2015年06月01日

玉砕32

陸海両統帥部の間で、双方が歩み寄る形で、当面の戦略構想が、決まった。
それは、東部ニューギニア、ソロモン、ビスマルク諸島を第一線とする、珊瑚海の制空、制海権を確保し、オーストラリアとアメリカ本土と遮断をしつつ、戦略態勢を固めるというものである。

その、アメリカとオーストラリアのルートの遮断を、FS作戦、フィジー・サモア諸島攻略作戦と、名付けた。

ハワイから、オーストラリアに至る、海上ルートの要衝にあたる、サモア、フィジー両諸島と、ニューカレドニア島を攻略するもので、この場合だと、使用兵力も少なくてすむ。更に、重視するインド方面の作戦発起まで、解決するだろうとの、思惑である。

陸軍も賛成し、7月中旬に、ポートモレスビーを海上攻略する作戦は、紆余曲折があり、陸路オーエンスタンレー山系を越えて、攻略することが、決定された。

さて、大本営陸軍部の戦争終結の腹案は、独立運動の機運を助ける形で、インドに対する政治的な謀略工作を行ない、一方、海軍の力をたのむ、海上の通商破壊などにより、インドとイギリス本国との連絡を、封鎖しようとするものであった。

であるから、海軍を期待し、伊独軍の西アジアへの進出を待ち望んだ。
しかし、伊独軍は、インド洋方面に、進出するのは、当分無理であろうという、情報が入った。

そこで、伊独軍と手を結ぶ望みを捨てて、ニューギニアのポートモレスビー攻略に南海支隊を当てることを、決した。

東部ニューギニアにしろ、オーストラリアの東北部にせよ、共通して、その任務地までの航空距離の長さに悩まされていた。

そこで、ラバウルから、南の島のいずれかに、飛行基地を造り、制空権を伸ばす必要に迫られた。
それが、ガダルカナルへの道である。
昭和17年、5月上旬の頃だった。

5月25日、飛行場建設の条件を満たす場所を、上空から探したところ、ガダルカナル島の西北部にある、ルンガ川東方の海岸線から、2000メートルほど南に、理想的な土地を発見する。

当初は、連合艦隊、大本営は、即答をしなかった。
だが、玉砕のガダルカナルへの道のりが始まるのである。

この5月上旬は、ポートモレスビー攻略を海路から行なう作戦が、実施されようとして、珊瑚海海戦が、繰り広げられた。
計算外だったのは、史上初の航空母艦同士のぶつかりあいの結果、海路攻略作戦は中止となる。

そして、以前に書いた、ミッドウェー海戦での、大敗北である。
FS作戦の延期、続いて中止が、連合艦隊、大本営で決定された。

MO作戦も、FS作戦も、成功すれば、南東方面の空の勢力が固められると期待していたが、挫折した。

この頃から、海路攻略作戦が開始される前から、オーストラリア、ニューギニア基地から、飛来してくる、敵機に悩まされ、これと渡り合うことになった。

それにより、台南航空隊などは、新しい機材を陸に揚げない間に、ラバウルの停泊地内で、積んだ貨物船もろとも、沈められてしまった。

航空機の消耗戦は、すでに始まっていたのである。
それゆえ、航空機の絶対数の不足に、苦しむことになる。

ミッドウェー作戦で失敗した六月下旬、第十一航空艦隊司令部を通じて、連合艦隊から、参謀長名で、ガダルカナル島に、飛行場設営の許可を送ってきた。
これを受けて、現地部隊では、6月29日、改めて、二回目の空からの現地偵察を行なった。

さて、六月に入ると、米軍は、オーストラリア方面への増支強化に本腰を入れたという、情報を得る。

ニューヘブライズ諸島、および、ニューカレドニアに、更に、新しい基地を加え、空の勢力を伸ばしつつあるという、気配も感じられた。
要するに、敵は、大本営の意図を、読み取っていたのである。

日本軍は、陸から行なう、ポートモレスビー攻略と、ガダルカナルを含む飛行場新設の計画という、二つの作戦を、並行して実施することになる。

日本軍の場合、ブルドーザー、ロードローラ、トラクター、トレンチャー、起重機車などの、設営機械の整備が多少なりとも重視されるのは、昭和18年に入ってからである。
つまり、ガダルカナルに上陸した、設営隊に持たされていた道具は、ツルハシ、スコップ、モッコがすべてである。

六月中旬に上陸してから、一ヵ月半の期間の設営である。
8月7日には、米軍が、進攻して来たのである。

その日、現地時間で、朝五時を少し回ったところ、同じ時刻に、フロリダ島の南に浮かぶ、ツラギ、ガヴツ島も、激しい敵襲を受けた。

米軍は、精強を謳われた第一海兵師団、約1万8千名が乗り込んだ、22隻の輸送船を、空母三、戦艦一、巡洋艦14、駆逐艦31で支援し、それらに、基地航空機293機を加える、堂々の陣容と、戦力で攻撃を仕掛けてきたのである。

そして、8月8日の日没までに、約1万900名の人員が、ガダルカナル島に、上陸した。

これに対し、日本軍は、上陸以来、敵の散発的な空襲に備えて、手軽な防空壕を用意しただけで、地上からの攻撃に迎撃する、陣地を築いていなかったのである。

また、守備隊といっても、火砲装備は、高角砲六門、山砲二門にすぎず、目の前の海に大挙して出現した敵に対して、抗し得ないことは、一目で察することが出来た。

そして、設営隊の大部分は、軍人ではなく、武器を持たない工員である。
空襲と艦砲射撃に、抵抗できるわけがなかった。

これでは、余りにも、無謀である。
その後、ガダルカナルは、餓島と呼ばれるようになる。
つまり、餓死する兵士たちである。

現在も、未だに、兵士の遺骨が散乱している。
玉砕の島である。





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2015年06月02日

玉砕33

昭和17年8月7日、早朝、ガダルカナルと同時に米軍上陸部隊の襲撃を受けた、ツラギ方面所在部隊は、ほぼ二時間に渡り、緊急電報を発信した。

それを受けた、現地海軍部隊第八艦隊の、反応は早かった。
当時、ラバウルにあった、第八艦隊は、東部ニューギニア・ポートモレスビー攻略作戦を巡り、変化してきた南太平洋方面の、新しい局面に策応して、同年七月に新設されたばかりの部隊だった。

第八艦隊司令長官、三川中将は、ラバウルに投錨していた艦艇に対して、手信号をもって、出撃準備を下命した。

戦局の急変に直面した三川長官は、連合艦隊の指示を待つことなく、いち早く重大な、決断をした。

それは、重巡群をつらねて、ガダルカナルに殺到し、揚陸作業中の敵輸送船団を砲撃、これを、粉砕するという、作戦である。

これが、第一次ソロモン海戦と称される戦闘が、生起する瞬間である。

ただ、これまでに、合同訓練を行なったことがなく、各艦隊が横に広がり、航行するためには、各艦のスクリューの回転数を、測定し、一致させることが必要になる。

その状況から、複雑な艦隊の形は避けて、一本棒につなげて、しかも、一航過を行なう。そして、夜の明けるまでに、敵空母の攻撃圏外に、避退するということ。

以下、詳しい作戦の様子は、省略する。

日本軍側が心配した、米機動部隊は、7日、8日の両日にわたる、日本軍基地航空部隊の空襲は、ガダルカナルに碇泊していた連合軍艦隊に、それほどの損害を与えなかった。

しかし、連続的に実施された空爆により、物資資材の揚陸作業が、しばしば中断し、予定よりも、遅れた。
このため、船団が留まる日数を、予定より、二日間は、延ばさなければならない、事態を迎えていたのである。

