2015年07月01日

玉砕43

引き続き、八木さんの、手記を紹介する。

ラバウルというと、南洋の小さな島のように思っている人が意外に多いが、パプアニューギニアの東、赤道から南へ五度ほど下がったあたりに、東北から南西へかけて500キロの長さで横たわっているニューブリテン島の東北にある街の名称である。海峡を隔ててその東側から北にかけては、ニューアイルランド島という島があり、向き合ったこの二つの島には英本国の名がつけられてある。第一次大戦まではドイツ領だったので、今でもこのへんの島々を総称してビスマルク諸島という名が残っている。ニューブリテン島の大きさは日本で言えば九州くらいに相当し、さしずめラバウルは、北九州市あたりに位置しているということになる。

昭和18年、1943年も暮れ近くになると戦局はとみに緊迫してきて、ニューブリテン島の各所にも米壕軍が上陸してきた。海峡を挟んでニューギニア島と対するツルブ地区あるいはマーカス岬など、九州にたとえれば、鹿児島や宮崎、熊本さらには大分あたりに相当する地点が激しい地上戦の場と化した。
そしてこれらの地域の日本軍は、兵力、火力、食糧すべての点で圧倒的に優勢な米壕軍の前に、一部は玉砕したが、生き残った者はラバウルへ向けて撤退することになった。遠いところで500キロ、近いところでも200キロの道のりを一ヶ月から三ヶ月かかって引揚げてきたが、文字とおり死の行進だったようである。
飢餓、病魔、豪雨による川の氾濫、鰐、泥濘の道など、それらによって途中脱落した兵士の数は何千とも言われ、屍は累々とし酸鼻をきわめたという。

そして、生き残った者も、ラバウルにて、玉砕するのである。
今は、美しいビーチの広がるラバウル・・・
70年前に、そんな悲劇があったとは、思えない場所になっている。

救いは、現地の人たちの、日本に対する思いである。
実に、親日なのである。
私が出掛けた年は、パプアニューギニア建国30年の年だった。
その、祝いの壁絵には、日の丸が、描かれていた。

象徴的な現地の人の言葉・・・
日本人は、すべてを与えてくれた。白人たちは、ただ、奪うばかりだった。

私がこの病棟に移されてからどのくらいたったころかははっきり覚えていないが、ある日、数名の兵士が衛生兵にともなわれて病棟に現れた。まとっている軍衣はボロボロで泥にまみれ、履いている靴や地下足袋は底が剥がれ縄で縛ってあった。枯れ木のような体の腹部だけが異常に膨らんでいたが、マラリアにやられ栄養失調にさいなまれながら、かろうじてたどりついた兵士たちの悲惨な姿だった。

着いた兵士たちは食べるものを欲しがった。軍医の指示で、植物は体が回復するまでは少しずつしか与えないことになっていたが、皆、衛生兵の目を盗んでは何かを食べ、食べた翌日には必ず死んでいった。哀れなことにすでに食物を消化する力さえもなくしてしまっていたのだろう。しかし、それでもここまでたどりついて、たとえ一口でも口に入れることができた者は幸せだったというべきなのかもしれない。

死んだ兵士たちは、病棟のはるか下の谷間に掘られた大きな穴に次々と放り込まれていった。やっとの思いで死の行進を生き抜いてきた兵士たちなのに、たどりついた先もやはり死の穴でしかなかった。

玉砕である。

未だに、英霊の遺骨は、114万柱が、日本に帰っていない、現状である。
つまり、それらの兵士たちの、ご遺骨が、そのままであること。
更に、自然に同化してしまった、兵士たちの、ご遺骨である。

後から後からと出る死者を埋める穴が足りない。そのためには一人用の穴ではなく、二メートルぐらいの赤い穴を掘り、いっぱいになるまで投げ込むのである。次から次へと必要とする穴を掘るには衛生兵の手だけでは足りなかったし、むしろ常時患者を作業要員としていたと言ったほうが実態に近かった。

八木さんは、ようやく、中隊に戻り、ココポに近い、南飛行場で、戦闘に加わるが・・・

食糧・衣類など軍中枢からの補充は皆無となり、中隊手持ちの量はわずかであったが、貴重な備蓄として手をつけてはならないことになっていた。兵士たちは日常生活のすべてにわたって自活するための工夫が要求された。たとえば靴などは戦闘訓練の場合は別として、日常はめいめいが椰子の実を裂いた線維で草鞋を作り、それを代わりとした。草履を履くための足袋も作ったが、それには古い天幕地を利用した。なかには針まで作り出す器用な者もいた。

これでは、戦争に勝つことは出来ないだろう。
それらの記述を読むと、呆然とするのである。

昭和20年、1945年、八月、戦争は終わった。日本は敗れた。しかし我々には敗れたということがどういうことなのか、日本が、国自体がどうなっているのか、それがまったくわからなかった。わかりようもなかった。祖国は遠い。一体これからどうなるのか、何もかもわからなかった。最初は終わったということさえよくわからなかった。

ただはっきりした違いは音の世界が一変したということだった。毎日聞く定期便のような爆撃機のエンジンの音、爆弾が空を切って落ちてくる音、戦闘機のけたたましい急降下の音、そして狂ったような機関銃の発射音、そうしたすべての音がぱったりとなくなった。

見上げる椰子の葉の間にのぞく青空は昨日のものとは変っていないが、その空から一切の音が消え、森閑とした静けさだけが残った。その静けさに戦争は本当に終わったんだなという実感があった。

日本兵士たちの、行為と行動は、悲惨だったが・・・
その後、八木さんは、敗戦後の日本を見回して、書く。

戦場という有無を言わさぬ場に身を置き、運命を共有する集団の中で命を賭す以外に途のなかった苦しみ、その苦しみを抱いて戦った若者たちの心の在りようは、後世の論者の憶測の域をはるかに超えている。

私が「無念」としか言い表せないこれら死んだ若者たちの心の傷跡は、あとから「殉国」というようなひとかけらの賛辞でたたえられようが、あたかも当時であったかのような「反戦」という歴史批判の言葉の中で悼まれようが、けっして消え去ることはないし、そんな騒々しい意味づけをしてもらっても喜ぶはずがないと思っている。

一緒に戦場にあった者としては、ただただ「死なせないでやりたかった」と思うばかりで、言ってやれる言葉は何一つもない。生きていてこそ人生だったと思うし、生きる自由を失い、自分ではどうしようもなかったたった一つの人生の喪失に対して、何をどういってやったところで慰めにはならないと思っているからだ。

「死なせないでやりたかった」ということがかなわなかった以上、生き残った者としては、せめて静かに眠ってくれと願うだけである。

戦争を知らない世代の人たちには、こうして死んでいった当時の若者たちの「無念さ」を踏みつけ踏み固めた歴史の上に今日の平和が築かれ、それぞれが貴重な生をうけているのだというだけは知っていてもらいたいと思う。

