2015年07月15日

玉砕46

何故、パラオ近海だったのか・・・

それは、油槽船不足からきていた。
給油のために、始終連行しなければならない油槽船の数が、足りなくなっていて、当時、水上部隊の行動範囲は、約1000浬に制限されていた。

従来の空母部隊である、第三艦隊を発展解消して編制された「第一機動艦隊」の待機地点は、フィリピン南西部の、タウイタウイ島だった。

ここから、1000浬というと、決戦海面は、最大限パラオ近海にならざるを得ない。
この時点で、すでに海軍としては、陸軍と呼応して、マリアナを固守するという、意思を放棄していたともいえるが、海軍としては、その伝統的戦術思想でもある、海上決戦を、今度は、パラオ近海に求めようとしていたのである。

さて、昭和18年8月15日、連合艦隊司令部は、益々顕著になってきた、連合軍の本格的反攻に対処する、第三段作戦を発令したが、その防衛ラインは、あくまで、中西部カロリン諸島、トラック諸島を根拠地とするものである。

その上で、南東方面は、ラバウルを中心とする、基地航空部隊で防備し、マーシャル方面は、機動部隊を中核にする、水上部隊で、適宜、米機動部隊の進攻を迎え撃つという、構想である。

大本営においては、ヨーロッパの戦況、つまり、イタリア降伏と、我が国を改めて、検討した結果、連合艦隊の言う、ラバウルを中心とする戦域および、マーシャル方面の維持を諦め、防御ラインを、マリアナ、カロリン、西ニューギニア、バンダ海の線に、縮小しようとした。

九月末、決定した、絶対国防圏である。

この、大本営の防御ラインの戦備が整うまで、連合艦隊は、極力、南東方面の敵をくい止めようとした。

矢張り、米軍は、北部ソロモンと、ダンピール海峡から、ラバウルに対する攻撃の輪を縮めてきた。

古賀連合艦隊長官は、大本営の言う、絶対国防圏の戦力整備に協力しようと、敵の輸送の遮断を企画する。

そのために、従来マーシャル方面の邀撃に備えていた、第一航空戦隊に所属する、空母機を基地に揚げ、南東方面の戦線に、投入しようとした。

これは、故山本五十六の「い」号作戦に倣ったもので、「ろ」号作戦と呼称された。

この連合艦隊の作戦命令に基づいて、第三艦隊司令長官小澤治三郎中将は、第一航空戦隊の、空母翔鶴、瑞鶴、瑞鳳所属の、二式艦偵六機、ゼロ戦82機、99式艦爆45機、97式艦攻40機、計173機、搭乗員728名を率いて、11月1日、トラックからラバウルに進出した。

その他の空母は、トラックに残る。

同日、古賀長官は、「ろ」号作戦に備えるために、第二艦隊長官栗田健男中将が指揮する、遊撃隊に対しても、ラバウルへの進出を命じた。

10月31日、早朝、ブーゲンヴィル島沖中西部の洋上に、敵輸送船の北上を発見する。
翌日、タナキロ付近に上陸してきたことが分った。
この新たな局面を重視した、古賀長官は、水上部隊まで動員して、敵の上陸作戦を阻止しようとする。

その後、一週間ほど、過激な空戦が展開されることになる。

敵上陸の第一日、延べ120機の攻撃隊が、ラバウル基地を飛び立ち、現場の上空に殺到したが、同日夜から、翌日2日の早朝にかけて、海上においても、戦闘が起こった。
これを、ブーゲンヴィル島沖海戦、という。

それは、第一次から、第三次まで続く。

さて、先に連合艦隊長官の命令を受けた、栗田第二艦隊長官は、11月3日、トラックを発し、5日、ラバウルに到着した。

ラバウルに到着した当日の午前、早くも、敵空母部隊の猛撃にさらされた。
ラバウル基地にあった、ゼロ戦70余機の反撃にも関わらず、五隻の巡洋艦、駆逐艦一隻が、傷つき、他部隊に属する、軽巡阿賀野、駆逐艦一隻も、被害を受けた。

更に、320名以上の戦死傷者が出た。

ラバウルにあった、南東方面艦隊司令官草鹿中将は、先任指揮官であったが、栗田艦隊の損害に驚き、トラックに引き揚げを命じた。

ラバウルも、敵の制空権が伸長しており、艦船を進出させることが、不可能になったのである。

結果的に、「ろ」号作戦発動以来、連日のように、航空機の消耗が続き、特に、11月11日の損害は、甚大であった。
10日間で、三分の一にも満たない数に激減する、損害である。

その上、飛行隊長、飛行分隊長クラスの戦死者が、12名にも達した。

この惨状を知り、古賀長官も、作戦の失敗を認めざるを得ない。
翌日、12日、「ろ」号作戦の終結を宣言したのである。

そして、ラバウルは、孤立した。

米軍は、二飛行場を完成し、堅固な橋頭堡を築いたのである。
11月いっぱいに、タロキナ湾に入った、米軍輸送船は、170隻、輸送物資50トン、陸軍一個師団、及び海兵一個師団と推定され、ラバウルの孤立化は、いよいよ鮮明になった。

「ろ」号作戦の実施は、他の戦局にも、大きな影響を与えた。
マーシャル方面における、水上部隊の兵力を、弱体化させた。
11月末の、米軍のギルバート諸島来襲に対しても、島上所在の各兵力と、一部潜水艦をもって、対抗する以下に、手がなく、善戦むなしく、同諸島の守備隊は、全滅した。
玉砕である。

南東方面に固執する「ろ」号作戦を含めた、この間の、大本営海軍部、連合艦隊の作戦指導は、搭乗員不足に拍車をかけ、陸軍兵力の、マリアナ方面に対する輸送配備を、いちじるしく遅らせるなどの、弊害を生み、後の「あ」号作戦に、大きな影響を与えたのである。

マリアナ沖海戦の前に、ニューギニア戦線を戦った兵士たちの、手記を紹介することにする。


posted by 天山 at 06:19| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月16日

玉砕47

激闘ニューギニア戦記 
星野 一雄
大正3年3月、東京に生まれる。
昭和13年、東京商科大学、現・一橋大学卒業後、会社勤務を経て、14年、習志野騎兵第15連隊に入隊。
幹部候補生として、騎兵学校卒業後、15年、見習士官として、騎兵第41連隊に配属され、華北に渡る。
18年2月、ニューギニアに転進する。
敗戦時は、第41師団参謀部付、陸軍大尉。

今まで説明した、戦場の中に送り込まれたのである。
昭和18年というと、戦況が次第に怪しくなってくる時期である。

華北で第41師団の一員として三年の月日を過ごしてきた私は、同部隊が華北当時の偉効を認められて風雲急を告げる南方ガダルカナル方面へ転進の命を受け、上海、青島地区に集結している時、東京の参謀本部に連絡に向う参謀長三原大佐の随行員として三年ぶりに故国の土を踏んだのだった。しかし東京滞在も束の間、横浜から飛行艇に乗って、サイパン経由、パラオへ向って部隊に追いつくために出発したのである。

