2015年06月15日

玉砕37

ダンピールの悲劇を書く前に、ガダルカナル島での、玉砕を生き延びた、兵士たちの、証言をランダムに書いて見る。

ガダルカナルを生き抜いた兵士たち・・・
そこからの、抜粋である。

昭和17年11月15日の夜のことである。
ガダルカナル戦たけなわの頃であった。

ある陸軍上等兵の妻が、夢を見た。
原野が広がる。目の前に防波堤が現れてきた。
ふっと見ると、その防波堤の上を、五歳になったばかりの長男を背負った夫が、歩いている。白衣に戦闘服姿である。
ややうつむき加減に、とぼとぼと歩いている。それでいて、こちらには目もくれない。
「どこに行くの」
「どこに行くのですか」
声をかけようとするのだが、どうしたことか、その声が出ないのだ。
「何度も何度も、大声を出そうとするのですが、ダメでした」
夫の姿がふっと消えた時、目覚めている。
翌朝、養父母が「わたしたちも見た。同じ夢だ」という。
そこへ、夫の親友だった知人が飛んできた。そして、絶句している。
四人が、四人共に、同じ夜に同じ夢を見ていた。

夫の船舶砲兵第二連隊・陸軍上等兵の戦死を知らせる公報が届いたのは、それから、間もなくのことである。
戦死の日は、妻が夢を見た、その日だった。

このような話しは、数多くある。
そして、それを否定する何物もない。
知らせ、である。

肉親の情が、知らせるのである。
人間とは、悲しいものである。

さて、第三十八師団工兵第三十八連隊第一中隊、高須義一陸軍軍曹は、激戦続くガ島903高地のジャングルで苦しんでいた。
下痢が酷く、全身の衰弱が激しい。戦友たちも、下痢とマラリアのため、動ける者は数少ない。このため、高須は、水汲み役を引き受けていたが、200メートルほど先にある川辺まで往復して、半日もかかるという有様だった。

そんなある夜、夢を見た。
「水の夢でした。自分たちが寝ている場所から、少し上に登ったところに水があるよ、と、誰かが熱心に囁いているのです」
夢に見た場所は、とうに昔調べている。
だが、ひょっとしたらと、翌朝になり、半信半疑のままに出かけた。

矢張り、ダメだと、諦めて戻ろうとした。と、足元の落葉から水が染みているのに、気づいた。良く見ると、上のガケのようなところから、ぽつりぽつりと、水が落ちてきている。
「夢に出て来た水は、このことか」
時間はかかったが、両手にたまった水は、意外に透き通っている。口に含んだが、別に害があるように思えない。
水量は少ないが、それで、一日飯ごうに二杯分は取れた。
それから、川に行く必要はなくなり、次第に、体力もついてきた。

同じ頃、名古屋に住んでいた高須の両親は、ガ島で水に苦しむ息子の夢を見ていた。このため、毎朝、近くの観音様にお水をあげて、熱心に御参りをしていたという。

現地で苦しむ兵士たち・・・
それを案ずる、人たちの話しを書いた。

人間には、知られていない能力があると、私は言う。
その篤い思いが、通ずることがある。
その証明である。

私は、戦没者の追悼慰霊をする。
慰霊師である。

このような、話もある。
昭和17年8月20日深夜のことである。
北海道、旭川にある、第七師団兵営の、営門に完全武装の将兵の一隊が入って来た。
下半身ずぶ濡れ、血と泥にまみれた服装ながら、それでも整然と隊列を組み、がっ、がっ、と、軍靴の足音が高い。

事前に何の連絡も受けていない衛兵司令は、兎も角、控えの衛兵六名に、出迎えの執銃整列を命ずる一方、当直将校に報告している。

約30名の一隊は、営内の歩兵第二十八連隊の兵舎に向かい、無言のまま、せめぎ合うようにして中に入り、消えている。

兵舎は、ガダルカナル飛行奪回作戦の第一陣として、派遣されている第二十八連隊の者たちだった。

帰ってきたのは、まさに、その連隊の将兵たちだった。

その他にも、多々不思議な話がある。

そして、その異変が見られた、その時刻、遠いガ島では、第二十八連隊の一木大差指揮する兵士が、米軍の飛行基地に突入し、916名のうち、840名が戦死していたのである。

全滅、玉砕である。

私は、旅日記に、多く戦記からの、引用をしてきたが・・・
このようなものを、紹介したことはない。

霊とは、思いであり、念である。
思い、念を否定する人は、いないだろう。
霊の存在の有無について、言うのではない。

敗戦から70年を経ても、兵士たちの、思い、念は、確実に存在している。
つまり、兵士の霊が、存在しているということだ。

その思い、念を、慰める。それが、慰霊である。
不思議なことではない。
当然のことである。

そして、真っ当に、慰霊をして、大戦の悲劇、玉砕を知るべきである。
玉砕とは、全滅、壊滅の、美称である。
玉とは、霊のことである。
つまり、玉が、砕けたのである。

国のために、玉砕をした兵士の死を悼む。
追悼である。





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2015年06月16日

玉砕38

第三次ソロモン海戦について・・・
アメリカ側の資料を見る。

米第一海兵師団戦闘記録
激戦の夜が明けると、昨日のわが猛撃で難をまぬがれた生き残りの四隻の輸送船が、タサファロング沖に達し、そのうちの三席は陸岸に乗り上げて物資を揚陸中であるのが見られた。
直ちに爆撃を加え、間もなく四隻とも火炎につつまれた。のみならず、翌陸点付近にも火災が起こった。彼らがありとあらゆる困難を冒して、やっと目的地に揚陸したわずかばかりの物資すら、飢えた将兵の手の届く寸前において、かくして破壊され、焼き尽くされた。
この三日間にわたる一連の海戦は、ガ島戦―ひいては太平洋戦争全般のー帰還を決定するものであった。

つまり、ガ島の日本軍将兵たちに、本格的な飢えが迫ったということだ。

概略を書く。
食べられるものは、何でも食べた、と言う。
オオトカゲ、毒蛇、野草・・・

兵士たちの証言に驚いた。

そんなある時、米兵三名を射殺したという報告が入った。
中隊長の軍刀を借り受け、天幕を持って、敵死体位置に駆け寄っている。
生きている脚は切りやすいが、死んで倒れている脚は切りにくかった。
「ニワトリと同じ」で、黄色い脂肪が巻いて、剣先をにぶらせるのだ。
「苦労の末」に、一人分の両脚を切り落とした。
天幕を広げて、その脚を包んで持ち帰った。
ほかの隊にも「お裾分け」して食べた。
水炊きで、ゆがくだけ。調味料はなかった。

