2015年08月03日

玉砕54

ニューギニア大密林に死す
前人未踏の熱帯雨林六百キロの撤退路
植松 仁作

大正7年、兵庫県に生まれる。
昭和14年12月、旧制室蘭高等専門学校在学中に、広島の電信第2連隊入隊。
北支派遣軍電信第10連隊を経て、15年12月、陸軍通信学校へ幹部候補生として入校。
16年11月、少尉任官、南方総軍司令部通信班長として、サイゴン、シンガポールに赴任。18年9月、陸軍中尉。
11月より、電信第24連隊本部付として、西部ニューギニアを転戦。
終戦時、陸軍大尉。

最初の部分を、少し長いが、引用する。

ここは西部ニューギニア、ヘールビンク湾にあるヌンホル島で、戦前は教会だったこの家も、今は寺子屋で、今日も原住民の子供たちが大勢集まって「いぬ」「いえ」と日本語の勉強がはじまっている。次ぎは私の出番だ。昨日教えた軍歌のおさらいをするので、子供たちと一緒に土間に腰をおろしていた。なにしろ子供たちを集めるのが大変で、タオルをやったり、飯を喰わしたりで、授業料は先生のこちら持ちになっている。

その代わり、勉強が終わればこちらのもので、後は農園に出て働いてもらう。原住民たちは、自分に必要なだけしか作らないのだから、こうでもしないと私たちの口には野菜一本さえ当らないのである。
ところで、いざ私が先生という時、一人の原住民が息をきりながら駆け込んできた。
「大変だ、モシモシトアン」
原住民の身振りはただ事でない、何かあったらしい。

今、この島には、森中佐を守備隊長にして約二千の兵がおり、私はその中の通信隊を指揮している。私の隊はここから海上80キロのマノクワリから派遣されている。そこでヌンホル通信隊長の私を、原住民たちはモシモシトアン、電話の旦那と呼んでいる。

原住民の知らせで私は大急ぎで帰った。兵舎の前に、衛生兵と他にも三人ばかりいる。
「さては急病人か」
いや皆今日の炊事当番だし、忙しそうにその用意をしている。すると原住民は、私の手を引いて、彼らのそばに置いてあるバケツを指した。中には十匹以上もの鰻が入っていた。
「なんだ鰻じゃないか」
と思いながら中へ手を入れようとして驚いた。数匹が首をあげ、私の指先をねらって飛びついてきた。海蛇だ。原住民の様子がどうもおかしいと思った。

ここにはコブラのような猛毒の蛇はいないが、まむしなら日本より多い。原住民はまむしを見てさえ逃げるのだから、海蛇を手づかみにして来たのには、びっくり仰天で、私を呼びに来たのだろう。原住民は絶対喰わないものだ。
それにしても、よくもこんなに沢山とってきたものだ。
「誰だ、あんなもの獲ってきたのは。喰えるのか」
「吉野が鰻だと思って獲ったらしいけど、指を二、三ヶ所咬まれている」
今日の炊事当番は潮干狩りで、夕食にはそのご馳走とのことだった。

現地の様子が、実によく分る描写である。

吉野兵長は一ヶ月ほど前、マノクワリから連絡に来たが、乗っていた船は沈められ帰れずにいる。そのためかこの頃では様子がどうもおかしい。だが゛変なのは、なにも彼だけではない。毎日やって来る敵の爆撃で、私たちの神経はすっかり鋭くなっている。
昨日の爆撃の時も、防空壕へ逃げる間のなかった一人が、井戸へ飛び込み、引き上げるのに一騒ぎしたところだ。今の私たちは皆、多少おかしくなっている。

ところで、この日、夕食の箸をとろうとしていると、今度は兵隊が、
「隊長、緊急電報だ」
と飛び込んできた。発信地はホーランジャ飛行場からで、
「敵、航空部隊来襲、被害甚大、貴地に向け退避中、収容の準備を乞う」
宛は、各地飛行場中隊長になっている。
「すぐ飛行場へ電話してやれ、ホーランジャがひどく叩かれている」
私も次ぎの電報を待つため通信所へ走ったが、次ぎに入った「敵機延べ数千機」の電報をみて、愕然とした。少なくとも数百機の波状攻撃を受けているのだ。

この頃は豪雨つづきで、西部ニューギニアの数十の飛行場は、ホーランジャ地区を除いて、ほとんど使えなくなっていた。折も折、後方からは、東部ニューギニアの戦勢挽回をねらって次々に航空部隊が到着して、それがほとんどホーランジャ地区に集結している。

これを知った敵の大空襲だったが、このためホーランジャの空は敵機で蔽われ、終結の航空部隊は二百十数機の損害を受けてしまった。昭和19年4月上旬のことだった。

ところで、この大空襲のため、ニューギニア方面の航空戦力の差は、一層大きくなってしまった。もう制空権は完全に敵のもので、輸送船は次々に沈められ、船舶部隊は舟艇だけになり、地上部隊も勿論各地に孤立で、連絡はただ電波によるだけになってしまった。

その上、敵は各個爆破の戦法で次々にニューギニアの各地に上陸してきた。このため、西部ニューギニアに布陣の我々第二軍、勢部隊も四月下旬にホーランジャを失い、五月にワクデ、サルミ、ビヤクに敵の上陸を受け、六月にはとうとう私のヌンホル島にも敵を迎えてしまった。

ここで、私は、ビアク島以外の、島があることを、この戦記で知った。
この、ヌンホル島は、ビアク島の南西に位置する、小さな島である。

さて、次ぎに敵の狙う所は恐らくマノクワリだろう。このマノクワリには第二軍司令部がいるのだから、敵も用心して、ニューギニア最大の火力を打ちこむに違いない。
マノクワリの兵力は二万余、決して少ないものではなかった。しかしその大半は兵器、貨物、船舶部隊などの後方部隊で、主戦闘部隊は第三十五師団の一部だけだった。

これでは装備のすぐれた敵に、とても対抗できるものではない。その上、マノクワリの食糧は、もう三ヶ月分ぐらいしかなかった。このため、軍司令官は、とうとう兵力移動を決心し、マノクワリの兵力の半分、一万二千に、マノクワリの南方六百キロの地、イドレへ転進を命じた。
これは昭和19年7月1日だった。

ここでも、輸送船舶への攻撃を受けて、物資が無いという、状況が分る。

昭和19年の後半の日本軍は、撤退、敗走の連続となる。
米軍の物量には、敵わないのである。

この悲劇の、西部ニューギニアの戦いは、あまり語られることがない。
現在の、インドネシア領、イリヤンジシャに当る。

島から陸に移動して、更に、撤退を続ける日本軍に、米軍、連合軍は、痛烈な攻撃を加えてくるのである。

武器、食糧も足りなく、もう、戦闘状態とは、言い難い。
だが、翌年の敗戦、つまり、八月までの間、この日本軍の敗走が続くのである。





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2015年08月04日

打倒・韓国11

朴氏の、醜い韓国人、から、続ける。

日本人が日本統治下で、韓国人に対して残虐な行いをしたことは、もちろん事実であった。日本人は、独立運動を行った韓国人に対して、手酷い仕打ちを加えた。・・・

しかし、独立運動は、当時の韓国社会のなかで愛国心に燃えた人々が国内外において続けたものであったが、一般の民衆から孤立し、限定されたものだった。それでなければ、なぜあれほど多くの知性と能力に恵まれた韓国人が、日本統治体制のもとで幹部として協力し、多くの有為な韓国人青年が日本将校として志願したのか、説明することができまい。韓国が独立を回復した後に、日本に進んで協力し、日韓の融合に努めた多くの人々が、大統領、首相、長官、参謀総長をはじめとする新生国家の幹部となった。・・・