戦記の文章は、作家並のものである。
詳しい当時の状況が、伝わってくる。

サイパンを経由して、パラオに、そして、東部ニューギニアに進む。

当時、ニューギニア東部北海岸のサラモア方面では、第51師団が連合軍の反撃に対して敢闘中であった。間もなく第20師団もマダンを指して前進し、私の属する第41師団は、当分の間ウエワク地区に位置して、もっぱら同地区の後方基地としての態勢強化に従事することになった。厳寒の地から、十数日にわたる対潜水艦、対航空機を顧慮しつつ航海の後、酷暑の地で自分らの寝る宿舎もできぬうちから、さっそく飛行場設定作業、道路作業にとりかかったためにマラリア患者が続々と発生し始めた。

矢張り、ここでも、マラリアである。
現在でも、マラリアの危険がある。
私が、慰霊に出掛けた際も、マラリア対策のために、日本から、蚊取り線香を持参した。

やがてガダルカナルやブナ方面の惨敗に引き続き、ラエ、サラモア方面の形勢が日本軍にとってますます不利となってきたので・・・

八月十五日の夜、珍しく四機ないし六機編制と思われるコンソリデーテッドがやってきて、入れ替わり立ち代わりウエクワ地区を爆撃し始めた。・・・
異様な雰囲気に思わずはっとして後ろを振り向いたところ、何と、その飛行機が断末魔の苦しみに落としたのか、ちょうど司令部が被服倉庫として使用している建物に爆弾が命中して、大騒ぎしているのであった。そのうちに、軍医部宿舎付近から獣医部宿舎付近にかけて投下された爆弾のために数名の死傷者が出ていることがわかって肝を冷やした。師団長用として造られていた防空壕の入り口で、参謀部の兵隊が一人死んでいた。その晩は、戦死者の遺骸や負傷者の手当てなどで大わらわであった。

この辺りは、まだ序の口である。
次第に、戦場が地獄と化して行く。

当時マダンにあった軍の後方参謀が直ちにウエワクにやって来て、
「これでウエワクの後方基地としての用途も終わりだ。これに力を得た連合軍は、今後必ず悠々と戦爆連合で当地を襲うであろうから輸送船の当地入港はもはや不可能となるだろう。次ぎのニューギニアの後方基地はホルランジャである」
と、言い、そのホルランジャに向けて飛んでいった。それから数次にわたって輸送船が入港したが、わが方のあらゆる努力にもかかわらず、はるばる長途の危険な航海の後、かろうじて入港したそれらの輸送船のほとんどが、私たちの見ている目の前で、連合軍の航空機の餌食となって沈んでいくのを、どれほど悲痛な思いで見つめたことだろう。

つまり、物資の不足が飛躍的に大きくなる。
戦死より、餓死の方が、多いという戦場である。

九月に入ると同時に米軍は一挙に東北部海岸のフィンシュハーフェン付近に上陸したので、第51師団、第歩兵団司令部等は後方補給路を絶たれ、そのため、再度スタンレー山脈越えの場合と同様なフィニステル山系の悲劇が展開されたのである。

悲劇、続きである。
物量により、負けた戦争である。
それは、戦記のいたるところに、書かれることになる。

第一線で日夜米軍と対峙して頑張っているのに食べるものがない。しかもそれに対する唯一の空中輸送の手段もこんなありさまなのである。これでは駄目だ、てんで戦にはならないと思った。それでもその後の情報記録によれば、ほんの僅かながらも物量投下は実行されたそうだが、日中の行動が危険なので夜間、それも米軍機を避けながらの投下なので、ほとんど友軍の手中には入らなかったとのことであった。

この戦記は、東部ニューギニアを舞台にしている。
戦いは、ニューギニアの東の海岸から、西の海岸に至るのである。
それが、現在の、インドネシア領、イリヤンジャヤまである。

ニューギニアの東、西海岸を舞台にして、日本兵は、悲劇の戦い、そして、玉砕となる。

戦記は、激化する空襲の、マダンへ向う。
しかし、そのマダンへの道のりも、困難になる。

作者は、
ウエクワのポーラム岬の一隅にかたまって駐屯していた。

そして、
しかし、きたるべき時はついにきた。松の岬の攻撃を終えた米軍機は、こちらの高射砲の猛烈な射撃にもかかわらず、悠々と大編隊のまま鵬翼を連ねて私たちの方に向ってきたのである。これは危ない、というので防空壕に入り込んで息をころしていると、「ウァーン、ウァーン」という爆音が近づいて、突然「ドカドカドカ」と地響きがして防空壕が揺れ、中の音はみんな顔中どろだらけになってしまった。爆風による被害を避けるため、近くに爆弾が落ちるたびに耳をふさいで、口を大きく開いて「ハーッ」と息を吐き出す。それでも相当な圧迫感を感じた。

その攻撃の後は、凄まじいものがある。
何も無くなるのである。
残るのは、爆撃の後の、大穴である。

私たちが食料の足しにと余暇をみて開墾した畑も、大根の葉、芋の葉一枚もない砂漠と化している。私たちが数日前までいた部付将校の部屋も至近弾のために、ぶっつぶされている。

毎日が、この繰り返しとなる、戦場の有様である。
よくぞ、正気な精神でいられたものだと、つくづくと思う。
この戦記の記述を、少しばかり、詳しく紹介することにする。
posted by 天山 at 05:53| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月17日

玉砕48

昭和18年は、徐々に、日本軍が劣勢になってゆく。
その大きな原因は、輸送船の沈没である。
つまり、物資が届かないという、状況になるのである。

連日ウエワクとハンサ間で人員、隊貨の輸送に当っていた数隻の海トラも次第に撃沈され、私がハンサにいた時、その最後の一隻が湾内で米軍機の爆撃によって沈没するのを見た。その他にも輸送に大活躍をしていた漁船が、ウリンガンという所に退避中を集中的に襲撃され、大発、小発併せて数十隻が爆沈された。さらにマダン地区では米軍の魚雷艇の活躍が盛んになり、これによる大発、小発の被害も甚大となって、マダンへの前進はますます困難となっていった。

私たちがハンサ滞在中に、たまたまマダンへ緊急に輸送しなければならぬ部隊があるからというので、私たちはその大発から降ろされ、ここからマダンまでを徒歩で行軍しなければならなくなった。背嚢に何日分かの糧食を背負って、東京から沼津までの間を、米軍の航空機と海上からの魚雷艇の攻撃を避けながら、とぼとぼと歩くのである。途中で、激戦を終えてきた第二十師団や第五十一師団の傷病兵が、最小限の荷物を背負って、ぼろぼろの服に素足に近い格好で杖にすがりながら退いて来るのにしばしば出合った。

兵士たちは、まだ若者たちである。
それが、杖をついて・・・
裸足に近い格好・・・
これが、日本兵の格好である。

そういう描写が延々と続く、戦記である。

誰いうとなくこの道路を、東海道ならぬマダン街道と呼ぶようになっていた。昼間は米軍機が道路に沿って低空で飛んでくるので用心しないと歩けない。ことに集落の付近は銃撃ばかりではなく爆撃もするので絶対に避けなければならない。川で水浴中の兵隊が飛行機に見つけられて銃撃でやられることもあった。夜は夜で、なにしろ道路が海岸に沿っているので、岬のかげや、渡河点等にひそんで待っている魚雷艇の突然の猛射にやられることもある。だから真っ暗な晩でも灯火は絶対に禁物なのだ。ある憲兵が一休みして煙草に火をつけようとして、ふいに魚雷艇の射撃にあうという例もあった。

