2015年07月28日

玉砕50

撤退する日本軍である。
敗走とも言う。

ついに米軍陣地を陥落することはできなかったが、補給はまったく絶え、糧食も尽きたので今は撤退のやむなきにいたった。まず第二十師団が撤退し、続いて私たち四十一師団の戦闘部隊も矛をおさめて坂東川を渡って帰ってきた。

米軍の砲撃はあいも変らず盛んである。ところが戦闘指令所は、なかなか撤退しそうにないのだ。手持ちの米はなくなる。そのうち指令所近くに米軍の将兵斥候らしいものが出没し、自動小銃の音が間近に聞えたりする。戦闘指令所は自衛力も乏しいからこうなると心細い限りである。ほとんど大部分の部隊が撤退し去ったあとに、いよいよ戦闘指令所も思い出深いこの坂東川の地も引きあげることになった。

昭和19年8月3日から、5日にかけてのことである。
つまり、その頃は、日本の敗戦が色濃くなった時期である。

前進してきた往路にはすでに米軍が進出してきているので、前日衛兵の偵察によって発見された山伝いの新道を行く。司令部とっておきの乾パンが各人に一袋ずつ配給された。飢えていたので多くの者は一度に食べてしまったようだが、私は半分だけにして、あとの残りはポケットに入れて歩きながら食べることにした。だがこの半袋の威力は大したものであった。めきめき元気が出て、背嚢を背負い、杖をつきながらも谷の裏手の山を登り始めた。

栄養失調の上に急に急坂を登ったせいか息がきれて、心臓の鼓動が激しくて、まるで牛のようにそろりそろりとしか歩けない。誰しもがそうだとみえて、行軍は全般に非常にゆっくりなので助かった。それにあたかも私たちの行動を知ったかのように、例の観測機が私たちの頭上から行く手を超低空でゆるゆる飛び回っている。崖をよじ登るのに、うっかり木に手をかけてゆらゆらゆすぶったりすると危ない。大声も出せない。真昼間なのに、これではまるで夜逃げである。

最後は、食べ物を探す日々になって行くのである。
もう、戦争ではない。
生きるために、食べ物を探す生活である。

敵の目をくらましつつ、食べ物を手に入れるために、兵士たちは、翻弄される。

そして、敵の輸送機が、落とす、物資を求めるようになるという。

そのうち、独立工兵隊で米軍機の投下糧食を捕獲したというので、私たちが懇意にしていた井上副官に連絡して、二つばかりもらってきた。上等なビスケットやチョコレート、あんずの菓子に固型コーヒー、砂糖、塩、コーンドポークの缶詰など、みんながかねてから夢に見ていたものばかりである。チーズなどもあった。食うや食わずの日本軍と豊富な糧食を維持する彼らとを比較すると、もはやこれでは戦争にならないと思った。・・・

敵の食糧を見て、驚き、そして、自分たちの状況に、唖然とする様である。
確かに、これでは、戦争にならない。

ヤムカルに向う行軍の途中、珍しく脂肪分に富んだ米軍の糧食を食べたせいか、二度ほど猛烈な下痢をしてしまって、腹の中がすっかり空になってしまった。どうにかこうにかヤムカルの司令部に到着したところ、坂東川の戦闘指令所までは行かずにそこに留まっていた電報班長の沓掛中尉はじめ、山本中尉や鷲見少尉らが歓迎してくれた。私たちが出発してから後、同地区でも米軍が上陸したとの情報が入って大騒ぎしたそうである。・・・

そして、それからは、現地自給の有様。
更に、山々を転々とする、有様である。

それからの私たちは、いよいよ山中に分け入って現地自給の生活を開始する準備を始めた。今後何ヶ月、いや何年になるか、とにかく太平洋上の作戦がわが軍に有利に展開して、輸送船が迎えに来てくれるまで、どこからも何物も補給なしで頑張らねばならないのだ。もう今となっては、こちらから積極的に攻撃をしかけて活路を開くということもできないのである。

戦いにならない、戦争というもの。
餓死との、戦いである。

だが、内地、国内の食糧事情も、大変なことになっていた。
配給制度である。
戦争が長引くにつけて、内地の食糧も乏しくなった。

私たちは、最後になるであろうと思われる五合ほどの米と、若干量の粉醤油や粉味噌、岩塩を受け取って、直ちにサゴ椰子のある地区を求めて出発した。通称花川という川の流域に若干のサゴ椰子があるというので、ひとまずそこを目指すことになった。・・・

食べ物を求めての、行軍である。

サクサクというのは、サゴやしの幹の皮をはぎとり、その中の髄を取り出して、これを大根おろしをするように、空缶に穴をあけたものでこすって粉にし、それに水をかけながら捏ねて、蚊帳の切れ端みたいなもので漉し沈殿させる。すると澱粉状のものがたまる。その澱粉状のものを種々の方法で料理して食べるのだ。

夕食は、いつも日が暮れて飛行機の活躍がなくなるのを待ってから食べる。飯盒の中に草の葉や、木の根を入れて水で炊き、それに約二合の澱粉を入れてかき混ぜるのである。私たちはこれを「かき澱粉」とか「どろどろ」とよんでいた。砂糖でも入っているのならともかく、粉醤油か岩塩をなめながら食べるのだ。まあ六分目から七分目も食べると、いくら空腹でもうんざりしてしまう。


だが、次第に衰弱する兵士たち。
中には、死ぬ者もいる。

蛋白源が欲しくてたまらず、トカゲや蛙を追い回すのだが、これがなかなか摑まえられない。朝露に濡れながら、バッタやイナゴを捕まえては今日は蛋白質を摂ったなどと自分を慰めるほかなかった。

この頃の兵隊の仕事とは、食べ物を探すことだった。
そして、敵の攻撃から、逃れること。

昭和19年の暮れ、私たちの第四十一師団司令部はロアイテという集落付近に位置していた。この付近は比較的物資が豊かであった。その頃は、アイタペやホルランジャの米軍に豪州軍が加わり、豪州軍は、山中に逃げ込んだ日本軍に対して執拗に攻撃してきて、最前線に出ていた歩兵第二百三十八連隊がしだいに圧迫されてきた。

昭和19年とは、敗戦の前の年である。
もう、戦争とは、言えない事態である。
日本軍は、至る所の戦地で、敗走劇を繰り広げた。

そして、死者は、すべて玉砕であった。


posted by 天山 at 06:22| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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