2015年10月01日

玉砕74

敗兵の末路は、哀れである。
ビルマ戦線、インパール作戦の戦記を読むが、それは、すべての戦場にいえることだ。

第一線の歩兵は捨石と同じだった。死守・固守せよの命令はうけても、撤退せよの命令を持って来ることはまずなかった。レータン西方高地も同様で、友軍の確保陣地さえおぼつかないありさまだった。片道の命令は、お前たちはそこで死ねということであった。

撤退する道端には、動けない兵隊が置き去りにされていた。顔にあつまる蝿を追うこともできず、やせた手足は関節ばかりがめだち、雨期の雨にぬれて寒いのか、それともマラリアのためなのか、小刻みにふるえていた。われわれをぼんやりと見送る兵隊たちは、みな丸腰だった。
隊員たちは、それぞれ声をかけて、連れて行こうとした。
「いっしょに行くんだ、この後から友軍はこないぞ」
「戦友殿、手榴弾を一発ください」
力ない声で言うが、友軍の自決に使われるほどは持っていなかった。
「この後から敵がちかくまで来ているんだ、はやくしろ、立てよ」
兵隊たちは、みな同じことを言う。
「戦友が、迎えに来ますから」
「来るのは敵だ。退がるんだ」
「立って歩けよ」
彼らの姿を見ていると、涙が出る。どうしてわれわれが三日間も敵をおさえているうちに退がらなかったのだろう。一人でも助かるものならと口々に促がすのだが、一人として立ってくる兵隊はいなかった。
こんどばかりは生きて渡ることはないだろうと思ったシボン鉄橋にちかづくと、一発また一発と散発的な砲弾が炸裂していた。

退路の方向の山に、白いパラシュートが、緑の木々にぶら下がってみえる。英印軍は、われわれの退路を遮断したという。ただ一本の道路を敵に確保され、部隊の退く道はなくなった。この後どうなるかと考えるのも嫌になる。
これより傷病兵の患者部隊は山越えで南進し、健脚部隊は山中をさらに迂回して、モーレを確保するため急進することになった。第一中隊は広瀬義久少尉、山田芳枝准尉、そして渡しをふくむ三人の、計五名だけとなった。第一中隊は五十名くらいにみえた。

急進によって列の前後は長くなるばかりで、二人、三人とやがて遅れはじめた。健脚部隊といっても、なんとか歩ける兵士が選ばれたにすぎず、精神力というか、緊張したなかでの気力だけである。こうなれば歩けなくなったところが最後の場所と、懸命にがんばった。
やがてチークの根本に、一人の兵士が歩行困難になって座っていた。かたわらに同じ部隊の下士官がたっていた。私も立ち止まって心配気に様子をうかがう。
「元気を出せよ、もう少しのがまんだから」
下士官が文句を言った。いたわりの言葉ではない。
「歩けないのか!」
「・・・」
「どうする、だめなら自爆しろ」
「・・・」
座ったままの兵隊は返事をしなかった。下士官は手榴弾を持ち、
「手榴弾をやめから、やれ」
「・・・」
兵隊はだまって目を閉じ、うつむいたままだった。
「できないのか!」
下士官は思い余って銃をかまえた。部隊は遠く離れて、さきの山中へ入って行ってしまった。このままだと下士官はほんとうにやりかねない。あまりの見幕に見かねて、
「何をするんだ、そこまでやらなくても」
「このまま置いて入ったら、一人で苦しむばかりだ。かまわず行ってくれ」
「そのままにしておいてやれよ」
他隊のことなので、それ以上のことも言えず、二十メートルばかり離れたとき、「バーン」と鈍い音がした。振り返り立ち止まっていると、下士官が追ってきた。ほんとうにやったのか、と心中、怒りを覚えた。
「やってしまったのか」
「うん・・・」
「やるなと言ったのに!」
「しかたがないんだ・・・」
下士官も涙声になった。だれだっか兵隊の氏名も聞かなかったが、戦友に撃たれて死ぬとは情けなかったであろう。自分の中隊員であったら、下士官といえどもただではすまないが、他隊ゆえに私はがまんした。

上記は、戦記の書かれてあることで、事実である。
そのような、玉砕も、あったということだ。

戦場とは、通常の場ではない。
尋常ではない場が、戦場である。

苦しませて死ぬより、即座に死ぬ方がいいと、判断したのか・・・
分らない。

本道の南を迂回し山中を歩いた部隊は、やっとモーレに入った。そこには驚くべきことに、道路ばた、木の下、家の中から床下にいたるまで、友軍の死体が散乱していた。動いている兵隊はほとんどなく、死臭があたり一面にたちこめ、鼻をついた。激戦をへたわれわれ兵士でさえ、まさに目をおおうばかりの惨状であった。

ここで休憩となるが、腰をおろす場所がない。付近一帯には血便が散乱し、屍を見ながら立ったまま銃を枕にして休んだ。出発にさいしては、銃床に付着した便を草や木の葉でふきとってから担いだ。

日本軍将兵たちのいたしまい姿はここだけにとどまらず、行く先で動かない兵隊が腐った骸となり、あるいはなかば白骨化していた。敗戦にともなう敗兵の末路を見せ付けられ、悪寒が背筋を走った。悲惨、無情、神も仏も、わが軍を見捨てたのかと思った。

たどり着いたモーレには友軍の死体だけがあり、糧食はなにひとつ準備されていなかった。ただ、敵が残していった純毛の毛布が、簡易倉庫の天井にとどくほど山積みにされていた。敵の入ってくるものも時間の問題となったいま、ふたたび敵の掌中に帰するのかと思うと、無性にしゃくにさわる。
「毛布をだめにしてやれ」
倉庫内にたまった水の中に毛布の山をつきくずし、何十枚もの毛布の上でやっとわれわれは休憩した。

タムに入っても、兵隊の死体が同じようにつづいた。このまま死体を整理する者もなく、朽ち果てるのにまかせるのかと思うと、感慨無量、悲嘆にくれる。

この有様を見続けて、兵士たちは、更に、敵と遭遇して、戦うことを、繰り返す。
延々と続く、戦記の記述に、呆然とする。

だが、何度も、繰り返して読むべきだと、思う。
これが戦争であり、戦争反対というならば、読むべきである。

ただし、現在は、戦争ではないかと言われれば、私は、戦争状態にあると、言う。
戦闘の戦争ではなく、情報の戦争である。
中国、そして、その属国、韓国が、捏造した日本軍の蛮行を、世界に向けて、繰り返し発進しているのである。

これも、戦争であると、意識、認識すべきなのだ。

そして、本当の戦闘が起こったとき、世界の国々が、そのウソの情報を信じたら・・・
日本を叩き潰そうとするだろう。


posted by 天山 at 06:05| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月05日

打倒・韓国31

フランスの、人文地理学者である、ジャーク・ブズー=マサピュオーの著書、新朝鮮事情で、朝鮮を、植物依存文明と称して、その慢性的な食料不足と、伝統的な貧困を分析している。

朝鮮は日本の植民地政策と、組織的な経済近代化改革の影響を受けた後、再び独立の機会を得て、1000年以上の間、農民の宿命であった不安定な境遇を改善することができたのである。

上記、西洋人であるから、植民地政策と書いているが、彼の国の植民地政策は、どのようなものだったのか。
掠奪、搾取であろう。
それと、日本の政策を、植民地とは、よくぞ、言ったものだ。

