2015年09月11日

玉砕65

部隊がひとつところで腰をすえ、防空壕、便所、宿舎内と整備が完了するころ、かならずといってよいほど移動の命令がでる。雨期最盛期のなかで、われわれはキョクトー地域に移動することになった。

道路も水田も原野もみな水につながった中を、膝まで没して少しでも高いところをえらび行軍する。前かがみの背嚢の上から天幕をかぶり、ガッポガッポと足を上げないようにして歩く。たいせつに手入れした軍靴の損傷を気にしながら、北へ北へと水中行軍はつづけられた。

途中、アポークワ付近を過ぎたが、ここは二ヶ月前の三月八、九日、英印軍と衝突した戦場だ。二度と訪れることもあるまいと思った場所に、いまこうして進攻時と反対の方向から近づきつつあった。
「ここだ、英軍のテントのあったマンゴー林は」
「この左翼の山林内が三名の戦死したところだ」
「あっ、この道だ。川になっているが、ここで山砲が零距離射撃をやったんだ」
わずか二ヶ月前の戦場ドンランは、水の流れをのぞけば何ひとつ変らぬ風景だった。初年兵たちも、われわれの話しを聞きながら黙々と行軍する。
「三人の墓はもうすぐだ」
見覚えのある林が目の前にあらわれてきた。墓標があった。とたんに涙が汗といっしょに流れおちる。中隊は停止した。隊員たちは口々に、
「中隊が恋しかったろうなあ」
「こんどこそ最後の別れだ」
あたりを見回すが、そなえる花とてないジャングルである。中隊全員、墓をかこんで整列し、号令一下、
「着け剣。三英霊にたいし、捧げえ剣!」
全員の力強い一糸みだれぬ敬礼に、地下の三名からは、「後をたのむ」という声が伝わってくるように思えた。

三人の死はかならず無駄にはしないから、ビルマを独立させ、戦いに勝つまではおれたちが代わってがんばる、安心して眠ってくれと心に誓った。わかれを惜しみつつ、かつての戦場をあとに、われわれはカラダン河に向って歩をはやめた。

ビルマ戦線では、その移動が不変的である。
行きつ戻りつを繰り返している。
その、ビルマ戦線から、インパール作戦へと、参加命令が下る。

当初の日本軍の目的は、ビルマの独立であった。
それは、つまり、ビルマを植民地にしていた、イギリス軍を敗北させることだ。

一度は、撤退させたイギリス軍は、力を付けて、再び、日本軍に向って攻撃を仕掛けてくる。
当初は、ビルマ人の兵士も、日本軍に参加していたのである。

インド兵は、矢張り、インドを植民地にしていた、イギリス軍の兵士として、参加した。
だが、それとは別に、インド独立のために、日本軍に接触してくる、インド人たちもいたのである。

ビルマ独立の英雄とされる、アウンサン将軍も、日本軍により、その戦い方を習っている。今も、ミャンマーの独立歌の中に、アウンサン将軍は、日本軍と共に・・・という、歌詞を歌うのである。

ただ、日本軍が優勢な時期に、日本もイギリスと同じように、ビルマを植民地にするのではないかとの疑いが出てくる。
一点の曇りは、それだけである。
結果的には、日本は敗戦した。
しかし、ビルマは、独立を勝ち取ったのである。

六月になり鴨志田信義中尉が着任し、しばらくぶりに中隊長ができた。この時期から下官斥候もたびたび出されたが、われわれ広瀬小隊に将校斥候の命令があり、ふったり止んだりの空模様の日に出発した。
われわれは谷をさけ、山すそをまわり、高いところを行軍するが、木や枝が茂って歩きにくく、モードク山系をカラダン河上流へと入り、ジャングルに近づいたとき、光機関の田中中尉の一隊と合流した。

ビルマ人隊員たち六、七名は素足に英軍の小銃と背嚢を背負い、田中中尉はシャツにロンジーを腰に巻き、皮のサンダル履きの軽装で、拳銃をつっていた。
小さな村で昼飯を炊く。ビルマ人隊員は現地住民と竹を切り、中に米を入れて焚き火であぶって準備した。この炊き方のほうが、日中の暑さにも飯が長持ちする。・・・

ビルマ人隊員は松明をかかげると弓を持って駆け出し、日本の兵隊ならば往復に一昼夜を要する前方の高い山まで、われわれが大休止の間に行ってもどって来た。この付近は、カラダン河の上流パレトワから北方の山岳地帯だった。
ふたたび夜明けとともに行軍をはじめ、川を見下ろす高地を行く。周辺は高山が連続し、流れは右に左にまがりくねって、ところどころに砂原をつくっている。やがて前をゆく小隊が停止した。ビルマ人のスパイが敵陣地へ出るという。師団からか軍からか知らないが、光機関が指示を与えているようだ。このあたりは英軍も斥候やスパイを出してくる地点だと聞いた。

・ ・・
これよりさき七月の下旬、二百十三連隊主力は、第二、三大隊とともに、インパール作戦に参加のため師団主力のいるカロー方面へ転進し、第一大隊がここキョクトー周辺の警備に残置され、五十五師団の指揮下におかれていた。

情報では、英印軍の斥候がカラダン河上流に出没しありといい、日ごとに緊張の度をましていった。そうしたなかで、ふたたび広瀬小隊に将校斥候が下命され、四日分の糧食をたずさえて出発となった。前回よりも行程があるものと察し、われわれも覚悟した。
晴れ間も出るようになったから、九月から十月に入ったかも知れない。小さな畑と原野をすぎて、北の山系内に入ってゆく。夜も松明をともし、休むことなく鬱蒼とした森林を一列で急いだ。そのため昼間も行軍中に、歩きながら居眠りする。

ビルマ戦線の、日本軍は、色々な地域に広がり、活動したが・・・
その総司令部が、ラングーン、現在のヤンゴンに存在していた。
ただし、インパール作戦の司令官、牟田口は、マンダレーの司令部にいた。

ビルマ全土にかけて、日本軍が戦線を拡大していったということだ。
当初は、イギリス軍も、撤退を余儀なくされたのである。

戦記にあるように、ビルマ人の隊員も共に、行動していたという。

しかし、スパイ活動は、難しい。
両者に情報を提供していた、スパイもいるとのこと。

イギリス統治のビルマゆえに、イギリスに味方する人たちも、いたのだろう。

ただ、日本軍は、このビルマでは、現地の人たちを、戦場に巻き込まなかったのが、幸いだった。

フィリピンの島々では、現地の人たちを、巻き込んだ戦闘が多いのが、悲劇である。





posted by 天山 at 06:09| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。