2015年05月15日

玉砕28

マレー沖海戦は、昭和16年12月9日、午後3時10分、マレー半島東方洋上を哨戒中だった、伊号65潜水艦が、仏印の最先端である、マレー岬の南南東約420キロ付近で、英戦艦二隻が、北方に向けて航行中であるのを、発見したときから始まる。

当時、世界最強の不沈戦艦といわれた、プリンス・オブ・ウェールズと、高速戦艦レパスルである。

なんと、日本軍は、この二隻を撃沈したのである。

警戒航行中の戦艦を、航空機だけの攻撃で沈めたのは、世界の戦争史上において、初めての出来事である。

それまでは、航空機で、戦艦を沈めることは、出来ないと、されていたのである。

イギリスのチャーチルは、開戦の報告に、狂喜したが、その翌日は、地に堕ちた体験をしたわけである。

日本軍が、真珠湾攻撃で、奇襲攻撃をして、アメリカが参戦したことを、立ち上がって喜んだチャーチルである。
勿論、喜んだのは、多々いる。

ドイツ、ヒトラー、イタリア、ムッソリーニ、そして、世界中の有色人種たちである。
決して、敵わないと考えていた有色人種は、喝采したのである。
日露戦争の際も、そうだった。
そして、今度は更に、歓喜したのである。

白人に立ち向かう国、日本は、世界の注目を集めた。
何百年もの、白人支配の下で圧制されていた、植民地の人々の感激は、いかばかりだったのか、測り知れないものがある。

この、日本の行為が、その後、植民地の人々に、独立の気運を作ったといえる。

戦争に到る、様々な要因と、そして、戦争後に訪れる、意識の変革。
それは、多面的に、眺めることが、必要である。

さて、日本は、戦争の長期化を見通しがないままに、進めたといえる。
だが、一つだけ、明確なことは、なるべく、ジャワ、スマトラ、ボルネオの石油を手に入れて、自給自足の体制を整えるということだった。
資源の無い日本・・・
大戦争を決意するとすれば、それ以外に、取るべき道はない。

フィリピン、マレーの攻略は、当時の蘭印、つまり、オランダ領東インドと呼ばれていた、インドネシアへの、ルートを拓くという意味を持っていた。

日本軍は、昭和17年、1942年2月に、ジャワ島に進攻することになった。

バリ島、スラバヤ、バタビアの各海戦は、いずれも、ジャワ全島攻略を巡る、必然的に起きた、海上戦闘であった。

当時の、ジャワ島周辺には、米英蘭三国の、東洋艦隊がいすわり、抵抗の気配濃厚である。

バリ島沖海戦は、バリ島攻略に向った、日本軍輸送船団を、連合国軍艦隊が阻止することで、2月19日の夜から、20日未明にかけて、展開された。

実は、バリ島の攻略は、大本営の規定方針にないものだった。
しかし、蘭印攻略作戦実施の途中で、東部ジャワ攻略のための、航空基地として、クローズアップされたものである。
特に、現地海軍の、強い主張を、陸軍・南方軍総司令部が受け入れて、実現の運びとなった。

現在、観光地として、日本人の多くが出掛けるが、まさか、バリ島沖海戦など知るよしもないだろう。
更に、その隣のロクボク島に、司令部も置かれたのである。
それは、現地の人に聞いて、私も知った。

バリ島沖海戦は、第四次海戦まで、行われたのである。

そのバリ島では、日本軍に米を奪われたため、バリ島始まって以来の食糧不足に陥った。

その際に、米を運ぶことを断った人たちが、日本兵に暴行された。
私は、その生き残りの老人にも、出会った。
申し訳ないと、私が言うと、もう、昔のことなので、忘れたと、言ってくれたことが、救いだった。

その海戦でも、兵士の戦死がある。
確かに、戦いには、勝ったが・・・

さて、次ぎは、スラバヤ沖海戦と、バタビア沖海戦である。
バタビアとは、現在のジャカルタである。

共に、ジャワ全島攻略作戦の過程で生起した、海上戦闘である。

七月下旬を期して、ジャワ島東部のクラガシに上陸予定の、陸軍兵力、第十六軍の第四十八師団を乗せた輸送船を、直接護衛する、第四水雷戦隊と、これを支援する第五戦隊および、第二水雷戦隊が、スラバヤ沖で、連合軍の水上部隊と衝突したのが、スラバヤ沖海戦である。

ここでも、敵は損害を出して、現場から逃れて、日本軍の勝利である。

バタビア沖海戦は、ジャワ島西部に上陸予定の陸軍部隊を乗せた、輸送船団五六隻を護衛した、第五水雷戦隊と、これを支援する、第七戦隊が、ジャワ海に入り、何度か敵艦隊と遭遇していたが、決戦にまで至らなかった。

その後、東部ジャワ攻略部隊が、一手に引き受けた戦闘の形で、3月1日未明、船団は、西部ジャワ・バタビア付近の、バンダム湾と、メクラ湾方面の二手に分かれて、無事入泊する事が出来た。

戦闘が起きたのは、これ以降である。

日本軍の攻撃は、実に激しいものだった。
敵は、戦意を喪失して、その主砲は、全く沈黙である。
沈没寸前の敵艦二隻に対して、容赦の無い攻撃を加えた。

ここでも、日本軍の勝利である。

ただこの時、混戦乱戦が続くうちに、味方の輸送船団に、魚雷を放ったという話がある。
輸送船の佐倉丸が、沈没し、三隻も相当な損害を受けたのである。







posted by 天山 at 06:29| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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