、カドウより自動車輸送で出発した。頑強に守りとおした中州も、放棄のやむなきにいたった。
自動車から見るマンダレー街道には、退却する友軍の姿はあったが、前線に向う兵隊は、われわれ以外にはまったくなかった。

夜明け前に道路端の草むらの中に入った。通過部隊が入ったあとなので、トンネルのようになっていた。そこで私は大型ナイフと磁石をひろった。六一四高地を脱出するさい、ビルマ人に私物を持ち去られ、不自由していたのでありがたかった。
付近一帯はひろい平野がつづき、早朝から、敵の観測機がゆっくりと旋回をはじめていた。炊事も思うにまかせず、舗装路付近の濠もないところでは、このうえない危機感をいだいた。

三月中旬、わが山田小隊および第一機関銃の一個小隊は部隊とはなれ、キャウセ北方ピリン地区の新任務につくため、夜を待って出発した。マンダレーからラングーン鉄道にそって、北方のマンダレーに向って進んだ。

敗戦の年である。
日本軍は、撤退、退却が大半だった。
それでも、前線の兵士は、戦うために、進んだ。

私は漠然と思っていた。一個師団の友軍を敗走させた敵にたいし、わずか二十数名で迫撃あるいは迂回してくるのを迎え撃ち、なおかつ友軍の退路を確保できるだろうか。その前に、敵の大部隊に圧殺されてしまうのではなかろうか。考えながら行くうちに、幅が五十メートルほどの川にでた。左方向に鉄橋がみえる。
「この鉄橋付近は陣地に近いな」
「ああ、ここか」

大隊本部は後方ピリン地区の村にあり、ここから四キロ以上の道程である。わが小隊との連絡係として、斎藤清治軍曹と兵二人がいた。
この本部には、糧秣を受領するため、一度行ったことがあったが、本部は第一線陣地から、四キロ離れたにすぎないのに、濠一つ掘るでもなく、のん気なようすを見て驚いた。昼をあざむく月光の明るさのなかを、夜半、敵の出撃はないものと、自分たちも気楽に水田を横切りながら帰隊した。

三月十七日の夜、斎藤軍曹、木村幸一郎上等兵、大聖寺雄一一等兵の三人が、小隊陣地への連絡を終わり、帰途についたとたん、ダーン、パパンと銃声がした。
「やられたのでは、それ」
小隊でも陣地から応援に出発すると、まもなく木村が駆け戻ってきた。
報告によると、水田を歩行中、英印軍の待ち伏せ攻撃をうけ、大聖寺一等兵戦死、斎藤軍曹重傷とのことだった。斎藤軍曹を助け出して草むらに担ぎ入れ、天幕でおおってローソクの灯で手当てしたが、出血多量でまもなく絶命した。

それ以後は、犠牲者が益々と多くなる。
その頃になると、大半の戦場では、日本軍の敗北である。
そして、戦争は、最終的に、沖縄本土決戦となる。

三月二十四日、真昼の太陽が、さえぎるものもない濠のうえに、容赦なく照り付けていた。
ドードーというにぶいエンジン音が、濠内のわれわれの耳に伝わってきた。敵車両か、敵戦車か、対岸の藪がどうしてもじゃまをする。エンジン音はやがて、ググーンと力強い音になった。

全員、日中は濠に入ったまま離れず、じっと中にいた。目だけを草の間から出して、音のする方を見つめていた。
やがて、五十メートル側方の偽装陣地正面対岸の藪の切れ目に、戦車一両が姿を見せた。長い椰子の葉を車体に取り付けたべつの一両が、その横に並んだ。先頭車の合図で、さらに右に左にと、計四両のM型戦車が全容をあらわした。
われわれは息を殺して凝視していた。渡河してくる気か。それとも戦車砲で撃ってくるのか。

敵戦車は動きがとまると同時に、機関銃を発射した。
「ダダダダダダッ」
歩兵のもつ機銃とちがい、すさまじい連続発射だ。弾道が高いとマンゴーの樹木に、低い弾道は川岸の土砂をはねとばす。バシバシッ、バシッと枝と葉がとびちり、空中に舞う。やがて四両がいっせいに撃ち出した。