これらの日本に協力した人々が韓国が独立を回復した後に、政府や、国軍や、企業家をはじめとする、あらゆる分野における中枢を形成した。日本時代を完全に否定するのは、理性と論理を否定するようなものである。

と、韓国人の朴氏が書くのである。

だが、それがいつしか、韓国では、親日派として、排除されるという不思議。
更には、売国奴と呼ぶ。

つまり、現在の韓国は、知性と、論理を否定するのである、ということになる。
知性と、論理・・・
これが無いとなれば・・・
話し合うことも出来ない、民族となる。

そして、中には、知性も、論理もある人たちがいるが、その人たちは、沈黙する。
沈黙せざるを得ないのである。

ここで、もう一人の韓国人の書いたものを、見る。
シンシアリー氏による、韓国人による、恥韓論、という本である。

あの日の民防衛教育で、講師は、韓国の歴史を五千年とするのは神話ではなく歴史だとしながら、「歴史的事実である檀君が神話扱いになったのは、日帝のせいだ」と話しました。檀君とは、古朝鮮という伝説上の国の王です。韓国の歴史を日本より短くする必要があったから、檀君慣例書籍二万冊を日帝が燃やして、それを歴史ではなく神話とし、それ以外の歴史も劣等感と被害意識を助長するほうに解釈し、先祖に対する失望と虚無感をもたらす。そうやって朝鮮人を日本化する! というのが日帝の狙いだということです。

ちなみに、檀君神話に関する内容が書かれた本は、五千年はおろか、16世紀のものしかなかったという。

それらのお話は、
ほかのものもワンパターンで、「良い物」と「悪い物」を選別し、良い物だけを見せながら韓国に誇りを持てと、悪い物はすべて日帝のせいだと、韓国の責任ではないという内容でした。

そして、最後にこう言いました。「私の祖国は大韓民国です。我が祖国は世界最高の政治哲学や法律を持つ国です。だから私は生まれ変わっても大韓民国を自分の祖国に選びます」教材にも書いてあります。私たちにも読み上げろとかなんとか。もはやオカルトですね。この教育、税金でやっているはず。

上記・・・
呆れる。

政治哲学も、法律も、日本が統治した際に、すべて朝鮮に与えて、身につけさせたものである。

シンシアリー氏も、
客観的な資料もなく、気に入らない部分はすべて人のせいにした自分勝手な歴史から、「誇らしい」は生まれないでしょうに。良いことも、悪いことも、ただ、そこにあったと認める時、違う道も見えてくるでしょうに。そうしていれば、いつの日にか、なんとなく、なんだかんだで、誇らしいと思う時が来るでしょうに。

とのことである。

つまり、知性が皆無なのである。
勿論、論理もない。

と、いうように、韓国人の中にも、知性も理性も、感性もある人がいる。
だが、団体、国家となれば・・・
オカルト・・・反日教徒になるのである。
何とも、切ない国民である。いや、民族である。

さて、元に戻り、続ける。

たしかに、日本人には悪質な者もいた。だが、日本人は、総じて真面目で公徳心を持ち、規律が正しく、韓国の水準を内地並みに引き上げようと真剣に努力した。日本人の国民性は、今日でも変わっていないが、勤勉で、規則をよく守り、良心的であって、お人よしである。日本の役人は、例外もあったろうが、きわめて清廉だった。賄賂をとるようなことがなく、誰に対しても公平な態度で執務した。

この、日本人の、お人よし・・・
それが、今の今まで、韓国に利用されている。

韓国の役人は、中国と同じように、賄賂漬けであろう。
現在の大統領側近たちも、多く、賄賂によって、失脚している。

日本の統治が、植民地支配ではないことが、良くわかる。
韓国の水準を内地、つまり、日本並みにしようと、真剣に努力したと、韓国の人が言うのである。
これを、拓殖という。日本は、韓国に拓殖を、続けたのである。そして、現在の韓国が存在する。

今日でも韓国では、日本統治時代を肌で覚えている老人たちが集まると、「日本時代は、弱肉強食がなかった点がよかった。もし、あの戦争がなくて、戦争末期さえ別にすればよかった」と、慨嘆することがしばしばある。こういう声は、今日の韓国社会で権力と金に縁がない人々の間で聞かれることである。

つまり、権力と、金を持つ者は、反日を建前として、韓国人を騙しているのである。

自国民を、自国民が、騙す・・・
これが、韓国という国柄である。
更に、自国民が、自国民を虐殺するということも、付け加えておく。

後々、説明するが、日本の敗戦後の朝鮮では、自国民同士の、殺し合いが激しかった。それは、凄まじいばかりである。
日本人が、虐殺した・・・とんでもない。
自分たちが、自分たちの仲間、同じ民族を、殺しあったのである。

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2015年08月05日

打倒・韓国12

朴氏の、記述を続ける。

1910年の日韓併合の十三年前に、朝鮮という国号は、大韓帝国に変えられた。朝鮮という国号は、李朝の太祖・李成桂が高麗王朝を1392年に倒して、高麗から朝鮮に改められたときから始まっている。

朝鮮王朝も、高麗王朝と同じように中国皇帝に臣従した。韓国人の精神と伝統文化を歪めてしまったのは、何よりも中国文化である。韓国は、おそるべき中国文化によって完全に毒されてしまった。韓国は大陸から突き出した半島で、地政学的にきわめて不利な位置にあったために、圧倒的に強大だった中国の影響力から逃れようがなかった。

と、いうことだが・・・
本当に、中国文化に毒され続けたのか。
これは、検証することである。

例えば、ベトナムは、同じように、中国の支配を受けたが、韓国のようではなかった。
ベトナムは、常に、対決していたのである。

中国の文化を取り入れた部分もあるが、ベトナム独自の誇り高い精神が存在する。

朝鮮国王は、中国の皇帝と臣従関係を結び、実質的には形式上だけだったが、中国皇帝が、朝鮮国王の任命権である叙任権を持っていた。明もその後の清も、韓国を属国として内政にまで干渉する権利を持っていたが、現実には、韓国の内政に容喙することはほとんどなかった。アジアにおいて中国の皇帝のみが、中国を中心とした中華秩序のもとで、皇帝という称号を用いることができた。朝鮮は国王であった。

確かに、中国は、そのように勝手に考えていたようであるが・・・
それは、あくまで、勝手な妄想である。
世界の中心・・・どのように考えても、自由である。

歴代の中国王朝は、対外関係を中国が世界の中心であって、中国皇帝が全世界を支配しているという中華思想に基づく世界観によって律していた。そこでは、外国と対等な国交はありえなかった。

この、中華思想というもの・・・
ここでは、多く触れないが、とてつもなく、極めて悪質な思想である。

勿論、日清戦争で、それが、明確に崩壊したが・・・
今も、中国は、中華思想に、縛られているようである。

日本人は、19世紀までの中国を中心としたアジアの実情について、驚くほど無知である。日本人は、まったく中国を理解していない。これは日本が歴史を通じて中国の政治、軍事的な影響下になく、完全に中国文化圏の外側にあったことを示している。

確かに、日本人の知識人たちは、完全に、中国を良く誤解していた。
中国に対する、憧れは、甚だしいものがあった。
知らないからだ。

実際、中国に渡り、中国を見聞した者たちが、ようやく、自分たちの誤解に気づいた。
考えていた中国とは、異質のものだったのだ。
論語や、中国の思想などの、教養から、中国を理想の国のように考えていた人たち。
ところが、中国には、論語の世界はおろか、道徳なるものも無い。

