2015年07月02日

玉砕44

昭和18年、1943年、9月30日に、大本営は、絶対国防圏の命令を発した。
しかし、それより以前の、22日、ダグラス・マッカーサー大将の指揮する、米壕連合軍が、国防圏の前衛線最右翼の要衝にあたる、東部ニューギニアのフォン半島の先端、フィンシュハーフェン北方アント岬に上陸してきた。

そこは、同じく東部ニューギニアの、ラエ、サラモア攻略作戦の時期に、後方支援のための、舟艇基地となっており、5月以降、第一船舶団司令部があった。

海軍警備隊約4000名の善戦にも関わらず、10月1日、敵手に渡ったのである。

これが、序曲となった。
10月12日、昼間、連合軍航空機は、大挙ラバウルを空襲した。

敵の大胆な白昼空襲は、南東方面作戦開始以来、最初の出来事である。
それは、日本軍の前衛線に対する、本格的攻撃の前触れである。

11月に入り、ブーゲンヴィル島の、タロキナに、また、ギルバート諸島の、マキン、タワラ両島に上陸し、一連の本格的な攻撃を加えてきた。

以後、翌年、19年3月に至るまで、南東、および中部太平洋戦線の各島において、激戦が展開された。

そして、連合軍の攻勢は、国防圏前衛が、あいついで崩壊するという、有様となった。

昭和19年1月末、チェスター・ミニッツ大将の、中部太平洋艦隊は、その猛攻撃を、防衛線の、マーシャル諸島に加えてきた。

クェリンゼ、ルオット、ウオッゼなどにある、航空基地を、猛撃した。
これは、完全に奇襲となり、日本軍は、全く反撃の余裕を持たないまま、100機にのぼる飛行機が、地上において、廃物となったのである。

ルオット島には、第二十四航空戦隊の司令部があった。
総兵力は、約2900名を数えたが、その大半は、航空隊の人員で、地上兵力要員としては、第六警備隊の約400名がいるに過ぎない。

1月30日以降の砲爆撃により、敵の上陸前に、すでに大半の人員が、死傷し、防御陣地が破壊され、米軍は、やすやすと、島を占領した。

クェリンゼ島には、陸海軍あわせて、約3900名の兵員がいた。
これらの守備隊は、2月1日の敵上陸は、撃退したが、翌日の強行上陸は制しきれず、4日夕刻まで抵抗したが、全滅した。
玉砕である。

マーシャルの前衛線を瞬時にして潰滅させた、米空母部隊は、その勢いで、日本の絶対国防圏の、真横となる、トラック諸島に手をかけてきた。

2月1日、戦争始まって以来といわれた、大量の米空母機が、乱舞したという。

トラックは、ガダルカナル、ツラギに、連合国軍が反攻して以来、長く連合艦隊司令部、および、水上部隊の所在地であったが、マーシャルの陥落にともない、古賀峯一司令長官が、空襲を予期して、水上部隊を内地、およびパラオ方面に撤退させ、自らも、パラオに移っていた。

当時のトラック諸島には、第四艦隊、南西方面艦隊所属の航空戦力、そして、陸軍第五十二師団のほかに、訓練が目的で上陸していた、南東方面艦隊所属の航空兵力があり、指揮系統は複雑だった。

そのために、2月17日、早朝の敵艦載機の襲来は、小林第四艦隊長官の邀撃部署命令が達しない間の隙を衝くことになった。

更に、事態を悪化させたのは、飛行隊員の大半が、外出を許可され、出払っていたことである。

この日の、トラック基地には、各飛行隊所属の飛行機、約135機があったが、敵襲の結果、実質可能機数は、艦戦一機、艦攻五機だけだった。

その攻撃時間の過小さと、被害の甚大さは、比類がない。
翌日も、攻撃を受けたが、敵は、艦砲射撃を実施する。

両日の損害の累計は、艦艇沈没九隻、損傷九隻、特殊艦船沈没三隻、輸送船沈没三十一隻、飛行機270機という、膨大な数だった。

古賀長官は、在ラバウルの航空兵力の、トラック転用を命じた。
このように、南東方面には、2月20日以降、一機の海軍航空機も、存在しなくなり、ラバウルをはじめとする方面の、地上兵力は、剥き出しとなり、各地区ともに、戦略威力の大部分を、喪失したのである。

トラック諸島は、太平洋における、日本海軍の最大の根拠地で、南東方面からの、米軍反抗開始以来、連合艦隊司令部、および、水上部隊主力の、泊地であった。

そして、ソロモンの制空権を巡る死闘の大基地ラバウルは、遂に、見捨てられることになる。
この間の、喪失機7096機、戦死したパイロットら、搭乗員7186名である。
玉砕。

私は、トラック諸島に追悼慰霊に出掛けた。
エモン島という、滑走路のある島である。
日本名は、春島であり、その向こうに、夏島がある。
その夏島に、日本軍の司令部が置かれていたという。

そして、その辺りの海には、日本軍の艦船、輸送船、ゼロ戦の多くが、沈む。
海上慰霊を、執り行った。

地元の漁師に頼み、船外機のボートに乗り、夏島近くの海の上での、慰霊である。

現在は、チョーク諸島と呼ばれ、天国を思わせるような島である。
紺碧の海の色は、美しく・・・

海底には、今も、多くの日本将兵が、眠る。
旅日記に、詳しく書いているので、仔細は省略する。

出掛ける前に、不思議なことに、知り合いの父親の兄が、夏島からゼロ戦に乗り、戦ったが、散華したと聞かされて、私は、その人たちの思いも胸に、向ったことを思い出す。

暑くても、木陰の入ると、涼しく、何ともいえぬ、天国のような島だった。
島の人たちに、日本軍の要塞跡を案内されて、見た。
更に、敵の攻撃を受けた、大きな穴が、今もそのままである。
島の人たちは、日系の人が多く、勿論、大変な親日である。




posted by 天山 at 06:39| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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