2015年08月17日

玉砕59

将来のことより、私たちは今日明日のことが心配なのに。しかし残念なことに、私たちはサゴについては何も知らなかった。それで椰子から簡単に澱粉が採れるものと思い込み、それを食糧にして自活できるものと考えてしまった。
しかし、サゴ澱粉はサゴ椰子を切り倒し、その幹をくだいて澱粉をとるので、これは今の我々の体力では容易なことではない。まして澱粉の含み具合を、木を倒す前に知ることなど、まったく無知であった。
「ヤカチの地区での自活は承知しました。ところで、私の隊の吉森大尉ら水行隊は無事イドレに着いていますか」
「皆無事で通信の任務についている」
「連隊長は」
「ソロンを出発している。イドレに向ったらしいが、その後はわからない」
私たちの尋ねることはもうない。
「まずヤカチに出発し、その後の行動については別命を待ちます」
と応えた。参謀は軽くうなずいただけである。

私たちは、マラリアと下痢に悩まされながら、空腹に耐えつつ、やっとここまで来た。昨日までの何日かは、夜明けのない密林を、手さぐりで、野たれ死にを覚悟しながらの行軍だった。
今は何よりも食糧のある所へ、薬のある所へ出たい。この衰弱の身体を少しでも回復に向けねば自活どころではない。イドレも食糧が十分でないというが、そこは軍司令部のいる所だ、皆無ということもなかろう。イドレを夢にまで見て来た私は、参謀指示を受けても、やはり心はイドレに引かれた。

何故にサゴ椰子の温室の中で自活しろと言うのだろう。しかもこの体力の我々に。この参謀宿舎に来るにも杖を持たねばならないような我々に!
私はムミを出発した日にぶっかったマングローブの湿地帯のことを思い出していた。そこを通り抜けるのに四時間以上もかかった。「参謀殿は、密林や湿地のおそろしさを知らないのですか」と、口に出かかった言葉をやっと抑え、
「別命を待てというのですか」
ともう一度たずねた。私の語気の荒さに気づいたのか、参謀も重い口調で、
「そうだ。別命を待て」
と繰り返した。

恨むらくはこの一言である。この一言こそは、いつまでも参謀指示として私たちの胸に残り、遂に百四十八名中、百三十一名の死没者を出し、他の部隊もまた同じ状況下におかれたのである。だが上官の命令を至上のものとしてきた軍隊である。しかも作戦の最高計画者である高級参謀の指示である。返す言葉がない。
伊藤大尉と私が帰りかけた時、一人の将兵が川を渡って来た。手には杖、無帽で素足、兵隊の帯剣を腰にして、肩に天幕を細長くたたんで掛けている。
私たちの耳に、参謀に報告しているその人の声が聞えてきた。
「第二海上輸送隊長の北村中尉です」
「・・・やられたのか」
「はい申し訳ありません。舟艇は敵の水雷艇に出会い沈めてしまいました」
「兵は」
「その時の銃撃でほとんどやられました。助かった八名を連れて陸行して来ましたが、最後の二名も今朝死にました」
と言って、北村中尉は両手で顔を覆っている。
「泣くな。東部ニューギニアでは、揚陸までに八割が海没、残った者も戦と病気で倒れ、全滅した部隊が多い。君は一人だけでも残ってくれた」
恐らく参謀は自分に言い聞かせているのだろう。低いその声がきこえている。私はもう振り返る気にもならなかった。伊藤大尉も無言のまま、私の前を天幕へ歩き始めた。

戦争は、何も、戦闘ばかりを言うのではない。
威勢の良いものでもない。
実に、惨めで悲しい物語である。

だが、現代の戦争は、もう昔の戦争の様と違う。
ハイテク戦争の形相である。
無人機攻撃・・・
戦地にいずとも、相手を攻撃出来る戦争の様。

更に、戦争も、様々な分析が出来上がり・・・
情報戦争から、経済戦争に至り、そして、武器を使用する戦争というもの。

70年前の戦争・・・
今とは、全く違う形相だ。

ただ言えることは、戦争は、大量殺人であるということ。
そして、殺人が、肯定されることだ。

ヤカチ河左岸のここは、河に沿って五十メートルぐらいの幅がマングローブで、その奥がサゴ地帯になっている。そして少し下流の対岸にヤカチ集落が見える。私たちは、このヤカチ集落の見える所を選んで設営した。
自活の単位を十二、十三名にし、それに応じて天幕も張った。河岸には、水浴や水汲みの足場も作り、また天幕の中からでも、河が見通せるように木を取払った。こうしてサゴ椰子の伐採にかかり、自活の第一歩をふみ出したのが、八月二十一日だった。しかしこれは予想外の難事業だった。

一日のサゴの塊を叩いても、飯盒の蓋に半分もとれない。これでは一日の作業を支える食糧にもならないし、我々の腹をもちろん満足させてはくれない。また一日がかりで倒した椰子に、澱粉の入っていないこともある。すぐに次を倒さねば、他には何一つない。この一体は湿地のジャングルで、一本の野草さえないのである。サゴ自活は全く必死の仕事になった。
健康な者でも、杖を手に歩いているのだから、まず七十歳前後の老人の体力で、裸の姿は骨と皮ばかり、そんな私たちが作業に当っている。

患者となるとなおさらで、まったく死神の姿だった。その患者だって、戦友が作業に出たあと、水を汲んだり、薪を集めたりしなければならない。この人たちが、細くさしこんでいる日光の下に立って、褌一つで杖を両手に日光浴をしている姿のなんと痛々しいこと。

天幕で待っているこの人たちを思って、決心の力を出すのだが、体力にはやはり限界がある。どうしても椰子を続けて倒せない。しぜん、サゴの塊を木屑のままで喰うようになってしまった。

しかし、兵士たちは、限界を通り越して、死を待つ状態になる。
若者が、死を待つ心境・・・

もうマラリアの薬もほとんどない。熱が出てもそのままで、悲惨は日毎に激しくなっている。とうとうこのままでは、全滅を覚悟しなければならなくなった。今日は隣の幕舎の者と椰子を倒しに出ることになっている。ここの分隊長は、また発熱で寝込んでいる。

戦うどころの、話ではない。
生きるために、ジャングルの中で、食べ物を探す日々。
この戦記を読んで、少しでも、当時の兵隊の有様を、追悼したいと思った。

次第に弱り、心で行く兵士たち・・・
つまり、餓死である。
戦地での、餓死も、玉砕である。
実に、あはれ、である。


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2015年08月18日

打倒・韓国16

列強時代、朝鮮が清国の属国であったことは各国ともに承知していたことで、朝鮮外交をめぐる交渉は李朝朝廷ではなく清国を通して行われていた。朝鮮の国事や人事までも、清政府が決めていたからだ。たとえば、李朝政府がメルレンドルフを外務協弁(外交顧問)から解任するときには、清国の最高実力者であった李鴻章の承認を得ていた。その後任に、海開総税務司を兼任していたアメリカ人ヘンリー・メリルを送ったのも李鴻章である。
韓国は日本人がつくった 黄 文雄