以上。

ほんの一部を抜き出してみたが・・・
私が言えば、戦争で死んだ若者たちに対して、ただ、追悼慰霊があるのみだと、思う。

追悼とは、追って悼む、つまり、その歴史である。
そして、慰霊とは、この今、生きる命の、尊厳の重さである。

慰霊をすることによって、戦争に対する、反対を行為するのである。
つまり、平和運動である。
それは、極めて、個人的なものである。
何者にも、それを止める権利は無い。




posted by 天山 at 06:25| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月02日

玉砕44

昭和18年、1943年、9月30日に、大本営は、絶対国防圏の命令を発した。
しかし、それより以前の、22日、ダグラス・マッカーサー大将の指揮する、米壕連合軍が、国防圏の前衛線最右翼の要衝にあたる、東部ニューギニアのフォン半島の先端、フィンシュハーフェン北方アント岬に上陸してきた。

そこは、同じく東部ニューギニアの、ラエ、サラモア攻略作戦の時期に、後方支援のための、舟艇基地となっており、5月以降、第一船舶団司令部があった。

海軍警備隊約4000名の善戦にも関わらず、10月1日、敵手に渡ったのである。

これが、序曲となった。
10月12日、昼間、連合軍航空機は、大挙ラバウルを空襲した。

敵の大胆な白昼空襲は、南東方面作戦開始以来、最初の出来事である。
それは、日本軍の前衛線に対する、本格的攻撃の前触れである。

11月に入り、ブーゲンヴィル島の、タロキナに、また、ギルバート諸島の、マキン、タワラ両島に上陸し、一連の本格的な攻撃を加えてきた。

以後、翌年、19年3月に至るまで、南東、および中部太平洋戦線の各島において、激戦が展開された。

そして、連合軍の攻勢は、国防圏前衛が、あいついで崩壊するという、有様となった。

昭和19年1月末、チェスター・ミニッツ大将の、中部太平洋艦隊は、その猛攻撃を、防衛線の、マーシャル諸島に加えてきた。

クェリンゼ、ルオット、ウオッゼなどにある、航空基地を、猛撃した。
これは、完全に奇襲となり、日本軍は、全く反撃の余裕を持たないまま、100機にのぼる飛行機が、地上において、廃物となったのである。

ルオット島には、第二十四航空戦隊の司令部があった。
総兵力は、約2900名を数えたが、その大半は、航空隊の人員で、地上兵力要員としては、第六警備隊の約400名がいるに過ぎない。

1月30日以降の砲爆撃により、敵の上陸前に、すでに大半の人員が、死傷し、防御陣地が破壊され、米軍は、やすやすと、島を占領した。

クェリンゼ島には、陸海軍あわせて、約3900名の兵員がいた。
これらの守備隊は、2月1日の敵上陸は、撃退したが、翌日の強行上陸は制しきれず、4日夕刻まで抵抗したが、全滅した。
玉砕である。

マーシャルの前衛線を瞬時にして潰滅させた、米空母部隊は、その勢いで、日本の絶対国防圏の、真横となる、トラック諸島に手をかけてきた。

2月1日、戦争始まって以来といわれた、大量の米空母機が、乱舞したという。

トラックは、ガダルカナル、ツラギに、連合国軍が反攻して以来、長く連合艦隊司令部、および、水上部隊の所在地であったが、マーシャルの陥落にともない、古賀峯一司令長官が、空襲を予期して、水上部隊を内地、およびパラオ方面に撤退させ、自らも、パラオに移っていた。

当時のトラック諸島には、第四艦隊、南西方面艦隊所属の航空戦力、そして、陸軍第五十二師団のほかに、訓練が目的で上陸していた、南東方面艦隊所属の航空兵力があり、指揮系統は複雑だった。

そのために、2月17日、早朝の敵艦載機の襲来は、小林第四艦隊長官の邀撃部署命令が達しない間の隙を衝くことになった。

更に、事態を悪化させたのは、飛行隊員の大半が、外出を許可され、出払っていたことである。

この日の、トラック基地には、各飛行隊所属の飛行機、約135機があったが、敵襲の結果、実質可能機数は、艦戦一機、艦攻五機だけだった。

その攻撃時間の過小さと、被害の甚大さは、比類がない。
翌日も、攻撃を受けたが、敵は、艦砲射撃を実施する。

両日の損害の累計は、艦艇沈没九隻、損傷九隻、特殊艦船沈没三隻、輸送船沈没三十一隻、飛行機270機という、膨大な数だった。

古賀長官は、在ラバウルの航空兵力の、トラック転用を命じた。
このように、南東方面には、2月20日以降、一機の海軍航空機も、存在しなくなり、ラバウルをはじめとする方面の、地上兵力は、剥き出しとなり、各地区ともに、戦略威力の大部分を、喪失したのである。

トラック諸島は、太平洋における、日本海軍の最大の根拠地で、南東方面からの、米軍反抗開始以来、連合艦隊司令部、および、水上部隊主力の、泊地であった。

そして、ソロモンの制空権を巡る死闘の大基地ラバウルは、遂に、見捨てられることになる。
この間の、喪失機7096機、戦死したパイロットら、搭乗員7186名である。
玉砕。

私は、トラック諸島に追悼慰霊に出掛けた。
エモン島という、滑走路のある島である。
日本名は、春島であり、その向こうに、夏島がある。
その夏島に、日本軍の司令部が置かれていたという。

そして、その辺りの海には、日本軍の艦船、輸送船、ゼロ戦の多くが、沈む。
海上慰霊を、執り行った。

地元の漁師に頼み、船外機のボートに乗り、夏島近くの海の上での、慰霊である。

現在は、チョーク諸島と呼ばれ、天国を思わせるような島である。
紺碧の海の色は、美しく・・・

海底には、今も、多くの日本将兵が、眠る。
旅日記に、詳しく書いているので、仔細は省略する。

出掛ける前に、不思議なことに、知り合いの父親の兄が、夏島からゼロ戦に乗り、戦ったが、散華したと聞かされて、私は、その人たちの思いも胸に、向ったことを思い出す。

暑くても、木陰の入ると、涼しく、何ともいえぬ、天国のような島だった。
島の人たちに、日本軍の要塞跡を案内されて、見た。
更に、敵の攻撃を受けた、大きな穴が、今もそのままである。
島の人たちは、日系の人が多く、勿論、大変な親日である。


posted by 天山 at 06:39| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月03日

もののあわれについて759

あるじの院源氏「過ぐるよはひに添へては、酔ひ泣きこそとどめがたきわざなりけれ。衛門の督心とどめてほほえまるる、いと心恥づかしや。さりとも今しばしならむ。さかさままにゆかぬ年月よ。老いはえのがれぬわざなり」とて、うち見やり給ふに、人よりけにまめだち屈じて、まことにここちもいと悩ましければ、いみじきことも目もとまらぬここちする人をしも、さしわきて空酔ひをしつつかく宣ふ。たはぶれのやうなれど、いとど胸つぶれて、さかづきのめぐり来るもかしらいたく覚ゆれば、けしきばかりにて紛らはすを、御覧じとがめて、持たせながらたびたびしひ給へば、はしたなくて、もてわづらふさま、なべての人に似ずをかし。