以前、私は黄色火薬をつめた布団爆雷を小隊長が持っていると、だれかに聞いたことがある。ここまで生き長らえてきたんだ、死んだ戦友を思えば長生きすぎた。同じ死ぬなら、いっそのこと戦車一台を吹っ飛ばして、刺し違えてやろうと覚悟を決めた。よし、おれが目にもの見せてやる。
「小隊長殿。布団爆雷、井坂に貸してください」
小声で近くの濠へ話しかけた。
「いや、あわてるな。まだだ」
だが、少尉は渡してくれない。決心して高ぶった気持ちが、ふたたび不安に落ち込んだ。
いざその時では間に合わないのだ。天蓋が締まっていては手榴弾も使いようがない。爆雷だってゆっくりと雷管をつけるくらいの余裕はほしい。布団爆雷以外には、破甲爆雷、火炎瓶など一つとしてなく、戦う武器のない兵隊ほどつらく悔しいものはない。小銃弾の一発も撃たず、濠の中にじっとひそんでいた。

突然、射撃の最中に、ピッピーと戦車の合図があった。前進するのか、砲を撃つ気か、われわれはいっせいに目をそそいだ。後尾一両が後退して動き出した。さらに、ピッピーと合図があり、また一両退がった。
合図があるごとに、四両すべてが潅木と藪の向こうに隠れた。まもなく、ドードードーとエンジン音をたてて、遠ざかっていった。
「まだ油断はできないぞ、渡河してくるかもしれん」
「歩兵があらわれないのは変だ、どこかに来ているはずだ」
「どっちから来る気だ、野郎」
遮断物のない地形にある濠は敵の意表をつき、偽装陣地は二度も敵をだましとおした。われわれもがまん強かった。必要以上には壕から出ることもなく、夜も、昼も、戦闘のさいにも敵に姿をみせず、偽装は毎日新しく交換し、努力したかいがあった。

今日も太陽がやっと西にかたむき。夜まであと二時間ほどと思ったとき、ゴーゴー、ドードーという音響が急速に接近してきた。
「来たな、敵部隊が」
お互いが目でうなずきあい、固唾をのんだ。エンジン音がつぎつぎと停止し、藪と潅木の後方で、ガヤガヤ、ワイワイと車から降りた敵兵たちの高調子の話し声とともに、陣地構築をはじめた。

友軍野砲の五、六発も援護射撃してくれたなら、思いきり敵中に突入し、撹乱してやれるだろうに、敵を目の前にして打つ手がない。
「明朝になったら、敵は砲爆撃の後に総攻撃に出てくることはたしかだ」
「こんどこそ年貢の納めどきがきたか」
「今晩のうちに撤退命令がなければ、全滅だ」
退路は平坦な水田地帯がひろがり、日中の撤退はおそらく死をまぬがれない。満月にちかい月が煌々と冴え渡り、付近を青白い風景に浮き出させた。
それにしても、ビルマの月の明るいことよ。陣地構築中は出撃して来ないだろうが、敵の濠掘りは楽々と進んでしまうことだろう。

明日の一日、いや一時が生死を決するであろう。今宵だけの命だ。夢を見る眠りに入れないいまでは、せめて故郷を思い出し、最後の別れとしよう。家族の一人ひとりの顔、村の風景、山や川で幼児のころ遊んだことなど、つぎからつぎへと脳裏をかすめ、消えてはまた浮かぶ。故郷の思い出を胸に明日は死ぬのだ。

私は、人間を、ここまで、追い詰めてはならないと、考える。
そして、誰にも、そんな権利はないのである。

だが、兵隊になった以上、この、死ぬ覚悟が求められた時代。
ただ、あはれ、極まる。



posted by 天山 at 06:52| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月23日

玉砕79

濠の中では、だれも一睡もしない。考えることはみな同じだろう。ただ、弱音をはくことを控えているだけだ。
敵の濠掘りも夜半には終了したのか、やがて対岸の喧騒が静かになった。ふと私は、撤退命令を待った川西伍長が、こちらに向ってくる予感がした。そんなうま過ぎることが、と思ってみても、まちがいなくこちらに向ってくる気がしてならない。
おもわず、となりの濠に声をかけた。
「おい、今夜中にかならず撤退命令がくるぞ」
「何で、ほんとうにか・・・」
「うん、ほんとうだ。おれの勘に狂いはない」
そのとなりの濠にも聞えたのか、
「来なかったら終わりだな」
「だいじょうぶだ、来る。心配するな」
山田少尉にも聞えていたと思うが、なんとも言わず、怒りもしなかった。

