2015年07月29日

玉砕51

背に一杯の収穫物を背負い、だらだら坂を八分目ほど登った時である。いきなり左肩にガーンという衝撃を受けた。石かなと思って目をこらすと、大型の手榴弾である。シューッという音も聞えなかったので、不発かなと考えていると急に足もとで「シューッ」と発火しだしたのである。あわてて炉端に伏せた。とたんに猛烈に爆発し、私は左肩、左頬などに熱いものを感じた。・・・

手榴弾や小銃の音を聞いて物資収集班の連中がとんできた。鼻血がとめどなく流れだす。左肩、左脚に痛みを感じる。皮脚絆には小さな穴が二つあいている。左腕から血が流れ、皮脚絆の中でも生ぬるい液体の流れる感じがある。やられたな、と思ったが、気持ちは意外に平静なのだ。たまたま物資収集班の中に衛生兵がおり、私も非常用にと包帯包をベルトに結んで持ち歩いていたので、被服を切り裂き、応急手当を受けることがたできた。

ところが驚いたことに、私より約十メートル後方からついてきていた山口中尉の当番兵が、その手榴弾の破片を咽喉に受けて即死したのである。とにかく敵地に侵入した格好になっていたため、みんな警戒を怠らず遺品と遺体の指とを残してあとを埋葬した。

毎日、死者が出る。
それが、当たり前の戦場である。

そして、必ず、時が過ぎる。
昭和20年を迎える。

太陽は少しずつ西の山並みへと落ちていく。私たちの帰りを待ち望んでいる司令部の身の上を考えると、どうしてもこのままでは帰れない。そこでついに意を決して私たちは非常手段に訴えることにした。というのは農園の近くにきて兵隊たちに物資収集の準備をさせた上、要所に配置しておき、原住民のガヤガヤという声が聞えると、空に向って数発の実弾をぶっ放させたのである。原住民たちはびっくりして叫び声をあげながら逃げていったと同時に、夢中になって農園から芋やその他の食べられそうな物をできるだけ大量に奪って、ただちにそこを引きあげたのである。
「何も罪のない原住民の農園から、こんな方法でとりあげるなんて原住民が可哀相だ」
帰り道、誰かがしんみりした口調でいう。
「そうしなければ生きていけないわれわれはなおさら可哀相じゃないか」
誰かがそれに答える。

敵の攻撃に怯えつつ、日々の生活をするのが、やっとの戦場と化している。
その中でも、死者は、毎日のように出る。

そして、昭和20年の8月を迎える。

八月に入ってから日を重ねるうちに、第十八軍の玉砕は事実となって目前に迫ってきた。

ここままで推移すれば、師団と軍との連絡も絶たれ、師団は当面の敵にも対せねばならず、事態は収拾つかぬものとなってしまう恐れがあった。私たちはすでにずっと前から内地帰還などということはまったく諦めていたし、せめてこの戦いにおける日本の最後の結末を見て死にたいというのが唯一の念願なのであった。

この戦闘の勝敗をいうものは私たちのおかれた現状から見てまるで論ずるに足らぬものであった。ただ私たちにとっての関心事といえばわれわれが先か内地が先かという一点であった。

すでに、敗戦を予知しているのである。

八月の十五日のことであった。
経理部長の所へ武越主計大尉がやや興奮して、
「これが本当なら大変だ」
といいながら、一片の紙片を手にしてとびこんできた。その紙きれを読むと「日本降伏せり、速やかに戦闘を停止すべし」と書いてある。豪軍から投下させられたものである。

これまでにも、私は現在の諸状況から推して、日本の敗北はもはや明確であり、必ずやすでに一部では講和のために尽力しているに違いない、それにはソ連に頼るしかない、したがってソ連に対して、英米と和を講ずるように斡旋を依頼しているに違いないと考えたことがあった。

一方では、ここに到ったからには、日本はいさぎよく降伏すべきだとも考えていた。がしかし、わが国民にとって天皇というものは絶対なものであるのだから、この天皇制という問題を連合軍が認めない場合には、あるいはそれこそ国が焦土と化すまで戦い抜くというようなことになるかもしれぬとも考えた。結論として、日本は天皇制という問題を認めてさえもらえるならば、その他は無条件でも降伏すべきだという考えを持つようになっていた。これは現実が私にそのように教えたのである。

日本が降伏したというのが、信じられない兵士たち。
だが、日が経つにつれて・・・

果たして四日目であったか、やっと軍から伝令が来て、それがもたらした軍命令の第一条項には「大日本帝国は戦闘を停止せるもののごとし・・・」というような風に書いてあった。

いよいよ戦いは終わったのだ。今や陛下の命によって戦いを終了するのだと思うとさばさばした気持ちになった。・・・
われわれのように、ここまで徹底的に、ついに玉砕という切羽つまったところまできてしまった者にとってはむしろ「やれやれ」というのが実感なのであった。

だが、生き残るということも、また、問題だった。
敵方の、捕虜になるのである。

陛下の命により戦争を中止するというものの、実質的には無条件降伏であることを知るや、参謀長はじめ高級将校の間で捕虜になるについて大きな危惧の念を持つ者がいた。その点、学生時代から欧米人にも接し、その書物を読み、その文化の程度を知っているものにとっては比較的気が楽であった。彼らが捕虜を遇するのに決して無法をしないこと、国際法規等は必ず厳守するだろうといったことは容易に想像されたからである。

しかも私たちは節をまげて敵に屈するのではなく、あくまで戦い抜いてのち、陛下の命によって堂々と矛を収めるにいたったのであるから、そこには戦争継続中に投降して捕虜となった者が抱くに違いない精神的な苦痛もない。そう思うとたしかに気楽ではあった。

長い戦記の中から、特徴的なものだけを、取り出して、書写したが・・・
ニューギニア戦記は、数多くある。

これは、東部ニューギニアを舞台にしたものであるが、西部ニューギニアの戦記もある。
ニューギニアの、北側、東側海岸線を網羅する、戦場である。

そして、その行き着く先は、ビアク島だった。
現在は、インドネシア領になる。
イリアンジシャヤ州の、小島である。

当時の兵士の中にある、天皇陛下に対しての思いも、参考になる。
陛下の命により、戦闘が停止されたと、考えるのである。
軍部を超えた、最後の決断は、陛下によってなるのである。


posted by 天山 at 06:56| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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