これでは、すでに敗戦である。
戦争ではない。
敗走である。

マダンに到着するまでの、状況も悲惨である。
そして、マダンに到着してからも・・・

そこでは、戦争に参加している。つまり、死ぬと、意識していることだ。
どのように死ぬか・・・
栄養失調、病気で死ぬなら・・・どうせ死ぬなら、と考えている。

マダンにおける生活も決してよくはなかった。宿舎は、じめじめしたジャングルの中に建てられ、米軍機は朝は五時半頃からわがもの顔に頭上を跳梁していて、仕事をしている途中、たびたび防空壕へ入らねばならなかった。したがって炊事も夜間だけに限られ、いつも夕食は夜の八時半か九時頃、それもどろどろの雑炊で、飯盒の蓋にやっと七分目か八分目の量である。朝と昼食は前夜に炊いたご飯に冷たい汁、暑くて湿っぽいせいで昼食の時には少し味が変わってしまうし、分量も少量であり、仕事をしていてももたないので、爆撃の合間を見ては少し離れた所にある椰子林に行って、椰子の果実やその新芽をとってきて食べたものだった。

上記は、まだマシな方である。
そのうちに、それも、出来なくなる。

そのうちに、米軍に後方との連絡を絶たれた第二十、第五十一両師団の者が、山中を迂回して原住民の農園の芋を食べながら、相当数の行き倒れやら、渡河中の溺死者やらを残して、服もぼろぼろになってマダンへ辿りついてきた。これらの者に対しては、米の定量を増やしてその体力の回復をはかったのであるが、芋から米に変わったとたんに、多くの胃腸病患者が発生した。あまりに米のご飯がおいしくて、つい食べ過ぎてしまうのだということであった。

戦死ではなく、行き倒れ、溺死である。
それは、戦場のあらゆる場所で起こったことである。
更に、餓死である。

戦う力の無い兵士を、また、前進させざるを得無いという、日本軍である。

ニューギニアでは、行ったり来たりと、兵士たちは、さ迷うのである。

事実、ホルランジャまでは、わが第十八軍の作戦地域内であるのに、そこには後方部隊のみをおき、その有する三個師団の主力全部をマダン以東に持っていたのである。そうした危惧が大となったので、群は転進の疲れもまだ癒えていない第二十、第五十一の両師団を、マダンで休養せしめる暇もなく、ウエワク地区へと前進せしめることにした。それも、連合軍側は艦船や舟艇などを使用して海路を楽々と前進するのに反して、こちらときたら一部の兵器類等は僅か残存していた少数の大発、小発によって、夜間魚雷艇の脅威にさらされながら運ばれたが、その他は例のごとく、背中に世帯道具一切を背負って、杖をたよりに夜間に歩き、昼間はジャングルに寝るという方法で進むのであるから、これでは問題にならない。
舟艇で僅か二、三日の行程でも、半月から一ヶ月くらいはかかるのである。

本当に、話しにならない状態である。
大本営は、その事実を知っていたのだろうか。

何事も、現実を見ることなく、云々する者たちがいるが・・・
また、現地を見ることなく、云々する者も・・・

激戦地に追悼慰霊に出掛ける私は、その現場を見ている。
そのジャングルの様。
自然の厳しい、状態。

ニューギニアの東部海岸線には、まだ出掛けていないが、南洋の激戦地は、理解出来る。
この、ニューギニアの最後の舞台となった、ビアク島に出掛けてみて、本当に、厳格な自然の様を、目の当たりにした。

兎に角、食べ物が無いと言う悲劇は、言葉に出来ないのである。

その後、この戦記も、また、マダンからウエワクへと戻る。
ニューギニア東部を、行き来する様である。

行けども行けども追いつかず、日は暮れそうになるし、水の便はなし、疲れ果ててどうしようかと思っている時、やっと水のあるところに出た。その時、日も暮れたのでここで野宿しようと座り込んでしまった。当番兵が、この上に灯が見えるようだから行ってみる、といって出ていったが、すぐに戻って来て、司令部がこの上で野宿していると報告したので、やっと這うようにして司令部に辿りついた。だが、三輪少尉は、すでに疲れ果ててしまっていたため、司令部の位置までの距離を歩く元気もなく、ついにそこで野宿してしまった。

久しぶりに会う戦友の何と懐かしいことか。みんなに労わられつつ、夕食をともにして、お互いの苦労を語り合った。彼らの話によると、セピックの湿地帯通過の時は、渡河点は敵機の銃爆撃を受け、やっと渡河してもそれから先も大変な湿地で、時には胸まで浸し、背嚢の中の米が濡れて、カビが生えてしまうし、病人はつぎつぎに倒れ、死体はそのまま湿地に呑まれる、部隊はその上を行軍してくるという悲惨な状況である。渡河点出発時の人員と渡河後における人員の差が何千人というほどだったというのである。

これは、何も、ニューギニアだけに言えることではない。
ビルマの、街道も、白骨街道、靖国街道と言われたほど、兵士の死体が横たわっていたのである。
posted by 天山 at 06:24| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月20日

玉砕49

ある区間、私たちは山脚道を行軍した。その途中にあった小屋という小屋には、ほとんどといっていいほど被服をまとった白骨が側に水筒などをおいて横たわっていた。病気のせいで部隊と一緒に行動ができずに残った者が、そのまま死んでしまったものと思われた。それにしても作戦前の行軍で、患者の死体の収容もできぬようでは、この先いったいどんなことになってしまうのかと思いやられた。

こういう記述は、多々ある。
そして、この白骨化した兵士たちの、遺骨は、今は、どうなっているのか。
放置されたままである。
自然と化している。

帰還していない、兵士の遺骨は、120万柱といわれる。
敗戦後、それらの兵士の死を忘れて生きてきた、日本人である。
だが、そして、それらの兵士の霊位に守られて、日本は、豊かにあるという。
悲惨である。

私が第四十一師団司令部の一員として、ニューギニア中部北岸のアイタペに上陸した米軍を攻撃すべく、アイタペの東方を流れる通称坂東川から隔てること僅かに六キロの戦闘指令所に到着した時には、すでに私たちの所有している米は一升前後であった。しかも次ぎの補給はいつあるのか、また果たして補給があるのかどうかすらわからぬ状態だったのである。

そして、そこでの、総攻撃・・・
その様は、省略する。
何処の戦地でも、総攻撃があった。

日本軍が、バンザイ攻撃という、実に、愚かな攻撃態勢を取ったことを、付け加えておく。それは、ただ、死ぬために、敵の前に、踊り出すような攻撃である。

そして、もう一つは、斬り込み隊である。
それは、特攻に似る。
死ぬことを覚悟で、斬り込むのである。

やっと静まったと思ったら、一人おいて隣に寝ていた井上大尉が、間にいる関中尉に、
「おい、関中尉、やられた」
といい、うーんと唸る声が聞えた。冗談かなと思いながらもふと見ると大尉の背中に血がにじんでいる。これは大変と軍医を呼んだが、暗夜のジャングル内だし、地面がぬかっていて行動が思うにまかせない。井上大尉の当番兵も肩をやられている。
隣の下士官室では、端から寝ていた井上曹長が、うんともすんともいわずに即死していた。衛兵隊長中尉も肩をやられたらしく、腕を吊ってやってきた。経理部の方では腹部をやられた下士官が、苦しさのあまり一晩中「殺してくれ」と叫んでいる。よほど苦しかったと見えて、時どき「うわーっ」と猛獣のような声を張り上げている。
砲撃後の不気味な静けさ、暗夜である。聞えるのはこの下士官の断末魔の叫び声と、時どき苦しそうにうめく負傷者の声だけである。師団長の宿舎の柱も砲弾の破片で飛ばされて、その毛布の中からさえ砲弾の破片が出てきた。