草の芽、木の芽、木の葉、手の届く限り、口の入るものはまったくなくなっている。小隊の兵員も半分になっている。
みな、餓死である。

死んだら骨を頼むぞと、軍歌演習で歌ったが、おれが死んだら食べてくれとは、なんと情けない話しだ。

陸軍兵は、米兵の肉を食べている。
そして、自分の死体も、蛆虫に食われるよりマシだ、と、全員で固く誓い合っていた。

人間誰しも、長く食糧皆無が続くと、餓死するか、野獣に成り下がるのだ。

生き残りで、クジを作った。
三名の死体を、苦労しつつ、二時間がかりで壕に運び入れた。
後の始末は、別のクジに当った戦友が、手際よく処理した。
米兵の軍服と骨は、米兵がよくやってくる、土人道に持って行き、
攻撃してくれば、こうなるぞと、ばら撒いた。

生き残りの証言である。

現実である。

近づいて来る死と影がある。
その人影は、両手に杖をついて、もの憂いげに歩いてくる。その姿を見て驚いた。
頭髪もヒゲも伸び放題。栄養失調のため、全身がむくみを帯びて青ざめている。着の身着のままのシャツは泥で真っ黒、左右の破れ端を引き合わせて結んでいる。
ズボンの汚れはさらにひどく、破れるままにまかせて、ワカメを吊るしたようだ。泥まみれの靴は、縫い目が破れて、足指がのぞいている。

背中には背負い袋、これに飯盒と抜き身だけの赤くサビた帯剣をゆわえつけている。

まるで、仏画に見る幽鬼そのものである。内地の乞食でも、もう少しましな格好をしている。これが、苦戦を続けたガ島・皇軍の姿であった。

三人の兵は、こもごも語り始めた。
自分たちは、食糧運搬のため第一線から来ました。
・ ・その体で、食糧運搬・・

はい、これでも自分たちは、第一線では、比較的元気な方であります。
第一線では、栄養失調とマラリアにかかり、あるいは、赤痢、腸チフスにかかり、タレ流しで歩けない者が大勢おります。
それでも、散兵壕の中で、がんばっていて、敵が来れば、這い出して、防いでおります。

毎日、幾人か死んでいきますが、埋葬することができません。
この体力では、わずかな食糧しか持てません。自分たちの往復の食糧を引くと、ほんのわずかしか前線に置いてこられませんが、毎日、こうして運んでおります。

運ぶ途中で、動けなくなって死ぬ者、機銃掃射や爆撃、あるいは砲撃を受けて死ぬ者がたくさんいます。前線までの道端に数限りなく死んでいますが、埋葬できる人がいませんから、みな、そのままになっています。

更に、別の報告である。

進むにつれて、凄惨な戦場の形相が繰り広げられていた。
ぼろぼろに痩せ細った幽鬼の如き友軍兵士。
路傍に放置され、眼窩のみが空を向いている死臭ぷんぶんたる亡骸。
ほとんど白骨化した死体。
負傷して歩けず、弱々しい声で、水を求めている戦友。
川辺にとくに遺体が多かったのは、水を求めてのことだろう。

これ以上は、省略する。

戦争の無い時代に生まれた私。
戦争を知らないのである。

しかし・・・
このような証言を読む時、この世の無情を感じる。
それどころか、生きる意味さえ、見出すことが、出来なくなる思いになる。

人間とは・・・
生き残りの兵士たちが、口を閉ざす理由が分る。
戦死ではなく、餓死だというならば・・・

これは、ガダルカナル戦の有様、形相である。
これが、フィリピン、ビルマ、その他の地域でも、展開されるのだ。

自決というものもある。
更に、精神の狂い。
心から、哀悼の思いと、祈りを捧げる。







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2015年06月17日

玉砕39

昭和18年、1943年、3月上旬におきた、ダンピールの悲劇は、南太平洋方面の戦況の深刻さを、改めて浮き彫りにした。
更に、陸海軍の確執が、表面化したのである。

ダンピールとは、ラバウルのある、ニューブリテン島と、東部ニューギニアの間にある、海峡である。

3月3日、快晴の朝である。
夜明け頃から、敵哨戒機が執拗に、接触していたが、クレチン岬の南東14浬の地点を通過する、午前8時、P38戦闘機30機、B17ほか、のべ約100機と、別に、P38ほか計30機の二群が、船団に群がり、襲ってきた。

この日、ゼロ戦が、上空直衛に任じていたが、敵機は、低空から爆弾投下をもって攻撃してきた。ゼロ戦は、すぐに、対応できなかった。

この敵の爆弾投下法は、のちに日本軍が、反跳爆撃、と呼ぶ作戦だった。

各輸送船は、初弾を受けた後、火を放つ。
全船が、炎上を始めた。

輸送船は、一隻がすぐに沈んだ。それが、各輸送船に渡り、沈没することになる。

すぐさま、駆逐艦は、遭難人員の救助に当る。
また、ニューギニアの、ラエに先行していた、中野第五十一師団も、救助に向う。

この救助作業は、3月9日まで、続けられた。
漂流者は、キリウィナ、グッドイナフ島方面に、一部は、ニューブリテン島スルミ付近、また、ブナ、マンバレー付近に漂着した者が多かった。
中でも、グッドイナフ島に流れ着いた者の多くは、連合軍の俘虜となった。

4日夕までに判明した、人員の損害は、全乗船人員6912名、ラエに上陸した815名、行方不明3500名と報告された。

更に、第五十一師団の人員喪失は、約2000名であり、物的損害は、搭載品目のすべてである。

これは、八十一号作戦とも呼ばれ、ニューギニアのラエ、サラモアの戦力増強の企画にあった。
だが、結果は、1000名足らずの、丸腰の人員を、ラエに送りつけたに過ぎないことになった。

これも、玉砕である。

この、ダンピール海峡における壊滅は、ラバウルの陸海軍ばかりではなく、中央にも、大きな衝撃を与えた。
その上で、以前からあった、陸海軍の確執を表面化させたのである。

陸軍の中央は、太平洋戦線は、あくまでも、海軍の担当であり、ニューギニアに南海支隊をはじめとする兵力を送ったのは、ガ島に対する派兵も同じだが、海軍から頼まれたと、考えていた。

陸軍は、ソ連と睨み合わせた、中国大陸における作戦が、自分たちの分担戦域であり、かつ、西アジアから、インドを打通して、ドイツと提携するという、作戦であった。
今にすれば、空想である。

海軍の方は、中国戦線、西アジア打通などは、一考もすることがなかった。

海軍は、トラック諸島を拠点として、ニューギニア、ビスマルク、ソロモン、ギルバート、マーシャル諸島を経て、ウェーク、南鳥島に至る、大環状ラインを前進基地として、確保し、このラインで敵の攻撃を食い止めることを、太平洋戦線における、根本方針としていた。

今、問題になっているのは、ソロモン方面は、この大環状の一部として、重要なのである。

ニューギニア、ビスマルク方面は、陸軍にやってもらうという、腹づもりである。

対米決戦構想は、日本海軍が、開戦前から抱いていたものである。
このラインで、米海軍に対抗する以外にないのである。
戦況が不利になったということで、それを簡単に覆すことは、出来ない。

昭和18年、4月上旬に実施された、山本五十六連合艦隊司令長官の、「い」号作戦も、それに則ったものである。
つまり、大本営海軍部の意向にそった、航空機壊滅戦である。

