2015年09月01日

打倒・韓国21

日韓議定書は、六か条からなる。
第一条、 大韓帝国政府が、日本の忠告を容るる事
第二条、 大韓帝国の皇室の安全康寧
第三条、 大韓帝国の独立及び領土保全
第四条、 第三国の侵害により、韓国が危機にさらされた場合に、韓国が日本の行動を容易ならしむるため十分便宜を与ふる、とともに、日本が、軍略上必要の地点を臨機収容することを得る事
第五条、 両国が、本協定の趣に違反すべき協定を第三国との間に締結することを得ざる事。
第六条、 両国が、この議定書の細目について協議するという事。
以上である。

韓国は、日韓議定書により、日本の事実上の保護国となった。

この年、11月に、日本は、伊藤博文を特派大使として、ソウルに派遣し、第二次日韓協約を強要した。

それは、五カ条上からなるもので、日本が、韓国政府に代わり、韓国の外交権を握ること、韓国に統監を置く事を求めている。

その三条には、日本国政府は、その代表者として韓国皇帝陛下の門下に一名の統監を置く、と述べている。
統監を、英語の、レジデントゼネラルと、使っている。
つまり、日本の帝国主義は、西洋の考え方だったということ。

当時の世界は、帝国主義の全盛期である。

統監府は、翌年2月に、開設され、伊藤博文が、初代の統監となる。
この時点では、まだ、日本政府が韓国を併合するという、合邦積極派と、保護国として、半独立のままで、という意見に分れていた。

伊藤博文は、韓国側の閣僚と、日本人顧問を構成員とする、施政改善の協議会を作り、八回目の会合で、このように述べた。

「日本はとうてい韓国を、他国の併合にまかすことはできない。今、もし日本に併合しようという意志があったとすれば、一挙手一投足の労だけで、その目的を達することができるにもかかわらず、そうしない所以は、日本は韓国を併合し、巨額の経費を浪費して、自ら韓国を統治する愚を犯すよりは、むしろ韓国を興して、隆盛の域に導き、韓国人をして完全に国を防衛せしめ、これと同盟してもって我が国の安全を図ろうと欲する。」
である。

勿論、韓国人には、その気概も、努力も無いのだが・・・

しかし、1909年10月、ハルピン駅前において、伊藤は、安重根という、テロリストに暗殺された。
これが、日韓併合を、早めたといわれる。

安重根とは、単なる勘違いだった。
伊藤は、韓国独立を考えていたのである。
しかし、韓国が独立・・・
無理である。

当時の韓国の、状況を考えれば、無理極まりないのである。

朴氏は、
また高宗が第一次日韓協約後も、日本の影響を排除して、独立を回復しようとして、アメリカのセオドア・ルーズベルト大統領へ密書を送ることや、ハーグの万国平和会議へ密使を送るなど工作を続けたことと、反日ゲリラである義兵闘争が全国にひろまったことも、日本の韓国に対する直接統治に踏み切らせる大きな理由となった。
とのことである。

そして、1910年、日本は、日本軍をソウル全市に動員して、厳戒体制の中で、親日派のリーダーであった、李完用総理の協力を得て、日韓併合に関する条約の締結を強行した。

何故、日本がここまでにしたのか・・・
それは、日本の安全保障のためでもある。
ソ連の脅威である。

朴氏は、言う。
もし、日本が19世紀末期に、韓国に進出しなかったとしたら、どうなっていただろうか?韓国は中国の属国であり続けたか、ロシアの植民地となっていたことだろう。

毛沢東は「毛沢東選書」のなかで、朝鮮半島は中国の固有の領土であったが、帝国主義勢力によって奪われたと書いている。もし中国の属国であり続けたとしたら、今日でも、中華人民共和国と似たような水準にある可能性が高い。まだ腐り切った中国文化という甕のなかに、どっぷりと浸かっていたはずである。
とのことだ。

更に、続けて、
もしロシアの植民地となっていたら、ロシア革命後、人民共和国となり、今日の朝鮮民主主義人民共和国と同じような状態になっていたにちがいない。

どちらにしても、中国か、ロシアである。
そして、韓国は、自ら、決して独立などを、獲得する事は出来なかった。

朴氏は、
当時の韓国が日本、中国、ロシアのいずれかの支配下に置かれることが避けられなかったとしたら、この三つの国のなかで、日本がもっともよかったはずである。三カ国の軍隊や、官吏を比較してみればよい。

と、いうこで、イギリスの女性旅行家、ビショップ夫人の、日清戦争のもとの韓国と、満州を訪れた時のことが、記されたものを見る。

清国兵について
宣戦布告後は、状況がますます陰険となり、制海権を日本が掌握した結果、朝鮮へ出征する清兵はみな、満州を通過せざるをえなくなり、吉林をはじめとする北部諸市から募集された。規律を欠いた軍隊が、日に千人の割をもって奉天に流れ込んだ。その軍隊たるや左右民家の品物を手当たり次第に掠奪し、宿屋の亭主をブッ叩いたうえに無銭宿泊の乱暴、キリスト教礼拝堂を無暗に打ち壊すなど狼藉を働いた・・・

そして、日本軍の軍律については、
軍に規律があり、仕事に秩序があり、各人各々その目的を了解し、粛然として義務に服し、厳乎として警戒に任じ、いささかも居傲不遜の振る舞いがなく、まことに見上げた日本軍であった・・・
とのことである。

更に、スウェーデンのジャーナリストの、グレブストは、同時期にソウルに滞在して、日本軍に関して、
ソウルだけでも、現在数千の日本軍兵士が城内と郊外に駐屯していますが、彼らへの抗議はあったためしがありません。彼らの規律は他の範となるべきものです。
という、ドイツ領事の発言を記している。

中国には、軍隊と言うものが無いのである。
すべて、馬賊、匪賊で、規律など、そんなものを持ち合わせていない。

韓国が、中国兵に蹂躙されたら・・・
考えるだけでも、恐ろしいことだ。



posted by 天山 at 06:25| 打倒・韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月02日

打倒・韓国22

カナダ人のジャーナリスト、マッケンジーは、
ロシアが事実上満州を掌握した。その勢力は確実に、逆らい難く、韓国そのものへと進出し、少なくとも北部韓国がロシアの支配下に入るということは、ただ時間の問題に過ぎないようにみうけられた。
朝鮮の悲劇

更に、
ロシア官吏たちの放蕩な行状、大部隊駐屯地における飲んだくれの遊興、請負業者の振舞い、この新しい「体制」に誘引された独欲で不道徳な連中の所業のすべてが、ヨーロッパの世論をかき立てた。西欧は、それらすべての汚い側面ばかりをみた。ロシアは売春仲介業者、堕落者、敵対者とみなされた。
と、報告する。

そして、日本軍との比較について、
ロシアが極東で、このように恐怖と反発を引き起こすような情勢をつくって世界に自分をみせびらかしていたとき、他方で日本はわれわれにその最善の姿を示した。1900年、中国の義和団事件のとき、連合軍の一部をなしていた日本軍は、その有能と克己とを示して全世界を驚嘆させた。日本軍の勇敢さ、その見事な組織、およびその規律は、各国の老練な軍事専門家や報道員たちによって賞賛された。
と、書く。

いずれにせよ、韓国が19世紀末期から20世紀の初頭にかけて、独立を保ちえたいというシナリオを描くことは、まったく不可能なのだ。李朝末期の韓国は、そのような力をまったく欠いていたのだ。当時の韓国があまりにも無力であったために、中国、日本、ロシアの力を吸い込むような真空状態を自らの手でつくりだしていた。このことは相手を責める前に、深く自省せねばなるまい。