また、日本軍の行動は、心理的に、与えた影響もある。
空からの襲撃を知った、米機動部隊は、ためらうことなく、すぐさま、日本軍攻撃の航続距離圏外に、身を置き、更に、上級司令部の回答を待たず、避退していったのである。

連合軍の、機動部隊指揮官フランク・フレッチャー中将は、南太平洋部隊指揮官ロバート・ゴームリー中将に対して、
・・この方面の日本軍雷撃機の性能と技術は、きわめて優秀であるにつき、空母部隊の即時引揚げを具申する。
という、意味の電報を打っている。

そして、結局、フレッチャー中将は、引き上げの意見具申をした地点から、ゴームリー中将の返事と、指示を待つことなく、南下を開始した。

さて、三川長官は、その夜、23時26分、各艦隊独自に艦長が、戦闘指揮を執れという命令を出し、続いて、30分に、全軍突撃を下命した。

この海戦は、出会いがしらの乱闘であった。
ただ、夜間のことで、海戦の詳しい状況は、未だに明確ではないと、言われている。

その戦いは、わずか、六分間のうちに、大勢が決していたという。
戦果であるが・・・
日本側が、一発の命中弾も受けていないという、事実である。

第一次ソロモン海戦と言われる、戦いは、日本軍に僥倖の連続だったと研究家は言う。

飛行機の掩護のない、丸裸の巡洋艦隊群が、単縦陣で、敵地に乗り込むといった、未曾有のもので、ハワイ奇襲を別にすれば、太平洋戦争を通じて、類のないものといわれる。

ガ島上陸以来、一ヶ月を過ごした米軍は、その間に、ほとんど隙間のないトーチカ陣地を形成していた。
このような、堅牢な陣地を攻略するには、火砲で十分に叩いて攻めるのが、常道である。

しかし、日本軍には、幾つかの抜き差しならぬ制約のため、どうする事も出来なかった。

それは、輸送手段を主として、駆逐艦に頼ったため、重量制限が生じて、重火器類が、真っ先に敬遠された。
武器を伴わない人員だけの、名ばかりの重火器部隊が上陸した。
また、いくらかの重火器を海岸に揚げたとしても、攻撃準備地点まで、運ぶことが出来なかった。

分解して、ジャングル内の道なき道を人間が、担いでいくのだが、時間の制限があり、思い通りにゆかない。大半が、途中で放棄されたという。

更に、火気だけに留まらず、総攻撃をかけるとき、人間も現在地から、てんでに突撃するわけではない。あらかじめ、定められた攻撃準備の位置に集結して、展開しなければならない。
この、攻撃準備地点に到達するため、各部隊は、準備が不足している上に、時間にせかせられて、大変な苦労を払うのである。

川口支隊の各大隊は、おおむね上陸した地点から、しばらく海岸を辿り、それから山側に入った。しかし、ジャングル地帯というのが、いいまでに体験しなかったものだった。
フィリピン、マレー半島のそれと比べて、形相が一段と険しかった。

昼なお暗く、夜になると、自分の鼻先に手を近づけても、よく見えないという暗闇である。

ただ、兵士たちは、奇妙な現象を目にしたという。
大木が腐食して、燐のように冷たく光っているというものだ。兵士たちは、その燐光を、前に行く戦友の背中につけて、それを、目印に夜のジャングルを進んだと言う。

何がなんだか事情が分らないままに、前線にやられた将兵が、満足な地図一枚持たされず、その上、狂いがちな磁石を持たされて、肝心な攻撃準備地点に行き着くまで、暫し、方向を見失ったのである。

一般の兵士だけではなく、大隊長クラスでも、自分たちが、どう進んでいるのか、皆目検討がつかないという状況である。

それゆえ、ほとんどの大隊長は、すぐ目の前に控えた夜襲を無理と感じて、初めから、死を覚悟していたという。
それは、上陸した、多くの部隊に言えた。

ガダルカナルの悲劇、玉砕は、戦争の悲惨さを伝えるに、十分な戦場である。





posted by 天山 at 06:19| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月03日

玉砕34

昭和17年、1942年、九月半ば、川口少将率いる、川口支隊の総攻撃が失敗に終わると、大本営陸軍部も、ようやくガダルカナル島の戦局が、容易ではないと気づく。

そして、第二師団を投入し、昭和17年、10月半ばに、第二回の総攻撃を実施することを、決めた。

その師団の兵力の輸送方法は、それまでの、駆逐艦による手段ではなく、安全度は高くても、積載量の面で、問題があった。
何度も往復しなければならず、総攻撃の予定日に、間に合わないのである。

重火器などの輸送も、駆逐艦では無理である。
危険を承知で、一挙多量に運べる、船団輸送という手段を選ぶしかない。

陸軍は、このラバウルからガダルカナル間の、海上護衛につき、連合艦隊に要請し、山本長官も、それを了承した。

輸送船団のガ島突入は、敵航空機の制圧を必要とした。
山本長官は、独自の判断で、かねてから懸念していた、艦隊によるガ島飛行場砲撃を実施しようとしていた。

それは、艦隊によって、ガ島飛行場を、直接砲撃するという海軍の作戦は、師団単位の兵力をもってする、陸軍の総攻撃によって、飛行場の奪還がなるか、ならぬかという時にあり、止むに止まれぬ案出された作戦である。

さて、ガ島飛行場砲撃の任務をおびた、第六戦隊の重巡青葉、古鷹、衣笠が、護衛艦吹雪、初雪を連れて、ショートランドを出発したのは、10月11日の正午である。

第六戦隊司令部は、敵機の跳梁がやむ、日没時を狙い、ガ島の200浬付近に到着し、サヴォ島の南方から、水道に進入し、所定の射撃地にいたり、一航過をもって、砲撃を実施し、再び、サヴォ島南方を経て、日の出頃には、ガ島から150浬圏外に離脱するという、計画を立てた。

第六戦隊が、射撃地点に達したとき、陸軍の協力で、ガ島上に灯火が点滅することになっていた。
艦上から、向って右に見える灯火が味方の最前線であり、艦までの距離を結ぶと、目標である飛行場の距離に等しくなる。
その灯火の位置より、左に直線を引いて、飛行場の所在を知り、そこに、三隻の主砲から、射出された瞬間信管装置の特殊弾が、暗夜を衝いて、集中されることになっていた。

問題は、彼らに、敵情の情報が何もないことだった。
夜に入ると、スコールである。

ただ、ガ島は、天候は晴れ、視界良好、である。
目の前の悪天候にかまわず、高速のまま突入しようとした。

ところが、青葉の見張り役が、敵を発見。
総員を配置につけ、戦闘状態に入ろうと、右回頭しようとした時、闇の向こうから、閃光と共に、砲弾が飛んできた。

その間、青葉は、所在を明らかにして、「ワレ、青葉」の発光信号を送り続けていた。
敵の初弾は、不発だったが、艦橋の正面に突入したため、五藤司令官以下司令部職員の大部分が、死傷した。

五藤少将は、両脚を太ももの付け根からもぎ取られ、瀕死の重傷を負った。

先頭を切って進んでいた青葉は、先制攻撃を受けて、当初は、なすところを知らなかった様子である。

初弾命中の約7分後、青葉は、煙幕を張って、早くも現場からの離脱を図っている。

だが、敵襲撃時、青葉の後方約1500メートルを続行していた、二番艦古鷹は、突然頭上に照明弾を発見して、驚いた。
艦長荒木大佐は、このままでは不利と判断。
取舵と下命、ついで戦闘魚雷戦、右砲戦を命じた。