だが、それらは、航空戦の発想のない時期に、立案された戦略構想である。
そして、この頃になると、海軍統帥部も、艦隊決戦は、有り得ないと考えるようになる。

更に、ダンピール海峡における、全滅により、陸軍統帥部は、航空機こそ、今次戦争の主役だという、認識が出て来た。

つまり、制空権という、テーマである。
いかに、制空権を奪取するのか、である。

ダンピール海峡の全滅の衝撃は、損害を受けた、陸軍が当事者である。
第八方面軍の、幕僚の中には、ニューギニア戦線からの撤退を口に出して言う者もいた。勿論、その声は、中央に届くことは無い。

また、陸軍統帥部としても、海軍の同調が無い限り、単独で、一線の兵力を動かすことは、出来ないのである。

また、協力を得たとしても、輸送に使用する船舶が不足していた。また、動けば、ダンピールの二の舞になることも、多分にある。

太平洋の一線に散らばる、ゆうに20万を超える方面軍の兵力を、多方面に移動させるという話しは、夢になったのである。

昭和18年3月22日、第三段作戦を明示した、新たな「南東方面作戦陸海軍中央協定」が策定された。

その要旨は、中央、現地ともに一体となり、ニューギニア方面に主作戦を指導する、というものである。

これで、ニューギニア戦線の、玉砕が決まった。
これも、悲劇のニューギニア戦の、幕開けである。

何と、無謀なことを・・・
それを思うのは、今、現在だからである。
当時は、進む以外になかった。


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2015年06月18日

もののあわれについて754

衛門の督の御あづかりの宮なむ、その月には参り給ひける。太政大臣い立ちて、いかめしくこまやかに、もののさよら儀式をつくし給へりけり。督の君も、そのついでにぞ、思ひおこしていで給ひける。なほ悩ましく例ならず、やまひづきてのみ過ぐし給ふ。




衛門の督が、引き受けている宮さまが、その月に、御賀にお上がりになった。太政大臣が席のあたたまる暇もなく、堂々と、丁重に、美しく儀式らしく、考えられる限りのことを、された。督の君も、この御賀を機として、やっと元気を出して、人の中にお出になった。それでも、まだ気分は優れず、普通ではなく、病人らしいことで、日を過ごしている。

引き受けている宮さまは、女二の宮、である。




宮も、うちはへて、ものをつつましく、いとほしとのみ思し嘆くけにやあらむ、月おほくかさなり給ふままに、いと苦しげにおはしませば、院は心うしと思ひ聞え給ふかたこそあれ、いとらうたげにあえかなるさまして、かく悩みわたり給ふを、「いかにおはせむ」と嘆かしくて、さまざまに思し嘆く。




女三の宮は、引き続き、辛いことばかり思い嘆いているせいか、懐妊の月数が重なるにつれて、酷く苦しそうで、院は、嫌だと思いつつも、たいそう可愛らしく、弱々しい様子で、いつまでも、お悩みなさるのを見ては、どうなのだろうかと、心配し、あちらもこちらもと、思い嘆いておられる。

院とは、源氏である。




御祈りなど、今年は紛れおほくて過ぐし給ふ。
御山にも聞し召して、らうたく恋しと思ひ聞え給ふ。月ごろかくほかほかにて、渡り給ふこともをさをさなきやうに、人の奏しければ、いかなるにかと御胸つぶれて、世の中も今更にうらめしく思して、対の方のわづらひけるころは、なほ、そのあつかひにと聞こし召してだに、なま安からざりしを、そののちなほりがたくものし給ふらむは、その頃ほひ、びんなきことやいできたりけむ。みづから知り給ふことならねど、よからぬ御うしろみどもの心にて、いかなる事かありけむ。内わたりなどの、みやびをかはすべき仲らひなどにも、けしからず憂きこと言ひいづるたぐひも聞ゆかし、とさへ思しよるも、こまやかなること思し捨てて世なれど、なほこの道は離れがたくて、宮に御ふみこまやかにてありけるを、おとどおはしますほどにて見給ふ。




御祈りなどで、今年は、忙しく、日をお過ごしになる。
お山におかれても、お耳にあそばして、愛おしく、逢いたく思いになる。何ヶ月も別居で、お越しになる事も、めったに無いように、ある者が申し上げたので、どういうことかと、どきり、とされて、夫婦というものの、頼りなさを、今更恨めしく思い、対の方が、病気の間は、その介抱のためと、お耳にされてさえ、矢張り、何か嬉しくなかったのに、その後も、変らない風でいらっしゃるとは、その頃に、何か不都合なことでも、起きたのかと。宮自身がされなくても、良くないお付き合いの連中の、考えで、どんなことがあったのか。宮中などで、交際しあう仲などでも、感心しない評判を立てる例もあるようだと、考えて御覧になるのも、俗世の、こまごました事は、お忘れになったのだが、矢張り、親子の道だけは、捨てにくくて、宮に、お手紙をこまごまと書いて、お上げになったのを、源氏のおられる時だったので、御覧になる。

朱雀院の心境を書いている。




朱雀院「そのことなくて、しばしばも聞えぬほどに、おぼつかなくてのみ、年月の過ぐるなむあはれなりける。悩み給ふなるさまは、くはしく聞きしのち、念誦のついでにも思ひやらるるは、いかが。世の中さびしく思はずなることもありとも、しのび過ぐし給へ。うらめしげなる気色など、おぼろけにて、見しりがほにほのめかす、いとしなおくれたるわざになむ」など教へ聞え給へり。




朱雀院は、用事もなくて、時々に、お便りも上げないうちに、いつの間にか、年月が過ぎるのは、寂しいもの。ご病気でいらっしゃるご様子。詳しく聞いてからは、念仏などにつけても、気にしていますが、どうですか。殿のお越しが無く、寂しかったり、思い掛けないことがあっても、我慢して暮らしなさい。恨めしそうな素振りを、はっきりしないのに、知ったふりをして、言うのは、酷く品の無いことです。など、教え申し上げる。




「いといとほしく心ぐるしく、かかるうちうちのあさましきをば、聞し召すべきにはあらで、わがおこたりに本意なくのみ聞き思すらむことを」とばかり思しつづけて、源氏「この御かへりをばいかが聞え給ふ。心ぐるしき御せうそこに、まろこそいと苦しけれ。思はずに思ひきこゆることありとも、おろかに人の見とがむばかりはあらじとこそ思ひ侍れ。だが聞えたるにかあらむ」と宣ふに、恥ぢらひてそむき給へる御すがたもいとらうたげなり。いたく面やせて、もの思ひ屈し給へる、いとどあてにをかし。




お気の毒で、心が痛み、こんな内々の、驚くほかないことを、お耳あそばすはずはなく、私の怠慢ゆえと、不満に思いあそばすだろう。と、そればかりを、思い続けて、源氏は、この、ご返事は、どのようにお書きか。拝見するのも、辛いお便りに、私が苦しくてならない。たとえ、感心しないことをされても、よろしくないお扱いと、傍が気づくようなことはすまいと、思っています。誰が、院に申し上げたのだろう。と、おっしゃるので、きまりが悪く、横を向かれるそのお姿も、酷くいじらしい。すっかりと、面やつれて、物思いに、沈んでいらっしゃるのは、益々、上品で、美しい。



posted by 天山 at 06:04| もののあわれ第13弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月19日

