2015年05月01日

もののあわれについて740

なほかの下の心わすられず。小侍従といふ語らひ人は。宮の御侍従の乳母の女なりけり。その乳母の姉ぞ、かのかんの君の御乳母なりければ、早くよりけぢかく聞き奉りて、まだ宮をさなくおはしましし時より、いと清らになむおはします、帝のかしづき奉り給ふさまなど、聞きおき奉りて、かかる思ひもつきそめたるなりけり。




柏木は、今なお、心の内を忘れられない。
小侍従という相談相手は、宮の御侍従の乳母の娘である。その乳母の姉が、あの、かんの君の御乳母だったので、昔から、親しく様子を伺っていて、まだ宮が幼い時から、大変、美しくいらっしゃるとか、陛下が大事にしている様子を、聞いていたので、こんな、恋心も、ついたのである。

かんの君とは、柏木のことで、衛門の督であり、今、中納言になった。




かくて院も離れおはしますほど、人目少なくしめやかならむを推しはかりて、小侍従を向かへとりつつ、いみじう語らふ。柏木「昔より、書く命もたふまじく思ふことを、かかる親しきよすがありて、御有様を聞き伝へ、たへぬ心のほどをも聞し召させて頼もしきに、さらにそのしるしのなければ、いみじくなむつらき。院の上だに、朱雀「かくあまたにかけかけしくて、人におされ給ふやうにて、ひとり大殿ごもる夜な夜な多く、つれづれにて過ぐし給ふなり」など、人の奏しけるついでにも、少し悔い思したる御けしきにて、朱雀「同じくは、ただ人の心安き後見を定めむには、まめやかに仕うまつるべき人をこそ定むべかりけれ」と宣はせて、朱雀「女二の宮のなかなか後やすく、行く末長きさまにてものし給ふなること」と宣はせけるを伝へ聞きしに、いとほしくも、口惜しくも、いかが思ひ乱るる。げに同じ御筋とはたづね聞えしかど、それはそれとこそ覚ゆるわざなりけれ」と、うちうめき給へば、小侍従「いで、あなおほけな。それをそれとさし置き奉り給ひて、またいかやうに、限りなき御心ならむ」と言へば、うとほほえみて、柏木「さこそありけれ。宮にたかじけなく聞えさせ及びける様は、院にも内にも聞しめしけり。「などてかは、さても候はざらまし」となむ、事のついでには宣はせける。いでや、ただ今すこしの御いたはりあらましかば」など言へば、小侍従「いとかたき御ことなりや。御宿世とかいふ事はべなるをもとにて、かの院のことにいでてねんごろに聞え給ふに、立ち並びさまたげ聞えさせ給ふべき御身の覚えとや思されし。この頃こそ、少しものものしく、御衣の色も深くなり給へれ」と言へば、いふかひなくやりたなる口ごはさに、え言ひはて給はで、柏木「今はよし。すぎにし方をば聞えじや。ただかくありがたきものの暇に、気近くほどにて、この心のうちに思ふことのはし、すこし聞えさせつべくたばかり給へ。おほけなき心はすべて、よし見給へ、いと恐しければ、思ひはなれて侍り」と宣へば、小侍従「これよりおほけなき心は、いかがあらむ。いとむくつけきことをも思しよりけるかな。何しに参りつらむ」と、はちぶく。




