2015年06月22日

もののあわれについて756

心苦しと思ひし人々も、今は書けとどめらるるほだしばかりなるも侍らず。女御も、かくて、ゆくすえは知りがたけれど、御子たち数そひ給ふめれば、みづからの世だにのどけくはと見おきつべし、そのほかは、たれもたれも、あらむに従ひて、もろともに身を捨てむも、惜しかるまじきよはひどもになりにたるを、やうやうすずしく思ひ侍る。




気にかかっていた人たちも、今では、出家する妨げとなるほどの者は、いません。女御も、あのように、将来の事は、分りませんが、皇子たちが、次々お出来になったから、私の生きている間だけであれば、と、考えていいでしょう。他の人たちは、誰も皆、そのときの都合で、一緒に出家したとしても、惜しくないような、年になっているので、次第に、気持ちも楽になりました。




院の御世の残り久しくもおはせじ。いとあつくいとどなりまさり給ひて、もの心ぼそげにのみ思したるに今さらに思はずなる御名もり聞えて、御心乱り給ふな。この世はいとやすし。ことにもあらず。のちの世の御道のさまたげならむも、罪いとおそろしからむ」など、まほにその事とはあかし給はねど、つくづくと聞え続け給ふに、涙のみ落ちつつ、われにもあらず思ひしみておはすれば、われもうち泣き給ひて、源氏「人の上にても、もどかしく聞き思ひし、ふる人のさかしらよ。身にかはることにこそ。いかにうたての翁やと、むつかしくうるさき御心そふらむ」と、恥ぢ給ひつつ、御硯ひきよせ給ひて、手づからおしすり、紙とりまかなひ、書かせ奉り給へど、御手もわななきて、え書き給はず。「かのこまやかなりし返りごとは、いとかくしもつつまず、かよはし給ふらむかし」と思しやるに、いとにくければ、よろづのあはれもさめぬべけれど、ことばなど教へて、書かせ奉り給ふ。




院のご寿命も、長くは無いでしょう。ご病気がちにおなりで、お元気のない様子。今頃になって、感心しないご評判を、お耳に入れて、お心を乱したりなさらないように。現世は、簡単です。何でもありません。後世の成仏の妨げになったとしたら、不孝の罪は、とても大変です。などと、はっきりと、何のことかは、おっしゃらないが、しんみりと、お話を続けるので、涙が溢れ落ちて、深く考え込むのである。源氏は、自分も泣いて、人の事でも、罪なものだと、聞き思っていた、老いの繰言。それを自分が、言うことになってしまった。嫌な老人だと、不愉快に、うるさく思うことでしょう。と、恥ながら、御硯を、手元にとられて、ご自分で、墨をすり、紙も整えて、ご返事を書かせ申し上げるが、お手元も震えて、お書きになれない。いつか、あの細々と書いてあった文の返事は、こんなに遠慮せず、やり取りされるだろうと、想像になられると、癪に障るので、一切の愛情も、薄れてしまいそうだが、文句などを、教えて、書かせ申し上げる。

源氏と、女三の宮の、二人の、心境を綴るのである。




源氏「参り給はむことは、この月かくて過ぎぬ。二の宮の御勢ことにてまいり給ひけるを、ふるめかしき御身ざまにて、立ちならび顔ならむも、はばかりあるここちしけり。霜月はみづからの忌月なり。年の終りはた、いとものさわがし。またいとどこの御姿も見苦しく、待ち見給はむを、と思ひはべれど、さりとてさのみのぶべきことにやは。むつかしくもの思しみだれず、あきらかにもてなし給ひて、このいたく面やせ給へる、つくろひ給へ」など、いとらうたしとさすがに見奉り給ふ。




源氏は、お上がりされるのは、どうなさるのか。この月も、こんなようで、過ぎました。二の宮が、格別の御威勢で、お上がりになったのに、若々しさのない、今のお体では、競争するみたいなもの。恐れ多い気がします。十一月は、私の、忌月です。年末はこれも、慌しい。それに、あなたの姿も、いっそう見苦しく、お待ちする院は、御覧でしょうが、そうかといって、延ばせるものでもないでしょう。くよくよと、お悩みされず、明るい気持ちになって、この、やつれたお顔を、直しなさい。など、可愛らしいと、それでも、思うのである。




衛門の督をば、何ざまの事にも、ゆえあるべきをりふしには、必ずことさらにまつはし給ひつつ宣はせあはせしを、たえてさる御せうそこもなし。人あやしと思ふらむと思せど、見むにつけても、いとどほれぼれしき方はづかしく、見むにはまたわが心もただならずやと思しかへされつつ、やがて月ごろ参り給はぬをもとがめなし。




衛門の督、柏木を、どのようなことであっても、面白いことのある場合は、必ず誰よりも、お傍において、ご相談もされたが、全然、そんなお便りもない。皆が、変に思うだろうと、思うが、顔を見れば、いよいよ馬鹿な爺だと思われるのが、気になるし、逢ったりすると自分のほうも、平静を失わないかと、反省もされて、そのまま、一ヶ月も、参上されないのに、お叱りもないのである。




おほかたの人は、「なほ例ならず悩みわたりて、院にはた、御あそびなどなき年なれば」とのみ思ひわたるを、大将の君ぞ「あるやうある事なるべし。すきものは定めて、わがけしきとりし事にはしのばぬにやありけむ」と思ひよれど、いとかくさだかに残りなきさまならむとは、思ひより給はざりけり。




特別な関係の無い人は、健康ではなく、ご病気だし、院のほうでも、管弦の催しなどない年だから、と考えるばかりである。だが、大将の君、夕霧は、訳がある事だろう。あの熱心家は、自分が、変だと思ったあのことは、我慢しきれなかったのであろうかと、考えつくが、このようにまで、何もかもとは、考えつかなかったのである。

大将の君、夕霧も、柏木と、女三の宮の状況を、勘付いたようである。

残りなきさまならむとは・・・
行くところまで、行った状態を言う。











posted by 天山 at 05:51| もののあわれ第13弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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