1885年、イギリスが朝鮮半島南端の、巨文島を占領したときも、李朝には通告せず、イギリス駐在清国大使に連絡が入ったのである。
それも、李朝政府には、知らせることなく、占領を了承した。

これだけでも、十分に、属国であることが、証明される。

その翌年に、李朝国王が、有事の際に、ロシアに保護を求めようとして、ウエーバーに送った親書が、清国に発覚して、宗主国の代表として朝鮮に駐在していた袁世凱は、国王高宗を問い詰め、李鴻章に、国王退位の厳しい建言をしていたという。

当時から日本は、朝鮮を「自主の国」として主張していたが、清国の圧倒的存在感に押され、清国を宗主国と、認めざるを得なかった。

とても、中国と友好関係などとは、言えないのである。

さて、日本が、朝鮮の自主独立の近代国家へと変ることに期待して、明治維新のような、政治改革と国家改革を夢見た。

ところが、1875年、日本軍の戦艦が、演習中に朝鮮軍に砲撃された「江華島事件」の結果、朝鮮開国が行われると、日米英露などの列強が、朝鮮を中国の属邦とは、認めたがらなくなった。

更に、直接、朝鮮と密約や条約などを結び、外交関係を持つ国が出た。
当然、朝鮮を我が物としたい、欲求である。

そのため、清は、朝鮮管理を更に強化したのである。

それは、朝鮮の第三国への公使派遣は認めるが、「全権」の文字だけは、使用禁止で、次の「レイヤク三論」なるものを、強要したのである。

それを挙げると、
朝鮮公使は駐在国に赴任したら、必ず清国公使館に先報し、清国公使を経て相手国と折衝すること。
公私外交の席上、韓国公使は必ず清国公使の次席に座ること。
重要交渉がある時には清国に事前報告し、相手国に関係なく属邦体制を守ること。

まさに、属国である。

ところが、今も昔も、韓国は、コウモリ外交が得意なようで・・・

朝鮮政府は、清国の面子を重視するため、表面的には、この条約を順守しつつも、裏では約束を黙殺し、日米英露の力を利用しつつ、清国を牽制していたのである。

19世紀に入ってからの李朝は、清国から保護を強化されたり、高宗をロシア公使館に移して、クーデターで親露派政権を立てたり、日露戦争後は、日本に保護されたりと、そのときどきの権勢を見て、巧みに相手を変えていたのである。

が、それが、賢いと思うのが、朝鮮人の浅はかさ・・・
それが、見抜かれて、誰にも、相手にされなくなるのである。

清では、アヘン戦争後に、太平天国の乱、回乱という、二つの大きな内乱が起こった。

このような、内乱のなかで、ベトナムは、清仏戦争を経て、完全にフランスの手に落ちた。朝鮮半島を巡っては、日本、ロシアなどの勢力が介入して、それに危機感を抱いた清は、朝鮮の管理監督権を持つ、李鴻章を中心に、今後の処分について、議論が絶えなかった。

結果的に、新疆や台湾のように、朝鮮も、中国の属領から正式な領土にするため、朝鮮省を設立し、郡県制とする断行案を検討した。

そこで、清の総督は、朝鮮農民の反乱の鎮圧にかこつけて、韓王は、弱いゆえ、軍隊を派遣して、反乱を鎮圧するとの主張である。

日本、清、ロシアと、朝鮮獲得競争が、静かに進行した。

日本と、清の間では、朝鮮の指導と管理について、多くの議論がなされた。
その中でも、有名な「朝鮮善後六策」である。

その一つは、漢の四群建置の例に従い、朝鮮国王を廃し、その地を清の一省にする。
二は、朝鮮国王を存置するとしても、周の例に従い、監国を置く。
三は、有力なる軍隊を派遣して、その海港を清の監理の下に置く。
四は、朝鮮の内政革新を断行する。

これ以外にもあるが・・・
要するに、朝鮮側の、言い分が通らないのである。
つまり、中国の属国である。

この、清が、李朝国王を廃して、監国にする、つまり、属藩扱いにするという政策は、清以前の早い時期にもあった。
中国からすれば、朝鮮は、すでに漢の時代から、中国の一部なのである。

それも、最も格の低い立場である。

更に、驚くべき事に、朝鮮人も、属国であることに麻痺しているので、朝鮮省の設置を、「小中華」から「大中華」への昇格だと、喜び、中国を恨むどころか、恩恵と謝恩を感じていたということである。

中でも、中華かぶれの、両班たちは、願っても無い、恩寵なのであった。

中国とは、友好関係を・・・
などとは、開いた口が塞がらぬのである。

日本が、清に勝利して、朝鮮が、独立国家と相成ったこと、忘れるな。

ところが・・・
この朝鮮人、現在の韓国人も、日本の恩義に対して、何やら、おかしなことを、画策するのである。

千年属国根性は、今も変らず、属国根性剥き出しで、何やら、アメリカと中国の間を、行ったり来たりしている。

千年を経ても、その根性は、変らないようである。



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2015年08月19日

打倒・韓国17

歴史的事実である。
1895年、日本が日清戦争に勝利したことにより、朝鮮が独立したのである。

1896年、朝鮮独立協会が作られ、「独立新聞」まで発行し、朝鮮人の自主独立を啓蒙することが出来たことも、日本が、勝利したお陰である。

清の属国としての、迎恩門と、慕華館を取り壊して、独立門と独立館を建てることができたのも、日本のお陰である。

さて、1899年、1907年の二回、帝政ロシア最後の皇帝ニコライ二世の提唱により、オランダのハーグにおいて、万国平和会議が開かれた。
この会議の目的は、第一次世界大戦前の緊張した国際情勢を、緩和しようとして行われた。

李朝国王である、高宗は、1907年の、この会議に、三名の密使を派遣して、1905年の第二次日韓協約、つまり、日韓保護条約の無効を訴えるという、事件が起こった。

この、日韓協協約とは、三次にわたり、韓国に対する日本の保護、監督を強化すると、定めた条約である。

日清戦争後、下関条約により、韓国は清国から独立したが、その後も、朝鮮半島を巡る日露の紛争は絶えなかった。これが、日露戦争の一因でもある。

そして、1904年の日露戦争中の第一次、1905年の、日露戦争後の第二次、1907年の、第三次と、三回に渡り、日韓協約が結ばれたのである。

第二次協約を経て、大韓帝国は、日本の保護国となり、1905年、日本はソウルに、統監府を設置して、朝鮮の内政、外交を指導、監督することになった。

これに対して、国王の高宗は、ハーグの平和会議に密使を送り、列強の力を借りて、日本を牽制しようとしたのである。

ところが・・・ここが問題である。

当時の韓国は、まだ国家として認められていなかったのである。
つまり、外交権が無いという理由で、会議への出席を拒まれた。

さらに、密使が来たことにより、日本からの誤解を恐れたロシアは、即座に、駐露日本公使であった、本野一郎の元に使者を送り、ロシアは、この密使事件と関わりないと、弁明している。