もののあわれについて755

源氏「いと幼き御心ばへを見おき給ひて、いたくはうしろめたがり聞え給ふなりけり。と、思ひあはせ奉れば、今よりのちもよろづになむ。




源氏は、女三の宮に、子供っぽいあなたを、後に残しになり、それで、酷いことになるのだと、思い当たりますので、これから後も、何事も、お気をつけください。




かうまでもいかで聞えじと思へど、上の御心にそむくと聞し召すらむことの、やすからずいぶせきを、ここにだに聞え知らせでやはとてなむ。いたり少なく、ただ人の聞えなす方にのみ寄るべかめる御心には、「ただおろかに浅き」とのみ思し、また今はこよなくさだすぎにたる有様も、あなづらはしく目なれてのみ見なし給ふらむも、かたがたに口惜しくもうれたくも覚ゆるを、院のおはしまさむほどは、なほ心をさめて、かの思しおきてたるやうありけむ、さだすぎ人をも、おなじくなずらへ聞えて、いたくな軽め給ひそ。




これほどまでに、お話したくないのですが、院のお気持ちに、私が添わないと、お考えいただいては、気になって、憂うつですから、あなたにだけは、お分かりになって欲しいのです。お考えが十分でなく、人の申し上げるとおりに、思われるあなたゆえ、「大事にしない。薄情だ」とばかり思いで、その上、今では、すっかり老け込んでしまった私を、馬鹿みたいだ、いつも、面白くないと、思うでしょう。それもこれも、残念とも、情けないとも、思いますが、院が、ご在世の間は、矢張り我慢して、院のお考えもあったことでしょうから、この老人を、あちらと同じように、考えてくださって、酷く軽蔑は、されないように。




いにしへより本意深き道にも、たどりうすかるべき女がたにだに、みな思ひおくれつつ、いとぬること多かるを、みづからの心には、何ばかり思し迷ふべきにはあらねど、今はと捨て給ひけむ世の、後見におき給へる御心ばへの、あはれにあれしかりしを、ひきつづきあらそひ聞ゆるやうにて、同じさまに見捨て奉らむことの、あへなく思されむにつつみてなむ。




昔から、望んできた出家も、考えの十分なはずの、婦人方にさえ、どんどんと、先を越されて、のろまなこと多いのですが、院ご本人のお気持ちでは、どれほども、迷いなさるはずはないけれど、これを限りと、ご出家されたとき、後のお世話役に私を、決めてくださった御心のことが、見に沁みて、嬉しかったので、後を追う様に申すようにして、同じくあなたを、お見捨て申すのは、頼みがいがなく思いだろうと、差し控えたのです。

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2015年06月22日

もののあわれについて756

心苦しと思ひし人々も、今は書けとどめらるるほだしばかりなるも侍らず。女御も、かくて、ゆくすえは知りがたけれど、御子たち数そひ給ふめれば、みづからの世だにのどけくはと見おきつべし、そのほかは、たれもたれも、あらむに従ひて、もろともに身を捨てむも、惜しかるまじきよはひどもになりにたるを、やうやうすずしく思ひ侍る。




気にかかっていた人たちも、今では、出家する妨げとなるほどの者は、いません。女御も、あのように、将来の事は、分りませんが、皇子たちが、次々お出来になったから、私の生きている間だけであれば、と、考えていいでしょう。他の人たちは、誰も皆、そのときの都合で、一緒に出家したとしても、惜しくないような、年になっているので、次第に、気持ちも楽になりました。




院の御世の残り久しくもおはせじ。いとあつくいとどなりまさり給ひて、もの心ぼそげにのみ思したるに今さらに思はずなる御名もり聞えて、御心乱り給ふな。この世はいとやすし。ことにもあらず。のちの世の御道のさまたげならむも、罪いとおそろしからむ」など、まほにその事とはあかし給はねど、つくづくと聞え続け給ふに、涙のみ落ちつつ、われにもあらず思ひしみておはすれば、われもうち泣き給ひて、源氏「人の上にても、もどかしく聞き思ひし、ふる人のさかしらよ。身にかはることにこそ。いかにうたての翁やと、むつかしくうるさき御心そふらむ」と、恥ぢ給ひつつ、御硯ひきよせ給ひて、手づからおしすり、紙とりまかなひ、書かせ奉り給へど、御手もわななきて、え書き給はず。「かのこまやかなりし返りごとは、いとかくしもつつまず、かよはし給ふらむかし」と思しやるに、いとにくければ、よろづのあはれもさめぬべけれど、ことばなど教へて、書かせ奉り給ふ。




院のご寿命も、長くは無いでしょう。ご病気がちにおなりで、お元気のない様子。今頃になって、感心しないご評判を、お耳に入れて、お心を乱したりなさらないように。現世は、簡単です。何でもありません。後世の成仏の妨げになったとしたら、不孝の罪は、とても大変です。などと、はっきりと、何のことかは、おっしゃらないが、しんみりと、お話を続けるので、涙が溢れ落ちて、深く考え込むのである。源氏は、自分も泣いて、人の事でも、罪なものだと、聞き思っていた、老いの繰言。それを自分が、言うことになってしまった。嫌な老人だと、不愉快に、うるさく思うことでしょう。と、恥ながら、御硯を、手元にとられて、ご自分で、墨をすり、紙も整えて、ご返事を書かせ申し上げるが、お手元も震えて、お書きになれない。いつか、あの細々と書いてあった文の返事は、こんなに遠慮せず、やり取りされるだろうと、想像になられると、癪に障るので、一切の愛情も、薄れてしまいそうだが、文句などを、教えて、書かせ申し上げる。

源氏と、女三の宮の、二人の、心境を綴るのである。




源氏「参り給はむことは、この月かくて過ぎぬ。二の宮の御勢ことにてまいり給ひけるを、ふるめかしき御身ざまにて、立ちならび顔ならむも、はばかりあるここちしけり。霜月はみづからの忌月なり。年の終りはた、いとものさわがし。またいとどこの御姿も見苦しく、待ち見給はむを、と思ひはべれど、さりとてさのみのぶべきことにやは。むつかしくもの思しみだれず、あきらかにもてなし給ひて、このいたく面やせ給へる、つくろひ給へ」など、いとらうたしとさすがに見奉り給ふ。




源氏は、お上がりされるのは、どうなさるのか。この月も、こんなようで、過ぎました。二の宮が、格別の御威勢で、お上がりになったのに、若々しさのない、今のお体では、競争するみたいなもの。恐れ多い気がします。十一月は、私の、忌月です。年末はこれも、慌しい。それに、あなたの姿も、いっそう見苦しく、お待ちする院は、御覧でしょうが、そうかといって、延ばせるものでもないでしょう。くよくよと、お悩みされず、明るい気持ちになって、この、やつれたお顔を、直しなさい。など、可愛らしいと、それでも、思うのである。




