2015年08月28日

玉砕63

ビルマ戦線、そして、インパール作戦に参加した日本兵、井坂源嗣氏の、戦記を紹介している。

日本軍は、最初は、勝ち戦だったが・・・

射撃をやめてしばらく対峙した。
そのうち、だれかが大声で何か呼びかけた。日本兵のインド語のようだが、われわれには分らなかった。同年兵の二中隊の森島上等兵が習いたての言葉で、
「投降せよ」と言ったのが役立ったことが、後でわかった。
激戦は終わった。百三十余名の捕虜と兵器多数を捕獲し、同数以上の損害をあたえた。第十パルップ連隊の第八大隊残余の兵は、少数に分れモードク山系内を西へ敗走したのだった。

戦いが終わると、急に暑くなったのに気づいた。やがて、どちらの小隊、どちらの山砲が敵を多くたおしたかくらべてみたくなり、中隊員は戦場見物をした。
右翼山砲の正面は水無川がひろく、はじめ敵兵は南から追撃をうけ、われわれに気づかず退却してきたために、死体は前面いっぱいに不規則にころがり、すでに蝿が黒くたかっていた。わが小隊と山砲は北側に位置していたため、敵との接触は右翼とくらべ少なかった。

捕虜のところへ行ってみると、担架の上に負傷したイギリス人将校が寝ていた。頭と足を包帯でまき血が赤くにじんでいて、かなり重傷のようすであった。まわりのインド兵がうまそうに缶詰を開けて食べている。戦いに勝ったわれわれより、すばらしい食事がしゃくにさわる。
インド兵がわれわれに、「イングリ、ノー」という。イギリス人中尉には食物もあたえない。水をくれといっても無視した。さきほどまで上官としていっしょに戦ってきた仲ではないか。将校を哀れに思い、向きをかえ、
「このバカ野郎っ。それを食わせてやれ!」
缶詰と水筒をむしりとらんばかりに、大声で怒鳴りつけ、軍靴を踏み鳴らすと、インド兵はおどろいて将校に差し出した。

捕虜は武装を解除し、連隊にひきつぐため十余名の護送兵が着剣してついていった。なかなか屈強な体格のインド兵ばかりで、日本の兵隊が見劣りする。後方の川にある大発艇までいく間に逃亡されないかと心配しながら見送った。
陽は西にかたむき、日中の暑さがやわらぐころ、英印兵の死体はみるみる変色し、蝿が真っ黒に群がって、カラダンカラスが上空で騒いでいる。死人が分るのか、やがて獰猛な禿鷹が舞い降りて屍の腹の上にたった。こいつらはかならず目をえぐりぬき、口を食べつくし、つぎに服をやぶって腹をさく、そして臓物を思いのままに引き出して食べる。その貪欲さは目をおおうばかりだ。
立場がもし反対であればと思うと慄然とし、憎いと思った敵より禿鷹が悪魔に見えてきた。小銃のねらい撃ちで一羽を殺したが、何十羽かの残りは逃げるそぶりすらせず、平然とむさぼり食っていた。

これが、敵だからいいが・・・
身内の日本兵ならば、どう思ったのか。

戦時では、考えられないことが、起こる。
この死全の有様も、その一つである。

だが、ビルマ戦線では、日本兵も、残酷な死に目にあっている。
河で、ワニに襲われて死ぬ。
濁流に飲まれて死ぬ。

死が、日常と化すのである。

更に、病気で死ぬ。
餓死で死ぬ。

戦闘で負傷したまま、治らずに、死ぬ。

無念である。
しかし、その時代に逆らうことが出来ないのである。

日本は、敗戦後、70年、戦争をしていない国になった。
それは、僥倖である。
そして人は、それを、平和と呼ぶ。
戦争の無い状態を平和と呼ぶのである。

それでは、その平和な状態を維持するために、どんな努力をしているのだろうか。
大半の人は、我関せずとしている。
戦争があったから、平和を貴ぶことが出来るはずなのに、それを、知らない人が多い。




posted by 天山 at 06:05| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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