欧米の植民地政策と、日本の朝鮮で行った政策は、天地の差がある。
日本は、併合し、拓殖したのである。

だが、上記、確かに、日本の政策により、農民の宿命であった、不安定な境遇を、改善する事が出来たのである。

更に、近代化への貢献として、書く。

現代の朝鮮人の目には、日本植民地時代の悪い面が、伝統と孤立に対する純然たる侵害として非常に大きく映っているのであるが、その反面、南北朝鮮の国家経済を著しく飛躍させるための基礎は、この時代に築かれたのであり、その成果もまた大きかったと言える。日本は、約40年ほどの間に厳しいやりかたで、自然の脅威にさらされた大きな工学設備をもたない貧しかったこの農業国家を、科学的な農業とさまざまな工業、そして活発な貿易を誇る経済の調和のとれた国へと変身させた。

フランス人だから、書ける内容である。
日本人でも、韓国人でも、こんなことは、書けないだろう。

だが、まさに、その通りなのである。

朝鮮人は、もとより、反日日本人も、日帝36年の朝鮮併合を、非難する馬鹿者が多い。
しかし、冷静に、その時代の社会的大変化の背景を見れば、その併合の時代は、朝鮮にとって、輝く時代だったのである。

ところが・・・
土地を奪った、資源を奪った、人命を奪った・・・
内容の無い、非難中傷ばかりを、韓国人は、言うのである。

自分たちでは、近代化など、遠くの話しだった。

そこで、醜い韓国人の、朴氏の、書いたものを紹介する。

日本国民は韓国の近代化をはかるにあたって、大きな犠牲を払った。
伊藤博文は統監として韓国に赴任するときに、日本興業銀行から一千万の起債を得て、そのうち五百万円を携えていった。この一千万円は無利子で韓国へ提供した。

日本は事業費のほかに、国運を賭けて戦った日露戦争の戦費の処理のために台所事情がきわめて苦しかったにもかかわらず、政府が、一般会計のなかから巨額の予算を韓国のために支出している。

韓国人が言うのである。
そして、その証拠を書き付ける。

1908年 二千七百万円 (日本の国家予算・歳入・六億二千六百万円)
1909年 三千百万円 (同・五億四千二百万円)
1910年 二千百万円 (同・五億四千八百万円)
1911年 二千五百万円 (同・五億七千四百万円)
1912年 千二百三十五万円 (同・五億八千二百万円)

この後も、日本の韓国経済は、毎年、日本の大きな持ち出しとなっている。1909年には、鉄道、道路、海運、農地整備などのために、千九百万円が投入された。日韓併合が行われた1910年には、「恩賜金」として三千万円を韓国のために、贈与として支出している。日本国民の血税が韓国の振興のために費やされたのだった。

更に、驚くべき事が、書かれている。

日本統治時代には治安もよかった。ところが今日の韓国では女性が夜、一人歩きできないようになってしまった。うら若い娘が白日に暴漢グループによって、攫われ消息を絶つとか、暴行されたうえで放り出されるといった事件がし、しばしば起こっている。私の会社でも数年前に、社長秘書の末娘の二十六歳になる女性がソウルの街頭で暴漢グループによって力づくで拉致されて、辱められるという悲惨な事件があった。

それでは、現在は、どうだろうか。
この本は、20年以上前のものだ。

現在は、もっと、凄い状況になっているだろう。
小学生でも、強姦するというのだから・・・

もし、中国の支配が続いたか、ロシアの植民地になっていたら、今日の韓国の形相は、まったく変っていたことだろう。日本の統治下に入ったことは、韓国民にとって幸運だった。

と、韓国人が言うのである。

更に、
日本は36年にわたって、植民地支配をしたという。しかし、ヨーロッパや、アメリカによる植民地統治とは、質的にまったく異なった。
日本人が韓国人を物理的に抹殺しようとした、というのは、日本の韓国統治をみるかぎりでは、まったく当っていない。

よく日本が韓国を植民地にした、といわれるが、日本の手によって日韓両国の併合が行われたのだから、正しくいえば植民地としたのではない。たしかに日韓併合によって韓国人は日本国民となったといっても、総督府の支配のもとに置かれたために、参政権を拒否されていたのをはじめ、内地の日本国民と同等な権利を享受することがなかった。韓国人にとっては有難迷惑としかいえなかったものの、日本は韓国人を日本化することをはかった。

この日本化すること、というのは、日本人と同等に扱うべき存在という意味である。
統治する側からの、傲慢さはない。

日韓併合から、二年目の1912年に、寺内総督が、大正天皇に対して、韓国統治の実績について進講した、その中で、韓国は日本の支配地域ではなく、日本の一部として、扱われていたことが分る。

朴氏は、
いったい世界の他の植民地のなかで、これほどまでに本国が社会資本の整備や、教育、医療衛生をはじめとする社会制度を充実させるために大きな投資を行った例があるものだろうか。イギリスも、フランスも、オランダ、スペイン、ポルトガル、ドイツ、イタリア、ベルギー、アメリカも、そのようなことはしなかった。

韓国の王族は、日本の皇族の一員であるとして遇された。日本はソウルと台湾の台北に帝国大学を創立したが、いったいイギリスがインドにオックスフォード大学や、ケンブリッジ大学をつくっただろうか?韓国人は日本陸海軍の将兵として登用された。いったい、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国やアメリカが、インド人や、アルジェリア人やフィリピン人を本国軍の将官にしただろうか?
とのことである。

これについては、韓国人の、シンシアリー氏も書いている。




posted by 天山 at 06:54| 打倒・韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月06日

打倒・韓国32

韓国人、シンシアリー氏の、恥韓論、から、抜書きして、紹介する。

私は、前々から疑問に思うことがありました。併合時代、朝鮮人志願兵たちのことです。併合時代、まだ朝鮮半島での徴用令(1944年)の前にも、大勢の朝鮮人たちが、日本軍に志願しました。その競争率はかなり高かったと聞きます。

韓国では、彼らは「好きで志願したのではなく、強制的に連れていかれただけだ」と主張しています、彼らの一部は靖国神社で英霊として崇められているため、韓国からするとどうしても否定したい存在でしょう。

しかし、私はその「無理矢理、戦わされた」という設定が、どうしても納得できませんでした。私は、人が命をかける行動は、決して簡単にできることではないと思っていたからです。

まさに、その通りで、韓国では、何でも、日本が強制的にと、ウソを言う。
兵隊も、労働者も、強制的である。
日本に来た、韓国人皆が、強制的に連れて来られたと、ウソを言う。

シンシアリー氏は、
ある日、私はこの問題を検索してみました。すると、リンク切れなどがありましたが、あっさり朝鮮人志願兵の規模がわかりました。意外でした。十分かかりませんでした。・・

朝鮮人志願兵の数は八十万二千百四十七人(1938~1943年)で、実際の入所者は一万七千三百六十四人(1938~1943年)でした。やはり、思ったとおりでした!韓国側の主張は嘘だと確信が持てました。「彼らは志願したのではなく、徴用され、強制的に戦わされて、それで戦死した」にしては、競争率が高過ぎたのです。

これは、驚くべき、事実である。

志願兵が、802,147人である。
そして、入所者は、17,364人。

こんな見事な、ウソなのである。

シンシアリー氏が書く。
そもそも、今では考えることもできないほど過酷な戦場にて、果たして「無理矢理(強制的に)戦う」というのが成立するでしょうか。・・・

・ ・・別に志願兵たちのことだけではありません。銃を持って戦うこと、さらには戦闘機に爆弾積んで突っ込むということが、「恐ろしいまでのヤル気」なしにしてできるものでしょうか。悲しんでいたでしょうし、苦しかったでしょうけれど、それでもやらねばと思っていたのではないでしょうか。韓国ではそういう選択を「帝国主義の洗脳」と主張する人たちもいますが、「反日」という洗脳が溢れている国が言うセリフではありませんね。