あるじの院、源氏は、取る年とともに、酔いに誘われる涙は、止めることが出来ない。衛門の督が、気にして笑っているのは、何とも恥ずかしくなる。だが、もう暫くのことだろう。さかさまに進まない年月。年を取るのは、逃げられないものだ。と、視線を向けるので、柏木は、人より、一段と生真面目に、塞ぎこんで、本当に気分も悪く、面白いことも、目に入らない気がする、その人を捕まえて、名指しで、酔ったふりをしつつ、このようにおっしゃる。冗談のようであるが、益々、胸に堪えて、杯が回ってきても、頭痛を感じて、素振りだけで誤魔化すのを、源氏が、見咎めになり、杯を持たせたまま、何度も何度も、無理に勧めるので、いたたまれない思いで、困りきる様子。誰にも比べられないほど、美しい

最後は、作者の言葉。




ここちかき乱りて、耐へがたければ、まだ事もはてぬに、まかで給ひぬるままに、いといたくまどひて、例のいとおどろおどろしき酔ひにもあらぬを、いかなればかかるならむ、つつましと物を思ひつるに、気ののぼりぬるにや、いとさ言ふばかり、おくすべき心よわさとは覚えぬを、いふかひなくもありけるかな、と、みづから思ひ知らる。




気分が悪く、我慢出来ないので、まだ、宴も終わらないうちに、退出されたが、そのまま、すっかり苦しくなって、いつものように、酷く酔ったのでもないのに、どういう訳で、このようになるのか。きまりの悪い思いをしたから、気が上ったのか、そんなことを言うほど、気後れするような、気の弱さとも思わないが、いくじのないことだ、と、自分のことが分る。




しばしの酔ひのまどひにもあらざりけり。やがていといたくわづらひ給ふ。おとど、母北の方おぼしさわぎて、「よそよそにていとおぼつかなし」とて、殿にわたし奉り給ふを、女宮の思したるさま、またいと心苦し。




暫しの間で治るような、酔いの苦しみではなかった。そのまま、酷い病気になった。
父の大臣、母の北の方、どなたも、驚き、離れていては、気になってたまらない。と邸に連れて行くのを、女宮が、辛く思うのも、これは、これで気の毒です。




事なくて過ぐすべき日は、心のどこかにあひなだのみして、いとしもあらぬ御心ざしなれど、今はと別れ奉るべき門出にやと思ふは、あはれに悲しく、おくれて思し嘆かむ事のかたじけなさを、いみじと思ふ。母御息所も、いといみじく嘆き給ひて、「世の事として、親をばなほさるものにおき奉りて、かかる御なからひは、とある折りもかかる折りも、離れ給はぬこそ例のことなれ。かく引き別れて、たひらかにものし給ふまでも過ぐし給はむが心づくしなるべき事を、しばしここにてかくこころみ給へ」と、御かたはらに御几帳ばかりをへだてて見奉り給ふ。柏木「ことわりや。かずならぬ身にて、及びがたき御中らひに、なまじに許され奉りてさぶらふしるしには、ながく世に侍りて、かひなき身のほども少し人と等しくなるげぢめをもや御覧ぜらるるとこそ思う給へつれ。いといみじく、かくさへなり侍れば、深き心ざしをだに御覧じはてられずやなり侍りなむと思う給ふるになむ、とまりがたきここちにも、えゆきやるまじく思ひ給へらるる」など、かたみに泣き給ひて、とみにもえ渡り給はねば、また母北の方、うしろめたく思して、「などか、まづ見えむとは思ひ給ふまじき。われは、ここちも少し例ならず心ぼそきときは、あまたの中にまづとりわきて、ゆかしくもたのもしくもこそおぼえ給へ。かくいとおぼつかなきこと」と恨み聞え給ふも、またいとことわりなり。




特別のことなくて、送れるはずの月日は、のんびりと、いずれ仲良くする日もあろうと、特に深い愛情を持っていたのではないが、今を最後と、お別れ申す、門出ではないのかと、思うと、あはれに悲しく、後に残り、嘆くことが、勿体無く、酷いことだと思う。
母の御息所も、大変嘆いて、世間の慣わしでは、親は親として立てておき、夫婦仲は、どんな時でも、離れないのが、決まりです。こんな別れになって、治るまで、あちらにいらっしゃるというのは、気になってたまりません。もう暫く、ここで、このまま、様子を見てください。と、すぐに、お傍に御几帳だけを置いて、看病される。
柏木は、ごもっともです。人並みではない私には、及びもつかない結婚をさせていただきました。その甲斐に、せめて、長生きをしまして、お話にならない、身分も少しは、皆と同じになるところを、見ていただけると思っておりました。驚いたことに、こんなになりましたので、愛情の深ささえも、見ていただけず、終わりはしないかと、存じますので、生きながらえそうにもないと思いつつ、とても、あの世へ行くことも出来ない気がします。などと、お互いに泣いて、急には、二条の邸に、移れないので、今度は、母の北の方が、気が気ではなく思い、どうして、すぐに顔を見せようと思わないのですか。私は、気分が不安なときは、多くの子の中でも、すぐに第一に、あなたに逢いたいと思い、頼もしくも思いますのに。気になってたまらない、と、恨み言をおっしゃるのも、これもまた、無理の無いことである。

柏木は、女二の宮との、結婚を、身分に不釣合いなものだと、言う。
妻が、女宮であり、自分は、臣下だからである。

何とも、面倒な場面である。
柏木は、女二の宮との、別離を考えているのだ。
posted by 天山 at 06:33| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月06日

もののあわれについて760

柏木「人より先なりけるけぢめにや、とりわきて思ひならひたるを、今になほかなしく給ひて、しばしも見えぬをば苦しきものにし給へば、ここちのかく限りに覚ゆる折しも、見え奉らざらむ、罪ふかくいぶせかるべし。今はと頼みなく聞かせ給はば、いと忍びて渡り給ひて御覧ぜよ。必ずまた対面給はらむ。あやしくおろかなる本性にて、ことにふれておろかに思さるることありつらむこそ、くやしく侍れ。かかる命のほどを知らで、ゆくすえ長くのみ思ひ侍りけること」と、泣く泣く渡り給ひぬ。宮はとまり給ひて、いふ方なく思しこがれたり。




柏木は、長男であるせいか、第一に、いつも思ってくださるのを、今でも、矢張り可愛がってくださり、少しの間でも、顔を見せないのを、辛いとおっしるものですから、病気で、もう最後かと思われる、今の場合、お目にかかれないのは、罪が深く、気が塞ぐことでしょう。もう駄目だと、お聞きあそばしたら、人目を忍んで、お出でになり、お会い下さい。きっと、もう一度、お目にかかりましょう。何とも、ぐずで、馬鹿な生まれつきで、何かと、愛情が足りないと思ったこともあるでしょう。後悔します。こんな短い命とは知らず、将来、長く一緒に暮らせるものと、思っておりました。と、泣き泣き、お出になった。女宮は、お残りになって、言う言葉もなく、恋焦がれていらっしゃる。