このような様子で、源氏もおい出であそばさない頃、見る人もなく、静かだろうと、推察して、柏木が、小侍従を呼び出し、懸命に頼み込む。
柏木は、昔から、こんなに死ぬほど思っていることを、こんな親しい縁者がいて、ご様子を聞き伝え、抑え切れない気持ちを聞いていただけて、頼みにしている。だが、全然、その甲斐がないので、たまらなく辛い。上皇様でも、こんなに大勢婦人がいて、誰かに負けているようで、一人でお休みになる夜が多く、所在なく日を送っていられる、などと、申し上げる人がいたとき、少しは、後悔した顔付きで、同じことなら、臣下の気楽な婿を取るのなら、心を込めて、お仕えするべき者を、婿にするのだった、と、仰せになる。更に、女二の宮は、かえって、心配もなく、将来末永く幸福に、暮らすだろう、と、仰せ下されたと、漏れ聞いて、お気の毒でもあり、残念でもあり、どんなに心が乱れていることか、まあ、同じ姉妹を頂戴したが、それはそれ、別のことに思えることだ、と、溜息をつくと、小侍従は、まあ、身の程知らずなこと。それをそれとお置き申し上げて、別にどのように。酷すぎるでしょう。と、言うと、
柏木は、にっこりとして、その通りなのだ。宮様のことを、恐れながら、お願い申し上げたことは、上皇様におかれても、主上におかせられても、お耳にあそばして、おられる。どうして、許してやって悪かろう、などと言うと、
小侍従は、とても出来る事では、ございません。ご運という事が、ございます。それが元で、六条の院が、口に出して、丁重に申し上げるのに、同じようにお願いして、邪魔をされるほどの、こ威勢と、思いますか。近頃こそ、少しは、貫禄がついて、お召しの物の色も濃くなりましたが。と言うので、こちらを問題にもせず、まくし立てる口達者に、言いたいことも、言い切れず・・・
柏木は、もういい。昔のことは、申さずにおく。ただ、こんな珍しい、人目のないときに、お傍近くで、この心の中に思うことの、少しのほどを、申し上げられる手立てを、考えてください。見に不相応な望みなどは、全然なく、見ていてください。怖いことですから、考えてもいません。などと、おっしゃるので小侍従は、これ以上、不相応な望みなど、考えられますか。本当に、気味の悪い事を、考えています。何で、こちらへ参ったのでしょう。と、口を尖らせて言う。




柏木「いであな聞きにく。あまりにこちたくものをこそ言ひなし給ふべけれ。世はいと定めなきものを、女御、后もあるやうありて、ものし給ふ類なくやは、ましてその御有様よ。思へばいと類なくめでたけれど、内々は心やましきことも多かるらむ。院の、あまたの御中に、また並びなきやうにならはし聞え給ひしに、さしもひとしからぬきはの御方々にたちまじり、めざましげなる事もありぬべくこそ。いとよく聞き侍りや。世の中はいと常なきものを、ひときはに思ひ定めて、はしたなくつききりなる事な宣ひそよ」と宣へば、小侍従「人におとされ給へる御有様とて、めでたき方に改め給ふべきにやは侍らむ。これは、世の常の御有様にも侍らざめり。ただ御後見なくて、ただよはしくおはしまさむよりは、親ざまに、と譲り聞え給ひしかば、かたみにさこそ思ひかはし聞えさせ給ひたれめ。あいなき御おとしめ言になむ」と、はてはては腹立つを、よろづに言ひこしらへて、柏木「まことは、さばかり世になき御有様を、見奉り慣れ給へる御心に、数にもあらずあやしきなれ姿を、うちとけて御覧ぜられむとは、さらに思ひかけぬことなり。ただ一言、ものごしにて聞え知らすばかりは、何ばかりの御身のやつれにかはあらむ。神仏にも思ふこと申すは、罪あるわざかは」と、いこじきちかごとをしつつ宣へば、しばしこそ、いとあるまじきことに言ひかへしけれ、もの深くからぬ若人は人のかく身にかへていみじく思ひ宣ふを、えいなびはてで、小侍従「もしさりぬべきひまあらば、たばかり侍らむ。院のおはしまさぬ夜は、御帳のめぐりに人多く候ひて、おましのほとりに、さるべき人かならず候ひ給へば、いかなるをりをかは隙を見つけ侍るべからむ」と、わびつつ参りぬ。




