2015年09月16日

玉砕69

わが軍は砲の援護射撃もなく白兵戦でのみ攻撃した。そのため、敵の陣地には無数の友軍の死体がかさなったという。攻撃に失敗した大隊長は、林兵団長に、
「生きて帰るな、死んで来い」と殴られ、罵声をあび、辱めをうけた。
「わが生きることは、部下を死なせるばかり」と、再度の突撃には敵前で大手をひろげ、大隊長は敵の銃弾を立ったままうけて倒れふしたという。
攻撃不成功の状況で日が過ぎ、五月十日、一夜にして敵は陣地を撤退し、敵兵の姿が消えた。
私は中隊が移動するのを知り、退院を願い出た。病院では後送するといわれたが、中隊とともにインパールへ行きたいと懇願し、多量の薬を受領した。四十日間の入院は長かった。同時に発病した松岡友治上等兵、茂呂一郎一等兵は病死した。

インパールへ行く前から、このような状態だった。
それが、インパールへの道のり、そして、敗北、更に、敗走の悲劇である。

英印軍がチンドウィンに河西岸近くまで進出していたころ、大十五軍司令官牟田口中将は、各師団長の意見をしりぞけ、三週間の糧食弾薬で、四月二十九日の天長節までにインパールを占領すると豪語した。
だが、その日はすでに過ぎ、五月中旬になっていた。各部隊は英印軍をアラカン山系に追撃したが、すでに食料弾薬の欠乏と兵員の布告に苦しんでいた。
わが第二百十三連隊主力の第二大隊は、歩兵団長山本少将の指揮下にあり、モーライク北方からウェーク、タム、モーレを攻撃、パレルに向い、アラカン山系の峻険な山頂に構築された堅陣にたいし、一山ごとに肉薄攻撃による熾烈な戦闘をつづけていた。また、第一大隊の主力は、いまなお遠くカラダン方面で、「ハ号作戦」に参加しており、悪戦苦闘中だった。

わが第三十二師団は第二百十三連隊をはじめ、第二百十四連隊、第二百十五連隊とも、全滅にちかい打撃をうけたにもかかわらず、五月十三日、牟田口軍司令官は戦闘指令所を第三十三師団の後方にすすめ、直後、師団の指揮をとった。

こうした状況下、私たち第一中隊と機関銃小隊は、連隊追及の強行軍をはじめた。
イエウからムータイクの間は、連日の雨で道路は泥濘と化して、兵隊たちはトラックからおりて歩くという状況であった。ボンネットの短い車が動かなくなった。シボレーとトヨタが健闘したが、ついに車をすてて、泥の道を行軍することになる。

敵機の襲撃は増加の一途をたどり、昼をさけて薄暮から屋明けまで行軍をつづけた。雨天のさいは敵機が飛来しないので、昼夜不眠で前進する。背嚢がたいせつな兵は天幕でつつみ、身体は汗と雨水でびしょ濡れとなった。乾かぬ体のまま谷間でしばしの眠りについた。
そうした連日の行軍で疲れたころ、第一線から負傷兵が退いて来るのに出会った。日ごとにその数は増し、その様はあまりにも哀れであった。

患者ばかりがひとかたまりで来る。その一団からも離れ、一つまた一つと杖をつき傷ついた足を引き摺り、のろのろとよろけながら動かぬ自分の脚を見ては立ちすくんで、ぼんやりと前方を見つめる兵隊がいる。その間を通り抜け、がんばれよと声をかけてやるが、前線へ向うわれわれの出来るかぎりのことであった。

前線の模様は悲劇的なことばかりが耳につき、暗い雨期の雨とともに、われわれの心まで暗くした。

自分たちが、出掛ける場所から、戻る兵士たちを見て、哀れに思う。
つまり、それは、明日の我が身の姿なのである。

ビルマ戦線の撤退ほど、悲劇的なものはない。
また、インパール作戦の敗走の様である。
未だに、ミャンマー、タイ国境地帯には、彼らの遺骨が眠る。

撤退の道は、タイ、チェンマイの野戦病院へと、至る道である。
チェンマイ郊外の地では、今も、日本兵の遺骨が出るという。

「牟田口が師団長まで更迭した」
「突撃すると、中隊は全滅した」
「敵陣地を占領しても、砲爆撃で濠が掘り返されてしまうんだ」
「食べるものがないんだ。戦うにも兵隊がいない」
後退していく兵はいう。しかし、われわれは命令であれば火の中へも行くほかはない。兵の命は羽毛よりも軽し。最後の散る場面をいくどとなく想像した。

戦記を先に進むと、悲惨のこと多々あり。
しかし、その悲惨さが、戦争である。

カラダンを出発したとき百数十名あった中隊員は、モール空挺部隊の攻撃をへて、現在七十余名がなにも知らず、地獄の入口へと進んでゆく。そして戦い敗れ撤退するとき、ふたたびこの橋を渡れたのは、わずか二十名たらずであった。

それでは、話しを進めて、インパールにての様子である。

16日の薄暮、山砲の支援をうけたわれわれは四四九二高地に突入占領し、独立速射砲隊が確保した。部隊はさらにパレルに向って進んだ。
わが第一中隊は先発し、ランゴール付近に到着した。敵情を山上から偵察し、濠を掘りつつ陣地を確保して、パレル方面をはじめて見た。なんと遠かった道のりか、だれもが無言で見つめるインパール平野だ。・・・

やがて、この陣地も一斉射撃をうけるのか、日一日と弱る身体を思い、戦わずして全滅するよりは、敵中へ斬り込んで死にたいと、だれもが真剣に考えた。
各個濠などどれほどの効果があるだろうか。防空壕のような陣地濠など掘る余裕も気力もなかった。

いよいよ米も底をついて、なにも食べるものがない。やがて草と木だけを食べ飲んだ便は、血便になってしまった。脚気、マラリア、赤痢の併発者が多くなり、医療品など皆無のわれわれは、下痢をとめたい一心で炭をかじった。
一両日はさいわい敵に発見されなかったが、ときをへずして、敵の斥候が麓に進出し銃声が起こった。

6月17日の夜、防音装置を完全にして、静かにジャングルの谷を前進する。数時間後だれが死に、だれが生き残れるかなどとは考えなかった。ただ歩いているあいだは、なんとなくホッと気が休まる。このときまでに中隊員は、何人かが病気と栄養不良でたおれ、三十数名にへっていた。

ここにいたっては雑念も起きない。思考力低下のせいだろうか、それとも戦闘をかさねた結果だろうか。ただはっきりしていることは、生きるのを許されない状況と、長くは保てない体調を考え合わせ、遅かれ早かれ死ぬと決めていたことだった。

これが、当時の戦争である。

物資の補給を徹底して考えなかった、無謀な作戦、インパールだった。
戦争という、全体主義の考え方の、只中で、兵士たちは、ただ、黙々と、死ぬことを覚悟して、戦闘行為を続ける。

何にせよ、実に、憐れな事である。








posted by 天山 at 05:54| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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