衛門の督をば、何ざまの事にも、ゆえあるべきをりふしには、必ずことさらにまつはし給ひつつ宣はせあはせしを、たえてさる御せうそこもなし。人あやしと思ふらむと思せど、見むにつけても、いとどほれぼれしき方はづかしく、見むにはまたわが心もただならずやと思しかへされつつ、やがて月ごろ参り給はぬをもとがめなし。




衛門の督、柏木を、どのようなことであっても、面白いことのある場合は、必ず誰よりも、お傍において、ご相談もされたが、全然、そんなお便りもない。皆が、変に思うだろうと、思うが、顔を見れば、いよいよ馬鹿な爺だと思われるのが、気になるし、逢ったりすると自分のほうも、平静を失わないかと、反省もされて、そのまま、一ヶ月も、参上されないのに、お叱りもないのである。




おほかたの人は、「なほ例ならず悩みわたりて、院にはた、御あそびなどなき年なれば」とのみ思ひわたるを、大将の君ぞ「あるやうある事なるべし。すきものは定めて、わがけしきとりし事にはしのばぬにやありけむ」と思ひよれど、いとかくさだかに残りなきさまならむとは、思ひより給はざりけり。




特別な関係の無い人は、健康ではなく、ご病気だし、院のほうでも、管弦の催しなどない年だから、と考えるばかりである。だが、大将の君、夕霧は、訳がある事だろう。あの熱心家は、自分が、変だと思ったあのことは、我慢しきれなかったのであろうかと、考えつくが、このようにまで、何もかもとは、考えつかなかったのである。

大将の君、夕霧も、柏木と、女三の宮の状況を、勘付いたようである。

残りなきさまならむとは・・・
行くところまで、行った状態を言う。









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2015年06月23日

もののあわれについて757

十二月になりにけり。十余日とさだめて、舞どもならし、殿の内ゆすりてののしる。二条の院の上は、まだ渡り給はざりけるを、この試楽によりぞ、えしづめはてで渡り給へる。女御の君も里におはします。このたびの御子は、また男にてなむおはしましける。すぎすぎいとをかしげにておはするを、明け暮れもてあそび奉り給ふになむ、過ぐる齢のしるし、うれしく思されける。試楽に、右大臣殿の北の方も渡り給へり。大将の君、うしとらの町にて、まづうちうちに調楽のやうに、明け暮れ遊びならし給ひければ、かの御方は、御まへのものは見給はず。




十二月になった。十何日と決めて、数々の舞を、練習し、御殿中が、ゆらぐほどの大騒ぎである。
二条の院、紫の上は、まだ六条の院にお越しになっていないが、この試楽を御覧になりたくて、我慢出来ずに、お越しになった。女御の君も、里に下がっていらしゃる。今度の御子も、また男であられた。次々と、まことに可愛らしくていらっしゃるから、一日中、御子の相手をしていらっしゃる。長生きしたお陰と、嬉しく思うのである。
試楽には、右大臣の北の方も、お越しになった。大将の君、夕霧は、丑寅の町で、先に内々に、調楽のように、朝晩と音楽の練習をされていたので、花散里の御方は、御前での試楽は、御覧にならないのである。




衛門の督を、かかる事の折りもまじらはせざらむは、意図はえなくさうざうしかるべきうちに、人あやしとかたぶきぬべき事なれば、参り給ふべきよしありけるを、重くわづらふよし申して参らず。さるは、そこはかと苦しげなる病にもあらざるなるを、思ふ心のあるにやと、心苦しく思して、とりわきて御せうそこつかはす。父大臣も「などかかへさひ申されける。ひがひがしきやうに、院にも聞しめさむを、おどろおどろしき病にもあらず、助けて参り給へ」とそそのかし給ふに、かく重ねて宣へれば、苦しと思ふ思ふ参りぬ。




衛門の督、柏木も、こういう機会にも呼ばないというのは、引き立たず、物足りない感じがする。皆が、変だと首をかしげるだろうと、参上するように、お呼びであったが、重病であるとのことで、伺わない。実は、どこが、どう苦しいという、病気ではないようだが、来ないということは、悩んでいるのであろうかと、気になり、特別にお手紙を、差し上げた。父大臣も、どうして、ご辞退申されたのか。すねっているように、院も思うだろう。大した病気でもないのだから、無理をしてでも、伺いなさい。と、お勧めするが、このように、重ねてお手紙が来たので、嫌だと思いつつも、参上した。




まだ上達部なども集ひ給はぬほどなりけり。例のけぢかき御簾の内に入れ給ひて、母屋の御簾おろしておはします。げにいといたくやせやせに青みて、例もほこりかに花やぎたる方は弟の君達にはもてけたれて、いと用意ありがほにしづめたるさまぞことなるを、いとどしづめて候ひ給ふさま、などかは御子たちの恩かたはらにさしならべたらむに、さらにとがあるまじきを、ただ事のさまの、たれもたれもいと思ひやりなきこそ、いと罪ゆるしがたけれ、など御目とまれど、さりげなくいとなつかしく、源氏「その子ととなくて、対面もいと久しくなりにけり。月ごろは、いろいろの病者を見たつかひ、心のいとまなきほどに、院の御賀のため、ここにもしの給ふ御子の、法事つかうまつり給ふべくありしをつぎつぎとどこほる事しげくて、かく年もせめつれば、え思ひのごとくしあへで、かたのごとくなむ、いもひの童のかず多くなりにけるを、御覧ぜさせむとて、舞などならはしはじめし。その事をだにはたさむとて、拍子ととのへむこと、また誰にかはと思ひめぐらしかねてなむ、月ごろとぶらひものし給はぬ恨みも捨ててける」と、宣ふ御けしきのうらなきやうなるものから、いといと恥づかしきに、顔の色たがふらむと覚えて、御答もとみにえ聞えず。




まだ、上達部なども、集まらない頃だった。
いつもの通り、お傍近くの中に入り、源氏は、母屋の御簾を下げておいであそばす。話しに聞いている通り、すっかり痩せてしまい、顔色が悪く、いつも元気で、明るいことでは、弟の君達には、負かされて、特にたしなみが深い様子で、落ち着いたところが、他の人と違うのだが、いつもより、静かに座っている姿。どうして、皇女方のお傍にいて、いっこうに、差し支えがあろうか。
だが、この事情が、どちらも、本当に考えがない点、罪は許せないのだ。などと、お目が離せないが、そういう気持ちは見せず、源氏は、用事もなくて、逢うことも、久しぶりになった。この何ヶ月、あちこちの病人を介抱し、余裕のない内に、院の御賀のため、ここにいらっしゃる皇女が、御法事をして、差し上げる予定だったが、次々と、支障が出て、こんな年も暮れ近くになったので、思う通りには、出来なくて、ほんの形ばかりの、御精進料理を差し上げるのだが、御賀などというと、大袈裟なようだが、我が家に成長した、子供たちが大勢になったので、それをお目にかけようというつもりで、舞なども、習わせ始めた。その事だけでも、いたそうと思い、さて拍子を整えるのは、あなた以外には、いくら考えても思いつかないので、幾月も顔を見せてくれなかった、恨めしさも、忘れることだがないのだ。と、おっしゃる様子は、そのまま、信じてよさそうだが、恥ずかしくて、たまらず、顔の色が変わっているだろうと、思われ、ご返事も、すぐには、申し上げられない。