伊藤博文は、このような陰謀策を裏で企んでいた、韓国政府に対して怒り、高宗に謁見して、電報の写しを見せて、
「かくの如き陰険な手段を以って日本保護権を拒否せんとするよりは、むしろ日本に対し堂々と宣戦を布告せらるるは捷径なるにしかず」
と、言った。
捷径とは、早道という意味である。

今、現在の韓国も、同じようなことをしている。
これが、韓国の精神なのであろう。

堂々と、宣戦布告せよ・・・ということだ。

韓国は日本人がつくった、著者の、黄 文雄氏が、深谷博治著の、明治日本の対韓政策、という文の一部を引用している。
少し整理して、書く。

韓国の新補は多いに日本の望むところであって、韓国はその国力を発展せしむるため、自由の行動をしてよろしいけれども、ただ、ここにただ一つの条件がある。すなわち、韓国は日本と提携すべしということ、これである。・・・
日本は何を苦しんで韓国を亡ぼすであろうか。自分は実に日韓の親睦を厚くするについては、自分の赤誠を貢献しようとしている。しかも、日清・日露の両大戦役の間、韓国は一体何をなしたか。陰謀の外に何をしたか。戦争中は傍観しただけではないか。諸君は、日本が、にわかに来たって、韓国を亡ぼすならんと思うのは、果たして何に基づくのか聞きたいものである。
日本は韓国の陰謀を杜絶するため、韓国の外交権を日本に譲れというた。だが、日本は韓国を合邦する必要はない。合邦は甚だ厄介である。韓国は自治を要する。しかも、日本の指導監督がなければ、健全な自治を遂げ難い。これが今回の新協約を結んだ所以なのである。

上記、本来、日本は、韓国との合邦を望んでいないことが分る。
厄介なことだったのである。

しかし、韓国のために、自分自身では、独立国家としての、自治が出来ない、ゆえに、日本が指導、監督するというものである。

伊藤博文も、日韓併合には、反対していたのである。
最後になり、止む無しとして、受け入れた。

それは、日本の自衛のためであり、朝鮮民族の安寧のためである。
これは、当時の日本人の、一般的な、考え方であった。

伊藤博文は、こう述べている。
朝鮮の独立というものを最初に認めたのは、個人としては自分がはじめてであり、国家として見とめたのは日本が初めてである。

更に、韓国の官吏に対して、
韓国人の何ぴとが自らその独立を主張したであろうか。かつまた、韓国人の何ぴとが自ら韓国の独立を承認したであろうか。あるならば聞きたい。韓国人は、3、4000年来、固有の独立を有するように言っているが、自分はこれを承認できない。
との、問い掛けである。

そして、今、現在も、その問いは、続いているのである。
誰が、韓国を独立国として、対したのか・・・

世界で、最初に、韓国の独立を承認したのは、日本なのである。
これが、史実であり、事実である。

韓国人の、シンシアリー氏が、言う。
それから、韓国が夢にまで見た「皇帝」という言葉を手にすることができたのは、大韓帝国が誕生してからです。いろいろありましたが、朝鮮が大韓帝国になって皇帝を名乗ることができるようになったもっとも大きな事件は、日清戦争、下関条約です。中国との間に独立国を必要とした日本の意向あってのものではありましたが、下関条約で朝鮮の独立が認められたのです。

このように、しっかりと、歴史的事実を見ている、韓国人がいるということ。

しかも、言うまでもなく、列強の間で自分の立ち位置を完全に見失った大韓帝国は、あっけなく終わり、その日本に併合されることになります。
とも、言うのである。

要するに、国家という、近代の観念を知らぬということだ。
国家というものが、如何なるものか、知らないのである。

だから、日本の指導と、監督が必要だったのだ。




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2015年08月20日

打倒・韓国18

現在、多くの韓国人は、日韓併合により、国と主権を奪われ、受難と苦しみの時代が始まったと思い込み、また、そういう教育をしている。

逆恨みなどという、ものではない。
事実を捻じ曲げている。
また、そういう根性を持つ民族であるということだ。

そして、呆れることに、
日本に併合されなければ、20世紀は、韓国の時代だった。
西洋が、200年かけた近代化を、韓国は、わずか20年で為し遂げた。だから、韓国人は、世界で、最も、優秀である。

呆れるほどの、詭弁である。

近代化を推し進めたものは、日本である。
韓国は、何もしていない。

もし、日韓併合がなければ、今頃、中国か、ロシアの一部になっていた。
そういう、民族である。

19世紀から、20世紀の初頭までの李朝朝鮮、韓国を、主権国家と考えるのは、大間違いである。

私がよく「千年属国」というのは、唐に対する事大主義の統一新羅から、朝鮮半島はずっと中華帝国の一属藩、あるいは「屏藩」(外的の盾になる属領)として中華帝国に所属してきたからである。
黄 文雄

更に、黄氏は、
今では近代国民国家が一般的な「国のかたち」(国家形態)として世界に拡散しているが、そうなる前は朝鮮などは「主権国家」として国際的に見なされないばかりか、「半主の国」でさえなかった。
と、言う。

国際社会からは、精々、清か日本の、属邦としか、認知されていなかったのである。
つまり、元々、主権など無い。
だから、日本に、主権を奪われたという、言い方は、出来ないのである。

無いものを、どうして、奪えるのか・・・

また、「日韓併合」という言葉がよく使われるが、国家史からみれば、むしろこれは一方の国が他の国を無理やり飲み込む「併合」ではなく、二つの国の統一国家、つまり「日韓合邦」であった。なぜなら多くの列強諸国がこの日韓合邦国家を承認し、歓迎していたからである。


それに、韓国の中にも、合邦を支持する人たちが少なくなかったのである。
1904年の、一進会をはじめとする合邦推進諸団体が結成され、韓国の混乱と、衰退を防ぐ手段として、合邦に期待したのである。

大韓帝国政府首相の、李完用、その他の閣僚たちも、合邦を支持していた。
李首相は、韓民族が、列強時代に生き残るには、列強諸国と渡り合うだけの、力が必要不可欠だと、痛感して、日韓合邦に賛成したのである。

日韓合邦を、歴史に類を見ない悲劇と、言うらしい韓国人の、頭がおかしいのである。

当時の感覚で見れば、国民国家形成期、成長過程において、それは、よく見られる、普遍的な国家形態だった。
例を挙げるまでもないことだ。

ただ、第二次世界大戦後は、合邦国家という形態は、主流ではなくなる。
植民地帝国の崩壊によって、民族の競合と、浄化が、加速したからである。

朝鮮民族が、ただ、遅れていただけである。
そのような、意識も無かった。

逆に、朝鮮民族は、いつも、有史以来、孤立を守り、属国の道を選んでいたということだ。そういう意味では、新しい形、合邦国家などという、観念は、持たなかった、実に智慧の無い民族だったということ。