大殿に待ち受け聞え給ひて、よろづにさわぎ給ふ。さるは、たちまちにおどろおどろしき御ここちのさまにもあらず、月ごろ物などをさらに参らざりけるに、いとどはかなき柑子などをだにふれ給はず。ただやうやうものにひき入るるやうに見え給ふ。




大臣邸では、待っていて、何かと大騒ぎである。実は、急に酷くなるという、病状ではなく、何ヶ月も、一向に、食事が進まなかったのが、更に、酷くなり、ほんの軽い蜜柑の類さえも、手を触れない。ただ、次第に、何かに引きずり込まれてゆくような状態である。




さる時の有職の、かくものし給へば、世のなか惜しみあたらしがりて、御とぶらひに参り給はぬ人なし。内よりも院よりも、御とぶらひしばしば聞えつつ、いみじく惜しみ思し召したるにも、いとどしき親たちの御心のみまどふ。六条の院にも、いとくちをしきわざなりと思しおどろきて、御とぶらひにたびたびねんごろに、ちち大臣にも聞え給ふ。大将は、ましていとよき御なかなれば、けぢかくものし給ひつつ、いみじく嘆きありき給ふ。




現代の、有職である方が、このようでいらっしゃるので、世間中が、残念がり、お見舞いに伺はない人はいないほどだ。御所からも、上皇からも、お見舞いが何度も参る。酷く惜しがっていらっしゃるのを見ても、一層酷い、ご両親のご心痛である。
六条の院、源氏も、大変残念なことと、驚きになり、お見舞いに、何度も何度も、心を込めて、父の大臣にも、申し上げる。
大将は、それ以上に、仲のよい間であるから、お傍にお出でになり、大変に嘆き、うろうろしている。




御賀は二十五日になりにけり。かかる時のやむごとなきかんだちめの、重くわづらひ給ふに、親はらからあまたの人々、さる高き御なからひの嘆きしをれ給へる頃ほひにて、ものすさまじきやうなれど、月々にとどこほりつる事だにあるを、さてやむまじき事なれば、いかでかは思しとどまらむ。女宮の御心のうちぞ、いとほしく思ひ聞えさせ給ふ。
例の五十寺の御誦経、またかのおはします御寺にも、まかびるさなの。




御賀は、二十五日になった。
こういう、現在権勢のある家の、上達部が、酷い病気なので、親兄弟、大勢の方々、そういう身分の高い方々同士が、涙にくれていらっしゃるときなので、賀の祝いをするのは、そぐわないようだが、何月は駄目、何月は駄目と、今になってしまったことも、困るというのに、今になったのも、困るのだが、このままなしにすることも、出来ない話しであり、どうして、中止出来よう。
女宮のお心の中を、気の毒と思い、申し上げる。
お決まりの、五十寺の御誦経、それから、あのお座りになっていらっしゃる、お寺でも、まかびるさなの、御誦経が。


若菜下を終わる。

とても、大変物語だ。
滅茶苦茶である。

ただ、語源、大和言葉の美しさは、実感する。

敬語の敬語・・・
更に、作者も、敬語で書き付ける。

いずれ、総括して、源氏物語を検証したいと、思う。
posted by 天山 at 05:45| もののあわれ第13弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月07日

打倒・韓国

韓国という、ほとほと、嫌な国。
自滅する国だが、その自滅を早めるように、打倒・韓国を書くことにする。

韓国の反日活動は、何一つとっても、一つも本当のこと、事実が無いのである。
すべては、妄想の域である。

韓国には、真っ当な歴史と言うものが、無いのである。
子供の頃から、反日を教えるという、愚劣を繰り返している国。
呆れるというか・・・
救われない国である。

何より、日本に植民地にされた、という馬鹿な発言は、歴史を知らない者の言うことだ。
日本は、植民地にしたのではない。
併合したのである。

そしてそれは、正しい手続きによって、為されたものである。
その証拠は、日本は、韓国から何も奪わなかった。
奪わないどころか、与えて、与えて、与え過ぎたのである。

突然だが、韓国人が書いた、醜い韓国人という本から、日本帝国支配の状況を見る事にする。
作者は、朴・テヒョク氏である。

私は1935年、昭和10年に、小学二年生だった。私は、京畿道平沢群のあるムラで生まれて育った。韓国は日本統治下にあり、その後、尋常小学校と呼ばれていた小学校が、国民学校に改められた。

名が改められたのは、戦争に向っていた時期である。
大東亜戦争、第二次世界大戦が始まるのである。

朴氏の子供時代の話が続く。

しかし、李朝時代からの暗い、おぞましい因習が村を支配していた。

ここで、躓く。
李朝時代のおぞましい因習である。

村は、李朝時代からの韓国社会の特権階級であってきた両班(ヤンバン)たちが住んでいる区域と、中人(チゥンイン)が住む区域と、常人(サンイン)かたまって住んでいる区域に分かれていた。

そこは、線を引くように、分れていたわけではない。

常人は、ほとんどが小作人で、両班の多くが地主だった。両班の家は、二百軒ほどあっただろう。

両班、中人、常人という階級の区分けは、李朝時代のものだった。さらに、その下には、賤民と呼ばれた奴婢(ノビ)がいた。

日本統治時代に入ってから、このような階級の区別は廃止されだが、現実の生活では、まだこのような差別が行われていた。

常人は、常奴(サムノン)という蔑称で呼ばれていた。奴は日本語の「野郎」といった意味である。

引用と、私の解説が交じるが・・・
何を言いたいのかが、問題であるから、続ける。

ほとんどの両班は、常人に対して横暴で絶対的な支配者だった。

結論を言えば、この両班という、存在が韓国社会の、大きなガンだったということだ。
それが、無意識的に、現在の韓国社会を支配する。

李朝時代には、男尊女卑が徹底していたので、常人の女の子は、名前をつけられた者もあったが、父母が無知だったので、生まれ月を名前とした者も多かった。

もし両班の子どもが、老いた常人に対して過って敬語を使ったとしたら、親に叱られた。常人の老人が七十歳であろうが、八十歳であろうが、両班の子どもであれば、目下の対する言葉を用いねばならなかった。

常人は、両班をつねに恐れて生きていた。もう日本統治時代に入って二十数年もたってい
たから、都市部では、古い階級による頑迷な差別が弱まっていたが、農村では、まだ差別が残っていた。常人はみな、両班に対して戦々兢々としていた。常人は両班と出会ったら、顔をあげて歩くことができなかった。そこで、いつも腰を屈めて、頭を下げて地面を見ながらうつむいて歩いた。

それでも、日本統治時代になってから、村の人々の生活は、大きく改善されていた。私は、父や母から日本人がやってくる以前の李朝末期の村の暗い生活について聞かされたものだった。父や母だけではなく、親戚の者たちがしばしばこんな話しをしてくれた。