ところが、敵弾が次々に命中して、魚雷発射管に被弾し、これが誘爆大火につながる。

火焔を背負いつつ、敵艦の方角へと突進する古鷹の姿を、青葉艦上に生存していた多数の者が見ている。
それが、最後の姿だった。

少し、詳しく様子を書いたが・・・
結局、ガダルカナル島の、砲撃計画は、失敗したのである。

青葉が不意に、集中砲火を受け、古鷹の沈没をもって、サヴォ島沖海戦は、終了したのである。

ここで、元来夜戦が不得手であった米海軍が、何故、生まれ変わったようになったのか。
それは、レーダーのお蔭である。
日本軍は、レーダーの存在に気づいていないのである。

次に、挺身攻撃隊の出撃である。

山本長官は、第六戦隊の悲報が届くが、それらの計画を変更しなかった。

第三戦隊、そして護衛艦艇は、挺身攻撃隊と呼ばれて、その任務は、矢張り、ガ島の飛行場にある、敵飛行機、及び燃料の焼却と、滑走路の使用封鎖であった。

ガダルカナルで、唯一、日本軍が優勢で、半年間に渡る戦闘の中で、連合軍を危機に追い詰めた作戦だった。

その内容については、省略する。

ただ、第三戦隊の、戦艦金剛、榛名によるガ島飛行場の制圧は、予想以上の成功をおさめた。この艦砲射撃は、第一次ソロモン海戦の勝利と並び、敗色一辺倒のガダルカナル戦における、華であったと言われる。

研究家は、日本軍が、もしガ島戦に勝つとすれば、この時期において、他はなかったはずであると、言う。

事実、太平洋の戦い全体を通じても、ほとんど、唯一といってよい日本軍の、陸海の協力は、この10月半ばをピークにして、力尽きたのである。

その後の、ガ島作戦、戦闘は、悲劇と化すのである。
餓死の島、餓島と化す。




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2015年06月04日

もののあわれについて749

まだ朝すずみの程に渡り給はむとて、とく起き給ふ。源氏「よべのかはほりを落として。これは風ぬるくこそありけれ」とて、御扇おき給ひて、きのふうたたねし給へりし御座のあたりを、立ちとまりて見給ふに、御しとねの少しまよひたるつまより、あさみどりのうすやうなる文の、押し巻きたるはし見ゆるを、なに心もなく引きいでて御覧ずるに、をとこの手なり。紙の香などいと艶に、ことさらめきたる書きざまなり。ふたかさねにこまごまと書きたるを見給ふに、まぎるべき方なく、その人の手なりけり、と見給ひつ。




朝の、まだ涼しいうちに、お出掛けになろうとして、早く起きられる。源氏は、夕べの扇子を落として。これは、風が涼しくない、と、檜扇を置き、昨日、うたた寝をなさっていた御座所のあたりを、立ち止まって御覧になると、座布団の少し乱れている端から、薄い緑の薄様紙の、手紙の押し巻いている、その端が見えるので、何気なく、引き出して御覧になる。男の手紙である。紙の香りも見事に、いかにも、意味ありげな書き振りだ。二枚にびっしりと、書いてあるのを見て、紛れもなく、あれの筆跡と、御覧になる。




御鏡などあけて参らする人は、見給ふ文にこそはと、心も知らぬに、小侍従見つけて、昨日の文の色と見るに、いといみじく胸つぶつぶと鳴るここちす。御粥など参る方に目も見やらず、「いでさりともそれにはあらじ。いといみじく、さる事はありなむや。隠い給ひてけむ」と思ひなす。




御鏡の蓋を開けて差し上げる女房は、御覧になるはずの手紙なのだろうと、何も考えないが、小侍従が見つけて、昨日の手紙の色だと思うと、大変だと、胸がどきどき鳴る気がする。朝ごはんなど、お給仕するほうには、見向きもせず、いや、いくらなんでも、あの手紙ではないだろう。本当に、大変だ。そんなことが、あるはずがない。お隠しされたことだろうと、思うようにするのである。




宮はなに心もなく、まだおほとのごもれり。「あないはけな。かかるものを散らし給ひて、われならぬ人も見つけたらましかば」と思すも、心おとりして、「さればよ。いとむげに心にくき所なき御ありさまを、うしろめたしとは見るかし」と思す。




宮様は、無心に、まだお休みである。
何とまあ、子供っぽい。このようなもものを、放っておおきになり、私以外の人が見つけたなら、と思うと、軽蔑され、だからなのだ、まるっきり、なっていないご様子を、気掛かりでたまらないと、思っていたのだと、思いになる。

小侍従の気持ちである。




いで給ひぬれば、人々すこしあかれぬるに、侍従よりて、侍従「きのふの物はいかがせさせ給ひてし。けさ院の御覧じつる文の色こそ似て侍りつれ」と聞ゆれば、あさましと思して、涙のただ出で来に出で来れば、いとほしきものから、いふかひなの恩さまやと見奉る。




宮様が、お出ましになったので、女房たちも、少々退屈していたので、侍従が傍により、昨日の手紙は、どうあそばされましたか。今朝、院が御覧になっていた、手紙の色が、似ていました。と申し上げると、びっくりして、涙が後から後からと、こぼれてくるのを見て、お気の毒だけれど、お話にならない方だと、拝見する。




侍従「いづくにかは置かせ給ひてし。人々の参りしに、事あり顔に近くさぶらはじと、さばかりのいみをだに、心の鬼に去りはべしを、入らせ給ひし程は、すこし程へ侍りにしを、隠させ給ひつらむとなむ思う給へし」と聞ゆれば、女三「いさとよ。見し程に入り給ひしかば、ふともえおきあがらでさしはさみしを、忘れにけり」と宣ふに、いと聞えむ方なし。




侍従は、どこへ、まあ、置き遊ばしましたか。女房たちが、お傍に参ったので、何かありそうに、お近くにいることはすまいと、そのくらいの事さえ、気がとがめて、下がりましたのに、お入りあそばした時まで、少し時間がありましたもの、お隠しになったと思っておりました。と、申し上げると、女三の宮は、いいえ、あの見ていたところに、お入りになったので、すぐに起き上がることが出来ず、はさんでおいたのを、それっきり、忘れてしまった。と、おっしゃるので、何とも、申し上げようがない。




寄りて見れば、いづくのかはあらむ。小侍従「あないみじ。かの君もいといたくおぢはばかりて、けしきにても漏り聞かせ給ふ事あらばと、かしこまり聞え給ひしものを、程だにへず、かかる事のいでまうで来るよ。すべていはけなき御ありさまにて、人にも見えさせ給ひければ、年ごろさばかり忘れがたく、恨み言ひわたり給ひしかど、かくまで思う給へし御ことかは。たが御ためにも、いとほしく侍るべきこと」と、はばかりもなく聞ゆ。心やすく若くおはすれば、なれ聞えたるなめり。




座布団の方に、寄って探すが、どこにあろう。侍従は、まあ、大変。あの方も、酷いこと怖がり、小さくなり、ちょっとでも、お耳に入ると、慎んでいらっしゃったのに。まだ月日が経たないうちに、このようなことが起こってしまうなんて。だいたい、あなた様が、幼いお方で、あの人に、姿をお見せになったので、長い間、あれほど、忘れることが出来ずに、逢わせて欲しいと、私に言い続けていらしたのだけれど、こうまでとは、思いも寄らないことでした。と、遠慮なく、申し上げる。それも、宮が、気楽な方で、子供子供していらっしゃるので、平気になっているのだ。

作者の言葉と、小侍従の心境が、ごちゃまぜになっている。




いらへもし給はで、ただ泣きにのみぞ泣き給ふ。いと悩ましげにて、露ばかりの物もきこしめさねば、女房「かく悩ましくせさせ給ふを、見おき奉り給ひて、今はおこりはて給ひにたる御あつかひに、心を入れ給へること」と、つらく思ひ給ふ。