やがて、音はしないが、人の気配がした。敵か、川西伍長か、静かに着剣して銃を濠の上に出し、剣先を草の中に入れて月光の反射をふせぎ、匍匐して前に出た。
まだ姿は見えない。敵ならひと突きにと緊張する。隊員に合図もしないで出てしまった。
どうでもいい、やるだけだ。近いなと思ったとき、十メートルくらい前方の闇の中で、
「一中隊・・・」と、川西伍長の声がした。
「ここだ・・・」
敵に聞えてはまずい。這いながら近づき、
「おい、ここだ・・・」
「一中隊か」
ようやく頭が見えた。
「敵がきているからな」
「うん、わかった」
「撤退命令だな」
「そうだ、小隊長は」
「こっちだ。敵の大部隊が前で見てるからな」
川西伍長に念を押し、小隊長の濠を教えた。私は自分の濠にもどってから、
「おい、撤退命令だぞ」
だれもが歓喜し、つぎつぎに伝えられた。小隊長に撤退命令を伝達し終わった川西伍長は、
「ああ、よかった。本部では一中隊は全滅したかもしれないといってたんだ」
「ないだい、また一人で来たのか」
「うん、そうだ。稲葉小隊へもいって来た」

三月二十六日の夜、十日間にわたり守りとおした陣地を、われわれは危機一髪のところではなれた。

当初のビルマ戦線は、日本軍がイギリス軍を追い詰め、勝利していた。
だが、インパール作戦以後からは、イギリス軍の物量に日本軍は、撤退、また、敗走を余儀なくされる。

そして、悲劇のインパール作戦後も、日本兵は、戦うのである。
撤退しつつも、戦う。
退路を保持するためにも、戦う。

敗戦の報を聞くまで、戦うのである。

この戦記を続ける。
撤退した後も、また、戦うために、連隊と合流し、更に、撤退が続くのである。

われわれの心が休まるのは、夜だけだ。いま砲撃と戦車の蹂躙をうけないのは、天運というほかはない。
夜になると撤退命令がきた。濠を出た小隊員二十名は、月明かりの青白い闇の中を、脱出の準備をする。全員が着剣し、防音に気をつけながら尖兵と護衛を出し、間隔をおいて一列で突破することになった。

このとき、敵の襲撃で倒れた者は、そのまま置き去りにしていくと決した。

パゴダ高地の山麓付近で敵に発見されたが、射撃は一回で終わった。焼け落ちた村を右に見て、西から迂回する。しんがりになった私は、黙々と走る小隊員の後ろ姿を見ながら進んだ。

第十五師団は三月末、キャウセ付近に撤退した。われわれ二百十三連隊は任務を完遂し、三月二十九日、ピリン東方山麓に集結をおえると、シャン高原の西麓付近を南下することになった。
日中は敵機が跳梁し、行動不可能なので、分散して山中に退避し、夜間に強行軍の撤退となった。
平野部では、昼夜をとわず、砲声と銃撃音が絶え間なくつづき、後退する南下にも、すでに砲声が響いていた。ビルマの東方のシャン高原以外は、英印軍の勢力圏内に入りつつあった。

そして、ラングーンから、マンダレーの鉄道、道路、平原の各主要路は、敵の手中に帰したのである。

シャン高原の山脈が南はるかにつらなり、西の平野部の町々は敵の手中にあり、ふたたびビルマの人々とあうこともないだろう。これからのわれわれは山中の行軍がつづくことは想像できたが、目的地と任務などは、なにも聞いていなかった。
これよりさき、三月の下旬、稲葉小隊は、百数十両の車両部隊を援護せよとの命令をうけ、中隊とは別行動になった。しかし、任務の途中、敵の追撃包囲にあい、脱出不可能となって四月十三日、部隊は全車両を放棄して、敵中を突破した。その後、山越えをして撤退し、一大隊に合流した。

このときの戦闘において、同年兵の奥野正雄上等兵が、シンガイン東南方三キロのところで、壮絶な戦死をとげたことを知らされた。
いまは亡き戦友よ、ほんとうに魂があるなら、おれの背中に乗って、一緒に戦いのないところまで行こう。ひとりでに出る涙を、汗をふくふりをして手でこすった。遠い南の山々が雲か霞か涙のためか、おぼろになって見えなくなった。

連隊はラインデ、バヤンガス付近において、師団援護の任務をはたし、カロー到着後も休むことなく、ロイコー、ケマピューをへてトングーを目指した。わが「弓」師団は、マンダレーおよびメイクテーラより南下する英印軍を迎撃する任務にあった。

連隊はふたたびその後援となり、カローを進発した。すでに雨期となり、そぼ降る雨のなかの行軍となったが、敵中を突破して追撃の手からのがれた将兵たちは、生きる希望をいだき、元気をとりもどした。わが中隊も、一路ロイコーをめざして大隊とともに南下した。

昼夜のべつない強行軍は、一昼夜で六十キロを踏破したこともあった。このあたりは、山中までもゲリラが出没するようになり、牛車で退がった兵隊が車ごとバラバラに吹き飛ばされて、路上に散乱していた。
「地雷だな、これは、気をつけろ」

