2015年09月29日

玉砕72

インパール作戦中止を決めるまでの、二ヶ月間を前線の兵士たちは、倒れつつも、戦った。いや、斃れた者が多い。

その前線の兵士たちの様を、井坂氏が書き付ける。

「井坂、痛いよう。井坂、痛いようっ」
戦友の桜井が泣き出した。腰をやられているので横になることができないので、アンペラ壁に寄りかかったまま寝ていたのだ。
彼の左腕は腫れて腐ってきた。包帯は膿でよごれ、蝿と蛆が追っても取っても、湧いてでるようにうごめいていた。ガス壊疸は、私にはなんとも手のほどこしようがない。はやく腕を切断しなければ、死を待つばかりだ。
食料がないというのに、病舎のまえには野性のマンゴーが鈴なりに黄色く熟していた。だが、だれも落とすことができない。
死ぬ前に戦友たちに食べさせてやろうと、私は左手で棒切れを投げつけてみた。小粒のマンゴーが、パラパラと落ちた。五名くらいが這ってきてひろいはじめた。
「いいか、分けてやれよ。一人で食ったらぶん殴るぞ」

ある日、便所から帰ったとき、
「いま、肉を売りに来た兵隊が、金がなければ物交でもいいといってたんだ」と一人の患者が言う。
「肉なんか、なんでいまごろ、あるはずがない」
「ほんとうに来たんだ。なにもないと言ったらかえって行ったんだ」
不吉な予感がした。だれか兵隊の肉を、と話そうとしたとき、蒼白な顔をした兵隊が、遠くから大声をだし、
「川に、たおれた兵隊の太股が切り取られていた!」
連呼しながら、よろよろ近づいた。
「死んでいる兵隊か、生きている兵隊か」
「わからないが、死んでいた」
「肉売りの、さっきの兵隊、どっちへ行った!」
「わかんない」
「どこの言葉だ」
「茨城弁じゃなかった」
やっぱりそうか、われわれ弓兵団がやるはずがない。全身が怒りでふるえだし、私はしゃにむに小銃を持ってかけだした。べつの病舎をまわったが、病院からはすでに姿を消していた。
帰ってみると、桜井が静かになっていた。水筒の水を口に入れてやるのだが、思うように飲む力もなかった。他の兵隊と違い、見取ってやれただけよい方だろう。やがて、帰らぬ人となってしまった。
「桜井、楽になってよかったなあ・・・。もうこれから二度と苦しむことはないんだからなあ」
私は一人つぶやいた。7月4日の昼ちかく、衛生兵に連絡し桜井を埋葬してもらった。

前線の兵士たちは、作戦中止を知らない。
それが、悲劇と、悲惨を益々、生むことになる。

パレル東北方高地の味方のようすなどつゆ知らずに、7月5日ころ、私は中隊に復帰しようとテグノパール付近にさしかかった。一日もはやく孤独から解放されたい、生きるも死ぬも中隊員とともにと、ひたすら急いだ。
今振り返れば不思議な心境であった。おなじ友軍同士でも、他の部隊の兵では安心できない心理状態になっていた。これを現代の人にはどう説明したらよいのだろうか。
テグノパール付近を退いてくる兵隊は、軍人でもなく青年でもなかった。軍衣袴はやぶれて泥にまみれ、軍靴は形がくずれ、飯盒ひとつを腰にさげて杖をついている。髪はのび放題で目は落ち窪み、肌は人間の色ではなかった。
あるとき、路傍にたたずむ兵隊に手をかけると、そのままくずれ落ち、すでに息絶えていたのであった。部隊から一人はなれたのみの兵隊は、数日後には白骨となって名前も分らなくなるだろう。

当時、われわれを悩ましたのは、英印軍ばかりではなかった。雨期の雨は炊事用の薪をぬらし、簡単にはマッチでは火がつかず、黒色火薬や棒火薬を手に入れて、ようやく火を起こした。

身体のよごれと湿気と暑さで皮膚病が発生し、皮膚の吹き出物のうえに一つの字の線が浮き出て、そんなところから、だれいうとなく、一文字皮膚病と名がついた。

さらにマラリアは四十度からの高熱をだし、草食の胃腸は衰弱し、やがて血便から粘液便となり、赤痢が蔓延した。食糧の欠乏は、死相の顔をおびただしくつくり上げるばかりだった。

ある日、北方の道路上を警戒していた歩哨から報告がはいり、英印軍一個小隊50名の進出を早期に発見した。ねらいさだめて待つわれわれ七名は、悲壮な覚悟でこれを迎えた。敵は二列で道路上をこちらに近づいてくる、インド兵の黒い顔が大きくなる。われわれは軽機の発射を合図に、いっせいに射撃を開始し、敵に発砲の余地をあたえぬほど銃弾をあびせて、数人を倒した。
いったん退却した敵は、態勢をととのえるとすぐさま反撃してきた。はげしい撃ち合いの中で、戦死傷者を収容した敵は、ついに後退し、来た道をもどっていった。わずか七名で撃退したわれわれは、自信と誇りを感じ、意を強くしたことはたしかだった。

陣地を確保している隊員の中にも、極度の栄養失調にともない、マラリア、下痢、脚気におかされ、動けなくなる者が出た。彼らは濠の中でうずくまり、苦しんだ。陰険な状況の中で、重要な高地を守る兵士七名は、そのうち三名は動けず、四名で守ることになってしまった。

患者を後方へ退けることができないのだ。後方から傷病兵を迎えにくるなどは、夢の中の話しだった。ここでは入った濠をわが墓穴とするほかに、なんの方法もない。この濠が自分の墓と考えると、無性に目の前の土がいとおしくなり、私は濠内の土を手でなでた。
やがて、口をきく力もなくなった戦友にしてやれることといえば、水を少しずつ流しこんでやることだけだった。暗闇に降る雨の音を聞きながら、濠内で銃を抱きしめまどろんでいると、突然、ズダーンという爆発音がひびいた。不覚をとった、敵襲かと銃をかまえたが、それはあわれにも苦しみを断つための手榴弾自決だった。

死人のように動けない身体で、深い濠からどうやってはい上がれたのだろう。二十メートルも木立の間をはった跡が、どろどろの土の上に残っていた。
故郷の家族につたえてほしいこともあったろう。戦友にも一言お別れもいいたかったろうに、一人で先に逝くその悲痛な気持ちはいかなるものか。戦友隊員を負傷させまいと、全精神力で何時間かをついやして濠をはなれ、みずからの生命を断ったのである。

自決は一人では終わらなかった。亡くなった戦友を埋葬しながら、
「楽になって、よかったなあ」
「死んだほうが、よっぽど極楽だろう」
亡き戦友に語り掛け、生きる苦しみに涙した。

更に、
クデクノーにたいする敵の反撃は増大し、ついに温井部隊はチャモールに撤退し、ここレータン西方高地が第一線となった。後方からの連絡もなく孤立し、7月24日の英印軍の総攻撃まで死守をつづけ、後衛尖兵の任務をまっとうしたのである。

インパール作戦が終わっても、ビルマ戦線は、終わらない。
敗戦まで、戦うのである。






posted by 天山 at 06:33| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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