宮は、お返事もされず、ただ泣きに泣くばかりである。すっかり、気を病んで、何も召し上がらない。女房が、こんなに、お苦しみになっていられるのに、放っておいて、もう、お治りになったお方の、お世話にご熱心でいらっしゃること。と、源氏が、薄情だと、女房たちは、思いを口にする。

女房達は、事の次第を、知らないのである。






posted by 天山 at 06:00| もののあわれ第13弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月05日

もののあわれについて750

おとどは、この文のなほあやしく思さるれば、人見ぬ方にて、うち返しつつ見給ふ。「候ふ人々の中に、かの中納言の手に似たる手して書きたるか」とまで思しよれど、言葉づかひきらきらと、まがふべくもあらぬ事どもあり。年をへて思ひわたりける事の、たまさかにほいかなひて、心やすからぬ筋を書きつくしたる言葉、いと見所ありてあはれなれど、「いとかくさやかには書くべしや。あたら人の、文をこそ思ひやりなく書きけれ。落ち散ることもこそと思ひしかば、昔かやうにこまかなるべき折節にも、ことそぎつつこそ書き紛らはししか。人の深き用意は難きわざなりけり」と、かの人の心をさへ見おとし給ひつ。




源氏は、この手紙が、どうしても、変に思われるので、人の目に触れないところで、何度も何度も、御覧になる。
お仕えしている女房達の誰かが、あの中納言の筆跡に似ている筆で書いたのかと、まで考えても、御覧になるが、言葉遣いは、はっきりと、ごまかしようがない証拠が、幾つもある。長い間、思い続けてきたことが、偶然、思い通りになり、それから後は、心配で、たまらないという風なことを、書き尽くしている言葉は、大変に見所があり、感心するが、こんなにも、はっきりと、書くことが、あるものか。惜しい男が、手紙に相手を困らすような書き振りをしたものだ。落として、人の目に触れることがあっては、と思うのだから、昔、このように、細々と書きたいときでも、簡単に、分らぬように書いたものだ。用心深さというのは、難しいことだ。と、あの男の心まで、軽蔑されるのだった。




「さても、この人をばいかがもてなし聞ゆべき。めづらしきさまの御ここちも、かかる事の紛れにてなりけり。いであな心うや。かく、人づてならず憂きことを知る知る、ありしながら見奉らむよ」と、わが御心ながらもえ思ひ直すまじくおぼゆるを、「なほざりのすさびと、はじめより心をとどめぬ人だに、またことざまの心わくらむと思ふは、心づきなく思ひへだてらるるを、ましてこれは。さまことに、おほけなき人の心にもありけるかな。帝の御めをもあやまつたぐひ、昔もありけれど、それは又いふかたことなり。宮仕へといひて、われも人も同じ君になれつかうまつる程に、おのづから、さるべき方につけても、心をかはしそめ、物の紛れ多かりぬべきわざなり。女御更衣といへど、とある筋かかる方につけて、かたほなる人もあり。心ばせ必ず重からぬうちまじりて、思はずなる事もあれど、おぼろけのさだかなるあやまち見えぬ程は、さてもまじらふやうもあらむに、ふとしもあらはならぬ紛れありぬべし。かくばかり、またなきさまにもてなし聞えて、うちうちの心ざしひく方よりも、いつくしくかたじけなきものに思ひはぐくまむ人をおきて、かかる事はさらにたぐひあらじ」と、つまはじきせられ給ふ。




源氏は、それにしても、この宮を、どのようにしたらよいのか。普通でないお体も、こういうことの、結果だったのだ。何と嫌な話しか。人伝ではなく、嫌な話しを知りながら、今まで通り、お世話をする気になろうか。と、我が心ではあるが、どうしても、元の気持ちに戻すことが出来そうになく、思うが、いい加減な遊びとして、初めから熱心ではない女さえ、別の男に、心を向けているようだと思うときは、嫌な気になり、離れてしまうものだ。それどころか、この宮は、特別な方だ。何と大それた、柏木の考えだろうか。帝の妃を犯した例は、昔もあったが、それはまた、事情が違う。宮仕えといっても、自分も相手も、同じ君に、お仕えしている間に、いつの間にか、勤め向きのことで、好意を持つようになり、その結果、過ちも多くなることもある。女御更衣といっても、何か一つの点について、欠点のある人もいる。性分が、慎重ではない人も中にはいて、思いもかけないこともあるが、並々ではなく、はっきりした間違いが分らない間は、そのままで、付き合ってゆくことも出来るので、すぐには分らない間違いも、起こるだろう。こんなにまで、大事にして差し上げて、本当に愛している、紫の上よりも、立派な勿体無いものとして、大事にしている自分をおいて、こんな事をするのは、全く例がないこと。と、つい、非難してしまうのである。




「帝と聞ゆれど、ただすなほに、おほやけざまの心ばーばかりにて、宮づかへのほどもものすさまじきに、心ざは深きわたくしのねぎごとになびき、おのがじしあはれを尽くし、見過ぐしがたき折のいらへをも言ひそめ、じねんに心かよひそむらむ中らひは、同じけしからぬすぢなれど、よる方ありや。わが身ながらも、さばかりの人に心わけ給ふべくはおぼえぬものを」と、いと心づきなけれど、また「気色に出だすべき事にもあらず」など思し乱るるにつけて、「故院のうへも、かく御心には知ろしめしてや、知らず顔をつくらせ給ひけむ。思へばその世の事こそは、いとおそろしくあるまじきあやまちなりけれ」と近きためしを思すにぞ、恋の山路はえもどくまじき御心まじりける。




源氏は、帝と申し上げても、ただ真っ直ぐ、お勤めだという気持ちだけでは、お仕えしている間も、面白くない。そんな時に、真心のこもる、個人的な願いの文句に引かれて、それぞれに、愛情を傾け尽くし、黙っていられぬ時の、返事も言い始めて、いつしか、心が通じるという仲ならば、同じ非常識の極みであるが、理由はある。我が事ながら、あれくらいの男に、愛を分けてよいとは、思われないが、と、甚だ不愉快であるが、といって、顔色に、出すべきではない、などと、煩悶される。それにしても、亡き上皇様も、このように内心では、ご存知で、知らない風を装っていらしたのかもしれない。考えると、あの事こそは、本当に恐ろしく、あってはならない、間違いだった。と、身近な例を、思うと、恋の山路は、非難できないという、気も、ないではない。




つれなしづくり給へど、もの思し乱るるさまのしるければ、女君、消え残りたるいとほしみに、渡り給ひて、人やりならず心苦しう、思ひやり聞え給ふにや、と思して、紫「ここちはよろしくなりにて侍るを、かの宮の悩ましげにおはすらむに、とく渡り給ひにしこそいとほしけれ」と聞え給へば、源氏「さかし。例ならず見え給ひしかど、ことなるここちにもおはせねば、おのづから心のどかに思ひてなむ、内よりはたびたび御使ひありけり。上もかく思したるなるべし。少しおろかになどもあらむは、こなたかなた思さむことの、いとほしきぞや」とて、うめき給へば、紫「内の聞しめさむよりも、みづから恨めしと思ひ聞え給はむこそ、心苦しからめ。われは思しとがめずとも、よからぬさまに聞えなす人々、必ずあらむと思へば、いと苦しくなむ」など宣へば、源氏「げに、あながちに思ふ人の為には、わづらはしきよすがなけれど、よろづにたどり深きこと、とやかくやと、おほよそ人の思はむ心さへ思ひめぐらさるるを、これはただ、国王の御心やおき給はむとばかりをはばからむは、浅きここちぞしける」と、ほほえみて宣ひ紛らはす。