こういう状況化で、兵士たちは、次第に、理性を失って行く。
更には、精神に異常をきたす者も出る。

そんな日々が、永遠に続くように思われてくるのだ。
耐えられないだろう。

いよいよ攻撃開始という日の数日前に、軍司令部が作戦指導のため私たちの戦闘指令所に姿を現した。世が世なれば自動車で乗りつけるところなのに、軍司令官といえども兵隊の軍靴に脚絆、それに尻当てをして杖をついての徒歩である。その際、私たち部付き将校にも土産として「ほまれ」を何本かずつ頂戴した。久しぶりの煙草であった。・・・

しかし、米軍の有様が、次第に変化する。
そこで、作戦変更が続く。
この頃になると、日本軍は、ただ米軍に翻弄されるようになるのだ。

「ポーン、ポーン、ポーン」
と軽い連続発射音が聞えたと思ったら、今度はいきなり、
「ぐわーんー」
と、なぐられたような気がしたと同時に指令所が一大修羅場と化してしまった。砲弾が指令所に命中したのだ。
一部の兵隊は、とても宿舎にいたたまれなかったのであろう。それかといって適当な退避場もなく、やむなく川の中に入って岸辺に身を寄せて小さくなっていた。それらの兵が大声で盛んに参謀長の当番の名を呼んでいるが、返事がない。どうも参謀長宿舎の付近がやられたらしいというので、真っ暗闇の中を軍医が飛んで行った。

暗闇の中で、兵士たちの死体が転がる有様。
これも、まだ序の口である。

戦闘指令所はその日のうちに山の手方面新予定地に向うことになっていたので、参謀長以下の遺品、遺骸の整理を私に命じてから、司令部は早朝に出発してしまった。私は遺骸の親指を参謀長の軍刀で切断して、遺骸を鄭重に埋葬し、遺品の軍刀や拳銃、時計等をその親指とともに持って戦闘指令所の後を追った。

指を斬り、埋葬する。
まだ余裕がある。

いよいよ渡河点まで来たので、荷物をおき、伝令と警戒兵二名を連れて渡河しようとしたら、上空を敵の観測機がのろのろと飛んで見張っているので、そのままそこで昼食を食べながらそれが飛び去るのを待った。やっと飛び去ったので急いで対岸に渡ったところ、そこには膨れあがって、うじ虫が一杯たかっている屍が数体悪臭を放って倒れていた。渡河するところを観測機に見つけられ砲弾でやられたものであろう。

そういう風景に、何の感情も湧かなくなるという、戦場である。
兵士の死体は、当たり前の光景になってゆく。

明らかに、戦況が不利でも、最初は、攻撃という大義があった。
しかし、そのうちに、退避、敗走という事態になってゆく。

その、退避、敗走が、ジャングルの中で、次第に、何処を何処へ向うのかも、分らなくなる。
ただ、敵の攻撃に、逃げ惑うだけの、兵隊になる。

戦争の状況を俯瞰することと、このような戦記を読むことと・・・
併せて行うことで、戦争の形相に近づこうとするが・・・

更に、その現場に佇む。
しかし、体験することは、出来ない。
それらをトータルにして、経験するしかない。

個人の戦記を読むと、玉砕、という言葉が、実に、虚しく響くのである。
posted by 天山 at 06:01| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月21日

打倒・韓国6

私たちの小学校には、校長を含めて五人の日本人教師と、四人の韓国人教師がいた。子どもたちの間では、だいたい日本人教師のほうが、韓国人教師よりも好かれていた。韓国の伝統的な儒教文化によるものだろうが、韓国人の教師は、とっつきにくかった。日本人教員のほうが、温和だったし、子どもたちに対して優しかった。韓国人教師は怒りっぽく、厳しかった。もっとも、当時は日本人教師も、韓国人教師も男の子を叱るときには、しばしば手をあげて体罰を加えた。

日本人教師は、おそらく日本人の児童に対するのとまったく変らない愛情を、私たちにそそいでくれた。また、日本人教師と韓国人教師が互いに仲間として親しくしていたことは、子どもたちにもよくわかった。

これが、逆だとしら・・・
実に、恐ろしいのである。

日本人教師が韓国の児童を慈しんだことは当時、小学校や、国民学校に通った多くの韓国人が今日でも、かつての恩師を慕っていることからも分ろう。・・・

その例を上げている。
大統領になった人でさえ、日本統治時代の小学校の恩師を、日本から招待して、青瓦台、大統領府で、もてなしている。

朴氏も、
今日までも、小、中学校当時の日本の恩師たちと、手紙の往復はもちろんのこと、師弟関係が昔と変わりなく結ばれている。
とのことだ。

韓国人が、友人の人は、よく言う。
個人的に付き合うと、とても良いのだが・・・
いざ、国の話しになると、豹変するという。

さて、日本統治時代の、教育である。

日韓併合前は、中国にならい、官使登用試験である、科挙制度が廃止され、教育機関としては、習字と、漢籍の素読を教える書堂が、約1万6000ほどで、学習児童は、14万人である。

それは、当時の人口の一パーセントである。

ところが、日本統治時代により、昭和18年には、就学率が、61パーセントに達し、昭和19年には、国民学校が、5213校、生徒数は、239万8000人あまりである。

ちなみに、同じく日本統治の台湾では、就学率が92,5パーセントに達している。
更に、台湾では、京城帝国大学が、1924年に創設されている。
台北帝国大学は、1928年である。

ところが、内地の大阪帝国大学は、1931年、昭和6年。
そして、名古屋帝国大学は、1939年、昭和14年である。

内地の大学より先に、台湾に作るという、心意気である。
何度も言うが・・・
植民地支配という言葉に、注意である。

欧米のそれと、同じ意味ではない。
白人は、ただ、奪うだけである。
日本は、与える、改革する、拓殖するのである。

韓国人は、ウソを言う。
日帝時代は、愚民化政策がとられ、多くの文盲を作り出した。
それは、全く逆であろう。

愚民化政策をとったのは、韓国、朝鮮自体である。

また、歴史に関して、韓国人たちは、妄想を積み上げているだけである。
真っ当に、歴史感覚を持ち得ないのである。
現在は、ハングル一本やりで、昔の書籍を読む力も無い。

日本統治時代より、今のほうが、愚民化していることは、間違いない。
そして、歴史の捏造である。
妄想と、捏造の歴史・・・
この韓国に未来は、あるのか。

テレビドラマで、韓流ドラマというものがあったが・・・
内容が皆無で、単なる、猿芝居だった。
つまり、言葉の世界が、貧弱なのである。
それは、文芸作品などにも言える。

日本のテレビでさえ、見ていたら、馬鹿になる。
それでは、韓国のテレビを見ていたら、アホになるだろう。

勿論、日本のテレビ局には、多くの在日が関わっているから・・・何ともいえないが・・・

言葉について出たので・・・
日本は、ハングルという、「大いなる文字の意」を普及させ、韓国独自の文化を保護し、近代教育をほどこしたのである。

自国の国語を捨てたのは、韓国自身である。

朝鮮半島が漢字に出会ったのは、漢初、または、漢の武帝が半島に「四群」を設置したといわれる時代からである。
だが、朝鮮半島には、漢字以前から、独自の古代語があった。