柏木は、ええもう、聞きづらいことを。酷く強すぎる言い方をするものだ。縁は、分らないもので、女御とか、后という人でも、事情があって、そんなことがある例もなくはないだろう。それ以上に、そちらの待遇だ。考えれば、またとないほどご立派であるが、内々では、ご不満が沢山あろう。上皇様が、大勢のお子様の中で、特に第一にいつも、可愛がっていらしたのに、たいして身分もよくないご婦人方と一緒になり、抑え切れないこともあるに違いない。よく聞いています。世の中は、無常なものなのに、一方にだけ決めてしまい、無茶な言い方をされるものではない。と、おっしゃると
小侍従は、誰かに負かされているご様子だといって、結構な方と、ご再婚されることができましょうか。このご結婚は、世間普通のご結婚ではないそうです。ただ、お世話役なしで、御身が固まらないでいらっしゃるよりは、親代わりに、とお譲り申し上げされたので、お互いに、そういうものと、思いあって、いらっしゃるようです。つまらない悪口をおっしゃる。と、しまいに腹を立てるので、何かと弁解して、
柏木は、本当に、あれほど、またとないお姿を、いつも見慣れているお方に、人数でもないみすぼらしい姿を、繕わず見ていただこうとは、全然、考えもしないことです。ただ、一言、障子越しで、お耳に入れるだけなら、どれほどご迷惑なことでしょう。神様、仏様にも、自分の思う事を、申すのは、罪になることではありますまい。と、大変な誓い言をしながら、おっしゃるので、暫くの間は、とても出来ない話しだと拒んでいたが、思慮の深くない若い子で、この人が、これほど命懸けで、大変な言い方をするので、とても反対しきれず、
小侍従は、もし適当な隙があれば、工夫しましょう。院がおいであそばさない夜は、御帳台の周りに、女房が大勢お付きしていて、宮様のお傍には、ちゃんとした人が、必ずお付きしています。どんな機会、隙を見つけられるでしょう。と、困りつつ、帰っていった。



posted by 天山 at 06:14| もののあわれ第13弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月07日

もののあわれについて741

柏木「いかにいかに」と日々にせめられて困じて、さるべき折りうかがひつけて、消息しおこせたり。よろこびながら、いみじくやつれてのびておはしぬ。まことにわが心にもいとけしからぬことなれば、けぢかくなかなか思ひ乱るることもまさるべきことまで思ひもよらず、ただいとほのかに、御ぞのつまばかりを見奉りし春の夕の、あかず世とともに思ひいでられ給ふ御有様を、少しけぢかくて見奉り、思ふことをも聞え知らせては、ひとくだりの御返りなどもや見せ給ふ、あはれとや思し知る、とぞ思ひける。




柏木は、どうだ、どうだと、毎日毎日責められて、困ってしまい、適当な機会を見つけて、手紙をよこした。
喜びつつ、目立たぬようにして、こっそりと、お出でになった。本当に自分ながら、まことに良くないことだと、思う。お傍に行き、かえって、煩悶が酷くなるはずだと、考えはせず、ただ、ほんの少し、お召し物の端ばかりを拝見した、あの春の夕暮れの、いつまでも、忘れず、思い出されるお姿を、もう少し、お傍で拝見し、心に思う事を、申し上げたら、ほんの一行でも、お返事を下さらないか。可愛そうにと、お考えくださらないかと、思うのである。




四月十余日ばかりの事なり。みそぎ明日とて、斎院に奉り給ふ女房十二人、ことに上臈にはあらぬ、若き人わらはべなど、おのがじしもの縫ひ化粧などしつつ、もの見むと思ひまうくるも、とりどりにいとまなげにて、御前の方しめやかにて、人しげからぬ折りなりけり。近く候ふ按察使の君も時々かよふ源中将せめて呼びいださせければ、おりたるまに、ただこの侍従ばかり、近くは候ふなりけり。よき折りと思ひて、やをら御帳の東面のおましの端にすえつ。さまでもあるべきことなりやは。