源氏が、平気なふりをしているが、悩みの様子が明らかなので、女君、紫の上は、余命が長くないと、可愛そうに思い、こちらにお帰りになり、紫の上は、そうされたことで、気がとがめ、宮様を、お気の毒に思っているのではないかと、気分は、だいぶ良くなりました。あちらの宮様が、お加減が悪くてしらっしゃる様子で。すぐに、お帰り下さってください。お気の毒です。と、申し上げるので、源氏は、それなんですよ。普通のお体ではないようですが、ご気分が悪いという様子でもなく、自然に急がない気になって。御所からも、お使者がありました。今日も、お手紙があったとか。院が、特別重くお願いされたので、主上も、こんなに大事にされるのでしょう。少しでも、疎かにすれば、お二方の思し召しが、気になります。と、溜息をつく。
紫の上は、御所の思し召しよりも、宮様ご自身が、恨めしいと思うことのほうが、お気の毒です。ご自分は、悪く思わずとも、あしざまに申し上げる人々がいるでしょうと、思うと、辛く思います。などと、おっしゃるので、源氏は、なるほど、大事に思う人にとっては、やっかいに思う親戚など、ありはしないことで、何やかにやと、詮索することで、ああだ、こうだと、そこいらの女房の考えることまで、推測するが、私は、ただ、国王が、ご機嫌を損ねぬことだけを、気にしているようでは、愛情が、浅いわけですね。と、微笑んで、言い紛らわす。




渡り給はむことは、源氏「もろともに帰りてを、心のどかにあらむ」とのみ聞え給ふを、紫「ここにはしばし心安くて侍らむ。まづ渡り給ひて、人の御心もなぐさみなむほどにを」と、聞えかはし給ふほどに、日ごろへぬ。




あちらにお越しになることについては、源氏は、一緒に帰ってから、ゆっくり行こう、と、おっしゃっばかりなので、紫の上は、私は、もう暫く、気楽にしております。先にお越しになって、あちらの、お心の晴れた頃に、私も、と、話し合いしているうちに、何日かを経た。





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2015年06月08日

もののあわれについて751

姫宮は、かく渡り給はぬ日ごろのふるも、人の御つらさにのみ思すを、今はわが御おこたりうちまぜてかくなりぬると思すに、「院もきこしめしつけて、いかに思い召さむ」と世の中つつましくなむ。




姫宮は、このように、お越しのない日が続くのも、院が薄情だからだと、思うのだが、今は、ご自分の過ちも加わり、こうなったのだと、思うと、父の院も、お耳にされて、どう思うであろうかと、二人の事で、身の縮まる思いである。




かの人もいみじげにのみ言ひわたれども、小侍従もわづらはしく思ひ嘆きて、「かかる事なむありし」と告げてければ、いとあさましく、「いつのほどにさること出で来けむ。かかる事は、ありふれば、おのづから気色にても、もりいづるやうもやと思ひしだに、いとつつましく空に目つきたるやうにおぼえしを、ましてさばかり、だがふべくもあらざりし事どもを見給ひてけむ、はづかしくかたじけなくかたはらいたきに、朝夕すずみもなきころなれど、身もしむるここちして、言はむ方なくおぼゆ。年ごろ、まめごとにもあだごとにも、召しまつはし参りなれつるものを、人よりはこまかに思しとどめたる御けしきの、あはれになつかしきを、あさましくおほけなきものに、心おかれ奉りては、いかでかは目をも見あはせ奉らむ。さりとてかきたえ、ほのめき参らざらむも人目あやしく、かの御心にも思し合はせむ事のいみじさ」など、安からず思ふに、ここちもいと悩ましくて、内へも参らず。さして重き罪にはあたるべきならねど、身のいたづらになりぬるここちすれば、「さればよ」と、かつはわが心も、いとつらくおぼゆ。




あちら、柏木も、熱心な手紙ばかりを、何度もよこすが、小侍従も面倒に思い、困ってしまい、こんな事があったと、知らせたので、酷く驚き、いつの間に、そんなことが起こったのだろう。こういうことは、何度もしているうちに、自然な雰囲気でも、知れてしまうのではないかと、思うだけでも、身が縮まる思いで、空に目がついているような気がした。それどころか、あのようにはっきりした手紙を、御覧になり、顔も向けられず、勿体無く、きまりが悪いので、朝晩と、涼しくも無い頃なのに、風が見にしむ気がして、言いようも無い感じがする。
長い年月、用のあるときも、遊びのときも、お呼びくださり、参上しなれていたのに、他の人よりは、お心にかけて下さっている、ご様子を、ありがたくも、嬉しくも思っていたのに、驚くほど、知らずの奴と、隔てをおかれたりしたら、とても、お顔が拝めない。だからといい、全然参上もせず、少しばかり、顔を出すということもしなければ、これまた、人が変だと思うだろう。あちらでも、さてはと、思うだろう。それが、たまらない。などと、気が気ではない思いがして、気分も悪く、御所へも、参内しない。特に重い罪に処せられるはずではないが、一生を無駄にしてしまった気がするので、矢張りと、一つには、自分の恋も、辛く感じられる。

柏木の心境を綴る。




「いでや、しづやかに心にくきけはひ見え給はぬわたりぞや。まづはかの御簾のはざまも、さるべき事かは。かるがるしと、大将の思ひ給へる気色みえきかし」など、今ぞ思ひあはする。しひてこの事を思ひさまさむと思ふ方にて、あながちに難つけ奉らまほしきにやあらむ。「よきやうとても、あまりひたおもむきに、おほどかにあてなる人は、世の有様も知らず、かつ候ふ人に心おき給ふこともなくて、かくいとほしき御身のためにも、人のためにも、いみじき事にもあるかな」と、かの御事の心苦しさも、え思ひはなたれ給はず。




そう言えば、落ち着いた心の深さというものが、無い方だ。第一、あの御簾の隙間だって、あろうことか、身分に相応しくないと、大将は、思っていた。などと、今になって、気が付く。無理に、自分の恋心の思いを、覚まそうとするあまり、無理矢理、あちらを悪く言いたいのでしょうか。
良いことだからといい、あまり、一途におっとりして、上品な人は、世間の事も知らなく、一つには、お付きの女房に気をつけることも無く、このように、お気の毒なご自分のためにも、相手のためにも、大変なことになるのだ。と、あの方が、お気の毒だという気持ちも、捨て切れないでいる。

柏木の思いと、作者の感想が、交じる文である。
柏木も、女三の宮のことに、少し気づいたのだ。




宮はいとらうたげにて、悩みわたり給ふさまの、なほいと心苦しく、かく思ひはなち給ふにつけては、あやにくに、うきに紛れぬ恋しさの苦しく思さるれば、渡り給ひて見奉り給ふにつけても、胸いたくいとほしく思さる。御祈りなど、さまざまにせさせ給ふ。大方の事はありしに変はらず、なかなかいたはしく、やむごとなくもてなし聞ゆるさまを増し給ふ。けぢかくうちかたらひ聞え給ふさまは、いとこよなく御心へだたりて、かたはらいたければ、人目ばかりを目やすくもてなして、思し乱るるに、この御心のうちしもぞ苦しかりける。さる事みきともあらはし聞え給はぬに、みづからいとわりなくおぼしたるさまも、心をさなし。いとかくおはするけぞかし。よきやうといひながら、あまり心もとなくおくれたる、たのもしげなきわざなり、と思すに、世の中なべてうしろめたく、女御のあやまりやはらかにおびれ給へるこそ、かやうに心かけ聞えむ人は、まして心みだれなむかし。女はかうはるけ所なくなよびたるを、人もあなづらはしきにや、さるまじきにふと目とまり、心強からぬあやまちはし出づるなりけり、と思す。