更に、朴氏は、
韓国民は勇気をもって、李朝末期と正面から向かい合って、百年あまり前の韓国の現状を直視しなければならない。たしかに真実はもっとも人を傷つける。しかし、それを恐れてはなるまい。
とのことである。

この本は、1993年に出版されている。
それから、22年を経ている。
韓国、韓国人は、少しばかりか、何も気づかず、変化もない。

自分の無能さを、省みることなく、ただ、反日だけが、取り得となっている。
そして、今まさに、崩壊、滅亡の危機に立っているのである。

そして。幻想、妄想の歴史を抱き、民族主義と活動する。
その様は、痛々しいほどである。

朴氏が、紹介する、ビショップ夫人の、「三十年前の朝鮮」から、引用する。

韓国民を、官吏貴族に虐げられた国民と、呼ぶ。

読者は朝鮮人の無気力、怠惰、居候根性、貧しさをつぶさに観察されたことになるが、このために朝鮮の独立はきわめて困難で、将来を望むことが難しい。・・・
朝鮮を亡ぼすもっとも大きな、普遍的な原因は、国民が挙げて独立独行の精神に欠けていることである。健康な体格を持ちながら、親族知己に少し裕福な人があればその家に居候して、終日何一つの仕事もせずに暮らしている。・・・
居候も朝鮮人の居候根性は徹底したものである。京城市内の高官、裕福な人の家には、屈強な大の男が相当の教育がありながら数十人となく寄食している。・・・
見苦しい話しだ。

ということで・・・
独立などは、夢のまた夢であった。

そして、現在は、どうだろうか。
身の程知らずの傲慢さで、東南アジアを見下し、旅している様は、哀れである。

ちなみに、韓国人を嫌う国々が、年々増えている。
フィリピン、カンボジア、ベトナムでは、韓国人男性との結婚を、法律で禁じたほどである。
フィリピンは、その付き合いにも、厳戒令を出した。


posted by 天山 at 06:04| 打倒・韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月03日

打倒・韓国23

日韓併合前の韓国・・・

当時の韓国を訪れた外国人は、筆をそろえて、いかに不潔だったかについて、驚いている。

ビシュップ夫人
ソウルは穢いことと臭いことでは、世界一である。
二十五万人の同市は地上に瓦または藁を並べた一階屋の下に潜り込んで生活している。いや、不潔な道路に蠢動していると形容したほうがよいだろうか。その道路は広くても二頭の馬が並ぶことができない。狭いところで一人の荷を担いだ者が往来を塞いだほどである。路傍には悪臭がぷんぷんとする溝があり、路面は埃まみれの半裸体の子供と、獰猛な犬とによって占領せられている。

市街の中心を西から東へ流れる下水道は、市中の汚水を夜に昼に絶えず城外に排泄している。そのために下水道の泥は真っ黒で幾世の昔からの濁水によって染められ悪臭を空中に放散して旅人を悩ましている。

南山の中腹に日本公使館があるが、木造で白塗りの建物としてはあまり感心できない。その麓に日本人居住地があり、約五千人の日本人が天地をつくっている。料理店もあれば、劇場もある。朝鮮人町と反対に清潔でよく整って気持ちがよい。

夫人は、韓国全体を旅行した。

朝鮮の官吏の腐敗は目にあまった。私は遠慮なく朝鮮官吏を批評する。彼らは民の膏血を搾り取る吸血鬼だ。彼らは任地に赴かずソウルにあって宴会をほしいままにし、自己の管轄内の住民を保護し善導することがまったくなく、虐待し誅求するのだ。

朝鮮の事々物々はことごとく低級である。貧弱である。劣等である。特権階級の・・、官吏階級の誅求、正義公道の全滅、財産の不安、取得の危険、政府の頑迷等などことごとくこれ朝鮮自滅の禍根である。さらに国王は後宮に耽溺して億兆の赤字を顧みない。

まさに、絶望的な状況である。

韓国人である、朴氏が、書く・・・

日本は1894年に、まず甲午改革を試みた。これは広範囲に及ぶもので、科挙の廃止と近代的官制の採用、税制の近代化、新式貨幣の導入と財政改革、両班、常人などの身分制度の廃止、人身売買と奴婢法の廃止から、宦官の廃止(腎ノウ、睾丸のこと。の腐割するを禁ずること)破瓜の年(十六歳)に満たない女を妓生としないこと、近代医療、衛星制度を導入するかたわら、病気の治療に巫医、呪詛を禁じることまでにわたった。

しかし、甲午改革は、王権の制限を盛り込んでいたために、高宗も、ミン妃も、大院君も反発した。

李朝末期の韓国は、暗黒の世界で、日本が暗闇を破り、光明をもたらしたのだ。1890年代から1930年代のあいだに、日本人が韓国にもたらした革命的な改革が、どれほどまで賞賛されたことだろうか! 韓国人が自らの手では、とうてい行えなかったことだった。ただ日本人が外国人であったからいけなかったのだ。


中国の、科挙を真似し、宦官まで、真似したという、驚きである。
そして、実は、その宦官たちを、中国に差し出していたのである。
慰安婦についても・・・
後々で、詳しく書くことにする。

ここで言う、植民地政策というものが、欧米の植民地だったら・・・
同じ言葉でも、全く意味が違うのである。

日本が敗戦したことにより、欧米の白人たちは、自分たちの、植民地支配に対して、何の反省も、謝罪もない。
それのみか、彼らの悪事のすべてを、日本に押し付けたのである。

日本は、植民地支配をした、悪い国である。

日本の植民地支配というのは、拓殖、興すことを言うのである。
韓国然り、台湾然り、パラオ然り・・・

敗戦後の日本は、戦後賠償という形で、多くのアジアの国に支援をした。
私が、いつも、気になる事は、空港など、日本の支援で出来たという、その空港のトイレが壊れても、直すことが出来ないでいるということだ。

そんなことまでも、出来ないのである。
壊れたら、使用不可になる。

その後々までの面倒を見なければならないという、状況である。

さて、韓国の話しに戻ると・・・
改めて、朝鮮半島という場所は、絶望の場所であったことが、解る。

韓国人は、20年で近代化を果たした、韓国人は、凄いと言うが・・・
それは、日本のお陰であろう。
ところが、日本によって、韓国は、最悪の状態に落ちたと言うのである。

韓国人の、朴氏が、はっきりとこう言う。

韓国は殖産興業を卑しんだだめに、まったく蓄積を欠いていた。李朝末期の韓国は、物質的にも、知的にも、道徳的にも破産していた。

韓国は誇りうる産業を欠いていた。「西洋の衝撃」は永年にわたって物的、知的、道徳的に赤字に陥っていた韓国社会に、最終的な決算を強いたのだった。韓国は倒産すべくして、倒産した。1910年8月29日に、この日がやってきた。日韓併合の日である。
いったい私たちは、日本人だけを怨むことができるのだろうか。

そして、
今日の韓国は日本統治時代のすべてが悪かった、といってあらゆる問題を、すべて日本のせいにしている。日本人は、韓国をよりよくするために戦ったのだ。

その通りである。
日本人にして、ようやく、韓国という国が、成り立ったのである。
韓国は、日本人が作り上げた国である。

その恩を忘れて・・・
今、韓国人は、一体、何処に向って進んでいるのか。
ほぼ、滅亡の道のりを歩いている。

日本は、韓国に対して、これから何もしないだろう。
一切、関わらないということだ。
教えない、与えない・・・

日本から見放された韓国は、何処へ行くのか。
それに、是非、応えて欲しいものだ。





posted by 天山 at 05:37| 打倒・韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月04日