四月十何日かのこと。加茂の祭りの禊が明日だとあり、斎院にお供に差し上げる女房十二人、それから特に上臈ではない、若い女房や、童など、各々裁縫をし、化粧をしたりしつつ、見物に出ようと、準備をしているのも、それぞれ忙しそうで、宮の御前の方は、静かで、人が多くない時でした。
近くに控えている、あぜちの君も、時々通う源中将が、無理矢理呼び出させたので、自分の局に下った暇に、ただ、この侍従だけが、お傍近くに控えている。よい時だと思い、そっと、御帳台の東側の御座所の端に座らせた。
そんなにまで、することがあるでしょうか。

最後は、作者の言葉。
その状況を作者が、第三者のように書き付ける。




宮は何心もなく大殿ごもりけるを、近く男のけはひすれば、院のおはすると思したるに、うちかしこまりたる気色見せて、ゆかの下にいだきおろし奉るに、物におそはるるかと、せめて見上げ給へれば、あらぬ人なりけり。あやしく、聞きも知らぬ事どもをぞ聞ゆるや。あさましくむくつけくなりて、人召せど、近くも候はねば、聞きつけて参るもなし。わななき給ふさま、水のやうに汗も流れて、物も覚え給はぬけしき、いとあはれにろうたげなり。




宮は、何心もなく、お休みになったが、近くに男の気配がするので、院がお出でになったと思ったが、畏まった態度で、床の下に抱いて、下ろしたので、何かに襲われるのかと、怖いが、しいて見上げる。と、別人であった。妙な、訳の分らないことを、申し上げるのではないか。驚いて、気味悪くなり、人をお召しになるが、お傍に控えていないので、聞きつけて、参る者もない。震える様子である。水のように汗も流れ、何が何だか、お分かりにならないご様子である。まことに、お気の毒でもあり、可愛い感じである。




柏木「数ならねど、いとかうしも思しめさるべき身とは思う給へられずなむ。昔よりおほけなき心の侍りしを、ひたぶるにこめてやみはべなましかば、心のうちに朽たして過ぎぬべかりけるを、なかなかもらし聞えさせて、院にも聞し召されにしを、こよなくもてはなれても宣はせざりけるに、頼みをかけそめ侍りて、身の数ならぬひときはに、人より深き心ざしをむなしくなし侍りぬる事と、動かし侍りにし心なむ、よろづ今はかひなきことと思う給へかへせど、いかばかりしみ侍りにけるにか、年月にそへて、口惜しくも、つらくも、むくつけくも、あはれにも、いろいろに深く思う給へまさるに、せきかねて、かくおほけなきさまを御覧ぜられぬるも、かつはいと思ひやりなく恥づかしければ、罪重き心もさらに侍るまじ」と言ひもてゆくに、「この人なりけり」と思すに、いとめざましく恐ろしくて、つゆいらへもし給はず。柏木「いとことわりなれど、世に例なきことにも侍らぬを、めづらかに情なき御心ばへならば、いと心うくて、なかなかひたぶるなる心もこそつき侍れ、あはれとだに宣はせば、それを承りてまかでなむ」と、よろづに聞え給ふ。




柏木は、人並みではない私が、それほどまでに、軽蔑される身分だとは、考えられません。昔から、身分不相応の思いがございましたが、無理矢理に抑えて、申し上げずに終わりましたら、自分の心の中に、埋もれさせて、終わっていたでしょう。ですが、少々申し上げて、上皇様におかせられても、お耳にあそばしましたが、まるで問題にならぬ、とは仰せにならなかったことに、力を得まして、数にも入らぬ身分の一段と低さに、誰よりも、深くお慕いしている気持ちを、無にしてしまったと、残念に思ったことは、何もかも、今になっては、役に立たないと、思い返しますが、それでも、どれほど深く染み付きましたことか、年月が経つにつれて、残念にも、酷いとも、恐ろしいとも、懐かしいとも、あれこれと、物思いが強くなりますので、抑えきれず、このように、身の程を知らぬところを、お目にかけましたのも、考えのないことと、恥ずかしいので、これ以上の罪は絶対に重ねまいと、と言い続けるので、女三の宮は、あの人だと、お分かりになると、呆れて怖くて、何の返事もされない。
柏木は、ご無理もないことです。この世に例がないのでもないことですから、またとないほど、無情なご性質であるならば、嫌な気持ちになって、かえって、無理をする気も起こりましょう。可愛そうと、一言おっしゃってくだされば、そのお言葉を賜って、退出しましょう。と、何かと、申し上げる。