例の資料だけで一万七千三百六十四人(志願者八十万二千百四十七人)の朝鮮人志願兵たちの思いをここまで「強制的だった」と否定している韓国ですが、その韓国が憲法前文で「法統を受け継ぐ」としている、恐れ多くも臨時政府様の、大日本帝国を相手に戦った正規軍の数は何人でしょうか。

1945年時点で三百三十九人だとされていますが、1963年、独立有功叙勲にて光復軍出身者として集計された人は、資料によって少しの差がありますが、なぜか五百六十人です(五百八十六人だとする資料もありますが)。増えていますね。そのため、今でも光復軍有功者に対しては「偽物」説が提起されています。

だが、色々と調査した結果、功績が疑われる人の中に、功績と呼べるものがなく、日本が敗戦してから、六日後に入隊した人も入るとのこと。

シンシアリー氏は、
この差は何でしょう。私は、志願兵たちも光復軍たちも、どちらも信念に基づいて戦ったと思っています。銃を持って戦うということは、命をかけて戦うということは、そう簡単にできることではありません。

ただ「反日」という思想のため、邪魔になる一万七千三百六十四人(しつこいですが志願兵八十万二千百四十七人)の信念を踏み潰し、ありもしない英雄の数をデタラメに増やすことは、そのどちらに対しても、あとの世を生きる者たちが取るべき態度ではありません。反日という宗教の力は、本当に恐ろしいですね。いかなる道理も、反日教には勝てないようです。

何故、韓国人のシンシアリー氏が、こんなことを書くのか・・・
それは、本人の言葉から、
ですが、今の韓国の態度からして、韓国の「反日」の「日」から自由になれる日本人はいるのでしょうか?
好きな候補がいないからといって投票もせず、あとで経済がどうとか政治がどうとかと文句をいう人によく見られるパターンです。それは、正しい意見の提示ではありません。

とのこと・・・
何度も書いていますが、ネットの時代です。情報を選別できる能力さえあれば、資料は簡単に手に入ります。そうやって「知る」を得て、ある事案に対して自分なりに意見をまとめておくのは、いろいろと役に立つことです。そして、もう少し積極的に関わってみましょう。・・・

十年前に比べると、日本の雰囲気は明らかに変ってきました。両国の(ほとんど韓国側が持ち込んだ)歴史問題の各事案について、タブー感が弱まり、強い持論を持った人たちが増えてきました。

シンシアリー氏は、
韓国人ながら、日本人のために、
ズバリ、日本の国民がもっと自分の声を上げることこそが、韓国のもっとも嫌がることでもあるのです。
と、言うのである。

つまり、このままでは、両国にとって、良くないことばかりだということだ。

勿論、私は、韓国とは、関わらないという方向で考えている。
そして、シンシアリー氏も、基本的にスタンスでいれば、いいと言う。

それは、距離感を持ち、冷静に韓国に対処する事。

私の言葉で言えば、無視しない程度に、基本的関係のみに、始終するということだ。
挨拶程度の付き合い。
深入りしない。

こんにちは、ごきげんよう・・・
その程度である。

日韓友好などという、妄想は、抱かないことである。
そんなことは、どこかの宗教団体に、任せておけばよい。


posted by 天山 at 05:50| 打倒・韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月07日

打倒・韓国33

戦後に書かれた書物には、朝鮮人が半島から流出したのは日本人が土地を奪ったからだとか、あるいは日本官憲による強制連行があったからだとかいう記述が多い。しかし、19世紀における朝鮮半島からの流出は日本とまったく関係なく、李朝社会の崩壊が最大の原因であった。両班の官吏、地主の苛斂誅求を避けて、ぞくぞくと満州やシベリアの沿岸州へと職を求めていったのである。
黄 文雄

統計交渉通商事務衛門日記の記述では、
農民、流民の越境問題について、具体的な数字が出ている。
高宗時代の、1894年1月、ロシア側からの通牒で、朝鮮人1058世帯を送還させることとなった。
次ぎに、日省録では、
平安道国境の九邑から、10余万人もの人たちが、清国に不法越境していた。

日本には、朝鮮人強制連行に関する、書物が多いが、そのどれ一つも、説得力の無い物ばかりである。
更に、日本史を見ても、農民、住民を強制連行した記述はない。

強制連行というならば、唐以後の朝鮮の歴史では、半島の人間が、大陸の諸民族に、強制連行されることが、多々あった。

そして、強制連行という、言葉が使用され始めたのは、すべて、1975年、昭和50年以後である。
勿論、従軍慰安婦に関しても、である。

強制連行は、たいてい夜間寝ているとき、とつぜんたたき起こされて連衡される。すがりつく家族に暴力をふるって振り切り、家族と引き離す。そして、逃げられないように手錠をかけ、トラックに押し込むなど、まるで奴隷狩りのような話だ。一時は、在日朝鮮人はすべて強制連行者だという主張が出て、200万人が被害者であるとされたが、最近では70万人ていどに落ち着いている。
黄 文雄

嘘八百の韓国であるから、致し方ないが・・・
日本人の中にも、それを主張する者がいるから、不思議だ。

反日日本人は、多く、左翼系であるが・・・
それでも、不思議なことだ。

現在でも外国人労働者が問題になっているように、労働の原理からいえば、低賃金のところから高賃金のところへと労働者は移動するのが一般的である。そしてその原理どおり、日韓合邦後、半島の労働者は内地の日本列島にぞくぞくと流入していった。これら低賃金労働者は、内地の失業者を増やしただけではなく、犯罪者となって悪事をする者も多かった。日本の中央政府は朝鮮総督府に対して、なんとか半島の人間が日本に流入しないよう、制限または阻止してほしいと協議や要請をすることしばしばだった。強制連行どころか、阻止したいほど勝手に流入してきたのだ。
黄 文雄

そして、現在も、それが続いている、何よりの証拠である。
韓国人不法滞在者は、中国人と、一、二位を争そうほど、増えている。
更に、犯罪率も高いのである。

日韓併合後、朝鮮人が日本へ入国することは、今と同じほどに、厳しい規制があった。
しかし、当時の日本は、朝鮮を植民地とみなす法的根拠なく、あくまで日本国籍を有する者として、みなしていた。
だから、実際に、入国出来たのである。

当時の、内務省警保局は、朝鮮人に対して、
渡航阻止の手続きは、政策的な問題であり、何ら法的根拠に基づく絶対的のごときにあらず
と、見なしていた。

だが、あまりにも、朝鮮人の入国が多く、総督府は、日本企業の朝鮮人募集攻勢に対して、「労働者募集取締り」という、行政指導を行い、厳しく規制したのである。

旅行も同じく。
海外への渡航は、厳しく規制された。
戦後から、90年代に至るまで、韓国政府も、それを引き継ぎ、海外渡航を制限していた。

黄氏によれば、
この、渡航制限に関して、当時の民族紙「東亜日報」は、社説で不満を述べた。
それは、「朝鮮人全体を無視し侮辱する悪法」だとして、撤廃キャンペーンを張った。
1922年12月、これを撤廃した。

ところが、朝鮮人が日本に殺到していることを鑑みて、警保局と、総督府は、再び協議する。
1924年5月17日、釜山港では、渡航制限撤廃を訴える五万人ほどの市民集会が開かれ、朝鮮労農同盟、朝鮮青年総同盟の、二団体が、内務省と総督府を相手どって、渡日制限撤廃の抗議を、繰り広げている。