柏木「月ごろかたがたに思し悩む御こと、うけたまはり嘆き侍りながら、春の頃ほひより、例もわづらひ侍るみだり脚病といふもの、ところせく起こりわづらひ侍りて、はかばかしく踏み立つる事も侍らず。月ごろに添へてしづみ侍りてなむ、内などにも参らず、世の中あとたえたるやうにてこもり侍る。「院の御よはひ足り給ふ年なり、人よりさだかにかぞへ奉り仕うまつるべき」よし、致仕の大臣思ひおよび申されしを、「冠をかけ、車をしまず捨ててし身にて、進み仕うまつらむに、つく所なし。げに下ろうなりとも、同じごと深き所はべらむ。その心御覧ぜられよ」と、もよほし申さるることの侍りしかば、重き病ひをあひ助けてなむ、参りてはべし。




柏木は、この幾月も、あちらの方こちらの方と、心配でいらっしゃる事を、伺いまして、お案じておりましたが、春の頃から、いつも煩います、脚気というものが、酷くおこり、苦しみまして、歩くことも出来ずにおりました。月がたつにつれ、床につきまして、御所などに、参上せず、世間に顔出ししないことで、籠もっております。「院の御年が、五十におなりあそばす年である。誰よりも、しっかりと、お祝いいたすべきである」と、大臣が考えて、申されましたが、「冠をかけ、車を惜しまず捨てて、退官した身であるのに、自分の方から出て行って、賀をさせていただいては、つく席がない。まことに、お前は、下郎ではあるが、同じように、院を思う心は、深いだろう。その心を、お目にかけよ」と催促されることがございましたので、重い病を鞭打って、伺いました。




今はいよいよいとかすかなるさまに思しすまして、いかめしき御よそひを待ちうけ奉り給はむこと、願はしくも思すまじく見奉り侍りしを、事どもをばそがせ給ひて、静かなる御ものがたりの、深き御願ひかなはせ給はむなむ、まさりて侍るべき」と申し給へば、いかめしく聞きし御賀の事を、女二の宮の御かたざまには言ひなさぬも、らうありと思す。




この頃は、益々、質素に俗世間の事は、お考えにならずお過ごしでいらっしゃいます。堂々とした、行列をお待ち受けにされますのは、お望みではないと、お見受けしました。諸事簡略にあそばして、静かなお話し合いを、心からお望みなのを、叶えて差し上げることが、よろしいと、申されるので、堂々とした事であったと、聞く御賀を、女二の宮の事とは、言わないのは、心得があると、思うのである。

女二の宮が、行なったことを、自慢して言わない柏木に、源氏が、控えめだと、思っている。

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2015年06月24日

もののあわれについて758

源氏「ただかくのむ。事そぎたるさまに世人は浅く見るべきを、心えてものせらるるに、さればよとなむ、いとど思ひなられ侍る。大将は、おほやけがたは、やうやうおとなぶめれど、かうやうに情ひたるかたは、もとより染まぬにやあらむ、かの院、何事も心および給はぬ事はをさをさなきうちにも、楽のかたの事は御心とどめて、いとかしこく知りととのへ給へるを、さこそ思し捨てたるやうなれ、静かに聞しめしすまさむこと、今しもなむ心づかひせらるべき。かの大将ともろともに見入れて、舞のわらべはの用意心ばへ、よく加へ給へ。ものの師などいふものは、ただわが立てたることこそあれ、いと口惜しきものなり」など、いとなつかしく宣ひつくるを、うれしきものから、苦しくつつましくて、こと少なにて、この御まへをとく立ちなむと思へば、例のやうにこまやかにもあらで、やうやうすべり出でぬ。




源氏は、この通りだ。簡単なものだからと、世間では、不熱心だと言うと思うが、だが、君が分ってくれるので、思った通りだと、益々、その気になってきました。大将は、役所の仕事は、段々と一人前になってゆくようだが、こういう、風流なことには、生まれつき、不熱心なのだろうか。あちらの院は、何事にも通じてないこともないが、その中でも、特に音楽のことでは、熱心で、たいそう立派に、何もかも通じていらっしゃり、ご出家されても、音楽もお捨てになったようだが、静かに、お心を澄まして、お聞きになることだ。今こそ、かえって、気をつけなければならない。あの大将と一緒に、気を入れて、舞をする子供たちの用意、気配りを、よく注意してやって、下さい。師匠などという連中は、それぞれ専門とするところは、やるが、どうも、至らないところがある。など、大変に優しく、頼み込むので、嬉しく思うが、辛くて、身が縮む思いがする。口数少なく、この御前を早く立ち去りたいと思うので、いつものように、細々と申さず、次第に、御前から、すべり出た。




東の御殿にて、大将のつくろひいだし給ふ楽人舞人の装束の事など、またまたおこなひ加へ給ふ。あるべき限りいみじく尽くし給へるに、いとどくはしき心しらひ添ふも、げにこの道はいと深き人にぞものし給ふめる。




東の御殿で、大将が用意された、楽人舞人の装束などを、更に重ねて、注意されて、付け加える。出来るだけ、立派に、し尽くすのであるが、更に、行き届いた心遣いが、加わるのは、なるほど、この道には、まことに深い人でいらっしゃると見える。




今日はかかるこころみの日なれど、御かたがたもの見給はむに見どころなくはあらせじとて、かの御賀の日は、赤きしらつるばみに、葡萄染めの下襲を着るべし。今日は、青色にすはう襲、楽人三十人、今日はしら襲を着たる。辰巳の方の釣殿につづきたる廊を楽所にて、山の南の側より御まへに出づるほど、仙遊霞といふものあそびて、雪のただいささか散るに、春のとなり近く、梅のけしき見るかひありてほほえみたり。




今日は、こういう試楽の日であるが、御方々が、御覧になるのに、見る値があるように、本当の御賀の日には、赤い白つるばみに、葡萄染めの下襲を着るはずだから、今日は、青色に蘇芳襲で、楽人三十人は、今日は、白襲を着ている。
東南の町の、釣殿につづいている廊を、楽所として、山の南の方から、舞人が、御前に出てくる間、仙遊霞という音楽を奏する。雪がほんの少しちらつき、もう春が近づいて来て、梅の様子が、見映えして、ちらちらと咲き出している。




廂の御簾の内におはしませば、式部卿の宮、右の大臣ばかり候ひ給ひて、それより下の上達部はすのこに。わざとならぬ日のことにて、御あるじなど、けぢかきほどに仕うまつりなしたり。