打倒・韓国24

日清戦争により、朝鮮は清の属国から独立し、大韓帝国と名乗ることが出来た。
第二十六代高宗も、皇帝と名乗ることが出来た。

しかし、その内情は、李朝朝鮮のままである。
つまり、崩壊、破産状態である。

勿論、大韓帝国は、亡国の危機である。
そこに、英米、独仏、そして、日露が、買収の機会を狙っている状態である。

つまり、大韓帝国は、国としての、体制が成っていなかった。
それを、国と誤解しているから、現在の韓国人の妄想全開がある。

日本が、一方的に、主権、国王を奪ったという、ウソを言うのである。
実際は、主権も、国王も、日本によって、守られたのである。

当時の大韓帝国は、有史以来はじめて「帝国」と名乗ったものの、「帝国」どころか国家の体さえなしていなかった。まず、近代国家としての財政制度や国家会計予算制度がない。歳入も歳出も、すべてどんぶり勘定であり、宮室と国家の財政をまったく区別していない。
高宗皇帝自身も、外国人関係公使館、外国銀行の債務、宮内府の債務などの重圧にあえぎ、宮内府は破産して国家倒産の危機に直面していた。しかし、財政改革をしようにも半島内には人材がないため、外国から呼び寄せなければならない。
黄 文雄

そこで、初めに、ロシア政府推薦の、アレクセーエフ顧問を招いた。
彼は、金本位の貨幣制度を発布したが、実行には、至らなかった。

その後、日本の、目賀田財政顧問が迎えられた。
彼は、朝鮮の財政紊乱の禍根を絶つため、まず政府と、宮内府との、権限区別に着手した。
これは、日露戦争中のことである。

当時の大韓帝国の歳入は、約750万円と、あまりにも少ないものだ。
これは、政府高官、宮内府高官の間での、汚職が横行して、財産管理などを行う、帝室所属の内府高官も把握できないほど、これまでの、官吏が乱雑、複雑を極めていたのである。

手の付けられない、末期的状態である。

こういう、歴史を韓国の教育では、行っているのだろうか。
この、滅茶苦茶な状況にあった、大韓帝国の有様を・・・

歳入750万円の中で、王室費として、約80万円だが、宮内府の実質的な収入は、それだけではない。
造幣利益金、入参専売金、営業免許金、外国人に対する特許料金、賭金、鉱金、雑税、山林税、砂金収入などであり、本来ならば、国家収入にされるものが、宮内府に入っていた。その年額は、約240万円前後である。

また更に、宮内府の収入は、別にある。
中央、地方からの多額の献金、買官収入、賄賂など・・・
また、太子妃葬儀費、陵墓、宮内改修費の未払い金として、更に、国庫から280万円を要求していた。

当時の宮内高官たちは、何かにつけて、勅令を乱発して、随時、度支部大臣に上納金を強要していた。
それを断れば、即、免官されるので、従わざるを得ないのである。

つまり、国を食い物にしていたのである。

酷いものは、宮内府に存在する多種の者たちである。
それらは、世襲により、勢力を固められ、皇帝の権威をカサに、暴威をふるっていた。
私腹を肥やす。
そして、口実をつけては、民衆の土地を、宮庄土に編入させるという、悪事を行い、自分の借金のために、宮庄土を質入することもあった。

当時の、大韓帝国は、誰もが私利私欲に走り、多額の収入を自分の贅沢に使う。そして、負債を抱えるという、浅ましさである。

債権者も、多数が御用商人で、債権は、納品代や、ご用立替金の未払い残高であった。

その、御用商人たちは、長期に渡る高利貸しと、高額の納品代で、宮内府の各宮を食いものにしていた。

その大元は、はるか、1860年前後から始まっていたのである。
つまり、破産国家というか・・・
国ともいえないものである。
民族集団・・・なのか・・・

駐韓外交官を務めたアメリカのグレゴリー・ヘンダーソンは、
李朝は経済的破産と崩壊の寸前であった。軍事力はほとんどなく、政権の分裂と内紛で行政は麻痺状態となり、慢性的百姓一揆の気運に脅かされていた。
と、書いている。

まさに19世紀の李朝は、どこの国から買収合併を受けるか、どこの国の属国になる以外、国家財政を維持することの資金はなかった。そうはいっても、列強から借款するための抵当にできるような鉱山や土地といった資源も、ほとんどなかった。
黄 文雄

1000年以上の宗主国であった中国も、財政が逼迫して、面倒を見ている場合ではない。

そこで、手を差し伸べたのが、日本である。
崩壊寸前の韓国に対して、年間、15~20パーセントの歳出を補填しつつ、半島の民生をはかったのである。

韓国人は、このような、歴史を学ばないようである。
と、言うより、教えないのである。
教えることは、ただ、反日教育・・・

それを、そのまま信じて、成長する。
と、反日になる。
そして、日本を怨むことになる。
現在の韓国の、有様である。

今度は、本当に崩壊寸前でも、日本は、何もしないだろう。
日本の国民が、許さない。

手前勝手なお話で、日本を怨むのであるから、話し合いもできないのである。

しかし、韓国、朝鮮の王、皇帝というもの、日本の皇室とは、全く別物である。
天皇家は、いつも、国民のことを心にかけて、国民が貧しい時は、自らも貧しく、そして、災害の時は、我が身の不徳と反省し、祈られた。

本当に、日本国民で、良かったと心底、思うし、感謝するのである。


posted by 天山 at 06:11| 打倒・韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月07日

打倒・韓国25

日韓併合の、1910年当時、朝鮮総督府は、李朝の腐敗政治の巣窟であった、宮廷内の、無為徒食の者たち、数千人を整理し、武断政治を断行する必要があった。

この日本による、宮廷の人員整理と、政治改革があったからこそ、朝鮮の王室は、悲劇にならずに済んだ。

韓国人は、ここでも、ウソを言う。
日本が、皇帝を廃止したと・・・

全く、逆である。
皇帝を廃止したのは、韓国人である。
大統領制にしたのは、誰か・・・

本来ならば、悲劇に見舞われていた、王室は、日本によって、守られたのである。

大韓帝国の皇帝だった高宗は、徳寿宮李太王と称され、日本の皇族の待遇を受けた。
更に、重臣や功労者たちは、華族として、叙爵された。
そして、国王と王室に、150万円の歳費と、皇室典範を与え、李完用総理をはじめ、侯爵
6名、伯爵3名、男爵45名など、76名に貴族の爵位を与えたのである。

高麗王朝と、その家臣たちの運命を比べてみるが、いい。
皆、虐殺である。

大韓帝国の皇帝にとって、それは、大変に幸運なものだった。

少しそれ以前の、状況を見ても分る。

例えば、朝鮮に駐在していた、清の官吏たちは、王室、重臣たちに対しても、実に横暴な指導、管理をしていたのである。

中でも、袁世凱による統治を見れば、清の朝廷から見れば、ただの家奴という、天子の支配下では、部下の部下である身分だ。

その、袁世凱が朝鮮を指導、監督する時は、高宗でも、唯々諾々と従うのである。
つまり、その他大勢も、その一声で、動くという。

彼が、清軍の幕僚として、朝鮮に進駐したのは、1882年、まだ、23歳である。
監督官として、権力をふるうのは、1885年、26歳の時からだ。

つまり、日清戦争の直後に朝鮮を去るまで、総督のように振舞い、政務に口を出した。
そして、彼の住居、馬車、身なりは、すべて国王と同じである。
宮中では、乗馬のままで、国王に謁見するという、傲慢さである。

