2015年06月30日

玉砕42

ここで、生き残り兵士だった、八木与太郎さんの、手記から引用する。
ラバウルの話しである。

このように初めての外洋の航海、それも人間が貨物同然に押し込められていた輸送船で、18日間、ほかの頑健な兵隊が弱っていくなかを、病後の体で倒れずにいられたということは、とても本来の自分にそんな強さがあったからとは思えない。しかも札幌出発時のぎりぎりの場面での回復や、さらにはるか6000キロの南の島で戦火の中を過ごし、ようやく生還することができた長い道のりを振り返ってみたとき、すべは一筋の強い糸で結ばれていたのではないかという深い感慨さえ覚えてしまう。

八木さんは、1942年12月、野戦照空第五大隊要員として、ニューブリテン島、ラバウルに上陸し、敗戦により、1945年8月、同島のタブナ収容所に部隊集結し、連合軍の使役生活を体験する。

一筋の強い糸・・・
それは、日本人が感じる、心の風景、心象風景である。何かの縁とも、言う。

さて、矢張り、マラリアに罹るのである。

時揚陸してから丸一年たって初めて罹ったマラリアで、闇の中へ沈んでゆくような体験をした私は、「死」というものをそれまでとは違った目で見てゆくようになった。そのときはただ無性に淋しかったという思いだけが鮮やかだったが、それ以来私は戦地での日常を、「死」の瞬間と「死」に近づく過程とはまったく違う別の世界なのだと思って過ごすようになっていた。

確かに「死」に至る過程での肉体的苦痛や精神的苦悩は、それ自体恐ろしいと思うし、耐え難いもののように思う。しかし、たとえそれがそのまま「死」につながっていったとしても、「死」の瞬間というものはまったく別のものとして存在し、それは想像しているよりも簡潔で、単純で、ただ限りなく「淋しい」だけの世界なのではないか。そう思うと、苦痛や苦悩の彼方にある「死」そのものが実に易しいもののように思われ、戦場生活における気持ちの支えにもなっていたようである。

このように、感じたということを、そのまま受け入れる。
それぞれに、死に対する、思いがあるだろう。
そして、死は、戦場に置いては、当たり前の事実である。

マラリアを通して、死というものに、慣れて行く過程が、書かれている。

1944年、昭和19年三月、闇の中へ落ちていった私は、その後いったん意識を取り戻したものの依然重体のまま大隊本部へ送られ、さらにラバウル患者療養所通称「ラバ患」という、山腹に掘られた洞窟の病院に転送された。当時すでに死線を彷徨していた私は、ここで自分の人生で初めて極限に近い体験を重ねることになった。

戦うより、マラリアとの、闘いである。
洞窟の中の様子が、詳しく語られている。

その頃の、ラバウルは、すでに廃墟と化している。

「ラバ患」は、ラバウルの市街から背後の小高い山の中に移っていた。

療養所と言っても山の中腹にいくつもの横穴を掘り、内部は炭鉱の坑道を低く狭くしたような洞窟で、天井と壁は椰子の丸太を組み込んで土留めとしていた。
私が入った洞窟には重症の患者ばかりが集められ、重なり合うようにして収容されていた。両方の入り口からわずかに日の光が差し込む程度で、中は薄暗く、その中にほとんど起きることのできない兵隊ばかりが、土の上に敷かれた椰子の葉の上に毛布をひろげ、横一列になって寝かされていた。

体温が40度を越すという日々。
そのうちに、精神に異常をきたす者も出てくる。

こうした高熱が連日続くうちに、当然のことながら私は脳分裂に近い症状を起こし始めていた。体は衰弱しきっていたので仰向けに寝たままだったが、すでに眠ることもできなくなっていた。・・・

椰子の葉の取れた節を、数えるようになったという。

数えている自分に対して自分がしきりに言い聞かせているのだが、言い聞かせている自分に逆らうように、もう一方の自分が勝手に数えている。頭の働きが真ん中から左右別々になっている。それぞれが独立してかってな動きをするばかりでどうにもならない。気が狂う寸前の症状だったのかもしれない。

死ぬということを、覚悟するも、何も・・・
意識が混濁しているのである。
だが・・・

洞窟の病床と別れる日がきた。真夜中に大編制と思われる空襲があり、爆撃が始まったのだが、洞窟で「死」を迎えたかもしれない私にとっては、この空襲が文字とおり決死回生の転機となった。

連合軍は、徹底的に、ラバウルを叩いたのだ。
すでに、灰燼と帰している街を、更に、攻撃するという。

洞窟も、攻撃の対象となったのである。

幸運だったのは、洞窟を出て、トラックが止まっていたことである。
それに乗り、西側の海岸線近くに出た。
そして、トラックは、全員を降ろし、来た道を戻る。

ニューブリテン島は、私も慰霊に訪ねたが、ラバウルと、その隣に、ココポという街のみで、あとは、ジャングルである。
ココポには、日本軍の飛行場と、野戦病院があった。

私の脳裏にはいつか桟橋の近くで見たガ島の兵士のことが浮かんでいた。
とぼとぼと歩き出したが、少し歩いては立ち止まるのでどうしても皆から送れてしまう。はぐれないように吉呑一等兵が皆との間を歩き、時々呼んでくれる。しかし歩くと言ってもただ脚を引きずって前に出す動作の繰り返しにすぎない。呼ばれては進み、進んでは立ち止まる。
このあたりからあまりはっきりとした記憶はないのだが、時々椰子の木の間から見上げた南十字星が、まるで天を壁にしてその壁に吊るしてあるかのように見えていたのを覚えている。道は細い山道に変わり、私は登るというよりもほとんど這うようにして上がっていったようだ。・・・

辿りついた場所は、山の斜面を削り込んで作ってある、病床だった。・・・

これは、ココポの街に近い場所であろうと、思われる。
私は、ココポにて、三度、追悼慰霊を行なった。
小高い丘と、海岸である。


posted by 天山 at 06:04| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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