2015年09月28日

玉砕71

インパール作戦は7月5日に中止ときまり、総退却となっていた。我々第一線の者は大局の戦況などなにひとつとして知ることもなく、みずからの肉体をもって防戦につとめていたのである。
井坂

責任の所在なき、インパール作戦であった。
前線の兵士たちは、7月に中止と決まりとあるが・・・
実際は、その二ヶ月前に、中止が決められていた。

その二ヶ月間の間・・・
悲劇が更に、悲惨を生んだのである。

強行に作戦を指示した、牟田口司令官と、河辺司令官の、二人の司令官は、5月に、おおよそ作戦中止を暗黙のうちに、決めていた様子である。

すでに、第三十一師団は独断撤退に踏み切っていた。
事実上、作戦の失敗が決定的になっていたのである。
ただ、司令官たちは、優柔不断だった。

その、二ヶ月間、前線の兵士たちは、悲惨な戦いを強いられていたといえる。

インタンギーの司令部にて、両司令官が、作戦中止を決定していたら、戦死者の数は、減っていたはずである。

両司令官は、4月には、作戦の失敗を認識していた。
しかし、正式な作戦中止は、7月に入ってからである。

6月22日、コヒマーインパール道が、連合軍により、突破され、1000両もの、戦車、自動車が、インパール平地に進出してきた。
この事態が、ついに、牟田口司令官に、作戦中止を決意させたという。

6月末、ビルマ方面軍から、南方軍、そして、大本営へと、戦局の重大転機であるという、報告が入る。7月1日、インパール作戦中止の上奏がなされ、大本営は、作戦中止を認可したのである。

ガダルカナル以上の被害を出した、作戦である。

日本軍は、10万人以上で、そのうち、戦死者は、3万人、負病者は、4万人とされている。
イギリス側の戦死、戦病者は、1万7000余名である。

これは、インパール作戦だけの、犠牲である。
ビルマ戦線を総括すると・・・

撤退の道が、白骨街道と呼ばれた。
第三十二師団のみならず、残りの二師団も、敗走が始まった。
兵士たちは、疲弊し切って、チンドウィン河に辿りつくまでに、次々と倒れ、インパールから、ビルマの山々、谷、街道には、おびただしい、日本兵の死体が、横たわった。

証言
本山孝太郎少尉の部隊は、フミネまで夜間行軍で退がってきたが、そこからは、昼間歩くことにした。
山間の小道の光景は、いやがうえにも、目に飛び込んでくる。
木陰、岩陰には、死体が、かたまって、並んである。

ボロボロの軍服を着た白骨に、別の白骨が、もたれかかり、その上にまた、別の死体がもたれかかっている。
三つ目、四つ目の死体になると、死んで間もないため、まだ内蔵が残って、蛆が湧いている。
蛆は、死体の腹の上に、山のようになって動いていた。
死体は、一ヶ所に、20くらい並び、多いところは、30以上も、集まっていた。

そして、生きながらえた者たちも、異常な心理状態になり始める。
本田少尉の話し
「こういうことはあまり言いたくないんですが、皆、人間性をなくしていましたね。フミネでわずかでも、二合でも三合でも、カビのはえた米でも交付を受けています。
ところが、皆が同じような状態ならそうはならないんですが、健康状態に差がありますでしょう。そこに、強者と弱者が出てくるんです。元気な者は「もう少し食いたい」ということで、掠奪、強盗が始まったんですよ。だから、ここからはそれこそ地獄街道ですわ」
責任なきインパール NHK取材班

食べ物は、勿論、衣服や靴、薬などが、略奪された。
死んだばかりの兵隊、あるいは死にそうな兵隊の肉を剥いで、食った者もいたという。
飢えと、病と、雨、敵の追撃、平常な神経ではいられなかったのである。

また、悲劇は、自ら、命を絶つ者が続出した。
小銃で、手榴弾で・・・
自殺は、夕方に多かったという。

本田少尉の部隊は、120名いたが、48名になっていた。
だが、戦闘で死亡した者は、4名である。
あとは、皆、病死、餓死である。

悲劇が極まり、悲惨となり、そして、最後は、罪になる。
一体、誰が、その罪を引き受けるのか・・・

追撃した、イギリス軍も、日本軍の惨状を見ている。
部隊長だった、ジョン・ナナリー少尉の証言。

部隊はディマプールから、まず戦闘が終わったばかりのコヒマに到着した。丘には、一本の木も残っておらず、補給用のパラシュートがあちらこちらに散乱していた。息をしているものは何もないと思われるほど、荒涼とした景色だった。
そこからトラックを使ってパレルを経由してカボウ谷地に入り、タムに向った。タムで日本軍の野戦病院跡を発見した。草でできた小屋がいくつか並んでおり、小屋の中の簡易ベッドには、400人以上の日本兵の死体が残されていた。死体は軍服を着て包帯を巻いていたが、血の染みた包帯がほどけてベッドや地面に放り出され、まだ残っている人肉をウジや蟻が食っていた。ひどい死臭が漂っていた。
その死体のかたわらには、兵士の妻や子供、恋人の写真、富士山や桜の花、梅の花の絵葉書、そして日記帳などが落ちていた。今際の極みに、思いたち難く眺めていたと思われた。胸が締め付けられるような光景だった。
タムからカレワまでの道には、数メートルごとに日本兵が倒れていた。中には何とか逃げようとし、小銃を杖にして力を振り絞る者もいたが、やがて力つきて死んでいった。道のかたわらの川に、日本兵の死体がたくさん浮かんでいる光景も見た。川岸には、白骨化した死体や死んだばかりの遺骸が並んでいた。
死体は、ジャングルや道や小屋やトラックの中や、ありとあらゆる所にあった。腐敗ガスで腹がふくらみ、ぞっとする臭いがした。
タムから数十キロ南の村で、はじめて生きている日本兵に出会った。村はずれにほこらがあり、その中の仏像の足元に、裸の日本兵が倒れていた。痩せこけて骨と皮だけになっていたが、生きていた。空になった水筒しか、持っていなかった。簡単な担架を作って後方の医療部隊に運んだが、間もなく死んだという。
途中、何度か日本軍の反撃にあって、戦闘が行われたが、武器も体力もなくなっていた日本軍には、勝ち目はなかった。
NHK取材班





posted by 天山 at 07:08| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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