2015年07月16日

玉砕47

激闘ニューギニア戦記 
星野 一雄
大正3年3月、東京に生まれる。
昭和13年、東京商科大学、現・一橋大学卒業後、会社勤務を経て、14年、習志野騎兵第15連隊に入隊。
幹部候補生として、騎兵学校卒業後、15年、見習士官として、騎兵第41連隊に配属され、華北に渡る。
18年2月、ニューギニアに転進する。
敗戦時は、第41師団参謀部付、陸軍大尉。

今まで説明した、戦場の中に送り込まれたのである。
昭和18年というと、戦況が次第に怪しくなってくる時期である。

華北で第41師団の一員として三年の月日を過ごしてきた私は、同部隊が華北当時の偉効を認められて風雲急を告げる南方ガダルカナル方面へ転進の命を受け、上海、青島地区に集結している時、東京の参謀本部に連絡に向う参謀長三原大佐の随行員として三年ぶりに故国の土を踏んだのだった。しかし東京滞在も束の間、横浜から飛行艇に乗って、サイパン経由、パラオへ向って部隊に追いつくために出発したのである。

戦記の文章は、作家並のものである。
詳しい当時の状況が、伝わってくる。

サイパンを経由して、パラオに、そして、東部ニューギニアに進む。

当時、ニューギニア東部北海岸のサラモア方面では、第51師団が連合軍の反撃に対して敢闘中であった。間もなく第20師団もマダンを指して前進し、私の属する第41師団は、当分の間ウエワク地区に位置して、もっぱら同地区の後方基地としての態勢強化に従事することになった。厳寒の地から、十数日にわたる対潜水艦、対航空機を顧慮しつつ航海の後、酷暑の地で自分らの寝る宿舎もできぬうちから、さっそく飛行場設定作業、道路作業にとりかかったためにマラリア患者が続々と発生し始めた。

矢張り、ここでも、マラリアである。
現在でも、マラリアの危険がある。
私が、慰霊に出掛けた際も、マラリア対策のために、日本から、蚊取り線香を持参した。

やがてガダルカナルやブナ方面の惨敗に引き続き、ラエ、サラモア方面の形勢が日本軍にとってますます不利となってきたので・・・

八月十五日の夜、珍しく四機ないし六機編制と思われるコンソリデーテッドがやってきて、入れ替わり立ち代わりウエクワ地区を爆撃し始めた。・・・
異様な雰囲気に思わずはっとして後ろを振り向いたところ、何と、その飛行機が断末魔の苦しみに落としたのか、ちょうど司令部が被服倉庫として使用している建物に爆弾が命中して、大騒ぎしているのであった。そのうちに、軍医部宿舎付近から獣医部宿舎付近にかけて投下された爆弾のために数名の死傷者が出ていることがわかって肝を冷やした。師団長用として造られていた防空壕の入り口で、参謀部の兵隊が一人死んでいた。その晩は、戦死者の遺骸や負傷者の手当てなどで大わらわであった。

この辺りは、まだ序の口である。
次第に、戦場が地獄と化して行く。

当時マダンにあった軍の後方参謀が直ちにウエワクにやって来て、
「これでウエワクの後方基地としての用途も終わりだ。これに力を得た連合軍は、今後必ず悠々と戦爆連合で当地を襲うであろうから輸送船の当地入港はもはや不可能となるだろう。次ぎのニューギニアの後方基地はホルランジャである」
と、言い、そのホルランジャに向けて飛んでいった。それから数次にわたって輸送船が入港したが、わが方のあらゆる努力にもかかわらず、はるばる長途の危険な航海の後、かろうじて入港したそれらの輸送船のほとんどが、私たちの見ている目の前で、連合軍の航空機の餌食となって沈んでいくのを、どれほど悲痛な思いで見つめたことだろう。

つまり、物資の不足が飛躍的に大きくなる。
戦死より、餓死の方が、多いという戦場である。

九月に入ると同時に米軍は一挙に東北部海岸のフィンシュハーフェン付近に上陸したので、第51師団、第歩兵団司令部等は後方補給路を絶たれ、そのため、再度スタンレー山脈越えの場合と同様なフィニステル山系の悲劇が展開されたのである。

悲劇、続きである。
物量により、負けた戦争である。
それは、戦記のいたるところに、書かれることになる。

第一線で日夜米軍と対峙して頑張っているのに食べるものがない。しかもそれに対する唯一の空中輸送の手段もこんなありさまなのである。これでは駄目だ、てんで戦にはならないと思った。それでもその後の情報記録によれば、ほんの僅かながらも物量投下は実行されたそうだが、日中の行動が危険なので夜間、それも米軍機を避けながらの投下なので、ほとんど友軍の手中には入らなかったとのことであった。

この戦記は、東部ニューギニアを舞台にしている。
戦いは、ニューギニアの東の海岸から、西の海岸に至るのである。
それが、現在の、インドネシア領、イリヤンジャヤまである。

ニューギニアの東、西海岸を舞台にして、日本兵は、悲劇の戦い、そして、玉砕となる。

戦記は、激化する空襲の、マダンへ向う。
しかし、そのマダンへの道のりも、困難になる。

作者は、
ウエクワのポーラム岬の一隅にかたまって駐屯していた。

そして、
しかし、きたるべき時はついにきた。松の岬の攻撃を終えた米軍機は、こちらの高射砲の猛烈な射撃にもかかわらず、悠々と大編隊のまま鵬翼を連ねて私たちの方に向ってきたのである。これは危ない、というので防空壕に入り込んで息をころしていると、「ウァーン、ウァーン」という爆音が近づいて、突然「ドカドカドカ」と地響きがして防空壕が揺れ、中の音はみんな顔中どろだらけになってしまった。爆風による被害を避けるため、近くに爆弾が落ちるたびに耳をふさいで、口を大きく開いて「ハーッ」と息を吐き出す。それでも相当な圧迫感を感じた。

その攻撃の後は、凄まじいものがある。
何も無くなるのである。
残るのは、爆撃の後の、大穴である。

私たちが食料の足しにと余暇をみて開墾した畑も、大根の葉、芋の葉一枚もない砂漠と化している。私たちが数日前までいた部付将校の部屋も至近弾のために、ぶっつぶされている。

毎日が、この繰り返しとなる、戦場の有様である。
よくぞ、正気な精神でいられたものだと、つくづくと思う。
この戦記の記述を、少しばかり、詳しく紹介することにする。


posted by 天山 at 05:53| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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