常人が両班の家の前の道で、うっかり唾や痰を吐いてしまったり、収穫が少なくて、地主の両班に規定どおりの年貢を収めることができなかったりすると、両班の家の前庭に引き立てられた。それから罰としてムシロに巻かれて、地面の上に転がされたうえで、両班の雇い人たちによって棒でしたたかに打ち据えられた。

その拷問に似た状態が、まだエスカレートしていたようである。
暗い時代・・・
それを書き付けても、意味が無いと思うので、省略する。

日本統治時代になってからは、日本の警察は厳しく、このような私刑を禁じた。

私的リンチを禁じたのである。
この、警察という組織も、日本が韓国にて作り出しものである。

つまり、日本統治時代になり、司法権が、両班の手から、日本の警察に移ったのである。
それは、李朝時代は、両班は常人に対して、生殺与奪権まで、持っていたということである。

ただし、日本人たちは、韓国を治めるに当り、両班を優遇することもあった。
地域社会に持って来た、伝統的な力を利用したのである。

時に、両班が、横暴な振る舞いをすることがあっても、村の日本人巡査や、韓国人巡査は、見て見ぬ振りをしたこともあるという。

ここで、韓国人巡査という存在である。
韓国人を巡査として、採用していたという事実である。

日本人による、日本人たちのための、統治ではなかったのである。


posted by 天山 at 05:56| 打倒・韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月08日

打倒・韓国2

戦後、韓国が独立を回復した後には、日本統治時代は悪いことばかりであって、よいことは一つもなかったといわれているが、私が育った村だけとっても、日本は、多くの解放的な改革をもたらしてくれた。そのようなことがまったくなかった、という者は、李朝末期の韓国社会の状況を無知なため知らないか、故意に眼をつむっているのだ。

韓国人が言うのである。
それが、本当だろう。

村には、小学校をつくった。どこの村にも小学校があった。

と、これだけでも、凄いことである。
つまり、学校などは、無かったのである。
庶民は、読み書きが出来なかったということ。

学校では、授業が日本語を使って行われたが、私の小学校は韓国語のハングルの読み書きも教えられた。その後、ハングルの教科書がなくなって、教科書はすべて日本語になった。小学校にはオルガンがあった。音楽の時間には、日本の唱歌が教えられた。都市部の小学校には、ピアノもあった。

小学校のつぎには、公会堂が建てられた。公会堂では、昼間村民が集められて、日本の宣伝や、農村振興のための講習が行われた。夜は夜学(やはく)と呼ばれていたが、字の読めない村民には、無料でハングルと日本語が教えられていた。李朝時代にはなかったことだった。・・・

この統治時代に、爆発的に、文盲が無くなったのである。
それは、大変な、進歩だった。

ただし、
両班の子どもたちは、全員が小学校に通うことができたが、常人は貧しい家が多かったので、小学校の適齢期の少年たちのなかの五人に一人ぐらいしか、学校教育を受ける恩恵に浴することができなかった。中学生は、村の中で四、五人いただろう。高等教育や、専門学校や、大学へ進んだ者は、一人か二人しかいなかった。

常人のなかでも、小金を持つようになった者もいた。村の近くに、ソウルと釜山を結ぶ鉄道の京釜線が通っていた。日本人は、京釜線を敷くのにあたって、村の男たちを雇って、農業用水池としていくつも池を掘らせ、掘った土を用いて線路の盛り土を築いた。この仕事は、村人を大いに潤した。

地主階級と小作人の貧しさについて、書かれているが・・・
あまりの差に、愕然とする。

李朝末期までは、常人は、教育をまったく受けることができなかった。しかし、日本統治時代に入ってから、わたしの小、中学校時代には、とくに都市部では両班、中人、常人、奴婢の階級が平等化され、常人階級の子どもたちの学歴が高まるようになった。

子どもたちの間では、だれが両班の子であるとか、どの親が中人であるとか、常人であるとかをいっさい口にすることがなかった。日本人教師が、そのような差別を行なうことを固く禁じたからだった。もし私たちがそのようなことを話題にしたり、そういうことが先生の耳に入ったりしたら、厳しく罰せられた。

常人たちは、蔑視された歳月を思って、子供の教育には力を注いだ。

韓国の夜明けである。
暗い時代から、解放の明るい時代への道・・・

それが、日本統治によって、成ったのである。
日本が、奪ったものなど、一つもない。
奪うものなど、韓国には無かったのである。

ただ、日本は、与えた。
その昔、ハングルも、日本が復活させて、与えたものである。
そのハングルを受け付けなかったのは、何より、両班の知識人たちである。

今では、正しい韓国語、ハングルとなっているが・・・
その最初は、日本が、復活させたのである。

室町期に、当時、朝鮮から届いた、親書のハングルを解読して、作り上げたのである。

日本人たちは、村の振興に力を注いだ。私が小学校に入学すると、しばらくして電力会社が村まで電気をひいた。両班、常人の家に区別なしに、ほとんどの癒えには電灯がともるようになった。

ただし、
戦闘が激しくなると、電化計画が中断されたので、戦争が終わるまで農村の一部とくに僻地の村落では、電灯がともらなかったところも少なくなかった。

私が、韓国、釜山に出掛けた時である。
戦後30年を過ぎていた。
農村を見回ると、電信柱が立つが、電線が無かったのを、覚えている。
つまり、日本が敗戦してから、暫くの間、韓国では、電気の利用が出来なかったところがあるのだ。

学校の話しだが、その中には、日本人の子どもたちも、一緒に勉強していたということである。
それも、全く、差別が無い。

日本人は、農村振興運動を進めた。日本統治時代依然の韓国の農村には、河川に堤防もなかったし、水利組合も存在しなかったが、水利組合が結成されたために、河川地域が整備されて堤防が建設され、それで恒常的だった水害から、農地や農作可能な土地を守ることができるようになって、新しい農地がつくられ、多くのところで稲作が可能になった。

日本統治が始まってからの、韓国人の人口の増加は、甚だしいのである。
つまり、食べるものがあるという、時代になったのだ。
日本統治になり、人口が三倍に増えたのである。

この結果、日本人地主も増えた。また畜産が奨励され、日本人がつくった金融組合が、希望する農家ごとに子牛一頭を無料で与えてくれた。与えたというよりは、貸したものだった。牛が成長して子牛が生まれたら、一頭を組合に返すと、成長した親牛は、無償で農民のものとなるという制度だった。

それをまた、貸し、その繰り返しで、どんどんと、畜産が栄える。
日本は、与えたのである。
与えて、与えたから、現在の韓国が存在する。

日本統治時代が去ってからの、韓国の闇は、李朝時代の差別意識が、頭をもたげてきたことである。
潜在的に、差別感情が、蘇った。

現代の韓国社会の、差別には、恐るべきものである。
posted by 天山 at 06:29| 打倒・韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月09日