廂の御簾の内に、源氏がおいであそばすので、式部卿の宮と、右大臣だけが、御簾の中においでで、それ以下の上達部は、すのこに。今日は、正式の日ではないので、ご馳走なども、お手軽なものを用意してある。




右の大殿の四郎君、大将殿の三郎君、兵部卿の宮の孫王の君達二人は万歳楽、まだいと小さきほどにて、いとらうたげなり。四人ながらいづれとなく、高き家の子にて、かたちをかしげに、かしづきいでたる、思ひしもやむごとなし。また、大将の御内侍のすけばらの二郎君、式部卿の宮の兵衛の督といひし、今は源中納言の御子わじやう、右の大殿の三郎君陵王、大将殿の太郎落そん、さては太平楽、喜春楽などいふ舞どもをなむ、同じ御なからひの君たち、おとなたちなど舞ひける。暮れゆけば、御簾あげさせ給ひて、ものの興まさるに、いとうつくしき御孫の君達のかたち姿にて、舞のさまも世に見えぬ手をつくして、御師どもも、おのおの手のかぎりを教へ聞えけるに、深きかどかどしさを加へて、めづらかに舞ひ給ふを、いづれをもいとらうたしと思す。おい給へる上達部たちは、みな涙おとし給ふ。式部卿の宮も、御孫を思して、御鼻の色づまくまでしほたれ給ふ。




右大臣の四郎君、大将殿の三郎君、兵部卿の宮の、お子様がたお二人で、万歳楽を舞う。まだ小さな子たちで、大変に可愛らしい。四人が、四人共に、揃って皆、身分の高い家の子息であり、器量も申し分なく、着飾られて出て来たのは、とても、高貴に見える。
その他、大将の御子で、典侍がお産みした二郎君、式部卿の宮の、兵衛の督といった方で、今は源中納言になっている方の御子は、皇じようを舞う。右大臣の三郎君は、陵王、大将の太郎君は、落そん、あるいは、太平楽、喜春楽などいう舞の、数々を同じ一族の、子供や大人たちが舞った。
夕方になると、源氏は、御簾を上げさせて、楽と舞の面白さが勝る上に、可愛らしい御孫の若様方が、面なしの姿で舞う様子も、他には見られない妙技を尽くし、師匠連中も、一人一人、技の限りを尽くして、教え差し上げた上に、優れた才能も加えて、立派に舞うのを、どの御子も、可愛らしいと思われる。
年を取った上達部たちは、誰も誰も、涙を流す。式部卿の宮も、御孫のことを思い、お鼻が色づくほどに、涙を流される。

posted by 天山 at 05:45| もののあわれ第13弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月25日

玉砕40

「い」号作戦とは、空母部隊の搭載機を南東方面の各基地に揚げ、従来の基地航空部隊をあわせて、山本五十六司令長官が、みずからラバウルに進出して、指揮をとり、ソロモン諸島、ニューギニア方面の連合国兵力を爆破するという、航空決戦の総称である。

この作戦は、大本営とは、関わりなく、連合艦隊が独自に実施したものである。

日本軍の航空勢力が、減少するばかりであり、連合軍側は、当時ソロモン方面、ニューギニア方面に、一ヶ月約50機から、100機の補充がなされていた。

ダンピール海峡以南の、ニューギニア、ニュージョージア島の南のソロモン諸島は、いずれも、連合軍機が、我が物顔に、飛び回り、南東方面の制空権は、ラバウル、マダンなどの後方要地を除いて、すでに、連合軍側のものとなっていた。

更に、航空兵力だけではなく、海上兵力も、北上の兆しを見せていた。

日本軍にとっては、潜水艦、艦艇による、輸送が、無くてはならない手段になっていたが、その最も手ごわい敵である、魚雷艇が、サラモア付近にまで、出没するようになっていた。

当時、大本営陸海軍部は、ソロモン、ニューギニア方面に対する積極性を失ってはいず、連合艦隊としては、立場上も、座して敵の出方を待っているわけには、いかなかった。

「い」号作戦の計画は、当初第一撃は、4月1日、X攻撃を、ガダルカナル島方面に、加えることとなっていたが、ソロモン方面の天候不良により、7日に延期された。

しかし、米軍は、事前にブイン基地における日本軍機の、異常な増加に気づいていて、見張所がキャッチし、ただちに、邀撃の態勢がとられていたのである。

その計画は、第四回まで、行われたが・・・
4月14日、東部ニューギニア方面の艦船を目標とした、第三艦隊の飛行機隊による、第三次Y2攻撃が企画されたが、早朝の偵察機が、付近に船影なし、と報告したため、あっさりと、中止になった。

山本五十六が戦死したのは、その後である。

結論を言えば、作戦を実施することにより、その航空機のあまりの損耗の激しさに、驚き、中止したということである。

すでに、日本軍は、衰退に向っていた。

その、「い」号作戦の仔細なことが、未だに、良くわからないという。

その頃から、中央に対して、故意に、被害を過小に見積もり、虚偽を報告し始めているということである。

ちなみに、山本五十六は、戦争全体の敗北を、明確に、予想したであろうということである。
攻撃を受けて、墜落したことになっているが・・・
それが、自殺であったという、見方も出来ると言う。

だが、それには、深入りしない。

さて、大本営が、アッツ島に、敵上陸の第一報を受けたのは、昭和18年5月12日であった。

大本営陸軍部は、アッツ島に対する逆上陸を企画し、海軍部も、千島の基地航空部隊をもって、支援し、当時、トラック諸島の戦艦武蔵上にあった、新連合艦隊司令長官古賀峯一大将は、いったん機動部隊を北上させようとした。
陸軍は、落下傘による、挺身上陸も考えた。

アッツ島には、守備隊として、陸軍約2500名と、海軍約1000名がいた。

攻撃に来た米軍は、日本軍の約10倍の兵力である。
最初は、キスカを第一の時揚陸目標にしていた。
米軍の勢力圏内に近いキスカである。
防備が、手薄で、攻略しやすいという、理由から、三月に入り、急遽アッツ島上陸が決定した。

日本の連合艦隊は、南方方面で、対応しきれなくなっていたゆえに、北方へまわす兵力の余裕はなかった。

千島の基地から、中攻による二回の襲撃と、潜水艦による、アッツ近海の敵艦艇に対する攻撃が、唯一の反撃だった。

根本的な解決には、逆上陸しかないのである。

アッツ島上の山崎部隊からは、刻々と切迫している戦況報告が打電されてきたが、大本営は、手をつかねて、沈黙するしかなかった。
そして、5月18日に、アッツ島の放棄が、内定した。

5月20日、御前会議にて、
西部アリューシャン列島の確保は断念して、両島の守備隊は撤収し、北東の第一線を千島列島、樺太、北海道の線まで後退させる
という、議案が採決された。