宮は、可愛らしく、引き続き、気分が優れない様子で、矢張り、気の毒で、こんなに捨てるとなると、かえって、嫌だという気持ちでは、消えない、恋しい思いが辛くてたまらず、お出かけになって、お会いするときも、胸がつまり、気の毒に思う。
御安産の御祈り、その他あれこれと、させる。一通りの事は、今までと変らず、かえって、いたわりを見せて、大事にお扱い申し上げることを、強める。お二人で、お話をされるときは、全然、気持ちが離れてしまい、具合が悪いので、人前だけは、体裁をつくり、源氏の煩悶は、続いているゆえ、宮のお心の中が、たまらないのだ。
あの手紙を見たことを、打ち明けることはないのに、自分勝手に、酷く、悩むのも、子供っぽいことだ。こんなでいらっしゃるから、鷹揚なのがよいといっても、男女の間は、どれも心配になり、女御は、度を過ぎて、やさしくのんびりしているから、こんな思いを起こす男がいたら、柏木以上に、無我夢中になるだろう。女が、これほどに、話しにならないほど内気なら、相手も馬鹿にして、ひかれてはならない女に心惹かれて、気強くないがために、過ちを犯すのだと、源氏は、思うのである。

源氏の複雑な心境である。
女三の宮は、妊娠して、いるのである。


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2015年06月09日

もののあわれについて752

「右の大臣の北の方の、とりたてたる後見もなく、幼くよりものはかなき世にさすらふるやうにて生ひいで給ひけれど、かどかどしく労ありて、われも大方には親めきしかど、憎き心の添はぬにしもあらざりしを、なだらかにつれなくくもてなして過ぐし、この大臣の、さる無心の女房に心合はせて入り来たりけむにも、けざやかにもてはなれたるさまを人にも見え知られ、ことさらに許されたる有様にしなして、わが心と、罪あるにはなさずなりにし」など、「今おもへばいかにかどある事なりけり。ちぎり深き中なりければ、長くかくてたもたむ事は、とてもかくても同じごとあらましものから、心もてありしこととも、世人も思ひいでば、少しかるがるしき思ひ加はりなまし。いといたくもてなしてしわざなり」と思し出づ。




右大臣の北の方、つまり、玉葛が、特に世話役もなく、小さい時から、心細い生活をして、大人になったのに、才気があり、やり方が上手で、自分も表向きは、親みたいにしていたが、困った気持ちも、なくはなかったのを、やんわりと、問題にせず、受け流し、この右大臣が、あんな無分別な女房と、心を合わせて、入って来た時も、はっきりと、何も無かったと、誰にも分らせて、改めて、許されたこととして、自分の仕向け方で、不義密通ではないことにした。などと、今になって思えば、何と上手な、やり方だったことか。前世からの約束の深い二人になったのだから、長く夫婦で暮らして行くことは、どちらにしても、確かだったが、自分の心で、したのだと、世間の人も思っていたら、少しは、身分に相応しくないという、感じも、交じるだろう。まことに、上手にしたものだと、思い出しになる。

源氏の、心境である。
右大臣とは、髭黒大将だった。
玉葛を妻にした、髭黒の、やり方を、源氏は思いだしている。




二条の内侍のかんの君をば、なほたえず思ひいで聞え給へど、かくうしろめたき筋のこと、うきものに思し知りて、かの御心よわさも少しかるく思ひなされ給ひけり。つひに御本意のごとし給ひてけりと聞き給ひては、いとあはれにくちをしく御心うごきて、まづとぶらひ聞え給ふ。今なむとだににほはし給はざりけるつらさを、あさからず聞え給ふ。




源氏は、二条の尚侍の君、朧月夜を、いつも変らず、思い出していらっしゃるが、こんなに目も離せないことでは、やりきれないと、身にしみて、朧月夜の、お心の弱さも、少々軽蔑されるようになった。とうとう、ご希望通り、出家されたと、お聞きになって、まことに、あはれに惜しい気がして、とりあえず、お手紙を差し上げた。予定も知らせず、辛いことを、色々と申し上げる。




源氏
あまの世を よそに聞かめや 須磨の浦に もしほたれしも 誰ならなくに

さまざまなる世の定めなさを、心に思ひつめて、今まで後れ聞えぬる口惜しさを、思し捨てつとも、さりがたき御回向のうちには、まづこそはと、あはれになむ」など、多く聞え給へり。




源氏
あなたの、尼におなりなのを、よそ事とは、思いません。須磨の浦で、涙に濡れたのは、他の誰のせいでもありません。

人生の無常を、あれこれと考えて、今日まで、出家せず、先を越されて残念ですが、私の事は、捨てられたが、御回向の中には、まず、第一に私を入れて下さろうと思うと、涙が出ます。などと、細々と、書いている。




とく思し立ちにし事なれど、この御さまたげにかかづらひて、人にはしかあらはし給はぬことなれど、心のうちあはれに、昔よりつらき御契りを、さすがに浅くしも思し知られぬなど、かたがたに思しいでられる。御かへり、今はかくしも通ふまじき御ふみのとぢめと思せば、あはれにて、心とどめて書き給ふ、墨つきなどいとをかし。
朧月夜「常なき世とは身ひとつのみ知り侍りにしを、おくれぬと宣はせたるになむ、げに、

あま船に いかがは思ひ おくれけむ あかしの浦に いさりせし君

えかうには、あまねきかどにてもいかがは」とあり。濃きあをにびの紙にて、しきみにさし給へる。例の事なれど、いたくすぐしたる筆づかひ、なほふりがたくをかしげなり。




早くから、考えていたことであるが、源氏の反対に、押されて、誰にも、そんなことは、おっしゃらないが、胸の中は、涙で、昔からの、辛い約束事を、それでも、浅いことと、考えられない。などと、思い出される。
ご返事は、今はもう、こんなやり取りもしてはならない、最後の、お手紙と思うので、気をつけて、書かれる。その書き振りの見事さ。

朧月夜
無常の人生と、私は、分りましたが、先を越されたとの、お言葉、本当に、

あま船に、どうして、お乗り遅れされたのでしょう。明石の浦で、いさりをなさった、あなたが。

回向は、一切衆生のためです。勿論、お入れします。と、ある。
濃い、青鈍色の紙で、しきみに、差しているのは、決まり通りだが、今は、まるきり、絶えてしまった、女の事とて、お見せ申し上げる。

玉葛、そして、朧月夜と、突然のように、出てくる話。
これが、源氏物語である。



posted by 天山 at 06:48| もののあわれ第13弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月10日

もののあわれについて753

二条の院におはします程にて、女君にも、今はむげにたえぬる事にて、見せ奉り給ふ。源氏「いといたくこそ恥づかしめられたれ。げに心づきなしや。さまざま心ぼそき世の中のありさまを、よく見すぐしつるやうなるよ。なべての世の事にても、はかなくものを言ひかはし、ときどきによせて、あはれをも知り、ゆえをも過ぐさず、よそながらのむつかはしつべきく人は、斎院とこの君とこそは残りありつるを、かく皆そむきはてて、斎院はた、いみじう勤行めて、紛れなく行にしみ給ひにたなり。なほここらの人のありさまを聞き見る中に、深く思ふさまに、さすがになつかしき事の、かの人の御なずらひにだにもあらざりけるかな。




二条の院にいらした時で、女君、紫の上にも、今は、まるっきり絶えてしまった、女の事として、お見せ申し上げる。
源氏は、酷くやられた。全く、面白くも無い。何やかやと、心細い世の中の有様を、よく、我慢して、生きてきたものだ。
世間話でも、深い意味なしに、言葉を交わし、その時々に応じて、興も感じ、趣も見逃さず、離れていても、仲良くできる人は、斎院と、この人とが、生き残っていたのだが、このように、皆、入道してしまい、斎院はと言えば、立派なお勤めぶりで、余念なく勤行に精進していらっしゃるということだ。矢張り、大勢の婦人方の様子を見聞きしてきた中に、深く考えるたちで、それでいて、慕わしい感じのすることでは、斎院と、比べられる人は、いなかった。

