2015年05月08日

もののあわれについて742

ただいささかまどろむともなき夢に、この手ならしし猫の、いとらうたげにうち鳴きて来たるを、この宮に奉らむとて、わがいて来たるとおぼしきを、何しに奉りつらむと思ふほどに、おどろきて、いかに見えつるならむと思ふ。




ほんの少し、うとうとしたとも言えない夢に、自分が可愛がっていた、あの猫が、まことに可愛らしい声で、鳴きながらやって来たのを、この宮に差し上げようと思い、自分が連れてきたらしいのだが、何のために差し上げるのだろうと思うところで、目が覚めて、どうして、あんな夢を見たのだろうと、思う。




宮は、いとあさましく、うつつとも覚え給はぬに、胸ふたがりて思しおぼほるるを、柏木「なほかくのがれぬ御宿世の、浅からざりけると思ほしなせ。みづからの心ながらも、うつし心にはあらずなむ覚え侍る」かのおぼえなかりし御簾のつまを、猫の綱ひきたりし夕のことも、聞えいでたり。「げにさはたありけむよ」と口惜しく、契り心うき御身なりけり。院にも今はいかでかは見え奉らむ、と悲しく心細くて、いと幼げに泣き給ふを、いとかたじけなくあはれと見奉りて、人の御涙をさへのごふ袖は、いとど露けさのみまさる。




宮は、驚ききり、現実とも思われないので、胸が一杯になり、途方に暮れている。
柏木は、やはり、このように、逃げられない御運命、浅くは無かったのだと、思ってください。私自身も、正気ではないと思われます。と、あの昔の考えられもしない御簾の端を、猫の綱が引いた夕方の事を申し上げた。
本当に、そんなことも、あったのかと、残念で・・・
前世からの約束の、拙い御方ではあった。院にも、こうなっては、どうしてお顔が合わせられようと、悲しく、心細くて、まるで子どものように、泣かれるのを、大変もったいなく、胸が締め付けられる思いで、拝し、宮の御涙を拭く袖は、いっそう、露が増えるばかりである。




明けゆくけしきなるに、いでむ方なくなかなかなり。柏木「いかがはし侍るべき。いみじく憎ませ給へば、また聞えさせむこともありがたきを、ただひと言御声を聞かせ給へ」と、よろづに聞えなやますも、うるさくわびしくて、物のさらに言はれ給はねば、柏木「はてはてはむくつけくこそなり侍りぬれ。またかかるやうはあらじ」と、いとうしいと思ひ聞えて、柏木「さらば不用なめり。身をいたづらにやはなしはてぬ。いと捨てがたきによりてこそ、かくまでも侍れ。今宵に限り侍りなむもいみじくなむ。つゆにても御心ゆるし給ふさまならば、それに代へつるにても捨て侍りなまし」とて、かき抱きて出づるに、はてはいかにしつるぞと、あきれて思さる。すみの間の屏風をひき広げて、戸を押しあけたれば、渡殿の南の戸の、よべ入りしがまだあきながらあるに、まだ明けぐれのほどなるべし。ほのかに見奉らむの心あれば、格子をやをら引きあげて、柏木「かういとつらき御心に、うつし心もうせ侍りぬ。すこし思ひのどめよと思されば、あはれとだに宣はせよ」とおどし聞ゆるを、「いとめづらかなり」と思して、ものも言はむとし給へど、わななかれて、いと若々しき御さまなり。




夜が明けて行くようだが、出て行く方向もなく、むしろ来なかった方が、よかったと思う。
柏木は、どう致しましょう。酷いことを、お悩みになっていらっしゃるので、もう一度、お話申し上げることも、難しいことでしょう。せめて、一言、お声を聞かせてください。と、何かと困ることを申し上げるが、煩わしく、迷惑で、何もおっしゃらない。
柏木は、とうとう気味が悪くさえなります。他にこのような方法がありましょうか。と、酷い仕打ちと思い、それでは、もう生きても、何もならない。いっそ、死んでしまいましょう。死にたくなかったからこそ、ここまで参ったのです。今夜きりの命と思うと、辛く思います。ほんの少しでも、許して下さるお気持ちがあれば、その代わりに私の命を、捨てましょう。と言い、抱いて外へ出るので、これから、どうするつもりなのかと、分らなくなるのである。
隅の間の、屏風を広げて、その向こうの戸を開けると、渡殿の南の戸の、昨夜入って来たのが、開いたままで、まだ夜明けの暗い時刻なのだろう。少しでも、お顔を見ようという気があるので、格子をそっと引き上げて、
柏木は、こんなに酷い、無情なお方なので、正気も無くなってしまいました。少しは、短気を出すと思いなら、せめて、可愛そうとだけでも、おっしゃって下さい。と、脅し申すのを、とんでもないことと思い、何か言おうとされるが、震えてしまい、本当に、子供ぽい御様子である。




ただ明けに明けゆくに、いと心あわただしくて、柏木「あはれなる夢語りも聞えさすべきを、かく憎ませ給へばこそ。さりとも今おぼしあはする事も侍りなむ」とて、のどかならず立ちいづる明けぐれ、秋の空よりも心づくしなり。

柏木
おきて行く 空も知られぬ あけぐれに いづくの露の かかる袖なり

とひきでてうれへ聞ゆれば、いでなむとするに少し慰め給ひて、

女三の宮
あけぐれの 空にうき身は 消えななむ 夢なりけりと 見てもやむべく

とはかなげに宣ふ声の、若くをかしげなるを、聞きさすやうにて出でぬる、魂は、まことに身をはなれてとまりぬるここちす。




夜は、どんどんと明けて行くので、気ぜわしく、柏木は、驚きになるような、夢の話しも、申し上げたいのですが、こんなにお恨みになっているのでは。それでも、すぐに、思い当たる事もありましょう。と、気ぜわしく出て行く明けぐれは、秋の空よりも、物思いを誘う。

柏木
起きて、帰って行く、行く手もわからない。この暗闇に、どこの露が、袖にかかっているのでしょう。

と、袖を引っ張り出して、嘆いて見せるので、出て行くのだと、少しほっとされて、

女三の宮
あけぐれの空に、この身は消えてしまいたい。夢だったと思うことを・・・

と、力弱くおっしゃるお声が、子供のように美しいのを、聞きかけのようにして、出てしまった男の魂が、体を離れて、後に残った感じである。




posted by 天山 at 05:44| もののあわれ第13弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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