2015年08月11日

玉砕55

植松氏は、ヌンホル島から大陸に渡り、ジャングルの中を、行軍することになる。

今日の行程には、かなり長い崖が続いている。この上を歩くか、下にするかが問題だが、歩くのには、引き潮を利用して下を行くのが楽だ。
しかし問題は敵機だった。海岸線の哨戒に、毎日やって来る。逃げ場のない崖の下で、敵機に見つかったら、それこそ大変だ。とにかく崖まで行ってみることにした。
崖は思ったより高く、二十メートルぐらいあったが、いい具合に引き潮で、砂浜が出ていた。私たちは大急ぎでそこを歩きだした。敵さんは、午前中ゴロゴロしているわけだろう、まず来ない。だが昼からは油断できない。

崖下は岩もあるし、所々ほら穴もある。これなら敵が来ても大丈夫だろう。そのうち昼近くになった。敵機もそろそろ出る頃だ。
やはり不安になってきた。いくら慣れていても撃たれるのは気持ちのいいものではない。とうとう崖をよじ登ってジャングルに入ることにした。最後の一人が登り終わるまでに一時間以上もかかったろう。はっとして汗をふいていると、思った通りだ。爆音がしてきた。時間も昨日と同じ頃だ。私たちは思わず顔を見合わせた。
「早く登ってよかった」
「あのまま歩いていたら、今頃ヒヤヒヤだ」
しかし、私たちはハッとした。それは、今朝から見え始めた漂流船だった。でも誰も双眼鏡を持っていない。私のはケースだけで、中味はマリクワリに残して中に煙草をつめている。確かめようがないので、初めは敵の水雷艇と思ってドキンとしたものだ。・・・

漂流舟に突っ込んだ敵の編隊は、とうとう銃撃を始めた。先頭機が旋回の姿勢に移り、舟を囲んで銃撃のしぶきが何本も海面に尾を引いた。編隊が船の上を通り過ぎたとたん重油タンクに引火したのだろう。パッと火を吹き船は黒煙を上げはじめた。
「もう駄目だな」
あんなに撃たれては、船体も蜂の巣だろう。燃料があるところをみると、機関の故障だったのだろうか。
まだきっと生存者がいるのに違いない。敵機はまた舞い降りて黒煙の船をめがけて、全機銃撃を始めた。そのうち目標が、船から次第に海面へ移った。そして海面への銃撃範囲が拡がっている。

やはり生存者がいたのだ。海面には火の船から逃げ出した人たちが浮いているのだ。それを狙って、海面すれすれに下り、銃撃を浴びせては飛び上がり、旋回してきてはまた銃撃を繰り返している。
あの下では、恐らく漂流に疲れ切った戦友が、血しぶきを上げながら、一人一人海底へ撃ち沈められているのだ。私たちは息を呑み、歯をならしながら見守った。畜生め、力のない者に力を振るう残酷さだ。

だがこれを残酷、非人道といくら叫んでも所詮は戦争だ。弱者の抗議、敗者の言葉として踏みにじられ、勝者の作る法がその残酷を正当化するのだ。しかも戦争のつづく限り、この悲劇はくりかえされるのである。

戦争というもの自体が、残酷なものである。
その残酷さが、延々と続くことになるのである。
そして、死に行く兵士たち・・・
末期の水さえないのである。

そんな中で、絶望的な知らせが届いたことを、作者は知る。

7月13日、最後尾を行軍していた小張軍医が、海岸で遭遇している舟艇を見つけたので、薬をあさっていたら行李の一つから、東条英機大将が軍司令官にあてた手紙が出て来たと言う。
「・・・ニューギニア作戦は、余の不明のいたすところ、戦況は悲境におち、重大決意を要する段階に入った。以後の作戦は、ニューギニアを切り離して行わねばならなくなった・・・貴官の武運長久を祈る・・・」
という意味のものだったらしい。東条大将は軍司令官の四年先輩に当る。関東軍でも二人は同じ頃にいた。また東条大将が陸軍大臣の時、軍司令官は憲兵司令官をつとめた仲だから、恐らく軍司令官への私信だったのだろう。

それより大変なのは、その内容だった。以後の作戦はニューギニアを切り離して行うと言っている。作戦の拙劣を補うために、多くの人命をうちこんで、戦勝をかちとった例も戦史には多い。しかし何千、何万の兵力を投入し、その生死を賭けても敗北、ただ屍の山を築かせた例も決して少なくない。ニューギニア作戦もその一つである。

ジャングルに蔽われたニューギニア、ここに作戦の将兵には、十分な食糧さえない。その上、悪疫が待っていた。

絶望的な内容である。
確かに、この戦記の、帯付けには、ジャングルに食糧もなく、銃を捨て、600キロの道を歩いた12000名の将兵の無残、とある。

昭和19年の日本軍は、到る所で、このような捨てられた戦場になって行くのである。

私たちは、イドレ転進後、さらに後退して今後の第一線の作戦任務につくものと思ってきた。これは兵隊なら誰だって考えることである。しかし、この手紙からみると、私たちはもう日本軍の直接戦力ではなくなったのである。

この長い戦記の全貌を説明するのは、難しいが・・・

兎に角、当時の兵士たちの、現状を少しでも知ることと、思う。
これが、追悼である。

反対に勝っている方では、戦利品を手に入れるし、物量の転用も全戦局にできる。現に敵は、頭部ニューギニアのウエワクやホーランジャ地区で、我々の膨大な軍需品を手に入れた。いま我々の頭の上に雨と降らしている爆弾も、そのほとんどが日本製である。

道は間もなくタピオカやパパイヤ畑の中に入った。
日本では、澱粉は主にじゃがいもからとっているが、南方ではほとんどこのタピオカに頼っている。タピオカは原住民の主食の一つで、ダーリヤや菊芋に似たもので、白い小さな花をつけている。
野菜の欠乏しきった私たちには、まさに地獄で仏の歓びだ。特に黄色に美しく熟したパパイヤが気になって、このまま通りすぎるなどとてもできない。
早速ここに露営と決め、背丈ほどもある草を踏み倒して、天幕の準備を始めた。後から来ている者も、右を見、左を見ながら、ちょうどおもちゃ屋の前を通る子供のようだ。

踏み倒した草も意外に柔らかい。こんなベッドに寝られるなんて、今の私たちには全く豪華だ。しかもよく熟しているパパイヤの香りが、この草一杯の畑の中に漂っている。

この日の午後は、この畑の中で、休養と栄養に恵まれながら、しかも、日光の下で楽しく過ごしたが、この日が転進間を通じて、最も楽しく恵まれた日であった。

その後は、地獄の行軍である。
密林の中を、方角もよく分らず、進む。
それが、また、意味のあるものならば・・・
一体、何故、このようなことをしなければならないのか、という疑問を持てば、進めないのである。



posted by 天山 at 05:50| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。