要するに、井の中の蛙式、思考形態なのである。

この日韓合邦には、異議を唱えてもおかしくない、清、また、利害関係の深いロシアでさえ、何も異議を唱えなかったのである。

抗議声明の一つも、なかった。
これが、史実である。

更に、日韓合邦国家とは、日露戦争後の、新しい国際情勢下でつくられたもの。
近代国民国家という、近現代史を背景にして、三回に渡る日韓協約を経て作られた、同君合邦国家である。

日本の、素晴らしい思想「一視同仁」という、分け隔てなく、等しく仁愛を施すという、考え方の通りの、指導、監督、統治であった。

日清戦争によって朝鮮は独立を果たし、日韓合邦によって「無主の国」の国民として主権が認められていなかった朝鮮人の国際的地位が向上したのだ。非対等であったことにいきどおるどころか、日本に感謝しなくてはならないはずだ。
日韓合邦、日帝36年は、決して「歴史に類例をみない悲劇」などではなかった。それどころか、多くの韓国人にとっては、李朝時代の苦難から逃れ、豊かさと近代化の恩恵が得られた幸福な時代だったのだ。


そして、更に言えば。日本は、すでに国際社会に認められていた、独立国家であったのだ。それが、千年属国の朝鮮という、国家としても、認められない、無主の国であるその、国もどきを、日本は、引き受けて、近代化を進めたのである。

勿論、韓国の反日は、もう、宗教的といってもよいほどに、深く、韓国人の心に入り込んで、行き先が見えないほどである。

これを、日本では、あはれ、と言う。

このまま韓国は、何処に進んで行くのだろうか。
人の国ながら、少し心配する。

反日だけが、国家の拠り所とは、あまりに、情けないのである。
日本を失った暁には、きっと、韓国に平和が訪れるだろう。
そして、日本を失った韓国は・・・

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2015年08月21日

打倒・韓国19

醜い韓国人、朴氏の、記述を続ける。

韓国人は、韓国が第二次世界大戦に独立を回復してから、日本に対して、日本が韓国を略奪したことを許すことができない、という怒りを向けてきた。このような心情は十分に理解できることである。しかし、日本へ向けての非難を裏返してみれば、あの時期に日本が韓国を統治しないでいられたはずだ、という前提がなければならない。

しかし当時の韓国のほんとうの悲劇は、今日からあの時代まで遡って、歴史に「イフ」を設定することができないことである。あのときの韓国はまったく無力だった。東アジアにおいて真空状態をつくりだしていたのだ。李朝末期は、まるで朽ちた枯れ木だった。南に日本があり、北にはロシアと清という二つの強大な帝国が控えていた。もし、日本が韓国を統治することがなかったとしても、韓国は独立を保ちえなかったことだろう。
韓国は、日本が統治するまでは、中国の属国であって、独立国ではなかった。

どうだろう。
韓国人が、素直にそれを、認めている。

日本が、統治することがなくても、独立を保ち得なかった・・・
つまり、清、あるいは、ロシアの属国になっていた。

日本は1875年、明治8年、二十二年前にペリー提督が浦賀に来航して日本に開国を強いたのにならって、軍艦雲楊号を江華島沖に送り、江華島の守備兵が発砲したために交戦し、江華島事件が起きた。日本はこの機をとらえて、まだ朝鮮と称していた韓国に開国を強要し、翌年、両国間に修好条約を締結した。

この修好条約の第一条は、朝鮮は「自主の邦」と規定して、独立国として扱っているが、これはそれまでの中国を中心とした秩序を破るものであった。日本が韓国を独立国として扱ったのは、韓国を中国の影響下から切り離して、韓国に親日政権をつくることを狙ったからであった。

この段階では、日本は朝鮮半島を支配下に置くことは考えていなかった。まだ日本には、そのような力がなかったのだ。朝鮮半島は、日本にとって日本の脇腹に突きつけられた短刀であったから、何よりも朝鮮半島の無害化をはかったものだった。19世紀末期は帝国主義の全盛期であったから、日本は朝鮮半島がその帝国主義勢力の前進基地となることを恐れたのだ。

結局、その当時の、帝国主義という、観念を朝鮮人は、知ることがなかったのである。
その意識は、皆無である。

つまり、世界知らずだったのだ。

続けて、朴氏の書いたものを、私なりに、簡略化して書く。

ロシア、ヨーロッパ諸国、アメリカも、1882年以降、次々と、朝鮮との修好通商条約を締結して、進出する。
日本にとっては、それは、安全を脅かすものとなった。

そこで、日本は、朝鮮が他国の支配下に入ることがないように、韓国の近代化を促がし、それを積極的に助けて、韓国をしっかりとした、独立国に育てようとした。

ところが、清も、日本、欧米諸国が朝鮮に進出を図っていることに、警戒心を強め、韓国に対して、干渉を始めた。

この頃、多数の日本商人が韓国に渡り、日本製品を流入したが、多くの韓国人は、秀吉の朝鮮侵略の記憶を蘇らせて、反日感情が広まる。
日本への嫌悪感と共に、日本が、韓国の開化派を支援していたことに対する、保守派の不満が結び付いた。

1882年、高宗19年、ソウルで、旧式軍隊が、反乱を起こした。
時の政権は、開化派によって動かされ、開化政策を採用していたが、前年に、近代的軍隊である、別技軍を新設して、日本人教官を招聘し、教練を始めていた。

反乱の引き金は、高官が旧式軍隊に給与として、支払われていた米をピンハネしたことに対する、兵士たちの怒りが爆発したものである。

また、別技軍が、装備、待遇の面で、優遇されていたことに対する、怒りでもあった。

旧式軍隊は、官庁、時の首相、ミン氏の一族、日本公使館を襲撃し、王宮に乱入して、高官を虐殺する。

この反乱は、大院君が陰で操ったものだ。
そこで、政権が倒れ、大院君が政権を握る。

日本は、軍艦三隻と三千人の兵士を仁川に派遣する。
アメリカも、軍艦を覇権した。
そして、清も、宗主国として、属邦を保護するという名目で、軍艦三隻と、四千五百人の兵を派遣した。

反乱は、清軍によって、鎮圧された。
大院君は、清軍に捕らえられ、天津に拉致される。
更に、その一派は、投獄された。

ミン政権が復活し、清の保護の下におかれた。
そして、清軍をそのままソウルに駐留させ、政府に顧問を送り、韓国の内政に細部に渡り干渉する。

その後の歴史は、1885年、韓露密約事件が起きる。
宮廷が、密かにロシアに折衝して、ロシアが軍事教官を派遣するのと、引き換えに、ロシア海軍に、永興湾の使用を許すというものだった。

