2015年08月26日

玉砕61

インパール作戦
この戦場の有様について書きたい。

私は、このインパール作戦で、撤退、敗走した兵士の追悼慰霊のために、何度も、タイ、チェンマイ、そして、日本兵の遺体が数多くおかれたという、タイ北部、ミャンマー国境付近へ出掛けた。

思い入れが、特にある。
戦場は、何処も、地獄の形相である。
そして、このインパール作戦という、無謀な作戦の、その末に、敗走した兵士たちの悲劇は、簡単には、書き切れない。

白骨街道と言われた、敗走の道々・・・

何故、そのような無謀で、責任のない、作戦が実施されたのか・・・
今も、私には、よく分らないのである。

その作戦の源を遡ると、昭和17年7月に、突き当たる。

ビルマ国内を平定し、更に、周辺の地域を占領したとき、その余勢を駆って、東インドに進攻するという、構想が、南方軍司令部に、宿ったのである。

しかし、このときに、第十五軍の指揮下にあった、各師団長は、この大作戦、二十一号作戦と称した、準備命令に接して、一様に当惑の様だったという。

特に、中・北部ビルマの防衛を担当し、その地形の詳しい、当時、第十八師団長の、牟田口中将が、難色を示した。

その後も、検討されたが、結局、兵力不足と、補給の困難を理由に、賛成出来ない、ということになった。

それが、一転して、インド東部進攻となった原因は、イギリス軍の反攻気勢が、挙げられる。
一旦、ビルマを撤退したイギリス軍が、態勢を立て直して、各方面に反攻の気勢を示したのである。

このような情勢で、大本営陸軍部は、ビルマ方面の兵力を、従来の一軍、四個師団から、三軍、九個師団に増設するに決し、それらをビルマ方面軍として、支那派遣軍総参謀長川辺中将を、最高指揮官に任じた。

更に、新設軍の増設と共に、第十五軍司令官だった、飯田中将が、内地の防衛総司令官部付きとなり帰国し、その後任に、第十八師団長、牟田口中将が、新補された。

牟田口中将は、何と、慎重論を捨てて、強硬にインドへの進撃を主張し始めた。
川辺方面軍司令官も、これを認めるのである。

悲劇の、始まりである。

昭和18年6月下旬、ラングーンの方面司令部において、兵棋演習が行われた。
大本営、南方軍、第三航空軍の幕僚をはじめ、在ビルマ全軍の首脳が、参加した。

その結果、牟田口中将の主張する、遠くアッサムにまで進攻するという構想は、最初から論外とされ、出された結論は、インパールを急襲覆滅し、防衛線を、インパールの西側、印緬国境山系に、推進するということである。

問題になるのは、一番重要と思われた、補給が懸案ということで、未解決のままに、残されたことである。
これが、後に、重大な失敗になるのだ。

そして、アッサム進攻案が、論外として研究の対象から外されたにも関わらず、実際の、戦闘部隊の最高指揮官である、牟田口中将の、功名心に微妙に反映し、その後の軍の作戦に、その影響が認められるのである。

大本営陸軍部は、昭和18年9月初め、インパール作戦準備について、正式に指示し、これを、「ウ」号作戦と呼んだ。

19年3月、作戦は実施され、4月3日、コヒマ~インパール道を遮断し、6日、インパール~ディマプール道上の要衝コヒマを占領する。
ここまでは、順調に進んだ。

しかし、その後、日本軍は、急激に戦力を消耗し、逆に敵の抵抗が、日増しに強化された。5月上旬には、日本軍の攻撃は、頓挫したのである。

その、根本的原因は、補給手段の不備である。
進攻開始以来、一ヶ月近く、全く糧食、軍事品の補給を受けない師団が、続出した。

更に、三師団長の罷免という、前代未聞の不祥事を出したのである。
大本営は、7月4日、作戦中止を決定した。

このように、簡単にまとめるが・・・
兵士たちにとっては、筆舌に尽くし難い苦難の、作戦だった。

その頃は、モンスーンの季節であり、連日の豪雨、すると、地形が一変するのである。

すべての河川、渓谷が巨大な流木を浮かべて、氾濫し、奔流し、道路は崩壊して、一切の交通は遮断される。
その中を、退却した兵士たちの苦労は、言語に絶する。

この作戦での、戦死者数は、三万五千名を超える。

その撤退、敗走の道を、白骨街道と呼んだ。

この説明だけでは、実に足りない。
そこで、再び、生き残りの兵士の戦記を、掲げて、追悼する。

弓兵団インパール戦記
井坂 源嗣
大正12年2月3日、茨城県に生まれる。
昭和16年2月千葉県佐倉の東部第64部隊に入隊する。
昭和19年5月、インパール作戦に参加する。
20年1月より、モニワ、イワラジ援護の任につく。モンメール南方防衛中に敗戦。
21年5月、復員。陸軍伍長。

この方は、中国、そして昭和17年7月より、ビルマ戦線赴く。
インパール作戦以前の、ビルマ戦線に就いているのである。
昭和18年1月には、有延挺進隊員として、アラカン踏破後、アキャプ方面で、作戦に従事している。
インパール作戦以前の、ビルマ戦線にもいたということである。

生き残ったという、思いは、実に複雑である。
戦友の死に多く出合い、悲劇を通り越して、その悲惨な戦争を報告している。



posted by 天山 at 05:29| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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