よその思ひやりはいつくしく、ものなれて見え奉らむも恥づかしくおしはかられ給ふに、ただかばかり思ひつめたるかたはし聞え知らせて、なかなかかけかけしき事はなくてやみなむと思ひしかど、やはやはとのみ見え給ふ御けはひの、あてにいみじく覚ゆることぞ、人に似させ給はざりける。さかしく思ひしづむる心もうけて、いづちもいづちもいて隠し奉りて、わが身も世にふるさまならず、あと絶えてみなばや、とまで思ひ乱れぬ。




よそながらの、想像では、威厳があり、身近に寄ることなど、とても出来ないと思われる御方なので、ただこれほど、思い詰めている、そのほんの少しでも、申し上げて、気がとがめるようなことは、しないで置こうと、思っていたが、何とそれほど、気高く卑下を感じさせるような方ではなく、優しい可愛らしく、ただ物柔らかに感じられるご様子が、上品で素晴らしいところは、人並み外れていられる。しゃんと思いを抑える心もなくなって、
何処へなりともお連れして、お隠し申し、自分も、この世を捨てて、姿を隠してしまいたいとまで、心が乱れたのである。

posted by 天山 at 05:48| もののあわれ第13弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月08日

もののあわれについて742

ただいささかまどろむともなき夢に、この手ならしし猫の、いとらうたげにうち鳴きて来たるを、この宮に奉らむとて、わがいて来たるとおぼしきを、何しに奉りつらむと思ふほどに、おどろきて、いかに見えつるならむと思ふ。




ほんの少し、うとうとしたとも言えない夢に、自分が可愛がっていた、あの猫が、まことに可愛らしい声で、鳴きながらやって来たのを、この宮に差し上げようと思い、自分が連れてきたらしいのだが、何のために差し上げるのだろうと思うところで、目が覚めて、どうして、あんな夢を見たのだろうと、思う。




宮は、いとあさましく、うつつとも覚え給はぬに、胸ふたがりて思しおぼほるるを、柏木「なほかくのがれぬ御宿世の、浅からざりけると思ほしなせ。みづからの心ながらも、うつし心にはあらずなむ覚え侍る」かのおぼえなかりし御簾のつまを、猫の綱ひきたりし夕のことも、聞えいでたり。「げにさはたありけむよ」と口惜しく、契り心うき御身なりけり。院にも今はいかでかは見え奉らむ、と悲しく心細くて、いと幼げに泣き給ふを、いとかたじけなくあはれと見奉りて、人の御涙をさへのごふ袖は、いとど露けさのみまさる。




宮は、驚ききり、現実とも思われないので、胸が一杯になり、途方に暮れている。
柏木は、やはり、このように、逃げられない御運命、浅くは無かったのだと、思ってください。私自身も、正気ではないと思われます。と、あの昔の考えられもしない御簾の端を、猫の綱が引いた夕方の事を申し上げた。
本当に、そんなことも、あったのかと、残念で・・・
前世からの約束の、拙い御方ではあった。院にも、こうなっては、どうしてお顔が合わせられようと、悲しく、心細くて、まるで子どものように、泣かれるのを、大変もったいなく、胸が締め付けられる思いで、拝し、宮の御涙を拭く袖は、いっそう、露が増えるばかりである。