漢語と韓語は、全く異なるものである。
そのため、当初は、使いにくいものだったはずだ。
新羅時代は、はじめ漢字の音と訓を応用して、新羅語を表記した、文字「郷札」があった。

そして、統一新羅以後、新羅語、高麗語、朝鮮語に、次第に漢字が混じり、同時に中華帝国、唐の朝貢冊封体制に組み込まれてゆく。
新羅23代の法興王、30代の文武王などいう、シナ風の呼び方に変わっていった。

そして、現在では、あれほど先祖が大切だという韓国人は、皆々、シナの姓を名乗るという、不思議。

さて、ハングルである。
それが、つくられたのは、15世紀である。
しかし、朝鮮人は、いっそう漢字や儒教に傾倒し、それは、狂信ともいえる状態だった。
更に、ハングルを排斥したのである。

漢語が韓語の、八割を占めるのである。

その後、日本統治時代に、和語が入り、これにより、戦後いくら和語や和色の追放に躍起になっても、言語の世界では、漢語と和語がなければ、言語の自立、独立はありえなくなってしまったのである。

ところが・・・
つぎに続ける。
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2015年07月22日

打倒・韓国7

唐の隆盛期には、漢字が東亜世界諸族共通の文字として、使用されていた。
聖徳太子が、隋の煬帝に送った国書も、漢字で書かれた。

だが、唐が衰退し、騒乱が頻出するようになると、周辺諸国は、独自の文字を創出して、唐と一線を画して、独自性を強調するようになる。

このとき、最も早く独自の文字を創り出したのは、日本である。
この潮流は、10世紀前後の東アジアに、共通する。

そのような中で、朝鮮半島だけは、中華文明の支配を甘受し、高麗人、朝鮮人が、宗主国を求めて、右往左往していたのである。

つまり、唐の隆盛が過ぎて、諸民族が文字を創出すると、諸民族は、中原に進出してきた。遼、金、西夏、元帝国などである。

東亜世界に君臨するようになるのだ。
そのどの国に付こうかと、朝鮮半島は、右往左往していたという。

それでは、朝鮮半島で、独自の文字が考案されたのは・・・
李朝朝鮮の世宗25年、1443年である。

時の国王、世宗により、「訓民正音」(民に教える正しい音の意)の、28文字が、創出された。今日の、ハングルである。

漢語と韓語は、違うので、一般人には、漢字での表記が難しいとのこと。
だから、ハングル文字を、使用せよという内容である。

つまり、文明国の中で、文字創出がもっとも遅かったのである。
何故、朝鮮だけが、独自の民族文字を作るのに、時間がかかったのか。
それは、事大主義に徹していたため、創造性に欠けていたからだ。

事大主義とは、大に付くという意味である。
中華帝国からの、誤解、疑惑を避けるという、何とも、情けないものである。

ところが、ハングルは、使われない。
公文書は、漢文である。
これも、事大主義である。宗主国への、遠慮。

実際、世宗が三年をかけてハングルの28文字を作った時には、両班から、猛反対が起こったのである。
ここでも、驚きの意味不明な反対声明がある。

日本やモンゴル、チベットなどには独自の文字があるが、それは野蛮な地域だからだ。我々が独自の字をもったら、彼らと同様に野蛮人になってしまう。その上、我々は中国を宗主国として仰いでいるのだから、新しい文字を作ることは、中国からして見れば、謀反であり、怒りを買う恐れがある。

呆れた、言い分である。

勿論、朝鮮における、ハングルの使用には、当然、宗主国である、中華王朝の是認が絶対不可欠な条件だった。

さすがに、徹底した、属国根性である。

結果、ハングルは、婦女子専用で、無学な庶民が用いる「諺文」オムモンと呼ばれ、主に仏教や経書の解説、散文、小説、農書、婦女子の私文書に、用いられただけだった。

この、ハングルが、正式に使用され始め、更に、「ハングル」という名称が考案されたのは、20世紀に入ってからである。

400年に渡り、蔑まれてきたのだ。
更に、世宗が創ったハングルだが、第10代の燕山君によって、ことごとく、焼き払われたというから、驚く。

そして、1504年、学問の府であった、成均館が、遊蕩の場とされて、ハングルの教授と、学習が禁止された。
次代の中宗は、1506年即位するなり、ハングルを完全に廃止した。

では、そのハングルが、再び日の目を見るのは・・・
何と、日本統治時代になってからである。

簡単に言えば、ハングルを復活させたのは、日本なのである。
ダレ神父の「朝鮮事情」の中から見ると、

中国と朝鮮の間には、学問研究と科挙において二つの明確な相違点がある。その一つは、朝鮮における学問はまったく民族的なものではないという点である。読む本といえば中国のもので、学ぶ言葉は朝鮮語ではなく漢語であり、歴史に関しても朝鮮史はそっちのけで中国史を研究し、大学者が信奉している哲学体系は中国のものである。

写本はいつも原本より劣るため、朝鮮の学者が中国の学者に比べてかなり見劣りするのは、当然の帰結である。

これよりもっと大きなもう一つの差異は、朝鮮では自らの特権に過度に執着し、特権維持のために絶対権力を発揮する多くの両班が、国王と人民との間に存続している点である。

更に、驚きは、

朝鮮の学者たち自身も、自国の文献に何ら信用を置いておらず、また決して研究対象にする事なく、中国の歴史書だけを読むことにしている。

と、言うことは、現在もそれが、続いていて、自国の歴史書などは、信用していないのである。
だから、ウソも、捏造も、やりたい放題なのである。

兎に角、驚くべき事は、現在、ハングルを世界一の言葉だとして、優越意識に浸っているようだが・・・
そのハングルを捨ててしまいと・・・

更に、それを日本が、復活させたなど、誰も信じたくない事実だろう。
だが、それが、史実であり、事実である。

韓国人は、日本が韓国の言葉を奪ったというらしいが・・・
逆であろう。
ハングルを与えたのは、日本人である。

勿論、自国の歴史を信じないというか、学ぶことが無いのだから・・・
押して知るべし。
歴史教科書の三分の二は、反日の記述だというから、また、呆れる。
posted by 天山 at 06:03| 打倒・韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月23日

打倒・韓国8

李朝時代になると、揚儒排仏のため両班階級は、漢文を利用し、大国人の真似をする。

言語の世界でも、両班、良民、常人の間で、大きな隔たりが出来るのである。
常人は、両班の支配下で、韓語より、漢語に学び、韓語は、両班の漢文漢語専用により、急速に、漢語化されていった。

李朝の詩歌は、朝鮮語で表現されず、伝統的な歌謡である「時調」シジョ「歌辞」カサ、小説は、韓語の代わりに、中途半端な漢語や故事熟語が、おびただしく使用されていたため、奇形で生半可な朝鮮文学、文化を創ることになった。

それでも、両班は、漢字に対しての、崇拝思想が極めて強く、己がどれだけ漢字を知っているかを、得意にしていた。

現代の韓国語の、漢字含有率については、韓国語のうち、名詞約77パーセント、形容詞14パーセント、副詞1パーセント未満が、漢字語である。
完全な韓国語で、数千の文化を語ることは、出来ない。