斎院とは、朝顔で、出家している。




をんなごをおほし立てむ事よ、いとかたかるべきわざなりけり。宿世などいふらむものは、目に見えぬわざにて、親の心にまかせがたし。おひ立たむほどの心づかひは、なほ力いるべかめり。よくこそあまたかたがたに、心を乱るまじき契りなりけれ。




女の子を育て上げるということ、これは、まことに難しい仕事だ。前世の約束などは、目に見えないもので、親の心のままにはならない。大きくなって行く際の注意は、矢張り、力を入れなくてはならないだろう。うまい具合に、大勢、あちこちの子供に心配しないですむ、運勢だった。




年ふかくいらざりし程は、さうざうしのわざや、さまざまに見ましかばとなむ、嘆かしきをりをりありし。若宮を心しておほしたて奉り給へ。女御はものの心を深く知り給ふほどならで、かくいとまなきまじらひをし給へば、何事も心もとなき方にぞものし給ふらむ。御子たちなむ、うしろめたかるまじき心ばせ、つけまほしきわざなりける。限りありて、とざまかうざまのうしろみまうくるただ人は、おのづからそれにも助けられぬるを」など聞え給へば、紫「はかばかしきさまの御うしろみならずとも、世にながらへむ限りは、み奉らぬやうあらじと思ふを、いかならむ」とて、なほものを心細げにて、かく心にまかせて、行ひをもとどこほりなくし給ふ人々を、うらやましく思ひ聞え給へり。




まだ、年が若く、のんびりとしている間は、子供がないと、物足りないことだ。何人もいたらいいがと、嘆かわしく思ったことも、何度かある。若宮を注意して、お育て申し上げてくれ。女御は、何も十分に分らない年頃で、こんな気の張るお付き合いを続けていらっしゃるから、何につけても、うまく出来ない点があるだろう。皇子様方は、矢張り、十分に、誰からも悪口を言われぬように。一生心配なく、お過ごしされるのに、困らないだけの、考えを、十分につけたいことだ。たいした身分でなくても、それぞれに相応しい結婚相手を見つける、臣下の女は、自然と、夫にも助けられるのだが。などと、申し上げると、紫の上は、お役に立つお世話ではなくとも、私は、生きております限りは、お世話いたしますつもりですが、でも、どうなのでしょう。と、矢張り、何か、心細い感じで、こんなに思う分、勤行を、邪魔なしにされる方々を、羨ましく思うのである。




源氏「尚侍の君に、さまかはり給へらむ装束など、まだ栽ちなれぬ程はとぶらふべきを、袈裟などはいかに縫ふものぞ。それせさせ給へ。ひとくだりは六条の東の君にものしつけむ。うるはしき法服だちては、うたて見めもけうとかるべし。さすがにその心ばへ見せてを」など聞え給ふ。青鈍のひとくだりをここにはせさせ給ふ。つくも所の人めして、しのびて、尼の御具どものさるべきはじめ宣はす。御しとね、うはむしろ、屏風、几帳などのことも、いとしのびて、わざとがましくいそがせ給ひけり。




源氏は、尚侍の君に、入道されての御装束など、まだ作るに不慣れな間は、してあげるべきだが、袈裟などは、どのように縫うものなのだ。それを、やってくれ。一そろいは、六条の東の君に、頼むとしよう。儀式ばった法服となっては、見た目もおかしな、面白くないだろう。出家の服装であっても、女らしいものにするように、なとど、お頼みになる。青鈍の一揃いは、こちらで、お作りになる。宮中の、作物所の役人をお召しになって、こっそり、尼君のお道具の適当なものを、作るように、命ずる。座布団、上敷き、屏風、几帳なども、目立たぬように、それでいて、特に気をつけて、ご準備なさったのである。




かくて、山の帝の御賀ものびて、秋とありしを、八月は大将の御忌月にて、楽所のこと行ひ給はむに、びんなかるべし、九月は院の大后のかくれ給ひにし月なれば、十月にと思しまうくるを、姫いたく悩み給へば、またのびぬ。




こうして、法王陛下の、御賀も延びて、秋には、ということだったが、八月は、大将の母君の祥月なので、楽所のお世話をされるのに、都合が悪いだろう。九月は、院の御母、皇太后のお亡くなりになった月だから、十月にとのご予定のところ、姫宮が、酷く苦しみになられるので、また、延びた。

大将の母は、葵の上である。
姫宮の、苦しみとは、妊娠のことである。






posted by 天山 at 05:37| もののあわれ第13弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月11日

玉砕35

ガダルカナル島の米軍の状況は、日本軍が、持てるだけの力を出してしまったことを、知らない。
それが、大反攻の前触れと感じた。

日本陸軍が、一個師団をもって、地上から総攻撃を期していた以上は、確かに、米軍の推理に間違いがなかった。

南太平洋海域司令官ロバート・ゴームリー中将は、西南太平洋方面司令官ダグラス・マッカーサー陸軍大将に対して、協力を求め、ラバウル及び北部ソロモンの日本軍航空基地を空襲して、その空軍力を弱めて欲しいと、要請した。

その日の深夜、第八艦隊長官三川中将が、直率する重巡島海以下の、外南洋部隊所属の艦艇が、陸軍の高速船団を間接支援しつつ、ガ島に接近し、ルンガ沖に突入して、800発に近い砲弾を、飛行場に撃ち込んでいる。

また、陸軍も、新しく編制されたばかりの通称「住吉兵団」が、海軍の艦砲射撃に呼応して、13日夜以降、擾乱射撃の目的をもって、間歇的に放った十五榴弾が、いずれかの米軍陣地に落下した。

ゴームリー中将は、音を上げて、
現在のような敵の強力な圧力が今後も続くとするなら、ガダルカナルを持ちこたえることができるかどうかわからない
という意味の報告を、太平洋部隊総指揮官チェスター・ミニッツ大将にするのである。

ガ島の戦局の報告を受けた、ミニッツ大将は、
現在、われわれはガダルカナル島戦において明らかに苦境に立っている。周辺海域の支配は完全とはいえなくなり、地上部隊に対する補給は大きな犠牲をともなうことを覚悟する必要がある。
との懸念である。

だが、ソロモン方面の前途を打開する手段として、ゴームリー中将を更迭するという、手段に踏み切った。

再度、日本軍である。
10月に一挙挽回を目指した、大本営である。

丸山中将率いる、第二師団、そして、佐野中将率いる、第三十八師団を、第十七軍司令官、百武仲将の指揮下に入れることにした、大本営陸軍部は、
ガ島は、第二師団主力と他部隊の足並みがそろったところで、10月に一挙に挽回を期す。
という、命令を発した。

ただこの時点では、第三十八師団は、ガ島投入は、考えていない。東部ニューギニア戦線に充当するつもりだった。

師団単位の兵力を輸送するとなると、これまで以上に、海軍の協力が必要になる。
それゆえ、輸送船団を組み、10月11日頃に、一挙に輸送を敢行するという、手段である。

この方法以外に、10月半ばの総攻撃は、不可能という、結論に達していた。

10月3日、丸山師団は、ガ島タサファロングに上陸した。
そして、マララという川の上流に進み、そこを戦闘指令所開設地とした。
そこへ、夜襲に失敗した、川口支隊長からの、報告が届いた。