ミン政権が、清の宗主権強化政策に反発して、ロシアを使い、バランスをとろうとしたものである。

ところが、清側にそれが、知れて、交渉が打ち切られた。

更に、イギリスが、ロシアの進出に対抗するため、巨文島を占領する。
これらが、日本に深刻な打撃を与える。

また、1891年、ロシアはシベリア鉄道の建設に着手する。
日本は、益々、警戒を強めた。

当時の韓国は、それぞれの各派が、様々な思惑から、清、ロシア、日本をはじめとして、外国勢力と結び、勢力争いに明け暮れていた。

李朝朝鮮時代もそうだが・・・
朝鮮人は、身内でも、争いが絶えないのである。

次ぎに続ける。



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2015年08月24日

打倒・韓国20

1894年、東学党の乱が始まった。
儒教、仏教、民族信仰を混ぜ合わせて創った、新興宗教の団体である。

教祖は、没落両班の、雀済愚である。
平等思想を説いて、韓国型の民主主義を表しているという。

腐敗した李朝を、打倒し、外国勢力を韓国から、駆逐することにより、地上天国を作ると言うもの。

東学農民党は、酷税の廃止、地方官による不正の是正、横暴な特権商人追放を要求として、掲げた。
大変な勢いになった。

そこで、国王高宗と、政府は、清に鎮圧を要請した。
清は、この機会に、韓国において勢力を回復する好機として、北洋軍が大挙して韓国に入る。
日本も、清に対抗して、派兵し、韓国を舞台に、日清戦争がはじまる。

日本は、王宮を占領し、政権を倒して、大院君を担ぎ、政権を握らせた。

日本は、開戦直前に政権に、広範囲に渡る改革を断行することを、要求していたが、大院君の元に作られた政権により、日本が下図を描いた大改革を、実施する。

甲午革命と呼ばれる。
更に、東学農民軍が、再び蜂起したが、韓国政府の要請で、日本軍が出動し、政府軍と共に、鎮圧に当る。

この段階では、日本は、まだ韓国を併合することを、考えていない。

清が、日本に敗北したのを見て、見掛け倒しの大国であることを、ヨーロッパの列強に示した。そのため、列強は、中国に対して、様々な口実をつけて、租借地を獲得するのである。
ドイツ、ロシア、イギリス、フランス・・・

さて、日本が日清戦争に勝利したことにより、清から、遼東半島の租借権を獲得し、日本が朝鮮半島において、優位を占めたことは、ロシアの容認できることではなかった。
そこで、有名な三国干渉が起きる。

ロシアは、ドイツ、フランスと組み、遼東半島を中国に返還するように、要求した。
日本は、ロシアに対抗できる力なく、それに屈した。

それから、日本とロシアとの、関係が複雑になって行く。

宮中勢力は、日本がロシアに屈したことにより、侮るようになる。
そして、ロシアに接近する。
相変わらずの、朝鮮人の感覚である。

影響力が後退した日本は、1895年に、武装した日本の浪士を宮中に侵入させ、ミン妃を殺害する。国母殺害である。

日本は、この事件で、国際社会から、強く非難された。
そのため、関係者40数名を逮捕して、日本に送還し、裁判を行うことになった。

1896年2月、親露派がロシアと謀り、高宗と皇太子が王宮を捨てて、ロシア公使館に、遷座したのである。

高宗は、ロシア公使館から詔勅を発して、親日政権の首脳たちを、逆賊として逮捕させた。
開化派により、親日政権が崩壊する。

ソウルで暴動が起きる。
首相、閣僚二人が、惨殺される。

ロシアは、すでに公使館の整備と称して、海軍歩兵部隊を派遣していた。

結果、親露派内閣が成立するのである。
そして、ロシア公使館が韓国の中心となった。

つまり、すべての政治は、ロシアのものになった。
何せ、日本人の顧問、日本人の軍教官は、全員が、解任され、それらが、ロシア人に取って代わったのである。

そして、日露戦争がなければ、そのまま、韓国は、ロシアになっていた。
つまり、現在の北朝鮮のような国である。

高宗は、1897年、ロシア公使館を出て、大韓帝国と改め、皇帝を名乗ることで、内外に、独立国であることを、宣言したのである。

そして、あろうことか、列強諸国に、鉄道敷設権、鉱山、採掘権、森林伐採権に至る、利権を次々と、売り渡すのである。

1900年7月、ロシアは、韓国を日本との間で、分割するという、提案を出した。
ロシアが北部、日本が南部である。
北緯38度線で、南北に分断するものである。

日本は、その提案を受け入れなかった。

その38度線は、日本の敗戦で、米ソが、この線を復活させて、分断したのである。

足早に見ると、その後は、日本とロシアとの関係である。
結果、日露戦争に発展する。

ロシアは、どんどんと、朝鮮内に租借地を得る。そして、満州にも、大兵力を集結する。
当然、日本には、脅威である。

韓国政府は、日露開戦を前にしても、局外中立を宣言したが・・・
相変わらず、事態を見ていないのである。

自分たちの国の事で、日本とロシアが戦争をするという、意味・・・
それを知らないのである。

日本軍は、開戦と共に、現在に仁川に停泊していた、ロシア艦船二隻と、砲戦を交えて、撃沈した。
そして、ソウルを占領して、有無を言わせず、日韓議定書の調印を強要する。

ここで、確実にいえること・・・
それは、朝鮮は、そのままであれば、ロシアになっていたということだ。
日本が、危機感を感じずに、黙っていれば、韓国は、ロシアになっていた。
史実を見ることだ。
posted by 天山 at 05:47| 打倒・韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月25日

玉砕60

ある豪雨の夜だった。天幕の中の私たちに、雨漏りとしぶきが容赦なしに飛んでいた。雨外套を頭からかぶって、この激しい雨の音にうつらうつらしていると、雨の中からうめき声が聞えてきた。
マラリアの高熱に苦しんでいる声で、隣の幕舎からだった。声が次第に乱れてきた。普通でないがこの雨と闇では動きたくない。たとえ行ったところで薬一つあるわけじゃなし、処置なしだ。私はまた眠り込んでしまった。

夜中になって、また同じようなうめき声で目をさました。雨はまだ続いている。風の方向が変ったのか、声はずっと近くなっていた。まったく地獄へでも引き込まれるような声だ。気になりながらも、私はまた寝込んでしまった。

隣との間の木を回ると、その根元に手が二本伸びていた。一人倒れている。私はすぐに、昨夜、夢うつつで聞いた声を思い出した。
「そうだったのか、水が欲しかったのか」
最後の水が飲みたくて、苦しい中を天幕から這い出し、雨の中に出て来たのだろう、すまんことをした。
いくら飢えに迫られ、雨に濡れていても、私はまだまだ水を飲ましてやるぐらいできたのに。何故起きて、手をとってやる気持ちにならなかったのだろう。顔の泥を落としてやりながら、私は後悔のきびしい情に、胸をしめつけられた。
我々は、人の死、しかも戦地では格別の仲である戦友の死にさえ、もうこんなに無情になってしまった。