李朝時代は、ハングルが蔑まれていた・・・
現在の韓国人は、どう思うだろう。
世界一の言葉、ハングルと胸を張るが・・・

時代は、やがて、西力列強の波に飲み込まれる。近代化の波が、東アジアに訪れた。
しかし、朝鮮は、相変わらず事大主義を守り、近代化への道を、拒否していたのである。

勿論、朝鮮に近代化を与えたのは、日本である。
日本の統治がなければ、今頃は、ロシアか、中国か・・・
惨めな、三等国であった。

日本は、近代化を遂げて、朝鮮がこのまま中国との宗属関係を続け、独立、近代化を断行しなければ、やがて、欧米列強の波に飲み込まれると共に、日本の脅威となることは、明らかであるとして、行動するのである。

日本は、日清戦争による、朝鮮半島の独立、そして、日韓併合へと突き進んだ。
朝鮮は、眠っていて、独立を得たのである。
日本の、お陰である。

言葉の問題に戻す。
日本は、朝鮮半島の近代化に努め、そのための国語教育に力を、傾注するようになる。

福沢諭吉が提案した、漢字、ハングル混じりの文章体系を、19世紀末から、使用し始めた。

そして、日本で鋳造したハングル活字を使って、印刷された、1886年、明治19年の新聞「漢城週報」が、はじめであった。

ところが、韓国人は、ウソを言うのである。
日本によって、国語を奪われたと。

そもそも、自らのオリジナルである、ハングルをないがしろにしてきたのは、誰か。
朝鮮人、韓国人ではないか。

話しはまだある。
日韓併合後、金沢庄三郎、小倉進平の両博士を中心とする、日本人学者たちは、近代朝鮮語の表記を科学的に体系化し、言語として完成させた。

小倉博士によれば、
朝鮮が清国の文化から離脱し、独自性を強調するために、国学、国文の使用を鼓舞し、ハングルを奨励したのは、1897年の、日清戦争後からで、朝鮮が、大韓帝国として、清から独立してからである。
この時、はじめて公文書での、漢文の使用をやめ、漢字・ハングル混じりの新訂国文を発布し、使用を奨励することになった。

ハングルが、韓国の全国民に教えられはじめたのは、1910年、日韓併合以後である。
そこで、朝鮮総督府は、現代ソウル語を標準語とする、朝鮮語を、教育を通じて、朝鮮社会に普及させた。

誰のお陰で、ハングルを使用するようになったのか・・・
韓国人には、声を大にして言いたい。

更に、日本の、総督府は、努力を重ねた。
1911年7月、「諺文綴字法研究会」を発足させ、日韓の学者を集めて、研究と普及をはじめた。
また、「普通学校用諺文綴字」を決定し、教科書として、採用した。

当時に、朝鮮の文化は、漢文の文化であり、従来ハングルは除外されてきたので、漢文を知らなければ、朝鮮文化を知らないとなるだけではなく、ハングルさえ、読み書きできないということから、寺内総督が着任してから、一年後の、1911年8月、朝鮮教育会が発足され、「朝鮮語及び漢文」を教育することが、決定したのである。

そして、同年、朝鮮教育令により、普通学校、高等普通学校、女子高等普通学校に、「朝鮮語及び漢文」の毎週の授業数を規定した。

勿論、日本人子弟も、小中高校とも、朝鮮語を学んでいた。
学校では、朝鮮人と日本人の区別は、一切ないのである。

朝鮮総督府の教育政策は、ハングルも、漢字も禁止するどころか、日常の手紙すら朝鮮語で書けない朝鮮人知識人のためにも、双方に教えたのである。

朝鮮人の独自の文字創出は、東アジアの史上もっとも、遅かったのに加えて、両班による、排斥にあったことから、国字・国文としての、体系は、ずっと後にならなければ、進まなかった。

そのため、朝鮮人の歴史的諸知識の蓄積も、かなり遅れたのである。

更に、元々、独自の歴史の蓄積が無い文化である。
日本が、奪ったと、ウソを言うが・・・

奪えるものなど、何もないのである。

日本が与えたものの方が、絶大に大きかった。
だから、あまりに、馬鹿馬鹿しくて、話しにならない。

本当の歴史を知らない。だから、妄想の歴史観に陥る。
実に、憐れである。

日本にいる、在日、朝鮮、韓国人は、日本の学校教育で、少しは、真っ当な歴史というものを、教えられている。
それは、僥倖である。
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2015年07月24日

打倒・韓国9

日本統治時代の朝鮮社会では、日本語の普及は、20パーセントにも、達していない。

同じく、統治していた台湾では、70パーセントだった。

そして、20パーセントの日本語使用者は、朝鮮語も放棄していない、バイリンガルな知識人たちである。
これは、日本統治時代の、教育水準が高いということである。

更に、朝鮮総督府は、学校をはじめとする日本人公職者に、朝鮮語学習を奨励していたのが、歴史の事実である。

両班時代以来、儒教思想の影響が濃い、朝鮮人は、自分では何もせず、すべて人任せであった。
そんな朝鮮人に対して、日本は、国語である日本語と、朝鮮語及び漢文を、並列で教えていた。

本来ならば、国語、日本語に重きを置くのであるが、日本は、そうしなかった。
受身な朝鮮人は、教育をそのまま受け入れたために、日本語習得のメリットも、朝鮮語習得による、民族文化の育成も、できたのである。

これは、感謝であろう。
統治された場合は、統治した国の言語を習うのである。

ただし、日本統治時代の朝鮮教育政策は、一貫していたものではない。
大日本帝国の盛衰と共に、変化した。

初期の教育は、手探りで、大正8年、1919年、原敬内閣時代から、「一視同仁」による、差別撤廃を唱え、内地と同様の教育を行っていた。

日中戦争開戦後の、南次郎総督時代になると、「皇民化運動」などを進めるようになる。
1938年からは、朝鮮教育令が、全面的に改正され、日本国内と、全く同じ教育をした。

その後も、国語として、日本語が使用奨励されたが、朝鮮語教育も、必須科目とはされていないが、禁止もされなかった。

日本語教育奨励が、朝鮮語使用禁止ではないのである。
理想的な、教育を行ったという、事実である。

このように、日本語を獲得した朝鮮人の中には、まだ言語として、体系化されていない朝鮮語を捨てて、日本語を常用しようと考える者たちも、出て来た。

詳しく述べることは、止めるが、日本語推進を主張する朝鮮人たちは、少なくなかったのである。

1939年、昭和14年、10月に結成された、朝鮮文人協会は、1942年に、その他の団体と合併して、朝鮮文人報国会と改称して、200余名の文筆家が、名を連ねた。
そこで、教義された結果が、国語、つまり日本語による、新しい作品を創り、朝鮮人の日本語による、詩歌を作ろうということになった。

ハングルは、朝鮮半島では、普及しておらず、日本語に比べて、国際性に欠けていた。このような、歴史背景にあったゆえに、国語である、日本語使用の合理性と妥当性を論じ、文学創作には、国語、日本語を使用せよ、と、唱える朝鮮人も、現れたのである。