打倒・韓国3

日本人は植林と治水に力を注いだ。山を管理し、植林を進めるために、総督府は山藍(さんかん)という監督官を村に置いた。また村人が、植林した山に入ることを禁じた。
私の小学校の日本人教師や山林局に所属していた山藍や若い農村教導師は、緑化について情熱にあふれていた。真面目で、献身的な青年が多かった。日本統治時代には、そのせいではげ山だった山々が緑に覆われるようになった。農村教導師は、農村振興運動の一環として農村の改革と生活改善のために、村から村へと巡回していた。

と、いうことで・・・
私が、19歳の頃に韓国に出掛けた際に、説明を受けた。
あの禿山は、皆、日本が行なったせいだ、というものだ。

日本が、韓国の山を禿山にしたというのである。
その後で、調べて、呆れた。
そして、その呆れる話で、山盛りだった。

日韓併合以前の韓国の山々といえば、乱伐したり、燃料にしたりしたために、ほとんどがはげ山だった。日本統治時代には植林が進んだので、多くの山々が緑に覆われるようになっていた。私の村の山にも草木が繁り、兎を追うことができた。しかし、独立後にまた勝手気ままに木を切るようになったので、はげ山に戻ってしまった。

いかがだろうか・・・
つまり、本当のところは、そういうことだった。
日本統治時代に、緑溢れる山々が、また、禿山になっというのである。

当時の私の心境は、それを聞いて、本当に身の縮む思いをした。
日本は、何と悪いことをしていたのか・・・である。
だが、事実を知って、それを説明した韓国人の人たちの、傲慢不遜さを思い出す。

平気で、ウソをつくのである。
あれ以来、韓国には、行かないし、行きたいとも、思わなくなった。
今も、勿論、出かけることは無い。

統治時代に、韓国に渡り指導した人たちは、真剣に韓国を思い、韓国のために、そのエネルギーを使った。

朴氏が、書く、日本の農村教導師の話しで、感銘深いものがある。
「力を合わせて朝鮮を蘇生させましょう。今日の朝鮮では、山川草木が空からくれた恵みである雨水を貯え切れず、海に流してしまっています。ああ、もったいない、もったいない。そこで陸は、いつも旱魃に悩まされています。木がもっと山に生い繁れば、天の恵みの雨の40パーセントを、飲み水や、水田の水として、または地下水として貯えることができます。徹底的に山に水を蓄えようではありませんか。水は生命の源であり、農耕の源なのです」という話しである。

もし、植民地と考えても、このような植民地政策を行なう国が、何処にあるのか。
植民地にされた国々は、どうだったのか・・・
また、植民地支配をした国は、どうだったのか・・・
皆々、搾取、搾取の連続である。

更には、文盲にして、植民地の人たちを、愚昧にする。
反抗できないように、徹底した、脱教育である。

日本は、併合したのである。
つまり、それは、本国と同じ扱いなのである。
いや、あまりに、朝鮮に持ち出す金が多く、国民から、不満が出るほどだった。

日本人地主は、韓国人の小作人の間で、きわめて評判がよかった。日本人がやってきてから、改良された堆肥を奨励したし、化学肥料が配給されるかたわら、改良品種や、進んだ農業技術を導入したので、収穫が増えたし、農地開拓と河川整備を進めたので、村人の生活水準が大きく向上したからだ。

それに日本人地主は、昔の両班たちよりもはるかに寛容だった。両班のように小作人である常人を理不尽に苛めるようなことがなかったし、不作のときには、小作料を安くしてくれた。日本人地主のほうが、物分りがよかった。だから、日本人の地主は人気があった。みんなは、韓国人の小作人となるよりは、日本人地主の小作人になりたがったのは、当然のことだった。日本人のもとで働いていた常人たちは、羨望の目で見られていた。

日本人が所有していた農地は、独立後に、「敵産」としてすべて没収された。しかし、日本人が今日の韓国農業の発展の基礎をつくったことは、否定できない。

様々な角度から、朝鮮の状態を俯瞰するが・・・

李朝時代の朝鮮では、三月から六月までは、食糧が不足する時期である。
当時の人口は、八割が農民である。
その、飢餓の時期を迎えると、総人口の六割が、草根樹皮を採取して、命をつなぐと言う、状態である。

朝鮮の土地は、旱害、水害、風害、病虫害が、まだんなく、続いた。
農民は、乞食、農奴同然である。

その上の、両班と酷使に食い物にされて、小作人たちは、慢性的な食糧難と、借金苦にあえいでいた。

それを思えば、日本統治時代は、天国に生まれ変わろうとしていた。

それでも、韓国人は、ウソをつく。
良い土地は、日本人がみな奪ったというのである。

全く逆である。

日本農民が、朝鮮にて、どんな土地を耕したか・・・
大河の遊水地で、交通不便、更に、塩害がある土地を、開墾地として、開拓したのである。

日本人が土地を、奪ったのではない。
両班らが、奪ったのである。

ダレ神父の「朝鮮事情」から見ると、
両班は世界中でもっとも強力にして傲慢な階級である。彼らが強奪に近い形で農民から田畑や家を買うときは、ほとんどの場合は、支払いなしですませてしまう。しかも、この強盗行為を阻止できる守令(知事)は一人もいない」
ということである。

今、現在も、韓国には、両班のような人物が存在する。
例えば、歴代大統領たちである。
必ず、大統領後に、不正蓄財、あるいは、汚職などで、山盛りである。

韓国社会には、そのような存在が絶えることがない。
その地位を利用して、何とでもする者が、いつでも存在する。
posted by 天山 at 06:09| 打倒・韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月10日

打倒・韓国4

探検家ペ・エム・ジェロトケヴィチは、1885年12月6日から、翌年2月29日にかけて、ソウルを出発し、北朝鮮を経て、ポシェートに至るまでを陸路で踏破した。

その時の記録は、「朝鮮旅行記」に掲載されている。
その中で、
労働者の受け取る賃金はごくわずかで、元山にて日本人へ金を売りさばく役人たちの懐にすべて消えてしまう。

勤労の民は非常に貧しくて飢えている。
鉱山の近くに村があって、労働者たちはそこで食事をし、酒を買い、給料には手をつけないで、ほとんど裸同然でうろついている。
と、書く。

更に、日本人がはげ山にした、美田を奪った・・・等々、韓国人は、ウソばかりを言うが・・・
また、そのように、子供の頃から教育するが・・・

朝鮮旅行記では、
どこまでいってもはげ山と赤土ばかりで、草もすべて燃料のために刈り取られる。
山地が痩せていて、昨年もたくさんの餓死者が出た。
ここは退屈極まりない土地で、山ははげ山、植生はほとんど見られない。
朝鮮人たちは土地が痩せていると不満を訴えている。樹木は皆無で、燃料には藁と草が使われている。

だから、日韓併合の際の、朝鮮総督府設置当時の、半島の林野状況は、酷いものだったと、分る。

それを、韓国人は、日帝時代に、森林資源濫伐、掠奪などという、ウソを言うのである。
また、モンゴル軍が、日本征伐のために、森林を濫伐して、造船を行なったという説もあるが、それも、ウソである。