これに対して、日本は、現在の不法入国韓国人と同じように、1928年から、水上警察を動員し、出発港と、各地方の末端警察機関による、二重渡日取締りを行なった。

それでも、朝鮮人は、日本に殺到したというから、驚く。
1925年の在日朝鮮人は、13万人弱である。
それが、33年には、46万人にも、増えている。

一体、これは、どういうことなのか・・・
どこが、強制連行なのか。

まだ続きがある。
日中戦争に入った後の1938年、昭和13年4月、国家動員法が成立し、翌年七月、国民徴用令が施行された。
それは、内地の日本人に対するものであり、朝鮮には、適用されなかった。

内地企業が、自由に朝鮮人を募集出来るのは、その後である。
これを、「統制募集」という。

だが、それでも、「内鮮一体」のスローガンの下で、朝鮮人の渡日取締りと、規制緩和を要求する声が、大きくなり、一時は、部分的な規制緩和を強いられるほどだった。

1934年から37年までの、渡日者数は、10万人を超えていたというから、驚く。

大東亜戦争中の台湾、朝鮮に対する渡日規制は、どちらも同じく強化されていたが、台湾では、それが成功したが、朝鮮では、緩和せざるを得ない事態となったのである。

1942年2月から、「官斡旋」がはじまった。これは強制ではなく、斡旋に応じたければ、応じてもいいという。また転職も自由である。

朝鮮人に日本人と同じ、徴用令が適用されたのは、1944年4月からである。
しかし、日韓の航路は、危険水域を通過するため、この徴用令による、人的な流通は、多くは無かった。

一方で、不法な密航を含めた渡日者は、増え続けた。
1940年の在日朝鮮人は、119万人、49年は、210万人と、急増している。

強制連行どころか、いくら渡日を規制しても、朝鮮人はみずから希望して日本に殺到したというのが、歴史の事実である。

更に、現在も、密入国を続けているという、状態である。
呆れる。





posted by 天山 at 06:20| 打倒・韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月08日

打倒・韓国34

日本に強制された・・・
繰り返し、韓国人たちは、そのように言う。
その中で、比較的新しいものが、慰安婦問題である。

突然のように、始まった、慰安婦のこと。
それも、強制連行であり、日本軍が関与していた・・・

その問題の幕開けを行ったのが・・・・
日本の馬鹿な政治家、河野という者である。
韓国側と、摺り合わせて、謝罪して欲しいと言われて、騙されたのである。

韓国人の以下、嘘である。
日帝が大量の朝鮮人女性を、従軍慰安婦として、強制連行したという。
勿論、ウソであるから、客観的な証拠はない。

だが、仮にもしそのようなことがあったとしても、朝鮮が唐の時代からしばしば北方民族に強制連行された悲しい歴史からすれば、取るに足らない出来事のはずである。
黄 文雄

ここまで、言われると、韓国人は、唖然、呆然だろう、
何しろ、自分たちの歴史というものを、知らないのだから。
歴史で教えられることは、空想、妄想全開のお話である。

本当の歴史の事実は・・・
属国の朝鮮が宗主国の、中華帝国へ捧げる主要貢物には、牛馬、金銀、そして、男性の去勢した、宦官、更に、慰安婦である。

朝鮮の慰安婦というのは、かつてアジア最大の貢女の産地と、見なされていたのである。
しかも、最近まで、韓国は、管理売春国家として、有名であった。

キーセン、つまり、妓生であり、今も、存在する。

統一新羅の時代から、李朝朝鮮に至るまで、毎年、宗主国の元、明、清へと貢女を進貢してきたとの、記録がある。
婚姻の習慣から言えば、古代朝鮮は、売春婚の国である。

中華帝国をはじめとして、北方諸王朝への、貢女は、古代から、有名である。

特に、元の時代、モンゴル人の百数十年にわたる、長期政権支配下では、貢女、娘の供出の催促が、厳しかった。

この貢女の歴史は、中国の歴史書だけではなく、韓国通史などの、韓国人学者による、通史にも出ている。

元時代、モンゴル人統監下での貢女献上は。高麗朝の貴族社会にとっては苦痛なほどであった。なにしろ「処女」を献上しなければならないのだ。これが慣例となってしまった朝鮮では、元が抱える南宋の降人部隊「蛮子軍」に女を献上したことから、明や清へと朝鮮の貢女献上の喜悲劇が続いた。その記録は、「高麗史」「稼亭集」や墓誌に多く残っている。
黄 文雄

更に、悲劇なのは、明、清の時代も、元にならい、侍女や貢女は、美女で処女であることを、原則としていたのだ。
そして、その身分は、朝鮮国王の、妹、王女、また王室、大臣の娘が好ましいとされた。

美女で、処女である侍女を出す場合は、両班の娘、その妾が望ましく、それ以外の地位の者を、貢女としてはならなかった。
もし、これで、不正が発覚したら、宗主国である、清が知ったら、責任官吏が逮捕され、厳しく積みに問われたのである。

韓国では、戦後、国家管理売春が横行し、朝鮮史における、慰安婦の輸出や売却の史料も、存在している。

再度書くが、日本政府が関与した、従軍慰安婦問題は、一つの証拠もないのである。
強制連行などとは、ウソ偽りである。

1000年属国と共に、1000年、売春立国である、韓国。
李朝時代も、毎年、宗主国に、貢女や宦官を献上していたのも、史実である。

そこで、現代の韓国社会の、慰安婦問題を、韓国人である、シンシアリー氏が、書いているので、紹介する。

慰安婦問題は、韓国では「聖域化」されており、今ではこのような韓国側の「設定」と違う意見は一切認められません。この問題で叩かれると、韓国社会では生きていけません。慰安婦問題を否定した大学教授や、ネット慰安婦問題に関して日本の意見が正しいと書いた青年が、特定され、慰安婦たちに土下座して許しを請うたこともあります。

なぜか、1990年代になるまで、韓国側はこれといった対応をしませんでしたし、1983年に日本で慰安婦問題を提起する本が出版された時には、本で「十五人が徴用された」と指摘された済州の該当地域の住民たちが、「そんなことはありえない」、「本を売るための日本の恥知らずな商法だ」とまで非難しました。(1989年8月14日、済州新聞)。慰安婦問題が「聖域化」されている今なら、考えられない内容です。韓国がこの問題に食いつくようになったのは、日本の朝日新聞が1991年から慰安婦問題を積極的に取り上げてからです。

というように、私は、日本側の、反日日本人と、在日の存在が多くあると、考えている。

突然のように・・・慰安婦・・・
そして、それを、韓国が日本を攻める、道具としたということ。

何せ、日本帝国支配によって・・・
韓国は、悪くなったというのが、テーゼであるから。

慰安婦の存在そのものを否定する人はいません。それがあったのは事実です。この議論で肝心なのは、彼女たちが性奴隷であったかどうか(強制性があったかどうか)、そして日本政府が直接介入していたのか、ということですが、日本政府または軍が直接的に介入したという証拠は、どこにもありません。これは非常に重要なことですから、覚えておいてください。
と、シンシアリー氏が言う。

更に、韓国の家族省が、今年七月頃、強制性は無かったと、認めたのである。

つまり、売春婦が存在していたのである。
性奴隷などという、存在は、無かったのである。

更に言えば、高級売春婦だった。
彼女たちは、古里に凱旋して、家族に多いに、感謝されていた。
家を建てたり・・・
莫大なお金を得て・・・ということ。
posted by 天山 at 05:00| 打倒・韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月09日