中国人は、嘘つき、ドロボーのような連中だった。
ここで言う中国人とは、漢民族のことを言う。

チベット、ウイグル、南モンゴルや、台湾の人たちのことではない。

朝鮮王朝は「帝」と「皇」のどちらも名乗ることができなかった。中国皇帝が使用する紫色は使えなかったし、皇帝の冠に類似したものをかぶることもできなかった。中国人使節がソウルに来るときには、使節は、中国皇帝の名代であったから、朝鮮国王よりも格が高かったので、国王は、王宮の外まで出て、恭しく迎えなければならなかった。中国皇帝は朝鮮国王に対して勅令を発し、朝鮮国王は、皇帝に対して定期的に報告書を出した。

李朝が国号の朝鮮を大韓に改めて、初めて内外に独立国家であることを宣布したのは、李成桂が李朝を建ててから五百年後の1897年のことである。これは、韓国の歴史で記念すべき日だ。このときの国王の高宗は、李成桂から数えて27代目であった。朝鮮国王は、はじめて大韓帝国皇帝を名乗ることができた。

それでは、朝鮮の千年属国の様子を俯瞰して見る。

史実を見れば、中国は前11世紀に始まる周の時代から、周辺の国と冊封関係を取っていた。つまり、朝鮮半島も、その例外ではない。

更に、中国との宗属関係が決定的になったのは、七世紀の統一新羅の時代である。
新羅は、唐の後押しで、三国を統一することが、出来た。
当然ながら、新羅は、属国として、唐に忠誠を誓った。

以後、半島の王朝交代などにより、多少の強弱はあるが、朝鮮は、中国歴代王朝の属国に甘んじ続けたのである。

面白いのは、この属国関係は、中華帝国が、一方的に強要したものばかりではない。
朝鮮が、権威権力を含めた政権確立と、政治安定のために、中華帝国による、冊封を必要とした。つまり、みずから進んで、属国になったのである。

千年属国の国は、ウソでも何でもない。事実である。

朝鮮歴代王朝の、尊中華主義は、大変な感覚だった。
事大主義そのものであり、属国願望が徹底してあった。
ときには、中華帝国が、迷惑に思うほど、その願望が強かったのである。

その一つの例を上げると、宋の時代、北方の契丹人や女真人に、脅かされて、莫大な貢物を契丹族の遼王朝と女真族の金王朝に、贈っていた。
国防のために、金で安全を買っていた。
そんな時でも、935年に新羅を亡ぼして、統一国家を建てた、高麗朝の朝貢使は、朝貢と冊封を要請したのである。

宋は、北方の強敵に誤解されまいかと、高麗の朝貢に、難色を示したほどである。

そして、李朝朝鮮の始祖である、李成桂は、1392年に、高麗朝の王位を簒奪し、国号を朝鮮と改めて、明王朝により、冊封された。

やがて、明が、満州人の清に亡ぼされる。
李朝朝鮮の朱子学者などは、明と清の抗争中も、変らず、明への忠誠を守り、清の討伐を企てた。
だが、清の八旗軍により、徹底的に蹂躙され、完全に清の属国になった李朝朝鮮は、今度は、何と、明に矛を向けて、明人を虐殺するという。

実に、呆れる民族である。
また、何とも、憐れである。

posted by 天山 at 06:09| 打倒・韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月06日

打倒・韓国13

唐が、盛期を過ぎた後、突厥をはじめ、周辺諸民族は、競って、中世民族国家を建設しはじめた。
その勢力は、唐をも脅かすほどに盛強となり、衰退著しい唐が、これらの国を朝貢国や、属国として、扱うことが不可能になっていた。

ところが、朝鮮半島は、この流れと逆である。
統一新羅以降、半島の歴代王朝は、中華の暦を使い続けた。
暦を使うということは、属国の証しである。

10世紀前半に成立した、高麗朝の初期には、独自の年号の使用を始めたが、すぐに止める。

更に、李朝朝鮮においては、自らの国号と王位まで、明王朝によって、下賜されたものである。

その李朝の始祖、李成桂は、高麗朝から王位を簒奪した後、元王朝のモンゴル人を、半島から追い出し、成立したばかりの、明王朝に対して、大中華への忠誠を誓った。

李成桂は、宗主国、明へ高麗朝の王となったことを、報告すると共に、小中華における、易姓革命の承認を仰いだ。

易姓革命とは、悪徳君主が天に見放されて、天命により、有徳の士が新たに王位に就くというものである。

そして、高麗に代わる、国号について、二つの候補を挙げて、明王朝に裁決を求めたのである。
一つは、朝鮮、もう一つは、和寧、ワアニユンである。

結果、明の洪武帝は、国号を朝鮮とすることを許した。
だが、李成桂を、朝鮮国王とすることは、許さなかったのである。

したがって、朝鮮国王の印璽は下賜されず、与えられたのは、権知高麗国事という、国王代理の称号のみである。

正式に、朝鮮国王の印璽が与えられたのは、太祖、洪武帝が死去してからである。

印璽の下賜というのは、属国の正式なシンボルである。
朝鮮半島の統治権を国王に一任するという、意味であり、玉璽が許可のしるしである。

日本でも、漢倭奴国王というの金印があるが、朝鮮のものは、銀印であり、属国の証しである。

朝鮮国王が、朝鮮国王之印として、金印を明から賜ったのは、第二代恵帝の時代である。

そして、元旦、冬至、皇帝誕生日などには、毎年、祝賀の使を送らなければならない。
それも、金印を守るためであり、金印は、李氏王族の護符であった。

千年属国の朝鮮、そして、その属国根性は、今も変らず、存在するのである。

そして、朝鮮は、搾取され続けるという、運命である。

ここでも、韓国人は、ウソを言う。
属国からの貢物よりも、宗主国からの回賜、恩賜のほうが多かった。
朝鮮にとって、朝貢冊封秩序における、宗属関係も、形式的なもので、実質的には、実益を狙った経済活動だった・・・

最近の研究によれば、清朝宮廷から朝鮮政府への恩賜は、朝鮮側の貢物のたった十分の一であったという。属国朝鮮は、ずっと清帝国に搾取され、奴婢以下の扱いを受けていた最貧の国だったのだ。
黄 文雄

清が、朝鮮に与えた、朝貢国としての規定は、実に厳しいものだった。
金銀午牛の特産品から、貢女、宦官などに至るまので、献上すべき物品が、細かく決められていた。

また、貢物は、形のないもの、出来事の仔細に至るまで、明細書に記載し、提出するというもの。
中でも、特に、日本に対する情勢や、使節団派遣についても、報告と許可を貰うというもの。

つまり、朝鮮王朝は、国内外の情勢を仔細に報告する事が、義務付けられて、清朝廷の下臣として、一地方の官僚と同じ扱いを受けていた。
それは、李朝朝鮮の国王の地位は、モンゴル、回部、チベットの将軍や、大臣以下であり、更に、各省の地方軍政の長官にあたる、総督などの比ではなかったのである。

気の毒といえば、とても、気の毒である。
ウソをつきたくなる気持ちも、理解する。

書き続ければ、まだまだあるが・・・

その中の、一つ、貢女について少し述べると、慰安婦のことである。
宦官も酷いことだが・・・

朝鮮半島は、かつてアジア最大の、貢女の産地と見なされた。
しかも、である。最近まで、韓国は管理売春国として、有名だった。
その、妓生、キーセンと呼ばれるものは、今も存在する。