こうして、また、命令を受けて、進軍する日本軍である。
すでに、敗戦の色濃くなり始めた頃のこと。

命令があれば、どんな過酷な状況下でも、兵隊は、進む。
軍隊とは、そういうものである。



posted by 天山 at 06:00| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月26日

打倒・韓国35

さて、1993年、日本側は、「河野談話」にて、慰安婦の強制性を認め、謝罪までした。

韓国側に、ただ、謝罪だけすればいいと、摺り合わせられて・・・
両国のために、認めてください。ただ、謝罪するだけで・・・
ということで、謝罪したら・・・

騙された。

シンシアリー氏の、続きである。

韓国側の河野談話関連記事(2013年7月19日、東亜日報)で、当局の日本の官房副長官はこう話しました。「軍の命令、連絡文書などをすべて見たが、軍や官憲が慰安婦の意思に反して強制的に募集したことを裏付ける資料はなかった」。「当時の宮沢内閣は、未来志向の日韓関係を構築するために、(証拠はないけど)慰安婦の証言を受け入れることにした」。

個人レベルならともかく、国の発表した談話が証言だけを元にしたというのは、実に意外でした。韓国側が保護している元慰安婦は2014年時点で五十四人だけです。河野談話に証言したのは十数人(残りはどこに行ったのでしょうか?)本当に二十万人も三十万人もいたなら、十数人だけの証言で国が頭を下げたのは、さすがにおかしいことです。

それから、韓国は態度を変えました。「ほぅらやっぱり強制だったじゃないか!慰安婦は性奴隷だった!これは人道的な問題だから、韓国は日本側に謝罪と賠償をいつでも追加できる」。公式見解がこれだけから、困ったものです。それが、今まで続いているわけです。

謝るという、日本側の対応も、問題があるが・・・
そのウソの証言を取り、謝らせて、賠償を取るという、韓国という、国・・・

日本では、謝れば、それで済む場合が、多々あるが・・・
国際社会で、謝るとは、アウトである。
つまり、我が身の非を認めたことになる。

例えば、植民地支配を、何処の国が、謝ったことがあるか・・・
最低最悪のイギリスを始め、書き付ければ、キリが無いほどの国々。

白人主義は、近代化を教えた、文明を伝えたと、嘯くのである。

さて、シンシアリー氏が、韓国の慰安婦問題に、突っ込みを入れている。
韓国人が、自ら、書くのである。

1,韓国は、朝鮮戦争で韓国軍も慰安所と慰安婦を運用していたのに、なぜそれを同じ慰安婦問題として扱わないのか
2,韓国は、在韓米軍相手の慰安所と慰安婦を韓国政府が直接管理していたという文書まで公開されたのに、なぜそれを同じ問題として扱わないのか
3,韓国は、過去の慰安婦はそんなに気を使うのに、なぜ借金漬けで性奴隷になっている現在の韓国人売春婦たちを無視するのか

韓国が主張している慰安婦問題には、「おまえが言うな」という美しい日本語で解決できる明らかな矛盾が存在しているのです。この三つの側面は、それを明らかにしてくれることでしょう。

シンシアリー氏には、敬意を表するが・・・
韓国という国は、国家の体を成していないようである。

何かが、欠けている、抜けている国・・・

ここから、シンシアリー氏の書いたものを、略して書くことにする。

2002年、日本の京都で開かれた「第五回 東アジアの平和と人権国際シンポジュウム」にて、韓国人の女性教授が、朝鮮戦争当時、韓国軍慰安婦がいたという、論文を発表した。

彼女が日本軍慰安婦問題に対して持っている認識は、たぶん、一般的な韓国人と変らないと思います。
シンシアリー

彼女の主張は、同じ慰安婦なのに、なぜ、韓国軍による朝鮮戦争での、慰安婦問題と、その被害者たちを無視し、誰も問題提起しないのか、というもの。

日本軍慰安婦問題が、国際的なイシューになっているにも関わらず、彼女の論文に書いてある韓国軍慰安婦の問題は、何故か、まったく話題にならない。

政府の圧力なのか、それとも韓国という社会のチェミョン(体面)を守るためなのか?それはわかりませんが。
シンシアリー

韓国軍慰安婦は、捕虜になった、北朝鮮の人たち、また、思想的に問題があるとされた人たちが、強制的に慰安婦にされたという。

更に、韓国軍本部の公文書「後方戦史」1956年などは、動かない資料、証拠である。
その文書には、「国定式慰安所、特殊慰安隊」とし、1952年にソウル、江陵など四つの小隊に編成された慰安婦、89人が、年間204560人の兵力を「慰安」したと、記録されている。