打倒・韓国35

さて、1993年、日本側は、「河野談話」にて、慰安婦の強制性を認め、謝罪までした。

韓国側に、ただ、謝罪だけすれば、いいと、摺り合わせられて・・・
両国のために、認めてください。ただ、謝罪するだけで・・・
ということで、謝罪したら・・・

騙された。

シンシアリー氏の、続きである。

韓国側の河野談話関連記事(2013年7月19日、東亜日報)で、当局の日本の官房副長官はこう話しました。「軍の命令、連絡文書などをすべて見たが、軍や官憲が慰安婦の意思に反して強制的に募集したことを裏付ける資料はなかった」。「当時の宮沢内閣は、未来志向の日韓関係を構築するために、(証拠はないけど)慰安婦の証言を受け入れることにした」。

個人レベルならともかく、国の発表した談話が証言だけを元にしたというのは、実に意外でした。韓国側が保護している元慰安婦は2014年時点で五十四人だけです。河野談話に証言したのは十数人(残りはどこに行ったのでしょうか?)本当に二十万人も三十万人もいたなら、十数人だけの証言で国が頭を下げたのは、さすがにおかしいことです。

それから、韓国は態度を変えました。「ほぅらやっぱり強制だったじゃないか!慰安婦は性奴隷だった!これは人道的な問題だから、韓国は日本側に謝罪と賠償をいつでも追加できる」。公式見解がこれだけから、困ったものです。それが、今まで続いているわけです。

謝るという、日本側の対応も、問題があるが・・・
そのウソの証言を取り、謝らせて、賠償を取るという、韓国という、国・・・

日本では、謝れば、それで済む場合が、多々あるが・・・
国際社会で、謝るとは、アウトである。
つまり、我が身の非を認めたことになる。

例えば、植民地支配を、何処の国が、謝ったことがあるか・・・
最低最悪のイギリスを始め、書き付ければ、キリが無いほどの国々。

白人主義は、近代化を教えた、文明を伝えたと、嘯くのである。

さて、シンシアリー氏が、韓国の慰安婦問題に、突っ込みを入れている。
韓国人が、自ら、書くのである。

1,韓国は、朝鮮戦争で韓国軍も慰安所と慰安婦を運用していたのに、なぜそれを同じ慰安婦問題として扱わないのか
2,韓国は、在韓米軍相手の慰安所と慰安婦を韓国政府が直接管理していたという文書まで公開されたのに、なぜそれを同じ問題として扱わないのか
3,韓国は、過去の慰安婦はそんなに気を使うのに、なぜ借金漬けで性奴隷になっている現在の韓国人売春婦たちを無視するのか

韓国が主張している慰安婦問題には、「おまえが言うな」という美しい日本語で解決できる明らかな矛盾が存在しているのです。この三つの側面は、それを明らかにしてくれることでしょう。

シンシアリー氏には、敬意を表するが・・・
韓国という国は、国家の体を成していないようである。

何かが、欠けている、抜けている国・・・

ここから、シンシアリー氏の書いたものを、略して書くことにする。

2002年、日本の京都で開かれた「第五回 東アジアの平和と人権国際シンポジュウム」にて、韓国人の女性教授が、朝鮮戦争当時、韓国軍慰安婦がいたという、論文を発表した。

彼女が日本軍慰安婦問題に対して持っている認識は、たぶん、一般的な韓国人と変らないと思います。
シンシアリー

彼女の主張は、同じ慰安婦なのに、なぜ、韓国軍による朝鮮戦争での、慰安婦問題と、その被害者たちを無視し、誰も問題提起しないのか、というもの。

日本軍慰安婦問題が、国際的なイシューになっているにも関わらず、彼女の論文に書いてある韓国軍慰安婦の問題は、何故か、まったく話題にならない。

政府の圧力なのか、それとも韓国という社会のチェミョン(体面)を守るためなのか?それはわかりませんが。
シンシアリー

韓国軍慰安婦は、捕虜になった、北朝鮮の人たち、また、思想的に問題があるとされた人たちが、強制的に慰安婦にされたという。

更に、韓国軍本部の公文書「後方戦史」1956年などは、動かない資料、証拠である。
その文書には、「国定式慰安所、特殊慰安隊」とし、1952年にソウル、江陵など四つの小隊に編成された慰安婦、89人が、年間204560人の兵力を「慰安」したと、記録されている。

退役した、軍人たちの回想録にも、慰安婦運営に関する内容が、確認されている。

ただし、これを取材したウィークリー・スユノモ24号によると、
韓国軍の恥部に触れたこの論文はすぐに歴史の裏舞台に片付けられた。韓国軍慰安所関連資料の観覧は禁止され、メディアは約束でもしたかのように沈黙した。大学から「気をつけたほうがいい」という連絡がきた、という。

2002年、韓国軍慰安婦問題が公式提起されたが、韓半島は沈黙した。当時、女性界、男性知識人、社会学会を問わず、そのほとんどが日本の極右勢力による悪用を懸念するだけだった。
女性教授には、「日本軍慰安婦問題とつなげてはいけない」と、有・無言の圧力が加えられた。

資料があって無視する国と、知り様がなくても謝る国・・・どちらも間違っているような気がしますが、どうでしょう。
シンシアリー

つまり、簡単なことで、韓国は、それを無視して、日本のことだけを、徹底的に取り上げて、ウソでも何でも、反日活動をするということ。
それ以外の、何物も持たない国が、韓国と言う国。

国家の体を成していない国なのである。

崩壊するというより、崩壊するものも、持ち合わせない国である。

日本が奪ったというが・・・
奪うものなど、何も無かった朝鮮、韓国なのである。


posted by 天山 at 06:21| 打倒・韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月12日

もののあわれについて761

柏木

衛門の督の君、かくのみ悩みわたり給ふ事なほ怠らで、年もかへりぬ。大臣、北の方、思し嘆くさまを見奉るに、しひてかけ離れなむ命かひなく、罪重かるべき事を思ふ心は心として、またあながちに、この世に離れがたく惜しみとどめまほしき身かは、いはけなかりし程より思ふ心ことにて、なに事をも、人に今ひときはまさらむと、公私の事にふれて、なのめならず思ひのぼりしかど、その心かなひがたかりけりと、ひとつふたつのふしごとに、身を思ひおとしてしこなた、なべての世の中すさまじう思ひなりて、のちの世の行ひに本意深く進みにしを、親たちの御恨みを思ひて、野山にもあくがれむ道の、重きほだしなるべく覚えしかば、とざまこうざまに紛らわしつく過ぐしつるを、つひに、なほ世に立ち舞ふべくも覚えぬ物思ひの、ひとかたならず身に添ひにたるは、われよりほかに誰かは辛き、心づからもてそこなひつるにこそあめれ、と思ふべき人もなし。




衛門の督の君、柏木は、こんなに病気が続くばかりで、一向に良くならないで、年も改まった。
父の大臣、母、北の方が、嘆く様を拝すると、無理に、捨てようと思う命の捨てがいもなく、先立つ罪は、重いことを思う気持ちは、変わらない。だが、しかし、この世に、執着して生きる身だろうか。幼い昔から、理想を高く持ち、何事にも、人より一段と優れようと思い、公の事も、私の事も、並外れて、望み高くあったが、思うとおりに行かないものだと、一つ二つのつまずき事に、次第と、自信を失い、世の中全体が、面白くないものだと、御世のための、修行に心が強く向ったのだが、両親の嘆きを考えると、野山に憧れ出る道にとっては、大きな絆であろうと思われたので、あれやこれやと、気を紛らわせ月日を過ごして来た。だが、結局、矢張り、世間に交わることが出来そうにないと、物思いが一つならず、身に生じたのは、自分以外に、誰のせいだろうか、自業自得で、このようになったと思うと、恨むべき人もいないのである。