統一新羅から、李朝朝鮮に至るまで、例年、宗主国の元、明、清へと、貢女、慰安婦を捧げてきたのである。
古代朝鮮は、売春婚の国である。中華帝国をはじめ、北方諸王国への貢女の献上は、古代から有名である。

例えば、元時代、モンゴル人統監下での貢女献上は、高麗朝の貴族社会にとって、苦痛なほどだった。何せ、処女を献上しなければならない。
これが、慣例となった朝鮮では、元が抱えるもと南宋の降人部隊に、女を献上したことから、明、清へと、朝貢の貢女献上の悲劇が続いた。

明、清も、元に習い、献上される侍女や貢女は、美女であり、処女であることが、原則。また、その身分は、国王の妹や、王女、また王室や大臣の娘である。

美女で処女である侍女を供出する場合は、両班の娘、またはその妾が望ましく、それ以外の地位の者を貢女として選んではならなかった。もしもこの点での不正が発覚し、宗主国である清が知った場合は、責任官吏が逮捕され厳しく罪に問われることもあった。
黄 文雄

と、いうことで、現在も、日本、アメリカ、オーストラリアに渡る、売春婦が、15万人とも言われている。
オーストラリアでは、入国の際に、韓国人女性の場合は、とても、難しいという。

捏造した、日本の、慰安婦問題を言う前に、自国の、歴史を振り返り、また、管理売春の国であったことを、よくよく、鑑みてほしいものだ。


posted by 天山 at 05:56| 打倒・韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月07日

打倒・韓国14

15世紀後期から始まった、大航海時代以後の世界は、あらゆる面で世界に変化を与えた。
西洋文明が、東アジアに押し寄せたのである。

世界各地に形成されていた、独自の文明圏は、大航海時代以後、西洋文明と、近代西洋の価値体系に、強く影響された。また、侵食された。

そんな時代においても、ロシア、日本のように、自己改革を遂げつつ、近代的西洋価値体系を、受容する国もあった。

また、その侵食に抵抗したが、改革に失敗した、清や、トルコなどの国もある。

文化、文明だけではなく、国家の形態までも、変らざるを得なかった国も多い。
貴族を中心とする西洋の中世国家、封建的領主、民主的都市国家さえも、次第に衰退し、国民を中心とする、領域国家へと、変貌した。

この変化は、宗教改革、市民改革、産業改革という、社会的な変革に後押しされ、国民運動を通じて、多くの国を、近代国民国家へと、変貌させた。

19世紀末には、列強の地球分割は、ほぼ完了する。

エチオピア、タイという、少数を除いて、自己変革の出来なかった諸民族、諸国家は、植民地、あるいは、準植民地へと、転落する。

タスマニア人のように、この地上から消え去った民族もある。

長い間、東亜世界の、天朝朝貢秩序を主宰してきた、清帝国さえ、アヘン戦争以後は、老大国が、衰亡するという様を、世界にさらけ出した。

宗主国であった、清がこのようになれば、その属国であった、朝鮮は、いかばかりか。

さて、19世紀の国際法にあたる、万国公法では、国家という概念を、どのように見ていたのか。

万国公法における、近代西欧の国際秩序体制とは、大航海時代以後に、生まれた近代西欧国民国家によって作られた、世界秩序である。

そこでは、英、仏、オランダなどの西欧国民国家は、「自主の国」といわれる、主権国家であり、「文明国」である。

日本、ペルシャ、オスマントルコなどは、「半主の国」であり、「半文明国」である。それ以外の地方は、「未開の地」とみなした。

未開の地は、先住民族がいても、独自の国家体制があっても、「無主の地」とみなし、「先占の法理」により、「自主の国」が、自国領として、編入することを認めるというものであった。

「半主の国」中国の属国である、朝鮮は、当然、「無主の国」とみなされた。
世界中、どの国も、朝鮮を独立国家として、認めてはいなかったのである。

ところが、今の韓国人は、日本によって、独立、主権を奪われたという。
当時の感覚から言えば、無主の国であり、自主の国が、自国領として、編入されるべき地だったのである。

逆に、日本によって、守られたというのが、本当の言い方である。
要するに、歴史的事実を知らないということ。
無知なのである。

朝鮮は、「君主の国」「礼儀の国」と称されることを、誇りにしている。
つまり、それこそ、属国としての、誇りなのである。

それらの言葉は、宗主国である中国が、天朝冊封体制下の中で、臣属した国に対して、下賜する、誓詞であった。

中国では、上国、下国、宗主と属国の礼を忠実に守る国に対して、忠実な属国であるという、証しに、称号を与えたのである。

礼儀の国を、訳すと、韓国は中国の属国である、という意味になる。

執拗に抵抗した、ベトナムには、そのような称号はない。
中国からすれば、朝鮮そこが、最も忠実で、模範的な千年属国の、礼儀の国だった。

中華帝国の属国における、歴代の国王は、原則として、皇帝の臣下とみなされ、皇帝によって、任命される。
また、属国の王妃、太子の廃立に至るまで、権限をふるうことが出来た。

属国である、朝鮮王国を実質的に指揮、監督していたのは、天朝の北洋大臣や、直隷総督、あるいは、任命を受けた代理人である。
つまり、国王とは、形だけのものであり、決して主権国家の元首としての、役割はなかった。

だが、天朝に尽くした朝鮮だが、朝鮮の朝貢使節が、北京詣でをする際は、朝臣が出迎えの礼を受けるどころか、諸侯の礼さえも、受けられないという待遇である。
宿泊先も、迎賓館ではなく、百官と同じ、粗末な宿である。

朝鮮の属国の位置は、最も低く、下国のなかの、更に下国に扱いだった。
朝貢の席では、千官が赤色の礼服を着ていたのに、朝鮮の使臣だけは、黒色の丸首である。

更に、琉球の使臣が駕籠に乗って宮廷に入るが、朝鮮のそれは、駕籠に乗ることを、禁じられていた。
琉球以下の、扱いである。

韓国人は、統一新羅の時代から、事大主義であることを決め、属国に甘んじていたのである。

そして朝鮮は、「礼記」にある、「天子七廟、諸侯五廟」と規定を守り、天神を祀ることを避けて、五廟だけを、祀ってきたのである。

天神を祀ることが出来たのは、統一新羅から、千年あまり後である。
つまり、日清戦争により、日本が勝利し、朝鮮を解放し、その独立を得た、1896年である。

この時、朝鮮が、中国のくびきから解放され、国王の高宗が、大韓帝国の帝位に就いてからのことである。

韓国が、千年属国から開放され、主権国家となった象徴である。

つまり、日清戦争後の、下関条約により、朝鮮が、解放されたのである。
日本が戦った戦争により、朝鮮が、独立国家となった。
これが、歴史的事実である。



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2015年08月10日

打倒・韓国15

韓国人は、
韓国が有史以来はじめて独立を失ったのは、後にも先にも日韓併合後の日帝36年の時代だけである。
と、間の抜けた、アホなことを、言い続けている。

歴史の事実を知らないのか、知っても、平然とウソをつくのか・・・
それ以前はずっと独立、主権国家であった。
とも、言うから、手が付けられない。

もしそうだとしたら・・・
今頃は、韓国という国はおろか、主権も独立も無い、ロシア、中国に取り込まれていただろう。

今まで説明したように、韓国、朝鮮は、中国の属国であった。
その証拠は、まだまだあるので、延々と書き続けて行く。

日本が、韓国の主権と独立を、勝ち得たのである。
つまり、日清戦争に勝利して、韓国を解放し、独立国として、成り立たせたのである。

その日清戦争後の、1895年の、下関条約の第一条である。
清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス
と、宗主国、清が属国である、朝鮮の独立を認めることが、明確に記されている。