退役した、軍人たちの回想録にも、慰安婦運営に関する内容が、確認されている。

ただし、これを取材したウィークリー・スユノモ24号によると、
韓国軍の恥部に触れたこの論文はすぐに歴史の裏舞台に片付けられた。韓国軍慰安所関連資料の観覧は禁止され、メディアは約束でもしたかのように沈黙した。大学から「気をつけたほうがいい」という連絡がきた、という。

2002年、韓国軍慰安婦問題が公式提起されたが、韓半島は沈黙した。当時、女性界、男性知識人、社会学会を問わず、そのほとんどが日本の極右勢力による悪用を懸念するだけだった。
女性教授には、「日本軍慰安婦問題とつなげてはいけない」と、有・無言の圧力が加えられた。

資料があって無視する国と、知り様がなくても謝る国・・・どちらも間違っているような気がしますが、どうでしょう。
シンシアリー

つまり、簡単なことで、韓国は、それを無視して、日本のことだけを、徹底的に取り上げて、ウソでも何でも、反日活動をするということ。
それ以外の、何物も持たない国が、韓国と言う国。

国家の体を成していない国なのである。

崩壊するというより、崩壊するものも、持ち合わせない国である。

日本が奪ったというが・・・
奪うものなど、何も無かった朝鮮、韓国なのである。


posted by 天山 at 06:28| 打倒・韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月27日

打倒・韓国36

シンシアリー氏の、続きである。

朝鮮戦争が終わってからも、この流れは続きます。2013年11月16日、韓国日報などの報道によると、野党議員が1977年に作成されたある文書を公開しました。それは、前々から「公然の秘密」だったある事案を裏付ける文書でした。米軍を相手する売春村、俗に言う「キジチョン(基地村)を、国が直接管理していた、そして当時の朴セイキ大統領がサインまでしていた、という内容です。

この朴セイキ大統領は、現在の朴大統領の父親である。

簡単にまとめると、基地村の管理(性病や水の供給など)に関する「基地村女性浄化対策」という文書で、六十二ヶ所・九千九百三十五人の「慰安婦」たちを国が管理していたことが印されています。また、文書に「慰安婦」と書かれているのが非常に興味深いですね。実際、1960~1970年代の求人広告などを見ても、UN(国連)軍を相手する売春婦関連の新聞記事などに「慰安所」や「慰安婦」という名称が普通に使われていました(有名なのが1961年9月14日の東亜日報で、慰安婦登録関連記事)。

更に、
今では世界各地で「Comfort Woman (慰安婦)」ではなく、「Sex Slave (性奴隷)」と書くべきだと主張している韓国ですが、その韓国が、本当に慰安婦というものを「日本軍に連れ去られ、性奴隷にされた存在」だと認識していたのなら、なぜ1977年までそのような名称を公文書に使っていたのでしょうか?

鋭い、突っ込み。
韓国の捏造を、バッサリ・・・

そして、その基地村は、強制収容の可能性が高いと、指摘されている。

今までこの問題は何度も提起されてきましたし、その際に被害者たちがいつも話していたのか「強制収容治療と副作用(ペニシリンによるショック死など)」です。証言と証拠の内容が一致していますね。
しかし、なぜかこの問題は「慰安婦」として語られません。話題にもなりません。国会議員が文書を公開しても、二、三日経てば、何事もなかったかのようになってしまいます。なぜでしょうね。

本当に、何故でしょうか・・・
自国の問題は、問題にしないという、ホッ被り。
また、自国の他国での行為も、無視するという、仰天である。
ベトナムで行った、韓国軍による、強姦、慰安所の強制収容など・・・

シンシアリー氏は、現在の韓国の売春社会を、教えてくれる。

浦項(ポハン)という地域。ここでは2010年7月7日から一年間、売春婦の女性が八人も自殺しました。初めて自殺者が遺体で発見されたのが2010年の7月7日。以後、2011年6月13日まで八人が自殺したのです。

SBSの取材の結果、売春婦たちは仕事を始める時に、業主からお金を借りました。しかし、そのお金を返すためにいろいろ頑張ったけれど、返すのはおろか、借金だけが増えていきました。仕事をしても、さまざまな名目で、全部業主に持っていかれてしまいます。最初から、返せない仕組みだったのです。仕方なく、彼女たちはまた別の所から借金するしかありませんでした。借金の保証をしてくれる人もいなかったため、結局女性たちは(同じ境遇の)売春婦同士で互いに借金の保証人になりました。ひとりが自殺すれば、その借金が次ぎの人に移ることになります。そうやって、彼女たちは「性奴隷」になりました。