そして、5月29日、ついに決別の電報が届いた。
何と、守備隊は、この最後の時点で、150名になっていたのである。

玉砕、という言葉が、初めて使用されたのである。

アッツ島を捨てたが、玉砕という言葉により、名誉を与えたといえる。

だが、アッツ島の放棄で、北方における海上決戦は、取り止めになったものの、キスカ島所在人員の撤収は、ケ壕作戦と呼ばれて、にわかに、クローズアップされた。

キスカ島にあった人員兵力は、昭和18年6月5日の状況で、陸軍約2500名と、海軍約3400名だった。

キスカ周辺は、敵の制空権下にあり、海上は、艦艇、潜水艦で封鎖されている。
日本軍の作戦は、戦闘ではなく、人員の救出である。
したがって、空と海を問わず、発見されたら、万事休すである。

霧という、自然現象に託すしかないという、状態であった。
これ以上は、省略するが・・・
結果的に、作戦は成功する。
7月22日、第二次ケ壕作戦は、第一次と同じ艦隊編制で、出航し、25日を突入予定日と決めていたが、27日までは、キスカ周辺は快晴続きということで、この間、キスカ島南方海上約300浬付近の霧に隠れ、機会を狙っていた。

28日、濃霧が立ち込め、広がるのを知り、水雷戦隊は、突入を決意した。
29日午前7時、木村昌福少将は、キスカ湾に向かい、陸上の通信隊の発する電波を頼りに、驀進を開始した。

昭和18年の敗戦続きの、南太平洋にあって、キスカの救出作戦の成功は、かすかな光であった。

その8月、米軍は、キスカ島に対して、二週間に渡り、猛撃を加えた。
そして、15日、3万5000名もの大軍を上陸させたが、霧の中で出会ったのは、犬三匹という。




posted by 天山 at 05:48| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月26日

玉砕41

それでは、欧州の状態を見る。

昭和18年、1943年、1月末。
それまでヨーロッパ全土を席巻してきたドイツが、初めて大敗を喫し、大軍をもって、降伏した。

スターリングラードにおける、ドイツ軍9万の降伏である。

北アフリカ戦線では、1942年11月、アルジェリアとモロッコに上陸した、米英連合軍は、翌年春、チュニジアに進入し、独伊軍に、痛打を与えた。

その後、北アフリカ所在の、連合軍は、アイゼンハワーの統一指揮下に、4月22日から、ロンメン軍団に対して、総攻撃を開始し、5月下旬、ついにチュニジア全土を攻略し、25万以上を捕虜にした。

チュニジア全土の陥落を最後に、独伊軍は、北アフリカから、駆逐され、地中海の南岸は、ことごとく連合軍の手中に落ちた。

1943年5月を機に、日本軍がそれまで抱いていた、ドイツ軍とインド洋で手を結ぶという、願望は、実現不可能となったのである。

更に、地中海が、連合軍の支配下におかれたということは、海軍にも、心理的な圧迫を与えた。

南方占領地の西域に対して、海と空より、新たな脅威が加わることになった。

北アフリカに続いて、米英連合軍は、7月10日、イタリアのシチリア島に、東南部から上陸を開始した。
激戦の後、独伊軍は、しだに背後連絡線にあたる、メッシナ方面へと圧迫され、7月下旬には、大勢が決した。

この情勢下の中で、突如として、イタリアに一大政変が起こる。
イタリア国内では、厭世気分が高まり、連合軍のシチリア島上陸で、特に民心の動揺が激しく、チアノ外相および、ファシスト党幹部デイノ・グランディらが中心となり、ムッソリーニ政権転覆の謀議が、進められていた。

その後、ムッソリーニは、軟禁され、ピエトロ・バドリオ首相兼参謀総長に任命され、ファシスト党は、解散された。

8月17日、独伊軍は、シチリア島から撤退し、9月3日、連合軍が、イタリア全土に上陸するにおよび、バドリオ政府は、9月8日、無条件降伏を行なった。

つまり、ここに、日独伊三国同盟、共同戦争遂行の基本構想は、崩壊するのである。

この頃になると、日本も、敗戦への道を、転がるように進む。

日本政府は、9月30日、御前会議を奏請して、
絶対国防圏の設定を含む、今度採るべき戦争指導の大綱
を、採択するに至る。

国内において、益々の持久戦態勢確立のための諸施策が、政治、産業、経済および、国民生活の各分野にわたり、行われた。
戦時体制の一層の強化である。

それが、昭和18年に入ると、企業整備、衣食生活簡素化、学徒動員、地方行政の総合運営、軍需省、農商省、および、運輸通信省の創設などである。

昭和18年6月25日、閣議において、学徒戦時動員体制確立要領が、決議されたが、同年10月、中等学校以上の学生生徒に対する、勤労動員が義務づけられた。
更に、徴兵予備兵となった法文科系学徒の壮行会が、明治神宮外苑競技場において、雨中決行された。

さて、絶対国防圏とは、その外周は、カムチャッカ半島南端から、サイパンを中心として、マリアナ諸島、カロリン諸島、西部ニューギニアのヘルビンク湾、更に、チモール、ジャワ、スマトラの各島から、ベンガル湾を北に縦断して、ビルマに至る、約7000浬にもおよぶ長大な、防衛線であった。

しかし、この構想も、時既に遅く、米軍の反抗勢力は、日本陸海軍の航空機増徴などの兵備充実はおろか、その新防衛線への、兵力の配備すら、整っていなかった。

つまり、絶対国防圏の危機である。

大本営が、絶対国防圏の命令をしたのは、9月30日であるが、それより以前の、22日、ダグラス・マッカーサー大将の指揮する、米壕連合軍が、国防圏の前衛最右翼の要衝にあたる、東部ニューギニアのフォン半島の、フィンシュハーフェン北方アント岬に上陸してきた。

このフィンシュハーフェンは、東部ニューギニアのラエ、サラモア攻略作戦の時期には、後方補給のための、基地だった。
五月以来、第一船舶団司令部があった。
海軍警備隊約4000名の善戦にもかかわらず、10月1日、敵の手に渡ったのである。

更に、連合軍は、飛行場の整備を開始し、10月4日には、飛行機の離着陸が認められた。

これが、敗戦の序曲である。

10月12日、連合軍航空機は、大挙して、ラバウルを空襲した。
日本軍前衛線に対する、本格的攻撃の、前触れだった。

そして、11月19日、マキン、タワラ、およびナウルに対し、大規模な空襲が始まった。
連合軍は、20日、空襲を反復し、21日の早朝、マキン、タワラ島に上陸を開始した。

わずか、700名の守備兵員しかいない、マキン島との無線連絡は、途絶した。
タワラ島は、激戦となった。だが、22日、無線連絡が、途絶える。

のちに、連合軍側の放送により、マキンは24日、タワラは、25日、それぞれ全滅したものと、認められた。
つまり、玉砕である。

こうして、玉砕が続くことになる。

悲しいことだが・・・
戦争を追い詰めれば、日本軍が、敗戦して行く様が、見て取れる。

何にも増して、敵の物量の圧倒さである。
日本軍は、武器、食糧も失い・・・
ただ、精神力で、戦いを続けていたのである。
その先が、玉砕である。

posted by 天山 at 06:24| 玉砕2 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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