その内容は、
現在までガ島に上陸したわが方の全兵力は、約9000名、そのうち戦病死その他約2000、健在の者約5000名であるが、その戦力の回復には相当の日時を要し、攻撃力としては期待できない。
というものである。

すでに、マラリアなどの病気と、絶食状態が続いていたのである。
大半の者が、戦うだけの体力を、なくしていたのだ。

それは、他の連隊、大隊も、そうだった。

悲劇は、すでに始まっていたのである。

丸山中将は、強気だった。が・・・
ボネギ川から、後方に退いた川口支隊と交替して、マタニカウ川の右岸を占領し、飛行場制圧射撃部隊、及び主力砲兵の展開の掩護を命じられた、那須部隊が動く。

この那須部隊の、マタニカウ川岸進出により、敵との予想外の衝突が起きる。
それは、まだ、師団のすべてが上陸追及していないうちである。
本格的な戦闘を迎えることは、
攻撃開始の時機は別命す
という、軍命であった。丸山師団長としても、本意ではなかった。

結果は、第四連隊は、大打撃を受け、第一大隊などは、壊滅的痛手を受けたのである。

この、マタニカウ川の戦闘は、ごく短い期間で、勝敗が決した。
米軍の、凄まじい火力を、身に沁みて感じた。
戦った将兵は、ほとんど絶望的な、精神的打撃を受けたのである。

結局、軍は、丸山師団長が、一個連隊をもって、マタニカウ川の東岸部隊を、増強交替させようとして、敵の猛烈な砲爆撃と、地上攻勢を受けて果たせず、後退のやむなきに至ったことを、認めざるを得ない状況になった。

軍司令部が受けた衝撃は、大きかった。
それ以上に大きなかったのは、ガ島にある兵力の深刻な、疲弊である。
食糧が欠乏し、一線部隊は、飢餓状態である。

だが、一旦、動き始めた作戦計画の、歯止めを止めることは出来なかった。

この、ガダルカナルの戦いは、仔細に研究されている。
だが、ここでは、多く省略する。

第二師団による、総攻撃の失敗が、確定的となった10月26日未明から、夜にかけて、海上では、日米の機動部隊が、再度衝突していた。

サンタクルーズ諸島北方海域に進出してきていた、エンタープライズとホーネットの、二つの空母を中心とする、米機動部隊に、地上戦闘を支援する任務を帯びて南下した、空母翔鶴、瑞鶴の機動部隊が、衝突した結果である。

さて、万策尽きた丸山師団は、軍戦闘指令所に、その旨を報告した。
これを受けた、百武軍司令官は、攻撃中止命令を出した。

同時に、大本営に対して、第三十八団を上陸させ、再度の総攻撃を試みる旨、報告したのである。
止める気配はなかった。


posted by 天山 at 06:06| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月12日

玉砕36

一木支隊、川口支隊、そして、第二師団と、師団単位の兵力を投入しつつ、ガダルカナル島飛行場奪回は、ならなかった。

大本営、第十七軍は、第三十八師団をもって、第三回目の総攻撃に、最後の望みを託すしかなかった。

しかし、結果は、輸送船団に大被害が出て、総攻撃は、行われなかったのである。

輸送船団の主たる目的は、第三十八師団の全兵力と、それに見合う、武器弾薬を、輸送するということである。
しかし、実際に、ガ島へ渡ることが出来た兵力は、500名にも、満たなかったのだ。

そして、つまり、それ以降、ガ島に対する兵員と、武器弾薬などの輸送が、一切行われなかったのであるから、これで、本格的なガ島における地上作戦は、終わりを告げたのである。

これは、十七軍司令部、大本営陸軍部に、先に行われた、第二師団の総攻撃の失敗以上の、衝撃を与えた。
それは、第八方面軍の新設、そして、撤収作戦へと発展してゆく、きっかけとなったのである。

ここで、被害の状況をまとめると、陸軍の戦死者2万1000名である。
その内実は、直接の戦闘による戦死者は、5000名から6000名である。
残りは、栄養失調、マラリア、下痢及び脚気によるもので、その原因は、補給の不十分に基づく、自然消耗によるものである。

戦死者の約70パーセントが、食糧、医療品の補給が断たれた状況化で生じた、広義の餓死者だった。

これも、玉砕である。

この、ガダルカナルの悲劇は、その後、各地域の戦場で、繰り広げられることになるのである。

ガダルカナル島の攻防戦は、アジア・太平洋戦争の、最大の転換点となった。
これ以後は、連合軍が、質量ともに、急速に戦力を拡充してゆくことになる。

更に、悲劇なことは、それを大本営は、知らなかったのである。
つまり、情勢分析の、誤りである。

当時のアメリカは、どのように考えていたのか。
大本営は、それを何一つ、知ることがなかった。
戦争観の違いである。

米軍は、ガダルカナル島に、侵入したのは、序の口である。

大本営は、敵の主力艦隊が、太平洋のどこかに、大挙して押し寄せ、連合艦隊と決戦をするという、イメージである。
そして、それにより、戦争終結を図るというもの。

ところが、アメリカの、戦争終結の考え方は、日本本土を直撃することであった。
それ以外の、手段は、有り得ないというもの。

空襲により、工業地帯を破壊し、海上を封鎖して、干し挙げる。
いずれにしても、日本本土で決着をつけるのである。

そのため、陸海空軍が、つねに一緒になり、島嶼を陥落させ、制空・制海権を同時に伸張しつつ、そこを不沈空母として、日本本土を目指し、島から島へと飛び石伝いに、北上するというもの。

アメリカ側の戦略構想に気づいたら・・・
違った対応を考えたであろうと、思える。

兎に角、アメリカは、戦争に長けている国である。

しかし、今は、昔である。
追悼の悼みを持って、次に進む。

ガ島撤退後、大本営陸軍部の対ニューギニア策の第一に選ばれたのが、サラモアの南南西約60キロにある、小部落ワウであった。

ここは、東部ニューギニア南岸および、サラモア、ココダ、マンバレー方面に通ずるルートの分岐点であり、小規模でも、飛行場がある、山間部の要地である。

これを、第八十一作戦という。

戦略態勢確立のためにも、奪取したいと陸軍は、第五十一歩兵団長少将の率いる、第百二連隊の二個大隊を急派した。

奇襲戦法をとったが、堅陣地に肉弾突撃を行なう結果、一回の攻撃で、致命的な打撃を受けたのである。

だが、陸軍部は、ポートモレスビー攻略を目指し、そこを押さえなければ、ニューギニア戦線の安定はないとの、考えであった。

昭和17年12月下旬に、各師団を移動させた。
朝鮮半島、中国戦線などからである。

海軍としても、この陸軍兵力の大量輸送に協力しないわけには、いかない。

さて、以下、省略して、おおよその事を書く。

翌年、昭和18年2月20日から、26日の間に、第四十一師団、主力約1万3000名を、四回に分けて、ウエワク輸送が行われた。

そして、敵勢力圏にもっとも近く、危険度も高い、ラエ輸送は、2月28日に実施される。
船団は、ラバウルから出発する。

3月3日の日没前に、ラエに到着し、揚陸作業を行なうとの計画である。

しかし、船団は、1日午後から、敵潜水艦、敵機の攻撃を受け始めた。
2日ご前八時過ぎに、B17爆撃機二機の攻撃を受け、旭盛丸が二発の直撃弾を受けて火災を起こし、約一時間後に、沈没した。

3日午前零時に、上陸する。

輸送部隊は、その後も二回のB17の爆撃を受けたが、大きな被害はなかった。
船団は、2日夜、ウンボイ島をなかにはさんで、ニューブリテン島と、ニューギニアを隔てる、ダンピール海峡を、北上から、通過した。

そこが、悲劇の、ダンピール海峡になるのである。




posted by 天山 at 05:52| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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