2015年09月12日

玉砕66

さきに撤退した英印軍は、兵器、弾薬、兵力を補強して、ふたたび攻勢をとり南進を開始した。
兵力は第十五軍団で、第一線に第五、第七師団、第二線に第二十六インド師団が配置についた。昭和19年1月はじめには、第七師団にブチドンを、1月9日、モンドーを第五師団に占領された。

昭和19年になると、戦況は、日本軍に不利になる過程である。
イギリス軍は、物量の補給を完全たらしめた。
逆に、日本軍は、補給を考えていないのである。

兵士たちにとっては、大変な戦争の現場になった。

われわれの前面では、一月中旬、第八十一西アフリカ師団がダレトメにたっし、カラダン河谷を南進中で、ちょうどこのころ、私は山中の陣地を確保していたのだった。
陣地についてから十日の一月十二日、中隊から二名の連絡兵が到着した。斎藤伍長がまたおとずれ、陣地引き上げ命令が伝えられた。二人の顔は真剣でひきつっていた。状況は一刻を争そうことがうかがわれた。西アフリカ師団は、ダレトメよりパレトワに南下したのだった。

命令を受けた小隊は、ただちに陣地から下山し、強行軍になった。帰りは往路からはなれた山中に入る。敵がさきにパトワレからカラダンに進出すれば、われわれの出口はなくなり、パレトワ北西部の山奥に孤立か置き去りになって、万事休すだ。連絡兵と合わせて十三名では、大部隊を相手に戦いようもない。小隊長があわてたのもうなずける。敵との衝突を避けるため、けわしい山岳の地形を昼夜踏破することになった。

強行軍につぐ、強行軍である。
だが、これは、序の口である。
これは、まだ、ビルマ戦線の辺りだ。

すでに12月25日、第二中隊は第四中隊、第一機関銃中隊、大隊本部とともにカラダンからトングバザー攻撃に出動し、わが第一中隊と第三中隊が、カラダン地区にあって文壇行動をおこなっていた。
これよりさき、弓兵団の第二百十三連隊主力はインパール作戦に参加のため、昭和18年6月末、アキャブからタウンジーに移動し、師団のもとにあり、われわれは第五十五師団騎兵第五十五連隊長の指揮下にあった。

師団の下に、それぞれの連隊があり、そして、大隊、中隊などがある。
素人には、とても、分りにくいものだ。

昭和19年1月21日、西アフリカ師団との交戦により飯島幸三郎、佐々木千代治上等兵がパレトワ北方八キロの地点で戦死した。佐々木上等兵は1月9日、われわれと山中陣地でわかれてから12日目の戦死だった。
翌22日には、パレトワ南方三キロのカンワで鈴木順光上等兵が、25日には同じくカンワで小林幹雄兵長、渡辺幸一一等兵が戦死した。

第一中隊は第三中隊とともに、川島部隊に申し送り、キョクトーのわれわれは中隊主力と合流した。中隊はキョクトーからモードク山系をふたたび西へ向い、大隊に追及しようとした。この間も強行軍で、カラダン河上流よりも暑く、山の起伏がはげしかった。

途中、五十五師団の一部隊とも、すれちがった。
「現役はん、がんばりまんな。わてら、もうあかん」
この部隊は老人兵がほとんどで、これではたして戦闘ができるのかとあわれに思えた。大正11年、12年兵というから、私の生まれたころの兵隊である。

彼らが通過したあとには、手榴弾や小銃弾がかなりすててあった。それをひろいながら行軍し、われわれは防毒面と鉄兜をすてた。五十五師団の兵は毛布、鉄兜、防毒面を大切に持って行軍していった。

日本兵たちは、ビルマの至る所を、行ったり来たりしている。
それが、ビルマ全土に広がる。
私が慰霊に行くのは、タイであり、多くは、ビルマとの国境沿いである。
タイ北部は、ビルマの東北部に当る。
出掛けるのは、そこまでが、限界である。

ビルマの北部は、中国と接する。
クリー、荷物持ちとして、多くのタイ人、中国人も、参加していたはずである。
参加というより、強制的に日本軍に、協力させられたといってよい。
であるから、戦争犠牲者という時、そのすべてを含めて、言うのである。

日本兵のみではない。
すべての、戦争犠牲者を追悼慰霊するのである。

第一大隊主力は、マユ山系の西側へ挺進隊となって出撃し、わが第一中隊は遠くインパール作戦に参加のため反転して、第一大隊とはなれラングーンへ向うことになった。
二百十三連隊を追及のため、二月下旬、中隊全員が合流し、モードク山系西側から行軍を起こした。アポークワにいたる途中、ドンラン付近を通過したが、四キロもはなれた戦友の墓地へのより道はゆるされなかった。

敵はカラダンからキョクトー付近まで、川島部隊を圧迫し進出してきた。アポークワは指呼の間であり、機関銃音が聞えてくる。転進するわれわれは油断することなく、道路の両端にわかれて行軍し、第一線を後にした。
隊員はラングーン行きを心から喜べなかった。第一大隊の各隊が、まだあとに残って戦闘中だからである。

二回目にわれわれが渡河を終わったとき、「爆音」という声に河岸から急いではなれ、草の中に隠れた。工兵の渡河は一時中止となった。

そこで、空中戦が行われていたのである。
英機は、六機で、友軍機は、三機である。

「がんばれよ、がんばれっ」
兵隊たちはみな応援する。ひろい空なのに、われわれの頭上でばかりやっている。
とつぜん、上流から一機が超低空で飛来し、河に渡した高さ十メートルの無線の下をぬけ、河面すれすれにグワーンと流れにそって飛び去り、見えなくなった。迷彩色にあざやかな日の丸があり、友軍機だ。水面までは四、五メートルがやっとなのに、猛スピードで屈曲したところをよくぶじで飛べるものとびっくりした。

上空でははげしい空中戦がまだつづいている。ふいに、友軍機一機が煙をはいた。機首が下がり、こちらの渡河点方向に突っ込んでくる。胴体まで真っ赤な炎と黒い煙につつまれている。
「友軍機だ」
機影が大きくなり、スピードを増しつつ落下してきた。
「早く飛び出せ、下は友軍だぞ」
「出ないぞ」
戦闘機はさばにあった集落の池の築堤に、火だるまのままズドーンと激突し、あたりには炎がとんだ。おそらく機上で戦死したにちがいない。渡河前の中隊員が、池に向かって駆け出すのが見えた。
空は静かになり、やがて渡河してきた隊員が飛行隊将校の遺骨を胸に下げていた、悲壮な戦死だった。昼夜連続の行軍中、通過点のミヨホーン飛行隊に遺骨をとどけた。

陸上戦、空中戦・・・
共に、壮絶である。
悲壮である。

戦争とは、死ぬことなのである。
生きることを、考えない戦争というもの・・・











posted by 天山 at 05:20| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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