更に、ミン妃と密通し、その妹を妾にし、傍若無人である。

これに、堪りかねた王室は、ロシアに連なることを望み、有事の際にロシアに保護を求めるという、韓露密約を1886年にするが、露見して、袁世凱は、国王廃止を、清の北洋大臣に提案すると言う。

清は、更に、それで朝鮮の管理指導を強化したのである。
袁世凱の独裁が続くことになる。

何故か・・・
袁世凱が、駐在した年、1882年に、清は李朝と「清国朝鮮商民水陸貿易章程」を結び、李朝は、清の属国として宗属関係を明記したのである。

また、清が、朝鮮で、貿易、営業をする場合の、特権も明記された。
つまり、言いなりである。

清は、日清戦争までの朝鮮政治と、経済外交を完全に握り、植民地統治を行っていたということである。

この袁世凱指導下のソウルは、悲惨な状態だった。
清軍の兵士、3000人が、市民を掠奪、暴行し、両班の家にも侵入して、女性を陵辱する。更に、女性たちは、強引に酒席で妓生、キーセンにされて、乱暴される。

ソウル市民は、この狼藉に、どうすることも出来なかったのである。

大に着くという、事大主義が、支配していた。

しかし、日清戦争で、世界一誇り高い清国の北洋艦隊が、日本に壊滅されると、兵士たちの狼藉が収まり、日本軍の清軍追放が、ソウル市民たちの、唯一の救いとなるのである。

日本によって、皇帝が無くなったという、ウソを韓国人が言うが・・・
1919年、3月から始まった、抗日独立運動、三・一運動後の朝鮮国王は、すでに韓国人の手により、棄てられていたのである。

国王の存在は、反日、抗日運動の主流に、淘汰され、嘲笑の対象として、自然と消滅してゆく運命だった。

何せ、国王、皇帝といえど、朝鮮、韓国人には、何の恩恵もないである。
国民のことなど、何ほどの事もない存在だった。

日本の天皇の存在とは、天地の差がある。

抗日運動各派は、社会主義や民主主義、民族主義の運動と抗争に夢中となり、1919年に上海で設立された亡命者たちの大韓民国臨時政府も大統領制となった。つまり、国王は反動的で、革命の対象となったのだ。こうして、戦後に分断国家となった韓国では、国王の存在さえも忘れられてしまった。
黄 文雄

それに、中国と同じように、前代が、後代によって、否定されるということが、当たり前で、それを実現するために、政治的な粛正と虐殺を、繰り返すのである。

こうして見て行くと、日本の歴史とは、まったく異質なもので、理解するのに、苦労する。

韓国人は、また、ウソを言う。
日韓併合により、朝鮮は、有史以来はじめて、亡国となったと。

かつて、中華帝国、北方雄邦の、属国になったことは、亡国ではないのか。

兎に角、この日本だけが、韓国人の反感の的なのである。
ちなみに、日韓併合により、朝鮮半島が、最も、安定した時代だったことは、事実である。

もし、中国、清などと、連携していたら・・・
その歴史を見れば、一目瞭然である。

日韓併合は、朝貢もなく、ただ、日本が朝鮮を救ったということである。




posted by 天山 at 06:06| 打倒・韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月11日

玉砕65

部隊がひとつところで腰をすえ、防空壕、便所、宿舎内と整備が完了するころ、かならずといってよいほど移動の命令がでる。雨期最盛期のなかで、われわれはキョクトー地域に移動することになった。

道路も水田も原野もみな水につながった中を、膝まで没して少しでも高いところをえらび行軍する。前かがみの背嚢の上から天幕をかぶり、ガッポガッポと足を上げないようにして歩く。たいせつに手入れした軍靴の損傷を気にしながら、北へ北へと水中行軍はつづけられた。

途中、アポークワ付近を過ぎたが、ここは二ヶ月前の三月八、九日、英印軍と衝突した戦場だ。二度と訪れることもあるまいと思った場所に、いまこうして進攻時と反対の方向から近づきつつあった。
「ここだ、英軍のテントのあったマンゴー林は」
「この左翼の山林内が三名の戦死したところだ」
「あっ、この道だ。川になっているが、ここで山砲が零距離射撃をやったんだ」
わずか二ヶ月前の戦場ドンランは、水の流れをのぞけば何ひとつ変らぬ風景だった。初年兵たちも、われわれの話しを聞きながら黙々と行軍する。
「三人の墓はもうすぐだ」
見覚えのある林が目の前にあらわれてきた。墓標があった。とたんに涙が汗といっしょに流れおちる。中隊は停止した。隊員たちは口々に、
「中隊が恋しかったろうなあ」
「こんどこそ最後の別れだ」
あたりを見回すが、そなえる花とてないジャングルである。中隊全員、墓をかこんで整列し、号令一下、
「着け剣。三英霊にたいし、捧げえ剣!」
全員の力強い一糸みだれぬ敬礼に、地下の三名からは、「後をたのむ」という声が伝わってくるように思えた。

三人の死はかならず無駄にはしないから、ビルマを独立させ、戦いに勝つまではおれたちが代わってがんばる、安心して眠ってくれと心に誓った。わかれを惜しみつつ、かつての戦場をあとに、われわれはカラダン河に向って歩をはやめた。

ビルマ戦線では、その移動が不変的である。
行きつ戻りつを繰り返している。
その、ビルマ戦線から、インパール作戦へと、参加命令が下る。

当初の日本軍の目的は、ビルマの独立であった。
それは、つまり、ビルマを植民地にしていた、イギリス軍を敗北させることだ。

一度は、撤退させたイギリス軍は、力を付けて、再び、日本軍に向って攻撃を仕掛けてくる。
当初は、ビルマ人の兵士も、日本軍に参加していたのである。

インド兵は、矢張り、インドを植民地にしていた、イギリス軍の兵士として、参加した。
だが、それとは別に、インド独立のために、日本軍に接触してくる、インド人たちもいたのである。

ビルマ独立の英雄とされる、アウンサン将軍も、日本軍により、その戦い方を習っている。今も、ミャンマーの独立歌の中に、アウンサン将軍は、日本軍と共に・・・という、歌詞を歌うのである。

ただ、日本軍が優勢な時期に、日本もイギリスと同じように、ビルマを植民地にするのではないかとの疑いが出てくる。
一点の曇りは、それだけである。
結果的には、日本は敗戦した。
しかし、ビルマは、独立を勝ち取ったのである。

六月になり鴨志田信義中尉が着任し、しばらくぶりに中隊長ができた。この時期から下官斥候もたびたび出されたが、われわれ広瀬小隊に将校斥候の命令があり、ふったり止んだりの空模様の日に出発した。
われわれは谷をさけ、山すそをまわり、高いところを行軍するが、木や枝が茂って歩きにくく、モードク山系をカラダン河上流へと入り、ジャングルに近づいたとき、光機関の田中中尉の一隊と合流した。

ビルマ人隊員たち六、七名は素足に英軍の小銃と背嚢を背負い、田中中尉はシャツにロンジーを腰に巻き、皮のサンダル履きの軽装で、拳銃をつっていた。
小さな村で昼飯を炊く。ビルマ人隊員は現地住民と竹を切り、中に米を入れて焚き火であぶって準備した。この炊き方のほうが、日中の暑さにも飯が長持ちする。・・・