私の隊では、死者が出ても、埋葬の仕様もないので、天幕に包み引き潮をみて水葬してやるのが、もう精一杯の手向けだった。私たちには一般の塩さえない。このため川水に一番塩分の多くなる満潮の頃をみて水を汲み、それを飲んで、身体の塩分を補っていた。この水を汲みに行くと、折からの上げ潮で、水葬された仏が浮いていることが多かった。それほど毎日の死没者がふえている。
私たちは、この死地を、一体どうして生き抜けばよいのだろう。

この戦記も、そろそろ、終わりにするが・・・
延々と続く、絶望的状態の中で生きるということ。

もうこれは、戦争というより、死の行軍である。

シンヨリまでは行軍位置がわからず、進路の不安で、野たれ死にを覚悟したものだった。それでも、シンヨリに着けばなんとかなるだろうと、原住民集落に一縷の望みをかけながらイドレへ出発するのだとの希望にすがってきた。
だが、サゴ地帯がこの惨状である。夢にまでみるイドレへ一歩近づけば、それだけ私たちの行く手をさまたげる物が大きく立ちふさがってくる。私たちが全滅を覚悟したのは、このためだった。
兵隊も一難去ると、またそれ以上の難事が私たちを待ち受けているのを知って、全てを私たちに任せている。私も、筏にはがっかりしてしまった。伊藤大尉も一言も言わず私と肩をならべながら、天幕へ帰った。
この途中、私は「おや?」と立ち止まった。
シンヨリに残ったはずの小出軍曹が、こちらへ来る。
「おーい、小出軍曹、ここだここだ」
「・・・」
「一体、どうしたんだ」
「シンヨリの糧秣集積所が夜襲されました。それで私たちも追い出されてしまった。それまでは次々到着の部隊へ米を配っていたようでしたが、夜襲されてからの到着部隊は、米の配給も受けていません」
「無線機が到着しているだろう。イドレと連絡がとれているだろう」
「それどころでないですよ、無線機など来ませんよ。それに患者の薬だって来ませんよ。それで本隊に追及しろと言われて・・・」
「患者は」
「全員死にました」
なんということだ。あれほど米もある。薬も来ると元気づけて残してきたのに!
患者たちも、イドレへ行き着けば迎えにもどる、とさえ言ってくれていたのに!
私は悲嘆と怒りに、頭をかかえこんでしまった。気が狂いそうだ。

それでも小出軍曹は、本隊に会えた嬉しさに、一緒に来た二人を振り返って、
「ほっとした」
と涙をうかべている。ほんとうによく来てくれた。ご苦労さん。
「それから、副官殿の当番をしていた高橋上等兵が、一日歩いた所で落伍しました。歩けなくなったのです。シンヨリを出る時から食糧がなく、手当たり次第の拾い喰いでしたから、そのまま別れましたが、副官殿によろしく言っていました」
足の傷がひどく、とうとう歩けなくなったのだろうか。そんな者まで出発させるのは!
喰う物もないのに歩けなくなって、よろしくと言えば最後の言葉である。もしかしたら、私たちのサゴ自活を順調と思って、私の救援を願っているかもしれない。恐らくそうだろう。
私が元気なら、往復してたかが一日の行程だ、彼が歩けなければ背にしても連れて来たい。傷の足をかかえて、死を待っている高橋上等兵の髭の顔がまざまざと浮かんでくる。
「高橋よ、だが俺は行けない」
今は私だって次の一食のために、サゴを叩かねば何も喰えないのだもの。

この戦気は、東部ニューギニアでの、行軍の様子を詳しく記したものである。
さて、現在、そのジャングルに慰霊に出掛けられるのかといえば、無理である。

全く、人が入ることが出来ない場所である。
慰霊団も出掛けたが、そのジャングルには、近づくことも出来なかったという。

私は、この戦気の結論を、次の文章から読む。

この頃の死因は、栄養失調ばかりで、意識だけが最後まではっきりしていて、ぱたんと死ぬ。しかも死の数日前に死相の出るのが普通で、中には耳鳴りがしたり、耳が遠くなったり、また急に聞えなくなったりする。毎日顔を会わしている者でも、死相が出ると、急に人相が変り、誰だったのかなと首をかしげることもある。

そしてこの死相を見ても、耳の変調を知っても、その人の後ろ姿を淋しく見守る他ないのだ。こうして一人、二人と私たちの命が湿地の底へ吸い込まれていった。私もいずれはこの人たちの仲間に入るのだろう。そのためか、この頃では、もう誰が死のうと、一日に何人死のうと、慌てなくなった。

一万二千名・・・
銃を捨て、600キロの道なき道を、餓死と戦いつつ、散華した兵士たち。
これも、戦争である。

二度と、このような、ことは、しないで欲しい。
作者が言う。

人を怨むまい。私は戦争を導いた日本の運命を怨む。

この日本の運命とは、何か・・・
何度も、繰り返してきた言葉であるが・・・
アメリカに引き摺られて、戦争に巻き込まれたのである。
そして、あくまでも、日本は、自衛のための、戦争をしたのである。

戦争に至る経緯については、別エッセイ、国を愛して何が悪い、天皇陛下について、その他を、参照ください。


posted by 天山 at 06:03| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月26日

玉砕61

インパール作戦
この戦場の有様について書きたい。

私は、このインパール作戦で、撤退、敗走した兵士の追悼慰霊のために、何度も、タイ、チェンマイ、そして、日本兵の遺体が数多くおかれたという、タイ北部、ミャンマー国境付近へ出掛けた。

思い入れが、特にある。
戦場は、何処も、地獄の形相である。
そして、このインパール作戦という、無謀な作戦の、その末に、敗走した兵士たちの悲劇は、簡単には、書き切れない。

白骨街道と言われた、敗走の道々・・・

何故、そのような無謀で、責任のない、作戦が実施されたのか・・・
今も、私には、よく分らないのである。

その作戦の源を遡ると、昭和17年7月に、突き当たる。

ビルマ国内を平定し、更に、周辺の地域を占領したとき、その余勢を駆って、東インドに進攻するという、構想が、南方軍司令部に、宿ったのである。

しかし、このときに、第十五軍の指揮下にあった、各師団長は、この大作戦、二十一号作戦と称した、準備命令に接して、一様に当惑の様だったという。

特に、中・北部ビルマの防衛を担当し、その地形の詳しい、当時、第十八師団長の、牟田口中将が、難色を示した。

その後も、検討されたが、結局、兵力不足と、補給の困難を理由に、賛成出来ない、ということになった。

それが、一転して、インド東部進攻となった原因は、イギリス軍の反攻気勢が、挙げられる。
一旦、ビルマを撤退したイギリス軍が、態勢を立て直して、各方面に反攻の気勢を示したのである。

このような情勢で、大本営陸軍部は、ビルマ方面の兵力を、従来の一軍、四個師団から、三軍、九個師団に増設するに決し、それらをビルマ方面軍として、支那派遣軍総参謀長川辺中将を、最高指揮官に任じた。