一人が自殺して、次の人が、借金を背負い、また自殺するという、繰り返しである。
連続ならず、連鎖だと、シンシアリー氏が言う。

全員がそうだとは思いません(思いたくありません)が、国家予算の六%だと言われている韓国の風俗市場には、「どうしても返せない仕組みの借金」の罠に引っ掛かり、奴隷のように働かされている女性が、相当数、存在しています。国内だけではありません。

2010年10月の国政監査で女性家族部所属の国会議員が主張した内容によると、外国で売春している韓国人売春婦は約十万人で、その中の五万人が日本にいるということです。ブローカーなどもほとんどが韓国人です。

私も、占い師のような、宗教の教祖のような、韓国人の男を知っている。
客は、皆、韓国人である。
韓国人は、平気で、韓国人を騙すのである。

これは、中国人も同じで、中国人同士が、騙し合う。

更に、恐ろしいことがある。

2014年2月18日の聯合ニュースによると、お金を借りに来た女性たちに年利73%を負わせ、日本で売春をさせたヤミ金融者と日本現地運営者(韓国人)が逮捕されました。わざと高い利率でお金を貸し、「返せないなら体で払え!」としたのですね。でも、73%ではまだマシなほうです。

2013年8月21日の文化日報によると、借金を返せなかった女性47人を日本に送って強制的に売春させたブローカーなど韓国人23人が捕まりました。三百四十六%の利率を適用させていたため、女性たちはどうしても借金を返済することができなかったとのことです。

2012年5月31日の慶尚南道地域警察広報資料によると、41~495パーセントの高金利でお金を貸しては強制的に売春させた二つの組織、七人が検挙されました。

お話は、まだ続くが・・・

李朝朝鮮時代の、朝鮮人たちのことを、思い出して欲しい。
その人間性である。

どこか、おかしいのである。
まともな神経ではない。

日本にも、様々な、事件がある。
しかし、これほどの、悪質極まる、そして、人間性を無視したものは、あまり見当たらない。

それに、在日の韓国人たちは、通名として、日本名を使う。
凶悪事件など、日本人だと、思っていると、在日だったということが、多々ある。

民族に対する、差別は、一切ない。
しかし、朝鮮半島という場所は、何か、特別な、悪気に満ちた場所ではないかと、思えてくるのである。

野蛮で、自分勝手な人間は、何処にでもいる。
知能犯も、何処の国にでも、存在する。

しかし、自国民を、他国に向かせて、売春を強制させるという、その根性は、何処からのものか。






posted by 天山 at 06:43| 打倒・韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月28日

打倒・韓国37

2011年、高級デパート側の要請で売春街の撤去が始まり、そこの売春婦たちが売春街を守るためにデモを行いました。焼身を試みた人もいます。「売春させてくれ」と抗議する売春婦たち。あれは、売春がやりたくてやるという意味ではありません。売春でもやらないと、死ぬしかないからです。
シンシアリー

このままシンシアリー氏の言葉を続ける。

彼女たちこそが、「韓国の言う慰安婦」、即ち「性奴隷」ではないでしょうか?そんなに女性人権を大事にする国なら、なぜこうなってしまったのか、なぜこうして悪化しているのか。韓国は、売春や人身売買を取り締まる法案だけをそれらしく作って、米国務省などから人身売買関連で優秀な結果が得られていますが、中身はこの有り様です。(その法とやらも、厳しく適用されることはほとんどなく、処罰はほかの国より軽いのが現実です)。見えないところにいる人間など、どうでもいいのです。
とのこと、である。

酷い国・・・
そして、もっと酷いことがある。

2013年1月30日、朝鮮日報に報告されたもの。
韓国啓示政策研究所の研究員たちが、ベトナム、タイ、フィリピン、カンボジアなど現地での実態を調査したものを発表した。

「東南アジアの児童性売買観光、現状と対策」という、報告書である。

研究チームは、
東南アジア地域において、性売買観光客の多さでは韓国が一位だ、
とくに東南アジア売春女性の15%を占める児童(18歳未満の事)売春市場で、韓国男性は独歩的存在。

私自身も、東南アジアの児童買春に関して、独自の調査を行っているが・・・
それは、特に、日本人の男達の行動を主にしたものだが、韓国人が、矢張り、一位である。

2014年1月13日の、韓国地上波放送局、MBCのニュースで、
児童買春。幼い女性を求めて東南アジアの国々を訪れる韓国人観光客が増え続けています。
と、報道した。