ビルマ人隊員は松明をかかげると弓を持って駆け出し、日本の兵隊ならば往復に一昼夜を要する前方の高い山まで、われわれが大休止の間に行ってもどって来た。この付近は、カラダン河の上流パレトワから北方の山岳地帯だった。
ふたたび夜明けとともに行軍をはじめ、川を見下ろす高地を行く。周辺は高山が連続し、流れは右に左にまがりくねって、ところどころに砂原をつくっている。やがて前をゆく小隊が停止した。ビルマ人のスパイが敵陣地へ出るという。師団からか軍からか知らないが、光機関が指示を与えているようだ。このあたりは英軍も斥候やスパイを出してくる地点だと聞いた。

・ ・・
これよりさき七月の下旬、二百十三連隊主力は、第二、三大隊とともに、インパール作戦に参加のため師団主力のいるカロー方面へ転進し、第一大隊がここキョクトー周辺の警備に残置され、五十五師団の指揮下におかれていた。

情報では、英印軍の斥候がカラダン河上流に出没しありといい、日ごとに緊張の度をましていった。そうしたなかで、ふたたび広瀬小隊に将校斥候が下命され、四日分の糧食をたずさえて出発となった。前回よりも行程があるものと察し、われわれも覚悟した。
晴れ間も出るようになったから、九月から十月に入ったかも知れない。小さな畑と原野をすぎて、北の山系内に入ってゆく。夜も松明をともし、休むことなく鬱蒼とした森林を一列で急いだ。そのため昼間も行軍中に、歩きながら居眠りする。

ビルマ戦線の、日本軍は、色々な地域に広がり、活動したが・・・
その総司令部が、ラングーン、現在のヤンゴンに存在していた。
ただし、インパール作戦の司令官、牟田口は、マンダレーの司令部にいた。

ビルマ全土にかけて、日本軍が戦線を拡大していったということだ。
当初は、イギリス軍も、撤退を余儀なくされたのである。

戦記にあるように、ビルマ人の隊員も共に、行動していたという。

しかし、スパイ活動は、難しい。
両者に情報を提供していた、スパイもいるとのこと。

イギリス統治のビルマゆえに、イギリスに味方する人たちも、いたのだろう。

ただ、日本軍は、このビルマでは、現地の人たちを、戦場に巻き込まなかったのが、幸いだった。

フィリピンの島々では、現地の人たちを、巻き込んだ戦闘が多いのが、悲劇である。



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2015年09月12日

玉砕66

さきに撤退した英印軍は、兵器、弾薬、兵力を補強して、ふたたび攻勢をとり南進を開始した。
兵力は第十五軍団で、第一線に第五、第七師団、第二線に第二十六インド師団が配置についた。昭和19年1月はじめには、第七師団にブチドンを、1月9日、モンドーを第五師団に占領された。

昭和19年になると、戦況は、日本軍に不利になる過程である。
イギリス軍は、物量の補給を完全たらしめた。
逆に、日本軍は、補給を考えていないのである。

兵士たちにとっては、大変な戦争の現場になった。

われわれの前面では、一月中旬、第八十一西アフリカ師団がダレトメにたっし、カラダン河谷を南進中で、ちょうどこのころ、私は山中の陣地を確保していたのだった。
陣地についてから十日の一月十二日、中隊から二名の連絡兵が到着した。斎藤伍長がまたおとずれ、陣地引き上げ命令が伝えられた。二人の顔は真剣でひきつっていた。状況は一刻を争そうことがうかがわれた。西アフリカ師団は、ダレトメよりパレトワに南下したのだった。

命令を受けた小隊は、ただちに陣地から下山し、強行軍になった。帰りは往路からはなれた山中に入る。敵がさきにパトワレからカラダンに進出すれば、われわれの出口はなくなり、パレトワ北西部の山奥に孤立か置き去りになって、万事休すだ。連絡兵と合わせて十三名では、大部隊を相手に戦いようもない。小隊長があわてたのもうなずける。敵との衝突を避けるため、けわしい山岳の地形を昼夜踏破することになった。

強行軍につぐ、強行軍である。
だが、これは、序の口である。
これは、まだ、ビルマ戦線の辺りだ。

すでに12月25日、第二中隊は第四中隊、第一機関銃中隊、大隊本部とともにカラダンからトングバザー攻撃に出動し、わが第一中隊と第三中隊が、カラダン地区にあって文壇行動をおこなっていた。
これよりさき、弓兵団の第二百十三連隊主力はインパール作戦に参加のため、昭和18年6月末、アキャブからタウンジーに移動し、師団のもとにあり、われわれは第五十五師団騎兵第五十五連隊長の指揮下にあった。

師団の下に、それぞれの連隊があり、そして、大隊、中隊などがある。
素人には、とても、分りにくいものだ。

昭和19年1月21日、西アフリカ師団との交戦により飯島幸三郎、佐々木千代治上等兵がパレトワ北方八キロの地点で戦死した。佐々木上等兵は1月9日、われわれと山中陣地でわかれてから12日目の戦死だった。
翌22日には、パレトワ南方三キロのカンワで鈴木順光上等兵が、25日には同じくカンワで小林幹雄兵長、渡辺幸一一等兵が戦死した。

第一中隊は第三中隊とともに、川島部隊に申し送り、キョクトーのわれわれは中隊主力と合流した。中隊はキョクトーからモードク山系をふたたび西へ向い、大隊に追及しようとした。この間も強行軍で、カラダン河上流よりも暑く、山の起伏がはげしかった。

途中、五十五師団の一部隊とも、すれちがった。
「現役はん、がんばりまんな。わてら、もうあかん」
この部隊は老人兵がほとんどで、これではたして戦闘ができるのかとあわれに思えた。大正11年、12年兵というから、私の生まれたころの兵隊である。

彼らが通過したあとには、手榴弾や小銃弾がかなりすててあった。それをひろいながら行軍し、われわれは防毒面と鉄兜をすてた。五十五師団の兵は毛布、鉄兜、防毒面を大切に持って行軍していった。

日本兵たちは、ビルマの至る所を、行ったり来たりしている。
それが、ビルマ全土に広がる。
私が慰霊に行くのは、タイであり、多くは、ビルマとの国境沿いである。
タイ北部は、ビルマの東北部に当る。
出掛けるのは、そこまでが、限界である。

ビルマの北部は、中国と接する。
クリー、荷物持ちとして、多くのタイ人、中国人も、参加していたはずである。
参加というより、強制的に日本軍に、協力させられたといってよい。
であるから、戦争犠牲者という時、そのすべてを含めて、言うのである。

日本兵のみではない。
すべての、戦争犠牲者を追悼慰霊するのである。

第一大隊主力は、マユ山系の西側へ挺進隊となって出撃し、わが第一中隊は遠くインパール作戦に参加のため反転して、第一大隊とはなれラングーンへ向うことになった。
二百十三連隊を追及のため、二月下旬、中隊全員が合流し、モードク山系西側から行軍を起こした。アポークワにいたる途中、ドンラン付近を通過したが、四キロもはなれた戦友の墓地へのより道はゆるされなかった。

敵はカラダンからキョクトー付近まで、川島部隊を圧迫し進出してきた。アポークワは指呼の間であり、機関銃音が聞えてくる。転進するわれわれは油断することなく、道路の両端にわかれて行軍し、第一線を後にした。
隊員はラングーン行きを心から喜べなかった。第一大隊の各隊が、まだあとに残って戦闘中だからである。