ただ、日本の侵略を言いたい、馬鹿どもたちは、この、朝鮮独立、という文句を、日本の支配下に置く、と言い換える。

日本の学者でも、日本の侵略が、ここから始まったという、馬鹿もいる。
呆れる。

これが、侵略だろうか。
これは、自衛である。

当時の世界情勢を鑑みれば、清はイギリス、フランスなどの列強に蹂躙され、ロシアは、アジアの権益を狙い、南下する野望を持っていた。

朝鮮が、衰退いちじるしい清の属国であるということは、やがて、朝鮮半島も列強の支配に入る。そして、それが、日本にも、脅威となる。

更に、清は、日本を仮想敵国として、朝鮮半島の支配を宗属関係から、保護属邦関係へと強化し、威嚇を繰り返した。

勿論、朝鮮人は、何の危機感も抱かないという、間抜けさである。

危機感を募らせた日本は、自国の存立のために、朝鮮独立を画策して、清との対立が深まり、戦争へと、突入した。

自国存立のため・・・
当然の結果である。つまり、自衛の戦争である。

韓国人は、一体、独立とか、主権国家というものを、知っているのだろうか。
身を犠牲にして、それを得るということを、知っているのだろうか。

韓国は、何もせず、日本によって、独立を得て、主権国家となったのである。

下関条約以前、日本の朝鮮半島進出を危惧した清は、軍隊を朝鮮に送り、常駐させ、実権を握っていた摂政の、大院君を逮捕連行して、三年間に渡り、抑留までした。

このとき、アメリカ政府は、
朝鮮は清帝国の従属国家であり、半島における何世紀にもわたる封建的国家としての支配は、清国によって承認された
と、その関係を認めている。

これが、当時の国際感覚である。

それが、韓国人学者に言わせると、友好、同盟関係だと、言う。
友好、同盟関係か否か・・・
それを後々で、はっきり書いてゆく。

すでに、少しばかり書いたが、それは、凄まじいばかりの状況である。

下関条約の朝鮮独立後、米国務長官は、駐清公使ヤングに
朝鮮の清国からの独立は、いまや確立されたものと合衆国は見なしている
という、書簡を送っている。

これが、歴史的事実である。
低脳な韓国人には、それが、理解出来ないようで・・・
空想全開の、主観を繰り返すのである。

日韓併合に関しても、伊藤博文などは、反対だった。
極貧の朝鮮半島を併合しても、日本が持ち出して大変になる事が、分っていた。

それが、テロリストによって、勘違いされて、殺されるという・・・
あまりにも、愚かなことをしたものである。
それが、今では、韓国の英雄とされている。
これも、呆れる。

だが、朝鮮人も、馬鹿ばかりがいるのではない。
その名誉のために書けば、独立の機運が高まっていたのも、事実である。

李朝朝鮮の末期に、開化派が登場し、事大派の対抗勢力として、独立派と称された。
勿論、清からの、独立を獲得しようとした。

日清戦争により、清が宗主権を放棄したことは、日本にとって、大きな意味があった。
だが、それにより、朝鮮半島が、日露両勢力の争奪の場ともなった。
それが、日露戦争へと、続く。

つまり、日本が立ちあがらなければ、ロシアが朝鮮を、我が物としてしまうということ。
結果、現在、ロシア領ではないことを、喜ぶべきなのだ。

両班という、格式の人間がいたことは、以前多々書いたが・・・
この、両班とは、何もせず、欲しいものは、奪った存在である。

その、両班の精神が、朝鮮人には、沁み込んでいるのか・・・
何もせず、ただ、妄想を繰り返して、実際的なことをしない。

現在の韓国を見れば、一目瞭然である。
何も出来ないのである。
政治、経済、企業と・・・社会も・・・
誰かに、寄りかかることだけが、精々なのである。

posted by 天山 at 06:36| 打倒・韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月11日

玉砕55

植松氏は、ヌンホル島から大陸に渡り、ジャングルの中を、行軍することになる。

今日の行程には、かなり長い崖が続いている。この上を歩くか、下にするかが問題だが、歩くのには、引き潮を利用して下を行くのが楽だ。
しかし問題は敵機だった。海岸線の哨戒に、毎日やって来る。逃げ場のない崖の下で、敵機に見つかったら、それこそ大変だ。とにかく崖まで行ってみることにした。
崖は思ったより高く、二十メートルぐらいあったが、いい具合に引き潮で、砂浜が出ていた。私たちは大急ぎでそこを歩きだした。敵さんは、午前中ゴロゴロしているわけだろう、まず来ない。だが昼からは油断できない。

崖下は岩もあるし、所々ほら穴もある。これなら敵が来ても大丈夫だろう。そのうち昼近くになった。敵機もそろそろ出る頃だ。
やはり不安になってきた。いくら慣れていても撃たれるのは気持ちのいいものではない。とうとう崖をよじ登ってジャングルに入ることにした。最後の一人が登り終わるまでに一時間以上もかかったろう。はっとして汗をふいていると、思った通りだ。爆音がしてきた。時間も昨日と同じ頃だ。私たちは思わず顔を見合わせた。
「早く登ってよかった」
「あのまま歩いていたら、今頃ヒヤヒヤだ」
しかし、私たちはハッとした。それは、今朝から見え始めた漂流船だった。でも誰も双眼鏡を持っていない。私のはケースだけで、中味はマリクワリに残して中に煙草をつめている。確かめようがないので、初めは敵の水雷艇と思ってドキンとしたものだ。・・・

漂流舟に突っ込んだ敵の編隊は、とうとう銃撃を始めた。先頭機が旋回の姿勢に移り、舟を囲んで銃撃のしぶきが何本も海面に尾を引いた。編隊が船の上を通り過ぎたとたん重油タンクに引火したのだろう。パッと火を吹き船は黒煙を上げはじめた。
「もう駄目だな」
あんなに撃たれては、船体も蜂の巣だろう。燃料があるところをみると、機関の故障だったのだろうか。
まだきっと生存者がいるのに違いない。敵機はまた舞い降りて黒煙の船をめがけて、全機銃撃を始めた。そのうち目標が、船から次第に海面へ移った。そして海面への銃撃範囲が拡がっている。

やはり生存者がいたのだ。海面には火の船から逃げ出した人たちが浮いているのだ。それを狙って、海面すれすれに下り、銃撃を浴びせては飛び上がり、旋回してきてはまた銃撃を繰り返している。
あの下では、恐らく漂流に疲れ切った戦友が、血しぶきを上げながら、一人一人海底へ撃ち沈められているのだ。私たちは息を呑み、歯をならしながら見守った。畜生め、力のない者に力を振るう残酷さだ。

だがこれを残酷、非人道といくら叫んでも所詮は戦争だ。弱者の抗議、敗者の言葉として踏みにじられ、勝者の作る法がその残酷を正当化するのだ。しかも戦争のつづく限り、この悲劇はくりかえされるのである。

戦争というもの自体が、残酷なものである。
その残酷さが、延々と続くことになるのである。
そして、死に行く兵士たち・・・
末期の水さえないのである。

そんな中で、絶望的な知らせが届いたことを、作者は知る。

7月13日、最後尾を行軍していた小張軍医が、海岸で遭遇している舟艇を見つけたので、薬をあさっていたら行李の一つから、東条英機大将が軍司令官にあてた手紙が出て来たと言う。
「・・・ニューギニア作戦は、余の不明のいたすところ、戦況は悲境におち、重大決意を要する段階に入った。以後の作戦は、ニューギニアを切り離して行わねばならなくなった・・・貴官の武運長久を祈る・・・」
という意味のものだったらしい。東条大将は軍司令官の四年先輩に当る。関東軍でも二人は同じ頃にいた。また東条大将が陸軍大臣の時、軍司令官は憲兵司令官をつとめた仲だから、恐らく軍司令官への私信だったのだろう。