更に、新設軍の増設と共に、第十五軍司令官だった、飯田中将が、内地の防衛総司令官部付きとなり帰国し、その後任に、第十八師団長、牟田口中将が、新補された。

牟田口中将は、何と、慎重論を捨てて、強硬にインドへの進撃を主張し始めた。
川辺方面軍司令官も、これを認めるのである。

悲劇の、始まりである。

昭和18年6月下旬、ラングーンの方面司令部において、兵棋演習が行われた。
大本営、南方軍、第三航空軍の幕僚をはじめ、在ビルマ全軍の首脳が、参加した。

その結果、牟田口中将の主張する、遠くアッサムにまで進攻するという構想は、最初から論外とされ、出された結論は、インパールを急襲覆滅し、防衛線を、インパールの西側、印緬国境山系に、推進するということである。

問題になるのは、一番重要と思われた、補給が懸案ということで、未解決のままに、残されたことである。
これが、後に、重大な失敗になるのだ。

そして、アッサム進攻案が、論外として研究の対象から外されたにも関わらず、実際の、戦闘部隊の最高指揮官である、牟田口中将の、功名心に微妙に反映し、その後の軍の作戦に、その影響が認められるのである。

大本営陸軍部は、昭和18年9月初め、インパール作戦準備について、正式に指示し、これを、「ウ」号作戦と呼んだ。

19年3月、作戦は実施され、4月3日、コヒマ~インパール道を遮断し、6日、インパール~ディマプール道上の要衝コヒマを占領する。
ここまでは、順調に進んだ。

しかし、その後、日本軍は、急激に戦力を消耗し、逆に敵の抵抗が、日増しに強化された。5月上旬には、日本軍の攻撃は、頓挫したのである。

その、根本的原因は、補給手段の不備である。
進攻開始以来、一ヶ月近く、全く糧食、軍事品の補給を受けない師団が、続出した。

更に、三師団長の罷免という、前代未聞の不祥事を出したのである。
大本営は、7月4日、作戦中止を決定した。

このように、簡単にまとめるが・・・
兵士たちにとっては、筆舌に尽くし難い苦難の、作戦だった。

その頃は、モンスーンの季節であり、連日の豪雨、すると、地形が一変するのである。

すべての河川、渓谷が巨大な流木を浮かべて、氾濫し、奔流し、道路は崩壊して、一切の交通は遮断される。
その中を、退却した兵士たちの苦労は、言語に絶する。

この作戦での、戦死者数は、三万五千名を超える。

その撤退、敗走の道を、白骨街道と呼んだ。

この説明だけでは、実に足りない。
そこで、再び、生き残りの兵士の戦記を、掲げて、追悼する。

弓兵団インパール戦記
井坂 源嗣
大正12年2月3日、茨城県に生まれる。
昭和16年2月千葉県佐倉の東部第64部隊に入隊する。
昭和19年5月、インパール作戦に参加する。
20年1月より、モニワ、イワラジ援護の任につく。モンメール南方防衛中に敗戦。
21年5月、復員。陸軍伍長。

この方は、中国、そして昭和17年7月より、ビルマ戦線赴く。
インパール作戦以前の、ビルマ戦線に就いているのである。
昭和18年1月には、有延挺進隊員として、アラカン踏破後、アキャプ方面で、作戦に従事している。
インパール作戦以前の、ビルマ戦線にもいたということである。

生き残ったという、思いは、実に複雑である。
戦友の死に多く出合い、悲劇を通り越して、その悲惨な戦争を報告している。

posted by 天山 at 05:29| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月27日

玉砕62

弓兵団インパール戦記から

昼間、英軍機は間断なく飛来し、わが部隊を捜索するためか上空を旋回する。そのため炊飯には、とくに神経をつかった。部隊の行動は、すべて隠密に夜間に移動行軍し、朝から夕方までは休養をとる。
三月八日の夕刻をまって、ふたたびアポークワの英印軍を包囲攻撃すべく出発した。一千名をこえる敵部隊との知らせに、対等の兵力だと思うと身がひきしまる。時計はないが、乾期の夜の冷気を肌で感じ取り、おおよその時間もはかれるようになった。
暗黒につつまれた山野、草原の中を一列になり、長い隊列が南十字星に向ってすすむ。

これは、昭和18年のことである。
兵隊とは、命令によって、動く。従って、その命令が、どのようなものであっても、拒否は、出来ない。
これも、不可抗力である。

戦争に参加することも、敗戦近くになると、駆り出された。
それも、不可抗力である。
その時代に生まれ合わせたという、運命をどのように考えるのか・・・
戦争で、死ぬという、運命を持って、人は生まれるものだろうか。

戦記を読むと、そこでは、簡単に人が死ぬ。
そして、それを見る兵士たちである。
それが、度重なり、人の死に、鈍磨してくる。
さらには、我が身の上にも、その死が見えてくる時、人は、どのように、その死を受容れられるのだろうか。

戦争とは、自分が死ぬか、相手、敵が死ぬか・・・である。
人間とは、実に恐ろしい生き物といえる。

たおれているのは、軽機をかかえて突撃した鈴木林蔵上等兵だ。私のすぐ後ろを駆けていたが、私が、右にとんだときに、おそらく敵弾を受けたのだ。身代わりなってくれたような気がした。あのとき直進していたら自分がやられたはずだ。
鈴木上等兵は軍旗祭で優勝し、中隊会食の人気者である。
鈴木の腹からは、血が流れでて止まらない。
「苦しい。痛いよう」
「鈴木、しっかりしてな」
「戦友の情けだあ、はやくっ、はやく楽にしてくれ・・・」
「傷は浅い。しっかりしろ。鈴木」
上竹伍長が声をかけると、
「だますなっ」
声に力が入ったが、つづけてでた言葉は小声になり、
「おれには分る。楽にしてくれ、頼むから・・・」
と弱々しくなり、最後の声をふりしぼっての絶叫だった。
傷口をふさいで応急手当をしたが、包帯をとおした血は大量に草の上に流れ出した。小隊の戦友に抱かれ、手をにぎられて静かになったと思ったら、ぐったりと息をひきとった。

第一中隊主力の方も混戦だった。この交戦で木川田種三軍曹と、温厚な富永厳一軍曹が戦死した。佐藤軍曹はインド兵と組討になり、助けにかけこんだ同年兵の坪井兵長が、暗闇のため敵と味方の判別がつかず、
「上かっ、下かっ」と声でたしかめ、
「下だあっ」という声をたよりに、上になっていた敵兵を短剣で刺した。坪井は軽機の射手のため、短剣は持っていなかったが、まことに沈着な行動だった。

敵は、山林深く逃げ込んだのか、物音ひとつ聞えない。三月八日の夜はふけた。一夜に二回の日本軍の突撃により、英軍の戦線は混乱した。
中隊では三名の遺体の担架をつくり、戦友がかついで部隊は引き返し、アポークワではなくドンランに向った。

