2015年09月15日

玉砕68

当時、日本陸軍の指導者たちは、早くから、インドに目を向けていたと言う。

インドへの進攻で、戦況を好転させるというものだ。
大本営は、昭和17年の、21号作戦の立案で、はじめてインド進攻を、作戦として、具体化した。
その後、昭和18年3月、東条陸相が、河辺ビルマ方面軍司令官との間で、インドへの働きかけを念押ししている。

その昭和18年、日本は、インド進攻を推進すべき状況に置かれた。
つまり、太平洋方面では、ガダルカナル島を攻略した、米軍が攻勢に転じている。

5月には、アッツ島、8月に、キスカ島を奪回。以後、11月には、中部太平洋の、マキン、タワラを占領される。

この太平洋での、米軍の反攻作戦は、日本の資源輸送を脅かして、国内の工業生産力は、日増しに、低下していった。

悪化する、戦局を打開するため、首相になった東条は、太平洋とは反対の、ビルマに目を向けた。

ビルマをテコに、イギリスの屈服を図るというものである。
それを、実行するため、8月1日、パー・モーを首相として、ビルマを独立させる。

更に、この頃、独立運動に動いていたインドを、刺激し、イギリスの戦略に揺さぶりをかける狙いである。

インド独立に関しては、別の工作も行われた。
インド国民軍の結成である。

それは、昭和16年12月に始まった、マレー進攻作戦の際に、大量に捕虜にした、インド兵たちを懐柔し、インド独立を国外から目指すために結成させた、インド人部隊である。

日本の軍司令部は、インド国外に亡命している、独立運動家、チャンドラ・ボースを日本に招き、インド国民軍を母胎とする、自由インド仮政府を組織させた。

7月には、シンガポールで、インド独立連盟大会が開かれ、東条首相は、チャンドラ・ボース総裁と共に、インド国民軍を閲兵した。

インドを圧迫するための戦略を進める東条にとって、インパール作戦は、その突破口を開くものになる。

8月に、大本営が、作戦準備の指示を出したのは、こうした動きからである。

更に、11月、東条は、フィリピン、ビルマなど、アジア諸国の首脳と共に、チャンドラ・ボースを東京に招集し、大東亜会議を開いた。
これは、最初のアジア会議である。

大東亜共栄圏内の、アジア諸国が一致して、連合軍に立ち向かうというものであり、民族の独立を死守しようとするものである。

インドの、チャンドラ・ボースは、後に、インド独立の父として、英雄と讃えられることになる。

ただ、そのインパール作戦は、あまりにも、犠牲が大きかったのである。

更に、無謀な作戦であった。

27日、インドウの武兵団司令部が敵の急襲をうけ、中隊に急遽、出動命令がくだった。夜間の強行軍で夜明けに山下大隊とともにインドウに赴いた。到着と同時に分隊長は、私の下痢のはげしさを見かねて、診察をうけるようにと言われ、橋本佐内戦友と兵・病院の診察をうけた。二人ともアメーバ赤痢で、翌日入院させられた。
これで二度目の入院になるが、どうしようもない。軍医でいる時間がないほど、日に三十数回もの血便と粘液便になやんだ。腹痛がひどく、キリキリと腹の中をえぐりとられるようだった。

入院して数日後、病院の向かい側高地の山林内で、とつじょ、機関銃の発射音がした。敵の進出はここまでおよんでいるのだ。
すぐに小銃を持ち、かた手で痛む腹を押さえて配置についたが、銃撃は一回だけだった。山林方向を透視したが、敵影も発見できず物音もなかった。
一刻が経過して爆音があり、やがて敵機が焼夷弾の投下をはじめた。さきに銃声のあった付近に落下傘がいくつも落ちて燃え出した。

乾期の山林は推積した木の葉と枯れ枝がおびただしく、類焼の危険を感じた。みるまに燃え広がり、とつぜん、大音響を起こした。ダダン、ズドン、ズズンとものすごい爆発だ。とたんに、破片がわれわれのまわりに飛んできた。

まさに陣地が爆撃と砲撃を同時にうけるのと同じだった。堅固な防空壕に破片がつきささり、そのまま落下する大小の砲弾まであり、三時間も誘爆を起こし、赤い炎と煙が上空にたちのぼった。
英印軍の斥候が、わが軍の弾薬庫を発見して報告し、爆発炎上させたのだが、日本軍陣地内に深く進入したのは、敵ながら天晴れだと思った。これで友軍は菊十八師団はもとより、第十五軍のインパール作戦などにも重大な影響をおよぼすことになったのだった。

この、マンダレー付近の戦闘は、ビルマ戦線、インパール作戦に深い影を落としたのである。
それほどに、激しい戦闘だった。
作者が、その生き残りであり、書き残す意義が多いにある。

3月30日、私が入院後、第一中隊は山下大隊とともにインドウ飛行場を攻撃し、これを奪還したが、矢口晴信曹長が戦死した。そしてインドウ湖ちかくの掃討作戦では本山清伍長が戦死した。・・・

3月31日、中隊はモール陣地の死守を命じられた。激しい砲撃、銃爆撃のあと、地上軍の猛攻は数度におよび、部隊はそのつど撃退し、敵に多大の損害をあたえたが、わが中隊もまた、増田少尉戦死のほか多数の負傷者をだした。
そのさい、中隊長は濠にもぐったまま動かず、各陣地は混戦になった。各個の連絡もとれず、増田少尉は戦死、各部隊でも負傷者が続出した。

四月上旬に武兵団が到着し、病院付近から前線へ出て行った。第一次総攻撃、第二次、第三次攻撃も成功せず、そのたびに甚大な損害をうけて、戦傷者が血だるまになって、ぞくぞくとトラックで運ばれてきた。

負傷者の話しによれば、突撃直前に照明弾を上げられ、突入すると各種自動火器によるいっせい射撃をうけ、さらに接近したところを火炎放射器で焼かれ、攻撃のたびに大きな損害を出したという。

激戦の場所、マンダレーである。
そして、今は、追悼慰霊の場所となる。


posted by 天山 at 06:14| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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