その内容では、最近は、ネパールなどにも、魔の手が及び、ニュース番組の中では、九歳、十歳の女子たちが、韓国人を相手にしたと、話していた。とのこと・・・

2013年6月17日、国際児童性的搾取反対団体である、ECPAT韓国支部が、フィリピンのマニラ、セブ、アンヘレスなど、三つの地域で、性売買被害女性14人と、支援団体の関係者4人を対象に、現地調査した結果、そこに記された、韓国人観光客の特徴は、
サディスティックで、集団的性行為を好む。
と、ある。

更に、フィリピンでは、コピノの問題がある。
これは、私も、知っていた。
つまり、韓国人の男が、フィリピン女性を妊娠させ、そのまま韓国に、逃げるというもの。

すでに二万人を超えたと言われる、コピノ問題である。

明らかに、卑劣である。
だが、朝鮮人、韓国人である。

もっと、酷い話しが、
2011年1月23日の、MBCの社会告発番組では、
フィリピンでホームスティしつつ、一家全員、母、長女、次女の三人を妊娠させて、そのまま逃げ帰った韓国人留学生の話しである。

これが現実なのかと、呆れてしまいました。
シンシアリー

2014年1月13日の、MBCニュースでは、
最近三年間、海外売春容疑で警察に捕まった韓国人は、994人。その大半は、アメリカ、オーストラリアで売春をしていた女性、または、ブローカーであり、海外性売買をした男性は、12%に過ぎない。
しかも、処分の大半は、起訴猶予で、実質的に処罰されていない。
特に、未成年者を対象にした、性売買犯は、集計すらされていない。
ということ。

つまり、まだまだ多くの事件があるが・・・
隠されているのだ。

日本軍慰安婦問題で興奮している良心的日本人の方々は、なぜ、同じ問題が起きている今の韓国に同じ問題提起をしないのでしょうか。ひょっとして、日本を叩く流れに乗って自分を善人にできると思っているだけではありませんか? だとしたら、それは韓国の反日と同じ、ただ吐き気のする偽善でしかないのです。
シンシアリー

これは、提言である。
これに応えたいと思うが・・・

日本は、韓国との請求権協定(基本条約)により慰安婦問題を含め、すべての賠償責任を済ませています。それからも、アジア女性基金など、十分に誠意を見せました。

韓国にとって女性人権がそんなに大事なら、世界の十万人の韓国人売春婦を何とかしてから言うべきです。もはや、慰安婦問題の本質は、女性人権でも何でもありません! ただ、日本のイメージを「引き下げる」ことだけが目的なのです。日本を絶対悪とするための、反日を確固たるものにするための最強の兵器、それが慰安婦問題なのです。残酷な話しだと思われるかもしれませんが、だからこそ誰かが指摘しておく必要もありましょう。
シンシアリー

韓国人が言うのである。

だから、日本人も、はっきりと明確に、解決済みである事を、言うべきなのだ。
政治家、一般国民に至るまで・・・

一歩も、譲ってはならないのである。

現在、世界中に存在する、韓国人売春婦の問題を、提起して、韓国を問うことである。

日本にも、五万人の韓国人売春婦が、存在する。
そして、それは、韓国人自らが、行っているのである。
ブローカーも、日本在住の韓国人も、犯罪を犯しているのである。

日本人は、それを叫ぶべきである。
現在の韓国人の行動を、糾すこと。

posted by 天山 at 07:10| 打倒・韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月29日

打倒・韓国38

さて、もう一度、韓国人の根本的問題に戻る。

韓国人の、朴氏が書く。
韓国は、悪臭を発する中国文化――とくに儒教によって、どれほどまで毒されてしまったことだろうか。それで、韓国人は中国人を「垢奴」(テノム)と呼んで蔑む。垢にまみれた不潔な人々と言う意味である。

上記は、一体どういうことか・・・
日本では、孔子の儒教とは、実に、貴い教え、教養として教えられた。
論語などは、今でも、多くのフアンがいて、更に、著名人も、それについての解説を書くほどである。

だが、不思議なことに、中国共産党は、その孔子も、儒教も否定して成り立った。
現在、日本に帰化した、中国人であった、石平氏が、本当の儒教は、日本にあると言う。

簡単に言えば、儒教の精神を日本は学び、その他の歪なものは、一切関与しなかったのである。
日本の流儀に従い、日本流の儒教を確立したと言えばいい。

古代の外来文化は、日本の場合、まず皇室に入る。
そこで、吟味され、咀嚼されて、日本流になり、そして、国民に伝えられる。
文化センターの皇室の役割は、凄いものだと、思う。