私がこの戦闘で疑問に感じたことは、日本軍が夜間の攻撃にさいし、銃弾を一発も撃たせずに突撃させることだった。
夜間であっても、軽機を前面にだして撃たせ、もちろん他の火器も前面では一斉射撃をおこない、あるいは一部を射撃させ、その間に他の兵力を迂回させて突入させる方が、敵に多くの損害をあたえることができるではないか。
この戦闘では、手榴弾も浴びせずじまいだった。
夜間は、日本軍は撃ってこないとなれば、敵はゆうゆうと何の恐れもなく、こちらの突撃まで射撃をつづけることができる。そして突撃がかかると、後方にいっせいに逃げる。これでは、損害を出すのは日本兵だけではないか。
そればかりか、撃ちもしない重い軽機を持たせ、短剣だけの射手にも突撃させるのだから、犠牲者がふえてあまり戦果があがらない。
勇ましいからというなら、戦国武士のように名乗りでもあげ、一人ごとに斬り込んだらよいであろう。
昭和の陸戦も、日露戦争当時とかわらぬ戦法で、みるみる兵力をむだに消耗して、兵隊は不利を承知で、命令のまま無念の涙にたえ、戦死していった。

戦記を読むと、斬り込み隊という名称が度々出てくる。
この、斬り込み隊とは、特攻攻撃と同じである。
バンザイ攻撃とも、言う。

殺してくれと、敵の前に姿を晒すようなものである。
何故、そのような、無謀な攻撃をするのか・・・
未だに、解らない。

近代の戦争には、全く、どうかしているとしか、思えないのだ。
だが、それを日本軍、日本兵士たちにやらせたという・・・

戦死者三名をだしたわが中隊は、戦場整理のためドンランに残り、他中隊は夜のあいだにアポークワへ向った。
三月九日の早朝、戦死者の中隊葬をおこない、その後、われわれは山砲隊護衛の任務についた。各小隊ごとに配置についたころ、ジャングルの木の間からは、まぶしいほどの陽の光がさしてきた。
昨夜の敵は、アポークワを守備していた第十バルッフ連隊の第八大隊約一千名の部隊であった。それがどこへ雲がくれしたのか、移動しているのか、いずれにしてもこの付近の平地林内にいることはたしかだ。

アポークワに急進したわが部隊主力は、急遽、反転して南から追撃にうつった。
大隊から、命令が伝達された。
「昨夜来の英印軍はアポークワを脱出せる部隊である。これを包囲撃滅する」というものである。

わが中隊百数十名は配備につき、山砲二門も砲口を南に向けて決戦の態勢にうつった。一門は南に面し、水無川の開墾地を前にしてそなえ、他の一門は私たちとともに二百メートルほど左方に布陣した。そこは雨期には川となるが、乾期のいまは砂地の道路となって、正面の山林内をほぼ直進している。

いよいよ、総攻撃が始まる。
まだ、日本軍は、戦況有利な状態だった。
だが、それは、いつまでも、続かない。
英軍が、戦力を益々と増強させてくるのである。


posted by 天山 at 05:50| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月28日

玉砕63

ビルマ戦線、そして、インパール作戦に参加した日本兵、井坂源嗣氏の、戦記を紹介している。

日本軍は、最初は、勝ち戦だったが・・・

射撃をやめてしばらく対峙した。
そのうち、だれかが大声で何か呼びかけた。日本兵のインド語のようだが、われわれには分らなかった。同年兵の二中隊の森島上等兵が習いたての言葉で、
「投降せよ」と言ったのが役立ったことが、後でわかった。
激戦は終わった。百三十余名の捕虜と兵器多数を捕獲し、同数以上の損害をあたえた。第十パルップ連隊の第八大隊残余の兵は、少数に分れモードク山系内を西へ敗走したのだった。

戦いが終わると、急に暑くなったのに気づいた。やがて、どちらの小隊、どちらの山砲が敵を多くたおしたかくらべてみたくなり、中隊員は戦場見物をした。
右翼山砲の正面は水無川がひろく、はじめ敵兵は南から追撃をうけ、われわれに気づかず退却してきたために、死体は前面いっぱいに不規則にころがり、すでに蝿が黒くたかっていた。わが小隊と山砲は北側に位置していたため、敵との接触は右翼とくらべ少なかった。

捕虜のところへ行ってみると、担架の上に負傷したイギリス人将校が寝ていた。頭と足を包帯でまき血が赤くにじんでいて、かなり重傷のようすであった。まわりのインド兵がうまそうに缶詰を開けて食べている。戦いに勝ったわれわれより、すばらしい食事がしゃくにさわる。
インド兵がわれわれに、「イングリ、ノー」という。イギリス人中尉には食物もあたえない。水をくれといっても無視した。さきほどまで上官としていっしょに戦ってきた仲ではないか。将校を哀れに思い、向きをかえ、
「このバカ野郎っ。それを食わせてやれ!」
缶詰と水筒をむしりとらんばかりに、大声で怒鳴りつけ、軍靴を踏み鳴らすと、インド兵はおどろいて将校に差し出した。

捕虜は武装を解除し、連隊にひきつぐため十余名の護送兵が着剣してついていった。なかなか屈強な体格のインド兵ばかりで、日本の兵隊が見劣りする。後方の川にある大発艇までいく間に逃亡されないかと心配しながら見送った。
陽は西にかたむき、日中の暑さがやわらぐころ、英印兵の死体はみるみる変色し、蝿が真っ黒に群がって、カラダンカラスが上空で騒いでいる。死人が分るのか、やがて獰猛な禿鷹が舞い降りて屍の腹の上にたった。こいつらはかならず目をえぐりぬき、口を食べつくし、つぎに服をやぶって腹をさく、そして臓物を思いのままに引き出して食べる。その貪欲さは目をおおうばかりだ。
立場がもし反対であればと思うと慄然とし、憎いと思った敵より禿鷹が悪魔に見えてきた。小銃のねらい撃ちで一羽を殺したが、何十羽かの残りは逃げるそぶりすらせず、平然とむさぼり食っていた。

これが、敵だからいいが・・・
身内の日本兵ならば、どう思ったのか。

戦時では、考えられないことが、起こる。
この死全の有様も、その一つである。

だが、ビルマ戦線では、日本兵も、残酷な死に目にあっている。
河で、ワニに襲われて死ぬ。
濁流に飲まれて死ぬ。

死が、日常と化すのである。

更に、病気で死ぬ。
餓死で死ぬ。

戦闘で負傷したまま、治らずに、死ぬ。

無念である。
しかし、その時代に逆らうことが出来ないのである。

日本は、敗戦後、70年、戦争をしていない国になった。
それは、僥倖である。
そして人は、それを、平和と呼ぶ。
戦争の無い状態を平和と呼ぶのである。

それでは、その平和な状態を維持するために、どんな努力をしているのだろうか。
大半の人は、我関せずとしている。
戦争があったから、平和を貴ぶことが出来るはずなのに、それを、知らない人が多い。


posted by 天山 at 06:05| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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