二回目にわれわれが渡河を終わったとき、「爆音」という声に河岸から急いではなれ、草の中に隠れた。工兵の渡河は一時中止となった。

そこで、空中戦が行われていたのである。
英機は、六機で、友軍機は、三機である。

「がんばれよ、がんばれっ」
兵隊たちはみな応援する。ひろい空なのに、われわれの頭上でばかりやっている。
とつぜん、上流から一機が超低空で飛来し、河に渡した高さ十メートルの無線の下をぬけ、河面すれすれにグワーンと流れにそって飛び去り、見えなくなった。迷彩色にあざやかな日の丸があり、友軍機だ。水面までは四、五メートルがやっとなのに、猛スピードで屈曲したところをよくぶじで飛べるものとびっくりした。

上空でははげしい空中戦がまだつづいている。ふいに、友軍機一機が煙をはいた。機首が下がり、こちらの渡河点方向に突っ込んでくる。胴体まで真っ赤な炎と黒い煙につつまれている。
「友軍機だ」
機影が大きくなり、スピードを増しつつ落下してきた。
「早く飛び出せ、下は友軍だぞ」
「出ないぞ」
戦闘機はさばにあった集落の池の築堤に、火だるまのままズドーンと激突し、あたりには炎がとんだ。おそらく機上で戦死したにちがいない。渡河前の中隊員が、池に向かって駆け出すのが見えた。
空は静かになり、やがて渡河してきた隊員が飛行隊将校の遺骨を胸に下げていた、悲壮な戦死だった。昼夜連続の行軍中、通過点のミヨホーン飛行隊に遺骨をとどけた。

陸上戦、空中戦・・・
共に、壮絶である。
悲壮である。

戦争とは、死ぬことなのである。
生きることを、考えない戦争というもの・・・









posted by 天山 at 05:20| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月14日

玉砕67

やがて船から汽車に乗り換え、3月7日、ラングーンに到着した。そこで弾薬、糧食を受領し、いよいよインパールかと覚悟をきめ、遺書を書いた。年老いた祖父母の身を案じつつ、強大に後半を託し、仲良く助け合って暮らすように書きしるした。これで最後とは書かなかったが、弟が二人もあり、万が一戦死しても心配ないと思う。

状況は急変した。インパール作戦に参加するための追及は中止となり、3月7日、即日、出動命令を現地でうけた。ただちに出発準備だし全員が緊張する。
敵は3月5日、マンダレー・ミイトキーナ線の要塞、カーサ付近に空挺部隊を降下させたので、第一中隊は軍直轄となり、緊急湯送によって攻撃に向うことになった。われわれはこれを空挺部隊討伐と称していた。ウィンゲート空挺部隊討伐の「九号作戦」である。

わが軍はインパール作戦の開始時で、攻撃部隊がなく、各方面から少数の兵力が向けられた。このような状況のため、一中隊は休む間もなく列車に乗り込んだ。敵の制空権下にあり、敵機の襲撃をうけて退避と乗車を繰り返し、寸断された鉄道を自動車に乗り継ぎ、インドウを目指し前進した。

この、マンダレーは、ビルマの中心部に位置する。
イワラジ河を720キロほどさかのぼったところにあり、ビルマ第二の都市で、最後の王朝があった場所として、有名である。
最近は、中国などからの、様々な物資、資本が流れ込んで、急激に近代化が進む。

更に、街自体も、広がっている。

この、マンダレーでは、日本軍と連合軍の、激しい戦闘が、繰り広げられた。
幅70メートルの掘りによって囲まれた王宮も、市街戦により、大半が炎上した。
現在は、修復され、観光の名所となっている。

その、イワラジ河にかかる、アパ鉄橋は、マンダレーの郊外と、イワラジ河対岸の、サガインを結ぶ鉄橋である。
サガインは、北部の激戦地に至る鉄道と道路、双方の起点となった場所である。
アパの鉄橋は、軍事上極めて重要な橋である。

戦時中は、イギリス軍に爆破され、日本軍は、最後まで修復することが出来ず、物資の運搬に、大変苦しんだのである。

マンダレーにつくと宿舎に入り、中隊梱包のほか戦闘用以外のいっさいの私物などをまとめた。日の丸の寄せ書き、千人針、操典類、預金通帳、軍隊手帳にいたるまで梱包し、戦友の遺骨もそこにおいて荷物監視の兵が残った。
薄暮れ前、われわれは宿舎を後にして、王城の外濠を右に見て行軍の途についた。濠の水面にうかぶ睡蓮や城壁が、どこまでも長くつづき美しかった。
アパの鉄橋はなかほどがV字型で破壊され、下流から工兵隊による門橋でサガインに渡った。すでに数少ない機関車が待機しており、小用するひまさえないくらいである。前線にちかづくほど鉄道は破壊されているが、トラック部隊との連携は敏速円滑で、たった一個中隊の移動にしては待遇がよすぎた。

ラングーンを出発しから二日目に、インドウ付近に到着した中隊は、ただちに鉄道警備隊の救出に赴いた。そこでわれわれが乗り込んだのは、軽列車と呼ばれている、二両編制のガソリンカーだった。・・・

われわれは明早朝、方面軍参謀の北沢少佐とともに、自動車でモールの敵地まで行くことになった。昼間の敵機の襲撃は確実だから、何台か運のない車はやられると覚悟した。

夜が明けると道路両面の山林内で偽装をほどこし、そのまま乗車を待っていた。太陽が高くなり、敵機の危険は倍増した。

とつぜん、爆音がわれわれに向ってくるのを予感し、全員、道路をはなれ山林内へ走りこんだ。爆音がグワーンとくるなり、ドンパーンと撃ってきた。みんな太い木の反対側にまわって盾にした。

いままで戦闘機は機関銃だったのに、敵は機関砲か速射砲も装備しているようだ。薬莢の太いのが木の枝にあたり、カランカラ、ドバーンと私の目の前に落ちた。

敵の激しい攻撃に晒されたようである。
文面だけでは、想像がつかない。
この場所が、激戦の場所となったということ。

現在、サガインの街の山の頂には、多くの慰霊碑がある。
ビルマ、マンダレー付近は、慰霊の巡礼地である。

やがて敵機は銃撃いっぽうに変り、執拗に攻撃を繰り返した。そのたびに、バシッバシッバシッと枝が折れて、バサッと頭の上に落ちてくる。右から左からと休む間がない。ダダダダダー、ビシビシッ、ブスッブスッと、地面の山土が草といっしょに飛び、グワーンと爆音が遅れて頭上を飛び去る。終わりかと思うと、また来て撃たれる。ずいぶん長い時間に感じたが、やがて機銃弾を撃ちつくしたのか敵機はいなくなった。
頭上の敵機はさったが、周辺は爆音が絶えることがない。このときの襲撃で、木村芳郎兵長が大腿部貫通の負傷で後退した。

3月12日、われわれは空挺部隊攻撃隊長の長橋中佐の指揮下に入り、17日の夜、モール陣地攻撃に参加した。第一中隊は陽動作戦をとり、菊十八師団の一隊が攻撃したが、成功しなかった。3月21日も菊部隊が攻撃したが、犠牲者を多くしただけであった。
わが中隊はおもに夜間、敵陣地の正面・左右両翼と周囲をまわったが、兵には徹底した説明はなく、ただ移動し歩きつづけた。モール攻撃準備行軍中の十六日は夜半、敵地雷のために大串守上等兵が戦死した。