それより大変なのは、その内容だった。以後の作戦はニューギニアを切り離して行うと言っている。作戦の拙劣を補うために、多くの人命をうちこんで、戦勝をかちとった例も戦史には多い。しかし何千、何万の兵力を投入し、その生死を賭けても敗北、ただ屍の山を築かせた例も決して少なくない。ニューギニア作戦もその一つである。

ジャングルに蔽われたニューギニア、ここに作戦の将兵には、十分な食糧さえない。その上、悪疫が待っていた。

絶望的な内容である。
確かに、この戦記の、帯付けには、ジャングルに食糧もなく、銃を捨て、600キロの道を歩いた12000名の将兵の無残、とある。

昭和19年の日本軍は、到る所で、このような捨てられた戦場になって行くのである。

私たちは、イドレ転進後、さらに後退して今後の第一線の作戦任務につくものと思ってきた。これは兵隊なら誰だって考えることである。しかし、この手紙からみると、私たちはもう日本軍の直接戦力ではなくなったのである。

この長い戦記の全貌を説明するのは、難しいが・・・

兎に角、当時の兵士たちの、現状を少しでも知ることと、思う。
これが、追悼である。

反対に勝っている方では、戦利品を手に入れるし、物量の転用も全戦局にできる。現に敵は、頭部ニューギニアのウエワクやホーランジャ地区で、我々の膨大な軍需品を手に入れた。いま我々の頭の上に雨と降らしている爆弾も、そのほとんどが日本製である。

道は間もなくタピオカやパパイヤ畑の中に入った。
日本では、澱粉は主にじゃがいもからとっているが、南方ではほとんどこのタピオカに頼っている。タピオカは原住民の主食の一つで、ダーリヤや菊芋に似たもので、白い小さな花をつけている。
野菜の欠乏しきった私たちには、まさに地獄で仏の歓びだ。特に黄色に美しく熟したパパイヤが気になって、このまま通りすぎるなどとてもできない。
早速ここに露営と決め、背丈ほどもある草を踏み倒して、天幕の準備を始めた。後から来ている者も、右を見、左を見ながら、ちょうどおもちゃ屋の前を通る子供のようだ。

踏み倒した草も意外に柔らかい。こんなベッドに寝られるなんて、今の私たちには全く豪華だ。しかもよく熟しているパパイヤの香りが、この草一杯の畑の中に漂っている。

この日の午後は、この畑の中で、休養と栄養に恵まれながら、しかも、日光の下で楽しく過ごしたが、この日が転進間を通じて、最も楽しく恵まれた日であった。

その後は、地獄の行軍である。
密林の中を、方角もよく分らず、進む。
それが、また、意味のあるものならば・・・
一体、何故、このようなことをしなければならないのか、という疑問を持てば、進めないのである。

posted by 天山 at 05:50| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月12日

玉砕56

若者たちが、毎日、死というものを、目の前に見る、戦争というもの。
戦争反対を言うが、では、戦争をしないためにはと、考える癖をつけなければならない。

斜に構えた者が、戦争も、国際社会の一つの解決法だなどという。
その通り、国際社会の一つの解決法である。
それでは、戦争をしないで、日本は、70年を経ている。
何故か・・・

何故、日本は、戦争をしないで来られたのか・・・

「あれは君の乗った船だったのか」
あの漁船には、私の隊の予備の暗号書を積み込んでおいた。乗ったのは軍司令部から30名ほど、私の隊から四名だったが、助かったのは、この根本兵長ら二人だけだった。

この二人も、海に飛び込んで二日間、海水と潮風日光をじかに浴びていたのだから、首から上は赤く火傷のようにただれている。
もちろん他の人々は、ほとんど船上で銃撃を受けて死んでしまった。やっと海に飛び込んだ人たちも、水雷艇からの狙い撃ちで死んでしまったという。でもよくまあ助かったものだ。しかも意識を失っているままでいる所へ、船が通り合わすなんて!
私は、この遭難の二人のことから、つくづく人の運命というものを考えさせられた。

私も運のいい男である。シンガポールにいた頃、私の後任者が内地を船で出た。ところがその船が途中でやられ、後任者はとうとう来なかった。もしその人が来ていたら、私は内地への途中で死んでいたはずだ。乗船を予定していた船は海南島沖で沈められた。
その後、私はこのニューギニアに来て、ヌンボル島へ渡ったのだが、私の脱出が最後で、ヌンボルは玉砕している。また、マノクワリに帰った私は、暗号業務の連絡で、マニラに飛ぶ予定だったのに、無理に希望して私に代わって行った者がこれまた、戦死した。

「人の生死はまったく運だ。いや生まれた時に、もうそれが決まっているのかもしれない」
そして、これからイドレに着くまでの私の上にも、この運命のままに生死の瀬戸際を渡る瞬間が繰り替えされていった。
人には、それぞれしなければならない事があって、それを終えねば死ねないのかもしれない。もしそれが人生なら、死ぬ時が、人生有終の花のかおる時である。そして我々をその終着駅に導くものが運命であり、我々はその運命の波間に浮いているに過ぎないのではなかろうか。
さて、それはともかく今の私たちは、ただ命令のままに歩く他はない。

生きていれば・・・
生きているから、考えることができる。

運命・・・
戦争を体験する運命が、与えられた、人生だったのか・・・
誰にも、それは、分らない。
それにしても、辛い、苦しい、時代の運命を受けたものである。

戦争に生きる運命を、呪った多くの兵士もいるだろう。

お国のために、戦うという、時代。
その時代を、振り返り、追悼する、私というもの。
恥ずかしいことであると、思う。

死ぬ、という、追体験は、出来ない。
武士は、今日が死ぬ日と定めて、生きる、という。
それは、実に、美しい生き方である。

何故なら、人は、必ず死ぬからである。

今日が、死ぬ日という、もののあはれ、である。

戦記は、絶望の行軍に入る。

二日間の休養で、マラリアもどうにか落ち着いた。落伍していた者も二名が追いついてくれた。これからもまたじめじめした密林の行軍だろう。私たちは、よく乾いた山頂の空気を、胸一ぱい吸い込んで出発した。
谷間へ下りてみると、先日の二人のインド人のそばに、また一人が倒れている。
「水なら上の谷間にもあるのに、どうしてここまで下りて来たのだろう」
「やはり、友引、なんだろう」
上の集落には、患者のインド兵が数十名もいる。彼らもあのままでは同じ姿になる。それにしても彼らは救援に来てくれると思っているのだろうか。それともイドレまでもう二日だから、と安心しているのだろうか。この頃から私たちが死体と呼んでいた言葉が、いつの間にか仏と呼ぶようになっていた。