神仏をもかこたむかたなきは、これ皆さるべきにこそあらめ、誰もちとせの松ならぬ世は、つひに止まるべきにもあらぬを、かく人にも少しうちしのばれぬべき程にて、なげのあはれをもかけ給ふ人あらむをこそは、ひとつ思ひに燃えぬるしるしにはせめ。せめてながらへば、おのづから、あるまじき名をも立ち、我も人も安からぬ乱れいでくるやうもあらむよりは、なめしと心おい給へらむあたりにも、さりとも思し許いてむかし。よろづのこと、今はのとぢめには、皆消えぬべきわざなり。また異様のあやまちしなければ、年頃ものの折節ごとには、まつはしならひ給日にしかたのあはれもいできなむ、など、つれづれに思ひつづくるも、うちかへしいとあぢきなし。




神仏のせいにもできないのは、これも皆前世の因縁なのだろう。誰も千年の松ではない、この世は、結局、死なずにはいられないのだ。このように、誰かに、少しは死後、思い出してもらえる間に、かりそめながらも、可哀相にと、思ってくれる方があろうということを、一筋の思いに燃えた、そのしるしとするとしよう。無理矢理に、生き続けるとすれば、いつしか、不都合千万との評判も立ち、自分にも相手にも、大変、面倒なことが起こることもある。それよりも、無礼者、けしからぬと思っているお方でも、いくらなんでも、死後は、お許しくださるだろう。何もかもが、臨終の際には、消えてしまうはず。
あれ以来、別に間違いもなく、今まで何年もの間、何かある度に、自分をお呼びになり、お傍に置いてくださるのが常だった、六条院の憐れみも、生じるだろう。などと、何も出来ないままに、考え続けているが、いくら考えても、実に、おもしろくないのである。

当時の、死生観である。
また、死ぬという意識を、このように感じていたということが、分る。




などかく程もなくしなしつる身ならむと、かきくらし思ひ乱れて、枕も浮きぬばかり、人やりならず渡し添へつつ、いささかひまありとて、人々立ち去り給へるほどに、かしこに御ふみ奉れ給ふ。




何故、このような身の置き所のないほど、自分でしてしまったのか。と、闇のような思いがして、枕が浮いてしまうほど、自分のしてしまったことで、涙を流し続ける。少し具合が悪いとあり、一同がお傍を離れた隙に、女三宮に、文を差し上げる。




柏木「今は限りになりにて侍る有様は、おのづから聞し召すやうも侍らむを、いかがなりぬるとだに、御耳とどめさせ給はぬも、ことわりなれど、いと憂くも侍るかな」など聞ゆるに、いみじうわななけば、思ふことも皆書きさして、
「今はとて 燃えむ煙も むすぼほれ たえぬ思ひの なほや残らむ

あはれとだに宣はせよ。心のどめて、人やりならぬ闇に惑はむ道の光にもし侍らむ」と聞え給ふ。




柏木は、今は、もう臨終になってしまったことは、自然、お耳に入っていることでしょう。どんな様子かさえも、お気にとめてくださらないのは、無理も無いことですが、辛いことでございます」など、申し上げるのだが、酷く手がふるえて、書きたいことも、皆書きかけにして、
これを最後と、燃える煙も、もやもやして、いつまでも火が、諦めきれない思いが、死後に残るでしょう。

せめて、あはれと、一言おっしゃってください。それで、心を静めて、自分から求めて、無明の闇を行く道の、光としましょう。と、申し上げる。




侍従にも、こりずまに、あはれなる事どもを言ひおこせ給へり。柏木「みづからも、今ひとたび言ふべき事なむ」と宣へれば、この人も、童より、さるたよりに参り通ひつつ、見奉り慣れたる人なれば、おほけなき心こそうたておぼえ給へれ。今はと聞くはいと悲しうて、泣く泣く、小侍従「なほこの御返り、まことにこれを。とぢめにもこそ侍れ」と聞ゆれば、女三「我も、今日か明日かの心地して。もの心細ければ、おほかたのあはればかりは思ひ知らるれど、いと心憂き事と思ひこりにしかば、いみじうなむつつましき」とて、さらに書い給はず。




侍従に対しても、懲りずに、あはれなことを数多く書いて、お渡しになる。柏木は、直接対面して、もう一度言いたいことがある。とおっしゃるので、この人も、子どもの頃から、伺う機会があり、よく顔も始終見ている女なので、身分不相応な願いには、嫌なと思われもしたが、もはや、最後と聞くと、悲しくて、泣き泣き、小侍従は、女三の宮に、嫌ではございましょうが、この御返事は、お書きください。本当に、これが、最後でございましょう。と申し上げる。
女三の宮は、私も、今日か、明日かの気持ちがして、何やら、心細く、死ぬのは、可哀相ぐらいは思うけれど、とても、たまらないことと、こりごりしたので、全く、気が進まない。と、おっしゃり、全く、返事を書かない。











posted by 天山 at 05:59| もののあわれ第13弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月13日

もののあわれについて762

御心、本性の、強くづしやかなるにはあらねど、はづかしげなる人の御気色の、折々にまはならぬか、いと恐しうわびしきなるべし。されど御硯などまかなひて責め聞ゆれば、しぶしぶに書い給ふ。取りて、忍びて、宵の紛れに、かしこに参りぬ。




この方の、お気持ち、性質は、強く、重々しくしていらっしゃるという、わけではないが、ご立派だと思う、源氏のご機嫌の悪いさが、何かの時に、思い出されるのが、怖くてならないのだろう。それでも、小侍従は、硯などを整えて、是非にと、勧めると、しぶしぶながら、お書きになる。それを取って、こっそりと、夕方の騒がしい時を狙い、あちらに、伺った。




おとど、かしこきおこなひ人、葛城山より請じいでたる、待ち受け給ひて、加持まいらせむとし給ふ。御修法読経なども、いとおどろおどろしう騒ぎたり。




源氏は、優れた修験者、葛城山から頼み、出て来てもらったことを、お待ちになり、加持してあげようとされる。御修法や読経など、大声でやっている。




人の申すままに、さまざまひじりだつ験者などの、をさをさ世にも聞えず、深き山に籠もりたるなどをも、弟君達を遣はしつつ、尋ね召すに、け憎く心づきなき山伏どもなども、いと多く参る。わづらひ給ふ様の、そこはかと無く、ものを心細く思ひて、音をのみ時々泣き給ふ。陰陽師なども、多くは女の霊とのみ占ひ申しければ、さる事もやと思せど、さらに物怪の現れいで来るも無きに、思ほしわづらひて、かかるくまぐまをも尋ね給ふなりけり。




誰彼の言うがままに、色々聖めいた修験者などで、いっこうに世間にも名前が聞えず、深い山に籠もっている者でも、弟の若さま方を、遣わして、探し出して、呼び寄せになると、憎らしげな、面白くない感じの、山伏連中が、大勢やって来る。ご病状は、どこがどうと、はっきりするのではなく、何か心細く思い、声を上げて、時々、泣かれる。
陰陽師なども、多数は、女の霊だと占い、そういうこともあるかもしれないと、思うが、全く、物の怪で、名乗り出てくるものがないので、途方に暮れてしまいになり、このように人の知らない所までも、お捜しになるのである。




この聖も、たけ高やかに、まぶしつべたましくて、荒らかにおどろおどろしく陀羅尼読むを、柏木「いで、あな、憎や。罪の深き身にやあらむ。陀羅尼の声高きは、いとけ恐ろしくて、いよいよ死ぬべくこそ覚ゆれ」とて、やをらすべりいでて、この侍従と語らひ給ふ。