3月26日、第一中隊池田小隊が、モールの敵前数百メートルの捜索拠点に出ていったが、翌27日の夜明けに、敵の急襲をうけ全滅にひとしい損害をだした。

次第に、日本軍の不利な状態が続いてゆく。
当初の勢いは無い。
つまり、英軍が、相当の覚悟を持って、戦闘を始めたということ。

「どうした!」
顔面は硝煙のためか黒ずんで、襦袢がやぶれている。恐怖と緊張のため、声がかすれる。
「池田小隊全滅だ」
「よく来たな、後は」
「みんなやられた」
「そうか、治療してもらえ」
だれかほかにも帰ってこないかと、手に汗して待った。
「来たっ、二人だ。迎えに出ろ!」
一人が負傷した隊員を支えながら歩いてきた。駆け出していき、交代しながら、
「後はどうした」
「どうなったかわからない。全滅だ」
「不意討ちで、手榴弾を投げ込まれ、自動小銃と機関銃で一斉射撃をくらったんだ」
「歩哨が発見できなかったのか」
「歩哨がさきに撃たれて、小隊はぜんぶ低いところに入っていたんだ」
歩哨以外は眠ってしまったのだろうか。一瞬の奇襲をうけて、池田小隊長以下多数の死傷者を出し、二小隊は壊滅してしまった。
これまでともに励まし、慰めたすけあってきた同年兵、戦友、初年兵を一度に失い、呆然とした。負傷して動けない身体に、とどめの銃撃をうけた戦友もあったろうと悲嘆にくれ、涙が出た。

夜も昼も、上空に敵機が見えないときはない。どの方向へ移動しても、頭に敵機の帽子をかぶって歩くようだ。

敗戦に向っているとは、知らずに、命を落とす。
散華する。
玉砕である。

posted by 天山 at 06:13| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月15日

玉砕68

当時、日本陸軍の指導者たちは、早くから、インドに目を向けていたと言う。

インドへの進攻で、戦況を好転させるというものだ。
大本営は、昭和17年の、21号作戦の立案で、はじめてインド進攻を、作戦として、具体化した。
その後、昭和18年3月、東条陸相が、河辺ビルマ方面軍司令官との間で、インドへの働きかけを念押ししている。

その昭和18年、日本は、インド進攻を推進すべき状況に置かれた。
つまり、太平洋方面では、ガダルカナル島を攻略した、米軍が攻勢に転じている。

5月には、アッツ島、8月に、キスカ島を奪回。以後、11月には、中部太平洋の、マキン、タワラを占領される。

この太平洋での、米軍の反攻作戦は、日本の資源輸送を脅かして、国内の工業生産力は、日増しに、低下していった。

悪化する、戦局を打開するため、首相になった東条は、太平洋とは反対の、ビルマに目を向けた。

ビルマをテコに、イギリスの屈服を図るというものである。
それを、実行するため、8月1日、パー・モーを首相として、ビルマを独立させる。

更に、この頃、独立運動に動いていたインドを、刺激し、イギリスの戦略に揺さぶりをかける狙いである。

インド独立に関しては、別の工作も行われた。
インド国民軍の結成である。

それは、昭和16年12月に始まった、マレー進攻作戦の際に、大量に捕虜にした、インド兵たちを懐柔し、インド独立を国外から目指すために結成させた、インド人部隊である。

日本の軍司令部は、インド国外に亡命している、独立運動家、チャンドラ・ボースを日本に招き、インド国民軍を母胎とする、自由インド仮政府を組織させた。

7月には、シンガポールで、インド独立連盟大会が開かれ、東条首相は、チャンドラ・ボース総裁と共に、インド国民軍を閲兵した。

インドを圧迫するための戦略を進める東条にとって、インパール作戦は、その突破口を開くものになる。

8月に、大本営が、作戦準備の指示を出したのは、こうした動きからである。

更に、11月、東条は、フィリピン、ビルマなど、アジア諸国の首脳と共に、チャンドラ・ボースを東京に招集し、大東亜会議を開いた。
これは、最初のアジア会議である。

大東亜共栄圏内の、アジア諸国が一致して、連合軍に立ち向かうというものであり、民族の独立を死守しようとするものである。

インドの、チャンドラ・ボースは、後に、インド独立の父として、英雄と讃えられることになる。

ただ、そのインパール作戦は、あまりにも、犠牲が大きかったのである。

更に、無謀な作戦であった。

27日、インドウの武兵団司令部が敵の急襲をうけ、中隊に急遽、出動命令がくだった。夜間の強行軍で夜明けに山下大隊とともにインドウに赴いた。到着と同時に分隊長は、私の下痢のはげしさを見かねて、診察をうけるようにと言われ、橋本佐内戦友と兵・病院の診察をうけた。二人ともアメーバ赤痢で、翌日入院させられた。
これで二度目の入院になるが、どうしようもない。軍医でいる時間がないほど、日に三十数回もの血便と粘液便になやんだ。腹痛がひどく、キリキリと腹の中をえぐりとられるようだった。

入院して数日後、病院の向かい側高地の山林内で、とつじょ、機関銃の発射音がした。敵の進出はここまでおよんでいるのだ。
すぐに小銃を持ち、かた手で痛む腹を押さえて配置についたが、銃撃は一回だけだった。山林方向を透視したが、敵影も発見できず物音もなかった。
一刻が経過して爆音があり、やがて敵機が焼夷弾の投下をはじめた。さきに銃声のあった付近に落下傘がいくつも落ちて燃え出した。

乾期の山林は推積した木の葉と枯れ枝がおびただしく、類焼の危険を感じた。みるまに燃え広がり、とつぜん、大音響を起こした。ダダン、ズドン、ズズンとものすごい爆発だ。とたんに、破片がわれわれのまわりに飛んできた。

まさに陣地が爆撃と砲撃を同時にうけるのと同じだった。堅固な防空壕に破片がつきささり、そのまま落下する大小の砲弾まであり、三時間も誘爆を起こし、赤い炎と煙が上空にたちのぼった。
英印軍の斥候が、わが軍の弾薬庫を発見して報告し、爆発炎上させたのだが、日本軍陣地内に深く進入したのは、敵ながら天晴れだと思った。これで友軍は菊十八師団はもとより、第十五軍のインパール作戦などにも重大な影響をおよぼすことになったのだった。

この、マンダレー付近の戦闘は、ビルマ戦線、インパール作戦に深い影を落としたのである。
それほどに、激しい戦闘だった。
作者が、その生き残りであり、書き残す意義が多いにある。

3月30日、私が入院後、第一中隊は山下大隊とともにインドウ飛行場を攻撃し、これを奪還したが、矢口晴信曹長が戦死した。そしてインドウ湖ちかくの掃討作戦では本山清伍長が戦死した。・・・

3月31日、中隊はモール陣地の死守を命じられた。激しい砲撃、銃爆撃のあと、地上軍の猛攻は数度におよび、部隊はそのつど撃退し、敵に多大の損害をあたえたが、わが中隊もまた、増田少尉戦死のほか多数の負傷者をだした。
そのさい、中隊長は濠にもぐったまま動かず、各陣地は混戦になった。各個の連絡もとれず、増田少尉は戦死、各部隊でも負傷者が続出した。