その死体、仏も、毎日、毎日見ることになる。
そして、それに対する、感覚も麻痺してゆく。

さて希望をかけた日が明けた。幸いに発熱患者は一人もいない。しかし、平時の一食を一日分の食糧にして、しかも行軍しているのだから、体力の衰えはどうすることもできない。もうほとんどの者が杖を手にしている。私もそうだった。だが、神は必ずしも弱者の味方ではない。いや、かえって酷な運命をさえ与えるものだ。この日の私たちにも、この運命の厳しさを避けることができなかった。
露営の天幕をたたんで、三時間ほど歩いた時、天幕に出会った。中に海上輸送隊の藤井大尉がいた。
「やあ久しぶりだな。元気か」
「それより大変だぞ、道が全然わからん。大体この道はでたらめだ。イドレへ着くかどうか怪しいものだ」
「まさか」
彼はとんでもないことを言い出した。私は驚いて、二の句が告げない。
「本当だよ、この先にも先発の部隊がたくさんいる」
「そんな馬鹿な」
私と伊藤大尉は、半信半疑で先へ行ってみた。やはりそうだった。そこには一日前に出発させた田中曹長が座り込んでいた。
「この先に、独立有線中隊の高田隊、二葉隊もいますが、どうしましょう」
高田隊、二葉隊は、ワサリを私たちより三日も前に通っている。もうイドレに着いていることばかり思っていた。一体どうしたというのだろう。すぐに、高田大尉、二葉大尉のところへ急いだ。ところが、
「君の来るのを待っていた。これからどうしょう」
と思案にくれていた。これを聞いた私は、身体中の力が抜けてしまった。

密林の中を、さ迷うというアクシデント・・・

ムミからの死没者や落伍者の合計は、もう二百名を越えている。予定どおりの行軍でこの有様だ。今もし進路を間違えたら、その結果はどうだろう。今まで見てきた落伍者や、死没者を思うと、私たちの動揺は当然だ。
「でたらめだ。無責任きわまる転進計画だ」
「しかも転進の責任者は誰一人この行軍に参加していない」

私たちは今更ながらジャングルの恐ろしさを知った。視界をふさがれたジャングルの中では地図さえ役に立たないのである。
「これから先は、磁石とお日さんだけが頼りだ。それでヤカチ本流を目指して歩く。落伍したら最後だぞ。元気を出してくれよ」
今までは、落伍者が出ても、イドレに着いたら迎えに帰るという気持ちがあった。だがもうそれどころではない。残っている米は二日分だから、これをなんとか十日分にするように言い渡した。今まで平時の一食を一日分にしていたが、今日からはその一食分を四日分にして、しかも行軍するのだ。



posted by 天山 at 06:27| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月13日

玉砕57

戦地に追悼慰霊に出掛ける、そして、戦記を読む。
しかし、私は、実感として、戦争を感じられないのである。
肌で、感じ取ることが出来ないでいる。

想像力の不足なのであろう。

ただ、飢えるという感覚・・・
それについては、少しは、分る。

支援活動をしていて、ストリートチルドレンなどに、食べ物を渡す。
また、ストリートアダルトもいる。
飢えるということは、人間の理性も知性も、感性も、奪う。

食べているから、生きている。
飢えた状態で、果たして、まともに事を考えることが出来るだろうか。

貧しい国では、食べるために、女は、体まで売るのである。

戦死は名誉あることであった、らしい・・・
だが、餓死であれば・・・
名誉と言えるのか。

私は、この世は、地獄と心得ている。
戦地は、地獄の最たる現場である。
人間は、地獄に生きているという、私の考え方は、一つの救いになると、思う。

命の大切さを、伝えるとは、死ぬことを、伝えることと同じである。
死を伝えずして、生きることを、伝えられないのである。

ここで、こうして、私が戦記を引用して書いていることも、私が空腹ではないからだ。
そして、当事者ではない。
いい気なものである。

私は、私の軽薄さと、軽率さを、十分に感じている。

地獄の戦場を生き抜いて、生還した兵士の皆さんたちには、頭が上がらない。
そして、また、そこで、死ぬことになった、兵士の皆さんの霊位に対し奉り、心からの慰霊と、感謝を持つ。

時代の不可抗力に、生きなければならなかった人たち・・・
本当に、あはれ、である。
長い年月をかけて、日本人が、創り上げた、もののあはれ、という、心象風景を現す言葉、あはれ、というものを、つくづくと感じ入る。

小張軍医が、
「この川水は危ないから飲むな」
と伝えてきた。薬はマラリアの薬だけ。このうえ大腸炎患者が出てはたまらない。
今の私たちに満腹感を与えてくれるのは、川の水だけなのに、その水さえ十分に飲めなくなってしまった。といっても口は渇くし、喉はからからで、とうとうひいひい鳴り出した。水筒の中は、先ほどの川水を一ぱい入れてあるが飲めない。

伊藤大尉が水筒に口をつけたまま、ごくんごくん飲んでいる。
「伊藤さん、生水だろう、いかん」
「なーに、遅かれ早かれ野たれ死にだ」
もう痩せこけ、目ばかり大きい伊藤大尉の顔には、投げやりなところさえ見える。それにしても、野たれ死には禁句だ。皆が私たちの一言に神経をとがらせ、前途を気にしている時だ。野たれ死にを口にするようでは、彼も大分疲れているらしい。そこへ上村主計もきた。
「また現在地がわからなくなったじゃないか。俺はもうどうでもなれと思って、ピストルを時々ぶっ放して気を紛らせている」
と腰をおろした。彼の達磨そっくりだった顔も、すっかり頬が落ち、髭だけがぼうぼう残っている。マノクワリ出発の頃のような生き生きした色は、もう誰の顔にもない。食糧も一食で食い尽くせる程しか残っていない。このままでは、あと十日もすれば全員倒れてしまう。
「さっきの天幕の人たちのように、タレ流しで死ぬのを待つより、これでバンとひと思いに死んでやる」
上村主計は、何のこだわりもなしにそんなことを言った。ほんとうに彼ならそう割り切っているのだろう。私は両手を頭に、果たしてその時になって死ねるかな、誰かが知らないうちに殺してくれると一番いいんだが、と思った。
自分の命を絶つことが、そう簡単にできるはずがない。

ある時、私は敵の密偵を処分したことがあった。私には初めてのことで、いくら陣中でも冷静ではおれなかった。今まで生きてきた人間が、一つの物体に変ってしまう事実。私も同じように戦場にいるのだから、いずれは同じ姿になるのだろう。そしてその事実はただ時間の差だけだ。私はそれを思いながら、また悩みながらその一夜を過ごしたのだった。

それにしても、人の命も実にはかないものである。わずか一瞬のうちに消える。その際、「あ」とも「す」とも言う余裕がない。そのように死んでいくのも、またジャングルの底で野たれ死にするのも、皆いくさだと思わなければならない。

昨日からの小川に沿って今日もまた歩く。あるいはこの皮がヤカチ河に通じているかもしれないからだ。私たちは、ヤカチ河の位置さえ逃がしてしまった。まして今どこを歩いているのか、見当さえつかなくなっている。

その河に着くことが出来た。
だが、その河を渡る苦労・・・
一体、何のために、このようなことをしているのか・・・
その疑問に答えを探すより、食べ物を探すという。

第三者から眺めれば、ただ、無益なことに見える。
だが、この状況化におかれる、それが、戦争である。

「陸行隊は全滅だぞ、これじゃうどうせ野たれ死にだ」
そんなことがあってなるものか、と思うが、私の食糧も今日限りになってしまった。明日からは一粒の米もない。この窮状の中で、陸行隊長伊藤大尉の焦燥は日増しに激しくなっていた。
「全員野たれ死にだろう、覚悟をきめよう」
私の耳に口をよせて、「野たれ死に」を日に何度も心配している。彼の青白く痩せた顔が憔悴で一層目が落ち込んでいる。
「気が変になったのかな」
いやそうじゃない、こんな時は誰だって同じだ。