この聖も、背が高くて、目つきも、気味が悪く、荒っぽく、大声で陀羅尼を読むのを、柏木は、ああ、嫌なことだ。罪深い身なのだろう。陀羅尼を声高く読むのを聞くと、気持ちが悪く、ますます、死にそうな気がする、と、そっと床を抜けて、この侍従と話し込む。




おとどはさも知り給はず。「うち休みたる」と、人々して申させ給へば、さ思して、忍びやかにこの聖と物語し給ふ。おとなひ給へれど、なほ花やぎたる所つきて、もの笑ひし給ふおとどの、かかる者とせもと向かひいて、このわづらひそめ給ひし有様。何とも鳴くちにたゆみつつ、重り給へる事、「まことにこの物怪あらはるべう。念じ給へ」など、こまやかに語らひ給ふも、いとあはれなり。




父の殿様は、それとは、知らず、お休みになられました、と女房たちに申させたので、そう思い、小声で、この聖とお話をされる。年は取ったが、それでも、賑やかなところがあり、よく笑う殿様が、こんな連中と対座して、病気になってからの様子を、特に何ともなく、時々、良くなりながらも、結局、重くなることと、殿は、本当に、この物の怪が姿を現すように、お祈りしてくださいと、心を込めて、頼むことも、実にあはれである。

いとあはれなり
実に、気の毒である。




柏木「かれ聞き給へ。何の罪とも思しよらぬに、占ひよりけむ女の霊こそ、まことにさる御執の身に添ひたるならば、いとはしき身をひきかへ、やむごとなくこそなりぬべけれ。さても、おほけなき心ありて、さるまじき過ちを引きいでて、人の御名をも立て、身をもかへり見ぬ類、昔の世にも無くやはありける、と思ひなほすに、なほ、けはひ煩はしう、この御心に、かかるとがを知られ奉りて、世に長らへむ事もいとまばゆく覚ゆるは、げに、殊なる御光なるべし。深きあやまちも無きに、見合はせ奉りし夕のほどより、やがてかき乱り、惑ひそめにし魂の、身にも返らずなりにしを、かの院に内にあくがれありかば、結び留め給へよ」など、いと弱げに、殻のやうなる様して、泣きみ笑らひ給ふ。




柏木は、あれをお聞きください。何の罪とは、お気づきにならないが、占いの言った、女の霊こそ、本当に、女三宮の、憎しみが、この身についているならば、嫌でたまらない身が、逆に、恐れ多いものになるでしょう。それにしても、身分不相応なことを考え、してはならない、過ちを犯して、相手の評判も悪くして、自分のことを、捨て去った例は、昔もないではなかったと、考え直すが、どうしても、嫌な男として、六条の院に、こういう罪を知られてしまったということで、この世に、生き続けようというのも、顔を上げられない思いがするのは、いかにも、ご威光なのだろう。大きな罪でもないが、目と目を合わせた、あの夕方から、すぐにそのまま心が収まらず、迷い出した魂が、我が身にも、帰らなくなってしまった。あの院で、うろうろとしていたから、下前の結びを留めて、魂を止めてください。など、いかにも、弱々しく、抜け殻のように、泣いたり、笑ったりして、お話される。

柏木が、小侍従と話している様子である。








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2015年10月14日

もののあわれについて763

宮もものをのみ恥づかしう、つつましと思したる様を語る。さてうちしめり、面やせ給へらむ御様の、面影に見奉る心地して思ひやられ給へば、げにあくがるらむ魂や、ゆき通ふらむなど、いとどしき心地も乱るれば、柏木「今さらに、この御事よ、かけても聞えじ。この世はかうはかなくて過ぎぬを、永き世のほだしにもこそと思ふなむ。いとほしき。心苦しき御事を、平かにとだにいかで聞きおい奉らむ。見し夢を心一つに思ひ合はせて、また語る人も無きが、意味じういぶせくもあるかな」など、取り集め思ひ染み給へる様の深きを、かつはいとうたて恐しう思へど、あはれはた、え忍ばず、この人もいみじう泣く。




宮も、何かと、具合の悪い、肩身の狭い思いをしていられる、様子を語る。
そのように、沈み込んで、面痩せしていらっしゃる様子が、目先にちらつく思いがするので、本当に、身を抜け出した魂が、あちらに行き通っているのだろうかと、以前にも増して、心が乱れる。
柏木は、いまさらに、宮の御事を、口にもしない。現世は、このように、はっきりしないで、終わってしまったが、宮の往生の妨げにならないかと思うと、お気の毒だ。心にかかる出産、ご無事に済んだと聞いてから、死にたい。見た夢を勝手に思い、他に話す人もなく、酷くたまらないことだ、などと、何かと、心の中に考えている執念の深さである。
それを、恐ろしいこと、嫌なことと思うが、いっぽうで、死にそうな人への、同情が抑えられず、小侍従も、激しく泣くのである。

見し夢とは、猫の夢である。




紙燭召して御返り見給へば、御手も、なほいとはかなげに、をかしき程に書い給ひて、女三「心苦しう聞きながら、いかでかは。ただ推し量り。残らむとあるは、

立ち添ひて 消えやしなまし 憂き事を 思ひ乱るる 煙くらべに

おくるべうやは」とばかりあるを、あはれに、かたじけなしと思ふ。




紙燭を取り寄せて、ご返事を御覧になると、ご筆跡も、やはり弱々しく、だが、綺麗にお書きになり、女三の宮は、お気の毒に思っていますが、どうして、お伺いできましょう。お察しするばかりです。お歌に、残ると、ありますが、

御一緒に、消えてしまいたいと。辛いことを考えて、ちぢに乱れる心で、どちらが酷いか、比べるために。

生き残れましょうか。と、だけあるのを、心から恐れ多いと思うのである。




柏木「いでや、この煙ばかりこそは、この世の思ひ出ならめ。はかなくもありけるかな」と、いとど泣きまさり給ひて、御返り、臥しながら、うちやすみつつ、書い給ふ。言の葉の続きもなう、あやしき鳥の跡のやうにて、

行方なき 空の煙と なりぬとも 思ふあたりを 立ちは離れじ

夕はわきて、眺めさせ給へ。咎め聞えさせ給はむ人目をも、今は心安く思しなりて、かひ無きあはれをだにも、絶えずかけさせ給へ」など書き乱りて、心地の苦しさまさりければ、柏木「よし。いたうふけぬさきに、帰り参り給ひて、かく限りの様になむとも、聞え給へ。今更に、人あやしと思ひ合はせむを、わが世の後さへ思ふこそ、口惜しけれ。いかなる昔の契りにて、いとかかる事しも、心に染みけむ」と、泣く泣くいざり入り給ひぬれば、例は、無期にむかへ据えて、すずろごとをさへ言はせまほしうし給ふを、言少なにても、と思ふがあはれなるに、えも出でやらず。




柏木は、いや、この煙の歌だけが、この世の思い出。はかないことであった。と、ますます、泣かれて、ご返事を、横になったまま、筆を置き置き、お書きになる。文も続かず、筆跡も変で、鳥の足跡のようで、