韓国での中国人のイメージといったら、貪欲であるとか、人をなかなか信用せずに用心深い、とかいったものだ。それなのに韓国人は、今日にいたるまで、中国文化のクビキから抜け出せないでいる。


韓国は高麗、李朝時代を通じて、政治、社会制度から学問、生活習慣まで、中国を完全に模倣しようと努めた。韓国は、中国文化の優等生だった。韓国人は、古代には独自の名前を持っていたが、新羅時代に入ってから後に、中国名を名乗るようになった。


更に、
李朝朝鮮は、中国の完全無欠なコピーであることを誇って「小中華」と称したものだった。何と不運なことだったか! そこで中華思想、科挙制度、中央集権から、ごていねいなことに宦官まで真似をしてしまった。中華思想は、中国が丸い天に囲まれた方形をした世界の中心にあって、中国が世界でもっとも完成された国家であり、中国文化がもっとも優れているという独善的で、思い上がったものである。


と、いうことで、日本にも、多くの中国文化が、隋の頃から渡来したが・・・
宦官や、纏足などは、決して真似をしなかった。

ここが、韓国、朝鮮と違うところである。

現在の韓国は、すべてが、オリジナルだと、声高に言うが、残念ながら、朝鮮には、誇るべきものが無いのである。

中華思想は、現在の中国にも存在する。
それを、共産党独裁政権が言うから、おかしなことになる。

さて、朴氏は、徹底的に、中国人について書いている。
中国人の顕著な特徴は、無秩序で、汚く、けたたましく、騒々しいことだ。まったく自己本位で、派閥を組んで争うことを好む。自制心を欠き、人の悪口ばかりいっている。ホラを吹く。対面ばかり重んじて、いたずらに誇り高い。協調精神を欠いていて、自分の過ちを認めようとしないーーといったものだ。
これらの特徴は、韓国人の性格のなかの悪い面をそのまま表している。国家よりも一族の利益を願い、官が腐敗していて、社会が賄賂漬けになっているところも、同じことである。


未だに、韓国社会は、賄賂漬けなのである。
これでは、真っ当にやっていられない。

ここで注意すべきことは、中国人とは、漢民族のことである。
チベット、ウイグル、南モンゴルの人たちのことではない。
また、台湾の人たちとも違う。

上記の人たちは、旅先でも、おなじみであり、様々な国から、顰蹙をかっている。
また、中国人排斥運動とは、中国共産党を主体とする、漢民族のことである。

韓国人が自国史の歴史認識について、もっとも忌み嫌うもののひとつは、中華帝国によって朝鮮の歴史が決められてきたという「他律史観」である。「事大主義」という言葉も、あまり好きではないようだ。これらの用語は、自国史の主体性にかかわるものだからだろう。史観とは関係なく、自律性が欠けていることを、ひたすら否定したがるのだ。
黄 文雄

千年以上に渡る、中華帝国との主従関係、君臣関係を、無理に、友好関係、同盟関係などと、ウソを言う。

中国の正史には、高句麗、新羅、百済の三国時代から、半島は、中国の冊封を受けたとある。
だが、実際には、完全に確立されていたわけではない。

黄氏は、自律性らしきものはあった。と、書く。

朝鮮半島が、中華帝国と宗属関係になったのは、676年にはじまる、統一新羅の時代からである。

唐の援助により、半島を統一出来たことにより、自ら「大唐国新羅群」と名乗って、卑下し、天朝への忠誠を誓ったのである。
以後、朝鮮は、中華帝国の、東方藩屏として、歴代王朝の興亡に、振り回された。

そして、次第に主体性を維持することができなくなり、やむをえず事大主義が民族性として定着、自律性を確立することができなくなったのだ。よって、新羅に助力して三国を統一させた唐が滅べば、新羅も滅ぶ。


半島の王朝は、大陸の王朝の興亡と連動しているということだ。

そこから、足が抜けなくなった朝鮮である。
勿論、時代によって、その強弱が違うのだが・・・

本格的に、中華の干渉を受けたのは、大明帝国時代の、李朝からである。
1392年、太祖李成桂が、「易姓革命」にて、高麗朝を簒奪したが、実権支配の獲得を、明の太祖に認知してもらうため、国家主権を、すべて明に売り渡した。

そして、属国となる。

つまり朝鮮半島の事大主義は、統一新羅の時代に唐の属国になったことからはじまり、元時代の内面指導を経て、李朝において身も心も属国意識に染まることで完成したのである。


実に、気の毒な、歴史である。
これ以上書いていいのかと、思わせるのだが・・・

打倒・韓国と、銘打った以上は、書く必要がある。



posted by 天山 at 07:17| 打倒・韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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