軍隊の綱領の中に、困苦欠乏に耐えよと教えている。だが今は、その困苦欠乏も通りすぎ、困苦皆無の状態である。全員の餓死はもう時間の問題である。
昭和18年の初め、マレー半島を東西に貫いて、タイからビルマへの泰緬鉄道がつくられた。それに当った部隊は、密林を切り開き、谷間をぬって大変な難事業を続けていた。そこへ配備の有線中隊も、そのジャングルの中に天幕を張り、半数以上がマラリアにかかっていた。それをみて慄然とした私は、南方総軍の折田参謀に、
「マラリア患者の熱が下がった者が、交代で作業に出ている」
と窮状を訴えたものだが、それにしてもあの部隊は、そこに鉄道の偉業を永遠に残した。しかし私たちには、一体何が残る。彼ら異常の苦難をなめている私たちだが、今は全人類から隔離されたまま、このジャングルの中に消えようとしている。誰にも知られずに死ぬことの淋しさ! 誰だって、こんなジャングルの底で餓死したくない。死ぬなら、せめて人のいる所で死にたい。

この絶望に自決する兵士もいる。







posted by 天山 at 06:54| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月14日

玉砕58

南方といえば椰子が実り、バナナ、パパイヤなどの果物が野生していて、喰うに困らない所と思うが、このニューギニアでは大変な見当ちがいである。野性の果物など全然ない。ましてこんな所だ、食糧になるようなものは、何一つない。

こうして、戦記を書写しているうちに、自然に、作者の心境に近づいてゆく。
ような、気がするだけかもしれないが・・・

先発した私は、この昼過ぎ、木に刻んだ斧の跡を見つけてたちどまった。蛮刀の跡だ。
「原住民の目じるしだろう」
その切り跡には、もう苔が生えているが、私はほっとした。
「ヤカチ本流が近いのだろう。その本流に沿って下れば、この斧の跡をつけた原住民の集落がある。恐らくシンヨリだろう」
今までは、人はおろか鳥も通わぬ所だったが、もう大丈夫、これからは人の跡が残っている土地だ。地形はやがて低地に変った。いよいよ河だろう。励まし合って歩いていると、夕暮れ近くになって、やっと河の音が聞えてきた。
「ヤカチ河だ」
私たちは、ジャングルの木立をぬって、その音に引かれていった。河の響きは次第に大きくなってきた。

この夜、加賀候補生が一握りだけ残していた米を、三人で喰った。これで、明日からは三人とも、手当たり次第の拾い喰いだ。
生活には、衣食住の調和が必要で、その一つが欠けても理性を失いがちである。シャツもズボンも汗と泥にまみれているが、それでも私たちの肌を守ってくれている。また夜は、私たちを休ませてくれる一枚の天幕があるし、寒さを防いでくれる一着の雨外套もある。
このように、衣と住は、今の私たちにふさわしい物を持っているが、食の危険はどうにもならない。一本の野草にも目を光らせ、またそれを手にしても味など感じる余裕もない。ただむさぼり喰うだけで、もう私たちはすっかり野獣の性格に変ってしまった。

世界には、飢えで苦しむ人たちが、何十億人もいる。
その人たちのことを、思い出す人は、いるだろうか。
満腹に食べている国の人たち・・・

私は、何度も、空腹で倒れそうになっている、子供たちを見た。
フィリピンの島々では、今も、そのような子供たちがいる。
戦地ではなくても、そのような状態にある、人たちがいる。

この椰子は、普通の椰子とちがって幹がない。根元から長い葉が何本も出ていて、その間に、沢山の実をつけている。この葉は、枯れても余り縮まない。雨に濡れると平べったく伸びるので屋根には都合がよい。原住民を見習って我々も宿舎の屋根や壁かわりによく使ったものだ。
ただし今は、そんな葉に用はないが、この実を喰うのは初めてだった。実は拳ほどで早速、口にしてみたがその堅いこと、また味のまずいこと、まったく蠟をかむ味とはこのことだろう。それでも我慢して喰ったが、何としても堅くて、歯が折れそうだ。それに、
「こんな物でも、栄養になるかな」
と言われては仕方ない、とうとう喰うのもやめてしまった。私はこの夕方から、一番気にしていた下痢になってしまった。それが一時間おきぐらいになった。

「この下痢が、俺の命とりかな」
と思いながら、じっと火を見つめていた。
人の生命は不滅であるという、親を通じて無限の祖先につながり、また子供を通じて永遠の子孫につづく一つの鎖の輪が、いま生きている我々である。
子供があれば今ここで死んでも、私の心と肉体が子供に残っていくだろうが、私にはそれもない。私が受け継いできた人間の、永い歴史の一本の鎖は、私の命と共に、このジャングルの中で断絶するかもしれない。
後続の私の隊も、もう米を食い尽くしている。私たちの命もいよいよ時間の問題だ。そう思うと、なかなか寝られない。そして、この静寂の中に、私の目だけがぎらぎら光っているのだと思うと、不気味でなおさら眠られない。

そして、時に、ジャングルの中で、食べられる物に出会い、歓喜する。
それは、絶望の中の歓喜である。
しかし、そこに、留まってはいられないのだ。

そして、食べ物と、情報の無い状態である。

ようやく、食糧のある、シンヨリまで到着した。
しかし・・・

この時の私には、これから後の惨状など夢想もできなかったのである。
と、作者が書く。

戦記は、まだ、終わることがない。
戦争の様を、俯瞰することは、出来るが、個人の兵隊たちの、思いを知るのは、生き残った方々の、戦記である。

八月十三日昼前、「副官おるか」と伊藤大尉の大きな声がきこえてきた。意外に元気な声だ。
「先発の者は元気か」
「大丈夫だ。本隊の米はすぐに受け取られるように手配してある」
「じゃあすぐ川を渡る。何しろ米の味を忘れそうだ」
伊藤大尉も思ったより元気だ。でも全員の野たれ死にを恐らく覚悟していたのだろう。私の耳もとに口をよせて、「米はほんとうだろうな」ともう一度念を押し、ギラリと光る目で今度は私の目をじっと見つめた。
「大丈夫。落伍者の分も用意してある」
上村主計もやっときた。
「すまなんだ、すまなんだ。軍司令部の経理部は誰が来ている。俺たちにこんな苦しみをさせて、どなりつけてやる」
皆は、私たちの立ち話をきいてほっとしたのだろう。目を輝かせながら川を渡り始めた。
今までは、野たれ死にを気にしながら、目を皿にして、喰う物を探しながら歩いてきたのだ。今の私たちには、ただ米が貰えるだけで有難かった。この上に、どれだけなどと欲を言う者はなかった。・・・

「部隊の名は」
後ろ向きでズボンをつけている参謀の身体の白いこと。
「軍通信隊、只今シンヨリに着きました」
「皆、無事か」
「シンヨリまでに八名落伍です。現在員百四十名、落伍者をここで待ちたい」
「よく来てくれた。早速、食糧を受けてくれ。ここで一日休養して、ヤカチへ出発し、そこで落伍者を待つように、ヤカチまで一日だ。そこはサゴ椰子地帯、その椰子を倒せばサゴ澱粉はいくらでもある。二十年や三十年は大丈夫喰える。そこで自活しながら、別命を待て」
「別命というと、イドレへの転進は」
「ヤカチで別命を待て」
イドレへすぐ出発と思っていた私には、これは意外だった。シンヨリまでの飢えの行軍、これは転進計画の無謀による、一言その恨みも言わねば気持ちが納まらないのだが、それどころではない。
サゴ椰子は湿地に繁る。サゴで自活することは、その湿地で生活すること、これは大変なことだ。

軍隊における、命令は、絶対的なものだ。
それに逆らうことが出来ない。
戦争の、悲惨さは、それも原因も一つである。





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