2015年09月25日

玉砕70

「撤退するよう、伝令がきました」
山中が、私の足もとまで這い上がりながらいう。突撃頓挫だ、失敗ではないか。
「お前、先におりろ」
私は、後ずさりでゆっくり下がりはじめた。東の空だけがいくらか白くなってきた気がする。敵は勝ち誇っているのか、恐ろしいのか、ますます撃ってきた。
私は右腕から手首に冷たさをおぼえ、手を見ると赤黒く血が見えた。右肩に手をやると、上衣の上から指が肩の傷口へ入った。しだいに右手がしびれ、左手に銃を持ち替え高地をおりた。

6月18日の黎明攻撃は不成功に終わり、私は午前五時三十分、敵と友軍両軍の手榴弾片をあびて負傷してしまった。

病気や、負傷した兵士は、更に、悲劇である。
ただでさえ、何も無い中で、堪えるしかなくなる。
更に、心理的な重荷である。

隊の邪魔になると、自爆する者もいる。

夕暮れを待ち、戦友の桜井上等兵と病気の患者あわせて五名で出発することになった。野戦病院のあるモーレまで歩かなければならない。中隊長は小指だけの負傷だったが、われわれといっしょにさがるのだろうか。連隊本部に報告のためにいくとも聞いた。
山田准尉が、優秀な伝令の川崎芳夫上等兵を、中隊においていただきたいと頼んでいたが、どうなったのか、彼の姿は中隊長とともになかった。

薄暮となり、患者だけが歩き出した。クデクノーに進出してきた道を、傷ついたからだで引き返さなければならない。桜井も病人も一本の杖では心細かっただろう。敵に暴露した道路には、間断なく砲弾が全行程にわたって落下している。途中、遮断する適当な山も無い。深い谷へ下りられるような患者たちではない。夜が開ければ敵機と砲撃で歩けなくなるので、中谷山までは急がねばならない。

「さあ、行くぞ、がんばって」
傷病者たちは、のろのろと動いては休む。だが、永く休むとこんどは立てなくなる。
「がっばって、がんばるんだ、早く」
何度繰り返した言葉だろう。
「歩けないから休んで、後から・・・」という。
「休んだから立てなくなる。一人だけ置いて行けるか、がんばれよ」
励ましながら二、三十メートルずつ歩かせたが、とうとう動かなくなった。
「他の物は少しでも、先にいってくれ」
一人また一人と、散り散りに歩いていく。
「このあたりは敵の斥候が出るところだ、早く」
それでも立とうとしない。
「先にいってくれ、死んだ方が楽だもの」
たしかにそうだ。ここでは生きるほど苦しいことはないだろう。しかし、隊員を置き去りにしたと、なんで報告ができよう。そのままにして先へ行ったら、手榴弾で自爆するのはまちがいないだろう。

これが、日本軍兵士の悲劇だった。
撤退と、敗走の道ほど、彼らを苦しめたものはない。
そして、生きようとしたが・・・
途中で、斃れてしまう。
白骨街道とも、靖国街道とも言われた、徹底の道。

みんなは痛々しいほどに痩せた足をひきずって前進する。五十メートルもつづけて歩けず、口々に、
「休ませてくれ、少し休ませて・・・」
涙声で哀願され、山かげまでいきたかったが、この付近で休憩することにした。一軒屋高地のふもとを直角にテグノパール方向にまがると、まもなく左のくぼ地に小屋を見つけた。路面と床が平らなので、雨のないところで休ませようと、竹の床に腰をおろそうとした。
そのとき、とつぜん、ふって湧いたように敵のいっせい射撃をうけ、屋根と床下を弾がつきぬけた。敵はちかい。ダダダーン、パパハンパパパン、と軽機と自動小銃を暗闇から撃ちつづけている。
「はやく道路へでろ、捕まるぞ」
小屋と路上にまたがり、四人を急がせた。
「静かにはやく」
・ ・・
敵は一軒屋高地のふもとのまがり角から撃ってきたのだ。五分も遅れていたら、われわれはちょうどあの位置だったと思うと、冷や汗がでた。二、三十名の敵が谷づたいに威力偵察にきたのだろう。英印軍も遠いところまで夜間行動をはじめたものだと思った。

その後も夜明けまで歩きつづけた。谷が深くて入れないので、歩きながら取って雑嚢へ入れてきたわずかな野草を、飯盒一つ分を煮て五人でわけて食べた。患者をみながらの行軍というのは、自分の肩の痛みもあり、これほど大変なものかとつくづく思った。

やがてテグノパールから、患者にばかり気をとられていつ渡ったのか気づかぬうちに、シボンの鉄橋を越えた。そしてついに四日目以上もついやして、やっと野戦病院についた。

全員を衛生兵にひきつぎ、ひと安心と思ったが、不安はつのる一方だった。見れば、山の中に転々と壁のない屋根だけの小屋が見える。そこには地上に負傷兵と病人が一杯転がっているのだ。彼らはほとんど歩けない者たちで、新しい包帯をしている者はなく、あっちこっち叫び声と泣き声があがっている。
「水、水をお願いします」
「痛いよう、痛い」
「衛生兵殿、包帯の交換をお願いします」
「傷の蛆を取ってください。痛いっ」
傷口から腐った手足、汗の臭いと大小便の臭いがすさまじい。傷からこぼれ落ちる蛆、肉の中に食い込む蛆がおびただしい数だ。竹でつくったピンセットがあるのだが、自分で取れる者は少ない。
「となりの戦友が死にました」
衛生兵を呼んでやると、死体を二人で運んでいった。私も右肩の傷を四日間も治療しなかったので、その場で治療をうけた。

やがて食事を衛生兵が配りはじめたが、取りにくる者はいない。米粒がわずかにのぞいた水のような食べ物を、ちかくの兵に配ってやった。もちろん副食もない。塩味だけの飯盒の蓋に一杯で終わりだ。これでは負傷兵の体力回復どころではない。・・・

傷が悪化して動けない兵隊や、病兵の身体の下には血便が散乱し、手も胴もその地面にすりつけるようにしてうごめいている。もはや死ぬこともできない兵隊は、体のほんの一部がかすかに動くだけで、目を細くあけて、私を見ているようだ。蝿がぎっしりと並んでその目をなめていた。

これは、いったいどういうことだ。命令一下、勇敢に戦った第一線の兵に対する軍の待遇と処置はこれか。
「牟田口の野郎、師団長まで更迭して、どこへ隠れていやがる。日露の二○三高地をいまごろさせて、自分でやってみろ」
私は、怒りに燃えておもわず口走りながら、水のような食事を配り、自分でもすこしずつ飲んだ。兵隊は軍の上層部をうらんで死んでいった。山本兵団長の姿も見たことがなかった。おそらく横穴にもぐったきりなのだろう。

この情景は、戦場の至る所で、出来た光景である。

ニューギニア戦線の、ビアク島などでの、洞窟でも、同じような光景が広がっていた。
この作者は、思わず、兵隊は、軍の上層部を恨んで死んだという。

同感する。
現場に出ることの無い、軍の上層部・・・




posted by 天山 at 06:12| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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