更に、朝鮮語の全廃を、強く主張されたことがあった。
近代化を目指す上で、言語使用の問題を考え、自国語に対する深い反省の気持ちからくるものだろう。

もし、今、日本語を韓国が使用していれば、少なくとも、少しはマシな社会になっていただろう。

大半の途上国が、外国語を国語として、使用する事も、少なくないのである。

言葉は、民族の心である。
言葉により、人間は、色々なことを、定義し、観念して、考えるものである。

だから、全廃運動は、朝鮮語という、未熟な言語に留まるより、日本統治時代の、国語、日本語を常用しようとする運動は、正しかった。評価できる。

それ以後の韓国の、言葉を世界を俯瞰すると、驚くべき事が、行われた。
戦後である。

漢字の非効率性、非大衆性が叫ばれ、ハングル国語純化運動が進められた。
1948年、李承晩大統領が、「ハングル専用に関する法律」を制定し、漢字を順次廃止する路線をとった。

更に、55年、臨時漢字制限法令を発布し、漢字を1300字に制限した。
65年から、一切の公文の漢字使用を禁止した。

67年には、朴正キ大統領が、「漢字廃止五ヵ年計画」を指示し、70年以降は、総理大臣訓令で、漢字使用を前面禁止にした。

それまでの、公文書には、漢文が90パーセント、大韓民国の憲法にも、90パーセントの漢語が含まれていた。

同音異語の氾濫が起こり、抽象度の高い概念語の、理解力と利用率が低下した。
韓国の伝統的固有語を漢語で代用することを、積極的に行ったが、ハングル単用の推進者たちは、新しい代用漢語を創造することが出来ず、失敗した。

漢字文化も、伝統である。
それが、朝鮮由来でなくても、伝統として生きてきたものである。

このような、愚かなことを、平然とする、韓国人である。

あまりに問題が多く、金大中政権時代に、再び、漢字復活論が出た。
しかし、賛成する国民は、10パーセントという状態。

韓国の伝統文化と、ハングルは、関係が無いのである。
漢字、漢文、漢語をベースに、二千年に渡り創られたものが、伝統文化に当たるのだ。

その結果、言語伝達能力が低下し、韓国人は、世界でも読書率の低い国民となった。
日本統治時代から培った、高い教育水準も、教育と有名無実になってしまった。

漢字、漢文放棄が、どれほど韓国社会に混乱を招き、伝統文化を放棄するということが、どれほど、国にとって、マイナスなのかを、韓国人は知らないのである。

ハングルで表記できない言語はないと、言うが、それは、言語の知識が無いということである。
呆れる。
ハングルの欠点を、あげつらう事が、韓国人には、耐えられないだろうから、この辺で、止める。

ちなみに、日本は、すべての世界の言語を翻訳している、翻訳文化の、最高峰である。
posted by 天山 at 06:17| 打倒・韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月27日

打倒・韓国10

朴テヒョク氏の、醜い韓国人、を、続ける。

李朝末期の韓国は、政治が乱れに乱れていた。宮廷は国民の大多数が生活苦に喘いでいるのをよそに、政争に明け暮れていた。役人や、両班はみな私欲にかられて、自らの栄達と蓄財のみを求めて、弱い民衆を搾取することだけしか考えなかった。このために社会道徳が乱れて、精神も、文化も、経済も疲弊した。売官売職はふつうのことだった。どこでも賄賂がまかりとおった。黄金の力と暴力が支配していた。

現在の韓国と、同じ状況であろう。
そして、これが国の崩壊を招くのである。
だから、現在の韓国も、崩壊寸前であると言っても、いいのだ。

政治は、不正行為の別名でしかなかった。民衆への収奪が極限に達していた。いつもハルサリ(その日暮らし)を強いられていた庶民は、こき使われるだけ使われ、乱暴されるだけ乱暴されて、まったく希望を抱くことができない日々を送っていた。社会が停滞しきっていた。火賊や山賊と呼ばれる盗賊が、横行していた。火賊は村を襲うときに放火して、その混乱のなかで略奪したために、そう呼ばれた。
日本人は、徳川末期の日本について大いに誇ることができようが、情けないことだが、韓国人としては、李朝末期について、何一つ誇ることができない。

後ほど、どれだけのことが起こったのかを、詳しく紹介する。

日本は、日本統治時代に韓国に大きな投資を行ったために、韓国が惨めだった状況から一足飛びに近代化したことは、どうしても否定できない事実である。日韓併合後、日本人は鉄道、道路、架橋、用水路、植林、河川整備、堤防、港湾、学校施設の建設をはじめとする、大規模な公共事業を始めた。このために、それまで韓国には、食うや食わずの失業者がひしめいていたが、一般の民衆に仕事が与えられて大いに潤った。

韓国人が、素直に、そのように、認めるのである。
己で、近代化を図ったというが、大嘘である。
更に、日本が邪魔をした・・・とは、呆れる。
すべて、日本が準備して、整え、韓国を近代化に押し上げたのである。

日本が韓国を統治した間に、一方的な収奪を行ったというのは、大きく事実に反する。今日、日本統治時代を体験した韓国の知識人は、それが事実であると知っていながら、客観的な事実を認めることを拒んでいる。韓国は日本の力によって短期間のうちに、日本人が咀嚼した西洋の実用主義を定着させ、近代世界に入ることができたのだ。日本統治時代になって、はじめて真面目に働く多くの者が報いられるようになった。また、韓国人の福祉が大きく増大したのだ。

今の韓国人が、聞いたら、泡を吹くような話である。
だが、それが、事実なのである。史実でもある。

真っ当に、自分たちの歴史と向き合わないという、不幸は余りある。
だから、また、同じことを、繰り返す。

朴氏は、日本を通じて、近代化社会を知ったとして、日本が作った鉄道に、父と共に乗って、旅をした話を書いている。

すべてを掲載しないが・・・
その中の、一部を抜粋する。

その瞬間、大きくひろがるブドウ畑を連想させるような変電所が、私の目に飛び込んだ。変電所は、五分間以上も続いた。地理の時間に興南窒素工場が大規模なことは教わっていたが、これほど大きいとは想像もつかなかった。私はその雄大さに頭を打たれたような気がした。私の目には近代的な科学の粋を集めたもののように、輝かしく見えた。

中学二年生のときには、世界的な名勝である金剛山に行くことにした。夏休みの一週間あまりを有効に過ごそうと思ったのだ。現在では、南北休戦ラインの上にあって廃墟となった鉄原から観光軽便電鉄に乗って、金剛山まで行こうと計画したが、そのときには、私は知らなかったが、もう戦争が激しくなっていたので、電鉄が運休し、線路が撤去されているのを待っていた。日本は観光用の鉄道までつくったのだった。

もし、日本の統治が無ければ・・・
朴氏は、電車になど乗れたのか。無理だっただろう。

韓国当地の収支決算は、日本にとって持ち出しだったはずである。このようなことをいうと、今日の韓国では「妄言」だという一言で片付けられてしまおう。しかし、そうではないのだ。歴史的な事実は、事実として認めねばなるまい。過去を過去として、率直に評価しなければならない。過去はどの社会にとっても、樹木にたとえてみれば、大地のなかに張った根にあたるものである。韓国人は率直に自分の根を見つめねばなるまい。韓国は戦後、独立を回復することによって再出発したが、まだ、その途上にある。再び出発するのにあたって、正しい目標を必要としている。これから韓国人は、誤った歴史観と価値観をもって過去を歪め、捏造することがないように、過去の事実を客観的に検証してゆくべきである。

