2015年08月25日

玉砕60

ある豪雨の夜だった。天幕の中の私たちに、雨漏りとしぶきが容赦なしに飛んでいた。雨外套を頭からかぶって、この激しい雨の音にうつらうつらしていると、雨の中からうめき声が聞えてきた。
マラリアの高熱に苦しんでいる声で、隣の幕舎からだった。声が次第に乱れてきた。普通でないがこの雨と闇では動きたくない。たとえ行ったところで薬一つあるわけじゃなし、処置なしだ。私はまた眠り込んでしまった。

夜中になって、また同じようなうめき声で目をさました。雨はまだ続いている。風の方向が変ったのか、声はずっと近くなっていた。まったく地獄へでも引き込まれるような声だ。気になりながらも、私はまた寝込んでしまった。

隣との間の木を回ると、その根元に手が二本伸びていた。一人倒れている。私はすぐに、昨夜、夢うつつで聞いた声を思い出した。
「そうだったのか、水が欲しかったのか」
最後の水が飲みたくて、苦しい中を天幕から這い出し、雨の中に出て来たのだろう、すまんことをした。
いくら飢えに迫られ、雨に濡れていても、私はまだまだ水を飲ましてやるぐらいできたのに。何故起きて、手をとってやる気持ちにならなかったのだろう。顔の泥を落としてやりながら、私は後悔のきびしい情に、胸をしめつけられた。
我々は、人の死、しかも戦地では格別の仲である戦友の死にさえ、もうこんなに無情になってしまった。

私の隊では、死者が出ても、埋葬の仕様もないので、天幕に包み引き潮をみて水葬してやるのが、もう精一杯の手向けだった。私たちには一般の塩さえない。このため川水に一番塩分の多くなる満潮の頃をみて水を汲み、それを飲んで、身体の塩分を補っていた。この水を汲みに行くと、折からの上げ潮で、水葬された仏が浮いていることが多かった。それほど毎日の死没者がふえている。
私たちは、この死地を、一体どうして生き抜けばよいのだろう。

この戦記も、そろそろ、終わりにするが・・・
延々と続く、絶望的状態の中で生きるということ。

もうこれは、戦争というより、死の行軍である。

シンヨリまでは行軍位置がわからず、進路の不安で、野たれ死にを覚悟したものだった。それでも、シンヨリに着けばなんとかなるだろうと、原住民集落に一縷の望みをかけながらイドレへ出発するのだとの希望にすがってきた。
だが、サゴ地帯がこの惨状である。夢にまでみるイドレへ一歩近づけば、それだけ私たちの行く手をさまたげる物が大きく立ちふさがってくる。私たちが全滅を覚悟したのは、このためだった。
兵隊も一難去ると、またそれ以上の難事が私たちを待ち受けているのを知って、全てを私たちに任せている。私も、筏にはがっかりしてしまった。伊藤大尉も一言も言わず私と肩をならべながら、天幕へ帰った。
この途中、私は「おや?」と立ち止まった。
シンヨリに残ったはずの小出軍曹が、こちらへ来る。
「おーい、小出軍曹、ここだここだ」
「・・・」
「一体、どうしたんだ」
「シンヨリの糧秣集積所が夜襲されました。それで私たちも追い出されてしまった。それまでは次々到着の部隊へ米を配っていたようでしたが、夜襲されてからの到着部隊は、米の配給も受けていません」
「無線機が到着しているだろう。イドレと連絡がとれているだろう」
「それどころでないですよ、無線機など来ませんよ。それに患者の薬だって来ませんよ。それで本隊に追及しろと言われて・・・」
「患者は」
「全員死にました」
なんということだ。あれほど米もある。薬も来ると元気づけて残してきたのに!
患者たちも、イドレへ行き着けば迎えにもどる、とさえ言ってくれていたのに!
私は悲嘆と怒りに、頭をかかえこんでしまった。気が狂いそうだ。

それでも小出軍曹は、本隊に会えた嬉しさに、一緒に来た二人を振り返って、
「ほっとした」
と涙をうかべている。ほんとうによく来てくれた。ご苦労さん。
「それから、副官殿の当番をしていた高橋上等兵が、一日歩いた所で落伍しました。歩けなくなったのです。シンヨリを出る時から食糧がなく、手当たり次第の拾い喰いでしたから、そのまま別れましたが、副官殿によろしく言っていました」
足の傷がひどく、とうとう歩けなくなったのだろうか。そんな者まで出発させるのは!
喰う物もないのに歩けなくなって、よろしくと言えば最後の言葉である。もしかしたら、私たちのサゴ自活を順調と思って、私の救援を願っているかもしれない。恐らくそうだろう。
私が元気なら、往復してたかが一日の行程だ、彼が歩けなければ背にしても連れて来たい。傷の足をかかえて、死を待っている高橋上等兵の髭の顔がまざまざと浮かんでくる。
「高橋よ、だが俺は行けない」
今は私だって次の一食のために、サゴを叩かねば何も喰えないのだもの。

この戦気は、東部ニューギニアでの、行軍の様子を詳しく記したものである。
さて、現在、そのジャングルに慰霊に出掛けられるのかといえば、無理である。

全く、人が入ることが出来ない場所である。
慰霊団も出掛けたが、そのジャングルには、近づくことも出来なかったという。

私は、この戦気の結論を、次の文章から読む。

この頃の死因は、栄養失調ばかりで、意識だけが最後まではっきりしていて、ぱたんと死ぬ。しかも死の数日前に死相の出るのが普通で、中には耳鳴りがしたり、耳が遠くなったり、また急に聞えなくなったりする。毎日顔を会わしている者でも、死相が出ると、急に人相が変り、誰だったのかなと首をかしげることもある。

そしてこの死相を見ても、耳の変調を知っても、その人の後ろ姿を淋しく見守る他ないのだ。こうして一人、二人と私たちの命が湿地の底へ吸い込まれていった。私もいずれはこの人たちの仲間に入るのだろう。そのためか、この頃では、もう誰が死のうと、一日に何人死のうと、慌てなくなった。

一万二千名・・・
銃を捨て、600キロの道なき道を、餓死と戦いつつ、散華した兵士たち。
これも、戦争である。

二度と、このような、ことは、しないで欲しい。
作者が言う。

人を怨むまい。私は戦争を導いた日本の運命を怨む。

この日本の運命とは、何か・・・
何度も、繰り返してきた言葉であるが・・・
アメリカに引き摺られて、戦争に巻き込まれたのである。
そして、あくまでも、日本は、自衛のための、戦争をしたのである。

戦争に至る経緯については、別エッセイ、国を愛して何が悪い、天皇陛下について、その他を、参照ください。




posted by 天山 at 06:03| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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