四月上旬に武兵団が到着し、病院付近から前線へ出て行った。第一次総攻撃、第二次、第三次攻撃も成功せず、そのたびに甚大な損害をうけて、戦傷者が血だるまになって、ぞくぞくとトラックで運ばれてきた。

負傷者の話しによれば、突撃直前に照明弾を上げられ、突入すると各種自動火器によるいっせい射撃をうけ、さらに接近したところを火炎放射器で焼かれ、攻撃のたびに大きな損害を出したという。

激戦の場所、マンダレーである。
そして、今は、追悼慰霊の場所となる。
posted by 天山 at 06:14| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月16日

玉砕69

わが軍は砲の援護射撃もなく白兵戦でのみ攻撃した。そのため、敵の陣地には無数の友軍の死体がかさなったという。攻撃に失敗した大隊長は、林兵団長に、
「生きて帰るな、死んで来い」と殴られ、罵声をあび、辱めをうけた。
「わが生きることは、部下を死なせるばかり」と、再度の突撃には敵前で大手をひろげ、大隊長は敵の銃弾を立ったままうけて倒れふしたという。
攻撃不成功の状況で日が過ぎ、五月十日、一夜にして敵は陣地を撤退し、敵兵の姿が消えた。
私は中隊が移動するのを知り、退院を願い出た。病院では後送するといわれたが、中隊とともにインパールへ行きたいと懇願し、多量の薬を受領した。四十日間の入院は長かった。同時に発病した松岡友治上等兵、茂呂一郎一等兵は病死した。

インパールへ行く前から、このような状態だった。
それが、インパールへの道のり、そして、敗北、更に、敗走の悲劇である。

英印軍がチンドウィンに河西岸近くまで進出していたころ、大十五軍司令官牟田口中将は、各師団長の意見をしりぞけ、三週間の糧食弾薬で、四月二十九日の天長節までにインパールを占領すると豪語した。
だが、その日はすでに過ぎ、五月中旬になっていた。各部隊は英印軍をアラカン山系に追撃したが、すでに食料弾薬の欠乏と兵員の布告に苦しんでいた。
わが第二百十三連隊主力の第二大隊は、歩兵団長山本少将の指揮下にあり、モーライク北方からウェーク、タム、モーレを攻撃、パレルに向い、アラカン山系の峻険な山頂に構築された堅陣にたいし、一山ごとに肉薄攻撃による熾烈な戦闘をつづけていた。また、第一大隊の主力は、いまなお遠くカラダン方面で、「ハ号作戦」に参加しており、悪戦苦闘中だった。

わが第三十二師団は第二百十三連隊をはじめ、第二百十四連隊、第二百十五連隊とも、全滅にちかい打撃をうけたにもかかわらず、五月十三日、牟田口軍司令官は戦闘指令所を第三十三師団の後方にすすめ、直後、師団の指揮をとった。

こうした状況下、私たち第一中隊と機関銃小隊は、連隊追及の強行軍をはじめた。
イエウからムータイクの間は、連日の雨で道路は泥濘と化して、兵隊たちはトラックからおりて歩くという状況であった。ボンネットの短い車が動かなくなった。シボレーとトヨタが健闘したが、ついに車をすてて、泥の道を行軍することになる。

敵機の襲撃は増加の一途をたどり、昼をさけて薄暮から屋明けまで行軍をつづけた。雨天のさいは敵機が飛来しないので、昼夜不眠で前進する。背嚢がたいせつな兵は天幕でつつみ、身体は汗と雨水でびしょ濡れとなった。乾かぬ体のまま谷間でしばしの眠りについた。
そうした連日の行軍で疲れたころ、第一線から負傷兵が退いて来るのに出会った。日ごとにその数は増し、その様はあまりにも哀れであった。

患者ばかりがひとかたまりで来る。その一団からも離れ、一つまた一つと杖をつき傷ついた足を引き摺り、のろのろとよろけながら動かぬ自分の脚を見ては立ちすくんで、ぼんやりと前方を見つめる兵隊がいる。その間を通り抜け、がんばれよと声をかけてやるが、前線へ向うわれわれの出来るかぎりのことであった。

前線の模様は悲劇的なことばかりが耳につき、暗い雨期の雨とともに、われわれの心まで暗くした。

自分たちが、出掛ける場所から、戻る兵士たちを見て、哀れに思う。
つまり、それは、明日の我が身の姿なのである。

ビルマ戦線の撤退ほど、悲劇的なものはない。
また、インパール作戦の敗走の様である。
未だに、ミャンマー、タイ国境地帯には、彼らの遺骨が眠る。

撤退の道は、タイ、チェンマイの野戦病院へと、至る道である。
チェンマイ郊外の地では、今も、日本兵の遺骨が出るという。

「牟田口が師団長まで更迭した」
「突撃すると、中隊は全滅した」
「敵陣地を占領しても、砲爆撃で濠が掘り返されてしまうんだ」
「食べるものがないんだ。戦うにも兵隊がいない」
後退していく兵はいう。しかし、われわれは命令であれば火の中へも行くほかはない。兵の命は羽毛よりも軽し。最後の散る場面をいくどとなく想像した。

戦記を先に進むと、悲惨のこと多々あり。
しかし、その悲惨さが、戦争である。

カラダンを出発したとき百数十名あった中隊員は、モール空挺部隊の攻撃をへて、現在七十余名がなにも知らず、地獄の入口へと進んでゆく。そして戦い敗れ撤退するとき、ふたたびこの橋を渡れたのは、わずか二十名たらずであった。

それでは、話しを進めて、インパールにての様子である。

16日の薄暮、山砲の支援をうけたわれわれは四四九二高地に突入占領し、独立速射砲隊が確保した。部隊はさらにパレルに向って進んだ。
わが第一中隊は先発し、ランゴール付近に到着した。敵情を山上から偵察し、濠を掘りつつ陣地を確保して、パレル方面をはじめて見た。なんと遠かった道のりか、だれもが無言で見つめるインパール平野だ。・・・

やがて、この陣地も一斉射撃をうけるのか、日一日と弱る身体を思い、戦わずして全滅するよりは、敵中へ斬り込んで死にたいと、だれもが真剣に考えた。
各個濠などどれほどの効果があるだろうか。防空壕のような陣地濠など掘る余裕も気力もなかった。

いよいよ米も底をついて、なにも食べるものがない。やがて草と木だけを食べ飲んだ便は、血便になってしまった。脚気、マラリア、赤痢の併発者が多くなり、医療品など皆無のわれわれは、下痢をとめたい一心で炭をかじった。
一両日はさいわい敵に発見されなかったが、ときをへずして、敵の斥候が麓に進出し銃声が起こった。

6月17日の夜、防音装置を完全にして、静かにジャングルの谷を前進する。数時間後だれが死に、だれが生き残れるかなどとは考えなかった。ただ歩いているあいだは、なんとなくホッと気が休まる。このときまでに中隊員は、何人かが病気と栄養不良でたおれ、三十数名にへっていた。

ここにいたっては雑念も起きない。思考力低下のせいだろうか、それとも戦闘をかさねた結果だろうか。ただはっきりしていることは、生きるのを許されない状況と、長くは保てない体調を考え合わせ、遅かれ早かれ死ぬと決めていたことだった。

これが、当時の戦争である。

物資の補給を徹底して考えなかった、無謀な作戦、インパールだった。
戦争という、全体主義の考え方の、只中で、兵士たちは、ただ、黙々と、死ぬことを覚悟して、戦闘行為を続ける。

何にせよ、実に、憐れな事である。






posted by 天山 at 05:54| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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