とのことで・・・
今の韓国は、全く、その逆である。
ウソと、捏造の歴史観、満載である。

そして、自惚れ。
どんどんと、社会も、勿論、政治経済も、悪くなっている。
国民の八割が、他国へ移住したいと言う。

民族意識は、煽るが、愛国心は、皆無である。
まさに、李朝末期と、同じ。

精神が歪だと言うことだが・・・
韓国人は、根本的なことが、分っていない。
また、理解しようとする、能力がない。

つまり、国土があっても、浮浪の民なのである。
先進国だと、思い込む様は、甚だしい。

いつも、日本から、大枚な金を得て、それを我らが偉大だからだ・・・と言うあたりは、つける薬が無い。

東南アジアに旅する、韓国人の多く男性は、その国の人々を見下す。
そして、徹底的に嫌われていることを、知らない。
その、傲慢不遜は、何処からのものか・・・

それは、日本人が、自分が白人により近いと思い込み、日本人を、見下すのに似る。
決して、胴長、単足だとは、思わないのである。
実際は、見て御覧の通りなのだが・・・

その、日本人より、韓国人は、更に、程度が低い。
これを、あはれ、と言わずして、何を、あはれ、と言うのか。

posted by 天山 at 06:25| 打倒・韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月28日

玉砕50

撤退する日本軍である。
敗走とも言う。

ついに米軍陣地を陥落することはできなかったが、補給はまったく絶え、糧食も尽きたので今は撤退のやむなきにいたった。まず第二十師団が撤退し、続いて私たち四十一師団の戦闘部隊も矛をおさめて坂東川を渡って帰ってきた。

米軍の砲撃はあいも変らず盛んである。ところが戦闘指令所は、なかなか撤退しそうにないのだ。手持ちの米はなくなる。そのうち指令所近くに米軍の将兵斥候らしいものが出没し、自動小銃の音が間近に聞えたりする。戦闘指令所は自衛力も乏しいからこうなると心細い限りである。ほとんど大部分の部隊が撤退し去ったあとに、いよいよ戦闘指令所も思い出深いこの坂東川の地も引きあげることになった。

昭和19年8月3日から、5日にかけてのことである。
つまり、その頃は、日本の敗戦が色濃くなった時期である。

前進してきた往路にはすでに米軍が進出してきているので、前日衛兵の偵察によって発見された山伝いの新道を行く。司令部とっておきの乾パンが各人に一袋ずつ配給された。飢えていたので多くの者は一度に食べてしまったようだが、私は半分だけにして、あとの残りはポケットに入れて歩きながら食べることにした。だがこの半袋の威力は大したものであった。めきめき元気が出て、背嚢を背負い、杖をつきながらも谷の裏手の山を登り始めた。

栄養失調の上に急に急坂を登ったせいか息がきれて、心臓の鼓動が激しくて、まるで牛のようにそろりそろりとしか歩けない。誰しもがそうだとみえて、行軍は全般に非常にゆっくりなので助かった。それにあたかも私たちの行動を知ったかのように、例の観測機が私たちの頭上から行く手を超低空でゆるゆる飛び回っている。崖をよじ登るのに、うっかり木に手をかけてゆらゆらゆすぶったりすると危ない。大声も出せない。真昼間なのに、これではまるで夜逃げである。

最後は、食べ物を探す日々になって行くのである。
もう、戦争ではない。
生きるために、食べ物を探す生活である。

敵の目をくらましつつ、食べ物を手に入れるために、兵士たちは、翻弄される。

そして、敵の輸送機が、落とす、物資を求めるようになるという。

そのうち、独立工兵隊で米軍機の投下糧食を捕獲したというので、私たちが懇意にしていた井上副官に連絡して、二つばかりもらってきた。上等なビスケットやチョコレート、あんずの菓子に固型コーヒー、砂糖、塩、コーンドポークの缶詰など、みんながかねてから夢に見ていたものばかりである。チーズなどもあった。食うや食わずの日本軍と豊富な糧食を維持する彼らとを比較すると、もはやこれでは戦争にならないと思った。・・・

敵の食糧を見て、驚き、そして、自分たちの状況に、唖然とする様である。
確かに、これでは、戦争にならない。

ヤムカルに向う行軍の途中、珍しく脂肪分に富んだ米軍の糧食を食べたせいか、二度ほど猛烈な下痢をしてしまって、腹の中がすっかり空になってしまった。どうにかこうにかヤムカルの司令部に到着したところ、坂東川の戦闘指令所までは行かずにそこに留まっていた電報班長の沓掛中尉はじめ、山本中尉や鷲見少尉らが歓迎してくれた。私たちが出発してから後、同地区でも米軍が上陸したとの情報が入って大騒ぎしたそうである。・・・

そして、それからは、現地自給の有様。
更に、山々を転々とする、有様である。

それからの私たちは、いよいよ山中に分け入って現地自給の生活を開始する準備を始めた。今後何ヶ月、いや何年になるか、とにかく太平洋上の作戦がわが軍に有利に展開して、輸送船が迎えに来てくれるまで、どこからも何物も補給なしで頑張らねばならないのだ。もう今となっては、こちらから積極的に攻撃をしかけて活路を開くということもできないのである。

戦いにならない、戦争というもの。
餓死との、戦いである。

だが、内地、国内の食糧事情も、大変なことになっていた。
配給制度である。
戦争が長引くにつけて、内地の食糧も乏しくなった。

私たちは、最後になるであろうと思われる五合ほどの米と、若干量の粉醤油や粉味噌、岩塩を受け取って、直ちにサゴ椰子のある地区を求めて出発した。通称花川という川の流域に若干のサゴ椰子があるというので、ひとまずそこを目指すことになった。・・・

食べ物を求めての、行軍である。

サクサクというのは、サゴやしの幹の皮をはぎとり、その中の髄を取り出して、これを大根おろしをするように、空缶に穴をあけたものでこすって粉にし、それに水をかけながら捏ねて、蚊帳の切れ端みたいなもので漉し沈殿させる。すると澱粉状のものがたまる。その澱粉状のものを種々の方法で料理して食べるのだ。

夕食は、いつも日が暮れて飛行機の活躍がなくなるのを待ってから食べる。飯盒の中に草の葉や、木の根を入れて水で炊き、それに約二合の澱粉を入れてかき混ぜるのである。私たちはこれを「かき澱粉」とか「どろどろ」とよんでいた。砂糖でも入っているのならともかく、粉醤油か岩塩をなめながら食べるのだ。まあ六分目から七分目も食べると、いくら空腹でもうんざりしてしまう。


だが、次第に衰弱する兵士たち。
中には、死ぬ者もいる。

蛋白源が欲しくてたまらず、トカゲや蛙を追い回すのだが、これがなかなか摑まえられない。朝露に濡れながら、バッタやイナゴを捕まえては今日は蛋白質を摂ったなどと自分を慰めるほかなかった。

この頃の兵隊の仕事とは、食べ物を探すことだった。
そして、敵の攻撃から、逃れること。

昭和19年の暮れ、私たちの第四十一師団司令部はロアイテという集落付近に位置していた。この付近は比較的物資が豊かであった。その頃は、アイタペやホルランジャの米軍に豪州軍が加わり、豪州軍は、山中に逃げ込んだ日本軍に対して執拗に攻撃してきて、最前線に出ていた歩兵第二百三十八連隊がしだいに圧迫されてきた。

昭和19年とは、敗戦の前の年である。
もう、戦争とは、言えない事態である。
日本軍は、至る所の戦地で、敗走劇を繰り広げた。

そして、死者は、すべて玉砕であった。
posted by 天山 at 06:22| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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