朝鮮人がやったことである。
勿論、自然の過酷なこともあるだろう。

日本人が、美田を奪ったなどという、ウソは、まことに、嘆かわしい。
その逆である。
朴氏も、書いているが、日本人が、美田に変えたのである。

土地を奪ったのは、両班たちである。

朝鮮に移住した、日本農民が行ったことは、不毛の地を開拓したのである。

その仔細は、
1908年、東洋拓殖株式会社、東拓が、朝鮮で設立され、農業拓殖の主要事業としたのである。
東拓は、土地買収と移民事業に重点を置き、日本内地の農民を全15回にわたり、半島へ招致し、農地をあてがい、耕作を推進した。

東拓の良いところは、良田ではなく、荒れ地を移民に与え、不毛の地を耕作地に開墾したことである。

朝鮮人には、到底出来ないことである。

ここでも、韓国人は、ウソを言う。
字の読めない農民の土地を、騙して取ったというのである。

その彼らに、字を教えたのは、他でもない、日本人である。

土地を騙し取ったのは、両班たちであろう。

朝鮮総督府が、日本と朝鮮の土地兼併を嫌う、当時の風潮を重んじ、東拓の土地買収を規制したのである。
更に、駐屯土と称される、国有地の処分においても、東拓へは譲渡せず、自作農創設として、朝鮮人小作人に分譲した。
そのため、東拓の移民事業は、途中で、頓挫したのである。

どうであろか・・・
これが、朝鮮人であれば、どんなことになったか。
彼らがするであろうことを、日本人がしたと言う。
呆れた根性である。

李朝末期には、土地の所有権は、ほとんど、両班や地主たちの手にあり、字の読めない小作人には、もともと、土地など持っていないのである。

こうして、彼らのウソを一々上げていると、キリが無いのである。

日本人農民は、朝鮮の農民が、無視していた、不毛の地を開墾し、僻地の干拓を行った。
そして、それらが今、立派な美田になっている。
こんなことは、彼らには、出来ないことである。

日本人の地味で、真面目な努力により、朝鮮半島は、数千年来の農耕国家では、考えられないほどの、農業改革を経ることが出来たのである。

それも、これも、すべて日本人の手によって、実現したことなのである。

ところが、現在も、延々として、子どもたちに、ウソを教え込み、反日教育を続けている。
それほど、反日であれば、日本と関わる必要が無いのである。

そして、何かと言えば、日本に賠償を求めるという。
日本統治時代に、どれほど、朝鮮に金をかけたか。
そして、それ以降も、である。

韓国は、第二次世界大戦後に、戦勝国の側に入れてくれと、アメリカに頼んでいる。
実際は、韓国人は、日本軍として、戦ったはずなのに、である。
つまり、戦勝国としての、地位を持ち、日本に戦後賠償を求める算段である。

大陸の千年属国の国である。
それも、下国の下国である。

その歪な精神が、今も尚続いていて、逃れられない。
つまり、その根性である。

いずれ、韓国が独立した経緯を書くが・・・
自力では、独立を勝ち得なかった国である。
更に、国際社会でも、国として、認められていなかった国。
それが、何故、独立できたのか。

日本のお陰である。
何の努力もせずに、日本によって、独立を手にした国である。
posted by 天山 at 05:41| 打倒・韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月13日

打倒・韓国5

朴氏の、醜い韓国人から、引き続き続ける。

私たちの村は、李朝時代にはいつも水害で悩まされていた。そこで農作が思うよにできなかった水田地域を「ペベーミ」(船が浮かぶような水田)と呼んでいた。しかし、1911年明治14年、川に堤防が築かれたために、水害から逃れることができた。それからは「ペベーーミ」という悪名のあった水田が一等級の水田に変わって、多収穫地として生まれ変わった。この話しは、私の父がしてくれた話である。

つまり、日本の統治により、灌漑設備を整えたのである。

日本統治時代になってから、村の人々はまともな生活を営むことができるようになったのだった。私の村では、独立運動系の人々を除けば、ほとんどの村民が日本人を尊敬していたし、敬愛していたといってよかった。村の人々のあいだで「イルポンサラムン・キョンウカバツダ」(日本人は、事理に明るい「すべて正しい」)という言葉がよく交わされた。

戦後、韓国が独立を回復してから民族主義教育が行われるようになった。韓国では、日本人を指して「チョッパリ」(日本人の蔑称)とか、「オランケ」(侵略者)という言葉が使われるようになったが、日本統治時代には、私の村の人々だけではなく、韓国人の間で、広く日常会話のなかで日本人を話題にするときには、ただ「日本人」(イルポンサラム)と呼んだ。日本語がよくできる韓国人ほど、日本人のよさを理解していたと思う。

上記で、注目すべきは、日本統治時代になってから、村の人々の生活が、まともなものになった、というところだ。
それ以前は、まともではなかったのである。

そして、独立を回復してから、日本人に対して、蔑称が使われるようになった。
つまり、そういう人が、韓国人なのである。
その独立といっても、努力して得たものではない。

農業一つを例に上げても・・・
日本統治時代が、いかに優れていたかである。
その、恩義さえも、感じなくなるという、朝鮮人である。

今も、朝鮮民族は世界一の優秀な民族である。
世界の文明は、韓国から始まった。
という、実に、馬鹿げた話しをしている。

日本も海外から、刺激を受け続けているが・・・
韓国のように、自惚れることはない。

敗戦後に、軍部の洗脳であった、大和魂、日本民族は、云々という話し。
昭和天皇は、あっさりと、仰せられた。
どの民族が優れているというのではない。すべての民族が大切なのである。

国の元首が、すべての民族が大切なのである、と仰せられる国民の一人として、本当に幸せである。

我が民族が一番優れていると、言いつつ、世界から大にして、孤立している国が、韓国である。

東南アジアに出掛けると、その尊大で、傲慢な態度が、嫌われているとは、知らないようである。

何せ、フィリピンでは、女性たちに、ゲイの男性にもか・・・韓国人男性に対して、厳戒令を出したほどである。
更に、カンボジアでは、韓国人男性との結婚を、法律で禁止した。

ベトナムでは、韓国軍の指導による、慰安所、慰安婦の強制と、虐殺の様を記念館にして、保存する。

日本統治は、植民地支配ではない。
拓殖であり、与える併合であった。

欧米の植民地支配とは、全く意味が違う。
その証拠は、台湾でも、パラオでも、チューク諸島でも・・・
戦地とした、パプアニューギニアの各地域でも、日本は、感謝されている。

自慢するが・・・
私は、最も危険な街である、パプアニューギニアの首都、ポートモレスビーで、支援活動を、最も危険な場所で行った。

決して、やっては駄目ですと、言われた。
強奪されるから、赤十字に渡すことと、言われた。
が、
日の丸を掲げて、その場所に行くと、大歓迎であり、男達が、手伝うという状態だった。