行方もない、大空の煙と、わが身がなっても、思う方のお傍を、離れることはありません。

夕方は、とりわけ、空を眺めてください。咎めるお方の目も、私が死んだ後は、心配ないと、思われて、何もされないが、せめてあはれだけでも、掛けて下さい。など、乱れ書きして、気持ちが益々、苦しくなるので、もうよい。夜が更けないうちに、早く帰って、このように、臨終だったと、お耳に入れてください。今となっては、変だと、人が感づいたりしたら、死んだ後の事まで考えたりするとは、残念なことだ。いったい、どんな前世の約束で、こんな事が、心について離れないのか。と、泣く泣く、いざって、お入りになったので、いつもは、いつまでも前に座らせて、無駄話までさせるのだが、今日は、お言葉も少ないと、心が痛み、後かまわずに、帰ることも出来ない。




御有様を、乳母も語りて、いみじく泣き惑ふ。おとど等の思したる気色ぞ、いみじきや。「昨日今日、少しよろしかりつるを、などか、いと弱げには見え給ふ」とさわぎ給ふ。
柏木「なにか。なほとまり侍るまじきなめり」と聞え給ひて、みづからも泣い給ふ。




この有様を、乳母も話して、とても、おろおろと泣く。殿様なども、ご心配されて、大変である。昨日今日は、少しは良かったのに、どうして、すっかりと弱ってしまったのか。と、騒がれる。柏木は、いえもう、とても、生きられませんようです。と申し上げて、ご自分も、泣くのである。

柏木の家族たちの、様子である。

だが、その騒ぎとは別に、女三の宮は、子供を生む。
物語は、新しい段階に入るという、暗示だ。

その柏木の子が、また、物語の役となって、お話が進む。





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2015年10月15日

もののあわれについて764

宮は、この暮つ方より、なやましうし給ひけるを、その御気色と見奉り知りたる人々、騒ぎ満ちて、おとどにも聞えたりければ、驚きて渡り給へり。御心の内は、源氏「あな、口惜しや。思ひ交ずる方なくて見奉らましかば、めづらしく嬉しからまし」と思せど、人には気色もらさじ、と思せば、験者など召し、御修法は、いつとはなく不断にせらるれば、僧どもの中に、験あるかぎり皆参りて、加持まいり騒ぐ。




宮は、この日の夕方から、苦しみだしたが、お産だと分り、人々が騒いで、源氏にも申し上げた。源氏は、驚いて、こちらにお出でになったが、心の内では、ああ残念だ。疑わしい点なしに、お産のお世話ができれば、珍しく、嬉しいことだろうに。と思いになるが、他の者には、この気持ちを知られぬようにという思いがあり、験者などを呼んで、修法を、いつまでもひっきりなしにしているので、僧の中でも、しるしのある者は、全部参り、加持を大声でしている。




夜一夜、なやみ明かさせ給ひて、日さし上がる程に生まれ給ひぬ。男君と聞き給ふに、「かく忍びたる事の、あや憎にいちじるき顔つきにて、さしいで給へらむこそ、苦しかるべけれ。女こそ、何となく紛れ、あまたの人の見る者ならねば安けれ」と思すに、また、「かく心苦しき疑ひ交りたるにては、心安き方にものし給ふも、いと良しかし。さてもあやしや。我、世とともに恐ろしと思ひし事の報いなめり。この世にて、かく思ひかけぬ事にむかはりぬれば、後の世の罪も、少し軽みなむや」と思す。




一晩中苦しみて、朝日が差しあがった頃に、お生まれになった。
男君とお聞きになり、このような内緒ごと、困ったことに、はっきりした顔付きで、人前に出ると言うことになると、困ることだ。女であれば、何となく目立たず、大勢の人が会うのではないから、安心なのだが。と、思うが、一方では、このような困った疑いがあると、世話のいらない男の子のほうでも、良いことだ。それにしても、変なことだ。自分が一生を通じて、恐ろしいと思っていたことの報いであろう。この世で、このような思い掛けないことで、報いがあるから、来世での罪も、少しは、軽くなることだろう。

これは、源氏の思いである。




人はた、知らぬ事なれば、「かく心殊なる御腹にて、末に出でおはしたる御おぼえ、いみじかりなむ」と、思ひいとなみ仕うまつる。
御産屋の儀式、いかめしくおどろおどろし。御方々、さまざまにしいで給ふ御産養、世の常の折敷、衝重、高杯などの心ばへも、ことさらに、心々にいどましさ見えつつなむ。




女房のほうは、知らないことなので、このように特別の方を、母君として、晩年にお生まれになったお子への、寵愛は、大変なものだろうと思い、大事にお世話する。
御産屋の儀式は、堂々として、仰々しい。六条院の婦人方が、様々な違ったされ方で、御産養は、形通りの折敷、衝重、高杯などの趣向も、わざわざそれぞれの、競争心が、見えるのだ。




五日の夜、中宮の御方より、子持ちの御前の物、女房の中にも、品々に思ひ当てたるきはぎは、公事にいかめしうさせ給へり。御粥、中食五十具、所々の饗、院の下部、庁の召次所、なにかの隈まで、いかめしくせさせ給へり。宮司、丈夫より始めて、院の殿人上みな参れり。




五日の夜、中宮の御もとから、御産婦の召し上がり物、女房の中にも、身分身分に相当する物を、公式に堂々とされる。御粥、屯食五十人前、あちこちの饗宴は、六条の院の下男や、庁の召次所のような、下々の所まで、堂々となさり、中宮職は、丈夫をはじめとして、院の殿上人も、皆、参上した。




七夜は、内より。それも公様なり。致仕の大臣など、心ことに仕奉り給ふべきに、この頃は何事も思されで、おほぞうの御訪ひのみぞありける。宮達、上達部など、あまた参り給ふ。おほかたの気色も、世に無きまでかしづき聞え給へど、おとどの御心の内に心苦しと思す事ありて、いたうももてはやし聞え給はず。御遊びなどは無かりけり。




七日の夜は、主上から、御産養が、それも、公式に行われた。
致仕の大臣などは、特別にお役を勤めるのだが、このところ、気も転倒されて、一通りのお祝いだけがあった。宮たち、上達部などが、大勢いらした。普通の感じでも、またとなく、大事に差し上げているが、源氏の心の内では、困ると思うことがあり、取り立てて、大事には、されなかった。また、管弦の御遊びも、なかった。




宮は、さばかりひはづなる御様にて、いとむくつけう、ならはぬ事の、恐ろしう思されけるに、御湯なども聞し召さず、身の心憂き事を、かかるにつけても思し入れば、さはれ、このついでにも死なばや、と思す。おとどは、いとよう人目を飾り思せど、まだむつかしげにおはするなどを、とりわきても見奉り給はずなどあれば、老いしらへる人などは、「いでや、おろそかにもおはしますかな。めづらしうさし出で給へる御ありさまの、かばかりゆゆしきまでにおはしますを」と、うつくしみ聞ゆれば、片耳に聞き給ひて、「さのみこそは、思し隔つる事も増さらめ」と、恨めしう、我が身つらくて、尼にもなりなばやの、御心つきぬ。




宮は、あれほど、か弱いお体で、大変恐ろしい、はじめての出産が、怖く思われ、御薬湯なども、お召し上がりにならず、我が身の情けないことを、このようなことにつけても、考え込み、いっそのこと、死んでしまいたいと思うのである。
源氏は、見事に、表を飾りになっているが、まだ生まれたばかりで、気味の悪い、赤子を特別には、お相手しないでいる。年を取った女房などは、まあ、冷たくていらっしゃること。珍しくお生まれになったお子様が、こんなに、怖いほど、美しくいらっしゃるのに。と、可愛がる。宮は、それを小耳にして、こういうことで、他人扱いすることも、今後は、酷くなるだろうと、恨めしく、我が身を辛く感じて、尼になってしまいたいという、気持ちになられるのだ。



posted by 天山 at 06:08| もののあわれ第13弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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