更に、日の丸が欲しいと言う人もいた。

その時、中国人排斥運動の最中だった。
中国人と間違えられないように・・・とのアドバイスを貰ったが・・・
着物姿である。

入国審査の列は、中国人入国で、揉めて、進まない。
すると、向こうから、私を呼ぶ人がいる。
審査官を素通りしても、何もいわれない。
そして、パスポートを見る事もなく、スタンプを押して、オッケーと言われた。

日本のパスポートの信頼なのか、私の着物姿なのか・・・
本当に、驚いた。

更に、ラバウルでは、建国30年の壁画に、日の丸である。
オーストラリア人が、観光客で来るのか、オーストラリアの国旗も、申し訳程度に描いていたが。

そして、彼らは、兎に角、私の傍に来て話をする。
日本は、いつも与えてくれる。
白人たちは、いつも奪いに来る、とのこと。

衣類支援の場所を探していると、一人の婦人が、すぐに声を掛けて来た。
事情を話すと、病院には、貧しい人たちが沢山居ると教えてくれ、更に、バスを止めて、私たちを、病院前までと乗せてくれた。

バスも、本当に病院の前に止めてくれたのである。
驚いた。

支援の後も、男性が追いかけて、子どものために差し上げた、テーシャツを出して、私のサインを求めた。
今度は、いつ来てくれますか・・・
との、問いに、すぐに、と答えたが・・・
未だに、行けないで、いる。



posted by 天山 at 06:33| 打倒・韓国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年07月14日

玉砕45

トラックが、空襲と艦砲射撃にさらされたということは、中央にも、大きな衝撃を与えた。

その結果、2月21日、東條首相が陸相のまま参謀総長を兼任し、嶋田繁太郎海相もまた軍令部総長に、新補されるという前代未聞の人事が行われた。

そして、トラックを完璧なまで叩かれた、古賀連合艦隊長官は、今後、敵はマリアナ諸島に来ることを予想し、サイパンを中心に防衛する決心を固めた。
もうすでに、防衛戦なのである。

マーシャルを失い、トラックが潰滅され、太平洋における、防衛は、小笠原、マリアナ、カロリン諸島のラインのみ残され、古賀長官は、この線における、決戦を強調した。

この、依然として、連合艦隊が決戦思想を棄てることができないのは、兵力が底を突いてしまい、すでに後が無いからである。

大本営も、古賀長官の意見に同調し、サイパンを根拠地とする、中部太平洋艦隊の新設を計画する。
陸軍も、中部太平洋方面防備を担当する、第三十一群を編制した。

この間、前年七月以来、決戦用の兵力として、編制、内地において、訓練を続けていた角田中将の、第一航空艦隊に対して、古賀長官は、マリアナ進出を命じた。
角田は、サイパンの隣の島、テニアン島に飛んだ。

ところが、着いた翌日の、22日、米空母部隊が、マリアナに接近との報が入る。
角田中将は、すぐさま対応し、兵力不足の上、夜間であるにも関わらず、未明攻撃を命じた。

結果、それは、失敗である。
搭乗員と航空機を、一夜にして、94機も、失うことになった。

そして、翌日、述べ約350機をもって、大挙した米機は、疾風のように、テニアンをはじめ、マリアナの各基地を襲撃したのである。

2月25日、古賀長官は、旗艦武蔵に乗り、パラオに移り、次期作戦に備えようとした。

しかし、3月28日、偵察機が、ニューギニアのウエワク北方250浬の洋上を、西進中の敵機動部隊を発見した。

同時に、大本営海軍部から、
アドミラルティ諸島北方に、大輸送船団あり、
との、情報が与えられる。

パラオに対する、襲撃を予感した古賀長官は、29日、主力部隊の泊地からの退避を命じた。はたして、30,31日、パラオは、敵機に襲われ、駆逐艦14隻、船舶15隻が、撃沈された。

古賀長官は、その直後、フィリピン、ミンダナオ島に移ることを決心する。
そこで、サイパンから、二式大型飛行艇三機が、呼び寄せられたが、一機が遅れたため、二機に、古賀長官および幕僚14名が、分乗して、3月31日夜パラオを飛び立った。

ところが、到着予定時刻の午前零時半を過ぎても、二機は、ダバオに現れなかった。

小型と予想された低気圧は、意外に大きく、古賀長官は、雷雲の巻き込まれて、暗夜の海に墜落し、そのまま、沈んだという。
その後の、捜索でも、機体の一片すら発見できなかった。

二番機の、参謀長以下を乗せたものは、低気圧を迂回して、セブ島東海岸の沖合いに、不時着した。

古賀長官の、死は、日本海軍の前途に、不吉な暗雲を投げかけた。

大本営も、連合艦隊も、さしあたり、マリアナ方面における決戦方針を、踏襲するしか、策はなかった。

米軍のマリアナ諸島上陸作戦は、3月11日、インパール作戦が実施される、四日前に、決定した。
当初の計画では、マリアナ上陸は、10月に予定されていた。
約四ヶ月も、短縮されたわけだが、その理由の一つは、先のマーシャル攻略、ヤルート、マリアナ等に対する、空襲の結果、日本軍の基地航空部隊の戦力が、意外に弱いことが分ったからである。

そして、もう一つは、B29長距離爆撃機の実用化である。
ここで、有名なB29が登場する。

マリアナ攻略作戦は、こうして決定し、サイパン上陸予定日に、そのB29をもって、いったん、中国基地を経由させ、日本本土、九州を空襲する計画が立てられた。

日本側からすれば、米側の四ヶ月近い攻勢の短縮が、致命傷となったのである。

日本軍は、マーシャル諸島を手中にした米軍が、次ぎにマリアナを狙うということは、予測しないではなかった。
予測はしていたが、大本営海軍部において、今すぐの来攻はないだろうと、見ていた。

敵の主反抗線をニューギニアから、フィリピンの線だと、判断していた。また、サイパン島の、防御に自信を持っていたためだといわれる。

しかし、大本営には、確信がなかった。その裏づけも。
その大きな原因は、メンバーのうち、誰一人として、現場を確認した者が、いなかったのである。

現場を知らぬ者の、戯言。
そういうことは、多々ある。

何処のかの情報を鵜呑みにして、人に情報を与えるという、馬鹿者がいる。
追悼慰霊に出掛ける私は、現地に行く。
現地でなければ、分らないことが、多々ある。

また、支援活動に関しても、現地に出掛けなければ、分らないこと、多々ある。
情報通など、信用しない。

この眼で見る。
それが、最も大切で、確実である。

だから、大本営も、後半になると、机上の空論が多くなるのだ。

5月3日、新連合艦隊長官に、豊田大将が新補されると、大本営海軍部は、「あ」号作戦計画を、指示した。
その内容は、
我が決戦兵力の大部を集中して敵の主反攻正面に備え、一挙に敵艦隊を撃滅して敵の反攻企画を挫折
させるというもの。

海軍は、米機動部隊に対し、水上部隊による決戦を挑むことで、マリアナ防衛の務めを果たそうとしたのである。
それが、パラオ近海である。
posted by 天山 at 05:38| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。