明けゆくけしきなるに、いでむ方なくなかなかなり。柏木「いかがはし侍るべき。いみじく憎ませ給へば、また聞えさせむこともありがたきを、ただひと言御声を聞かせ給へ」と、よろづに聞えなやますも、うるさくわびしくて、物のさらに言はれ給はねば、柏木「はてはてはむくつけくこそなり侍りぬれ。またかかるやうはあらじ」と、いとうしいと思ひ聞えて、柏木「さらば不用なめり。身をいたづらにやはなしはてぬ。いと捨てがたきによりてこそ、かくまでも侍れ。今宵に限り侍りなむもいみじくなむ。つゆにても御心ゆるし給ふさまならば、それに代へつるにても捨て侍りなまし」とて、かき抱きて出づるに、はてはいかにしつるぞと、あきれて思さる。すみの間の屏風をひき広げて、戸を押しあけたれば、渡殿の南の戸の、よべ入りしがまだあきながらあるに、まだ明けぐれのほどなるべし。ほのかに見奉らむの心あれば、格子をやをら引きあげて、柏木「かういとつらき御心に、うつし心もうせ侍りぬ。すこし思ひのどめよと思されば、あはれとだに宣はせよ」とおどし聞ゆるを、「いとめづらかなり」と思して、ものも言はむとし給へど、わななかれて、いと若々しき御さまなり。




夜が明けて行くようだが、出て行く方向もなく、むしろ来なかった方が、よかったと思う。
柏木は、どう致しましょう。酷いことを、お悩みになっていらっしゃるので、もう一度、お話申し上げることも、難しいことでしょう。せめて、一言、お声を聞かせてください。と、何かと困ることを申し上げるが、煩わしく、迷惑で、何もおっしゃらない。
柏木は、とうとう気味が悪くさえなります。他にこのような方法がありましょうか。と、酷い仕打ちと思い、それでは、もう生きても、何もならない。いっそ、死んでしまいましょう。死にたくなかったからこそ、ここまで参ったのです。今夜きりの命と思うと、辛く思います。ほんの少しでも、許して下さるお気持ちがあれば、その代わりに私の命を、捨てましょう。と言い、抱いて外へ出るので、これから、どうするつもりなのかと、分らなくなるのである。
隅の間の、屏風を広げて、その向こうの戸を開けると、渡殿の南の戸の、昨夜入って来たのが、開いたままで、まだ夜明けの暗い時刻なのだろう。少しでも、お顔を見ようという気があるので、格子をそっと引き上げて、
柏木は、こんなに酷い、無情なお方なので、正気も無くなってしまいました。少しは、短気を出すと思いなら、せめて、可愛そうとだけでも、おっしゃって下さい。と、脅し申すのを、とんでもないことと思い、何か言おうとされるが、震えてしまい、本当に、子供ぽい御様子である。




ただ明けに明けゆくに、いと心あわただしくて、柏木「あはれなる夢語りも聞えさすべきを、かく憎ませ給へばこそ。さりとも今おぼしあはする事も侍りなむ」とて、のどかならず立ちいづる明けぐれ、秋の空よりも心づくしなり。

柏木
おきて行く 空も知られぬ あけぐれに いづくの露の かかる袖なり

とひきでてうれへ聞ゆれば、いでなむとするに少し慰め給ひて、

女三の宮
あけぐれの 空にうき身は 消えななむ 夢なりけりと 見てもやむべく

とはかなげに宣ふ声の、若くをかしげなるを、聞きさすやうにて出でぬる、魂は、まことに身をはなれてとまりぬるここちす。




夜は、どんどんと明けて行くので、気ぜわしく、柏木は、驚きになるような、夢の話しも、申し上げたいのですが、こんなにお恨みになっているのでは。それでも、すぐに、思い当たる事もありましょう。と、気ぜわしく出て行く明けぐれは、秋の空よりも、物思いを誘う。

柏木
起きて、帰って行く、行く手もわからない。この暗闇に、どこの露が、袖にかかっているのでしょう。

と、袖を引っ張り出して、嘆いて見せるので、出て行くのだと、少しほっとされて、

女三の宮
あけぐれの空に、この身は消えてしまいたい。夢だったと思うことを・・・

と、力弱くおっしゃるお声が、子供のように美しいのを、聞きかけのようにして、出てしまった男の魂が、体を離れて、後に残った感じである。


posted by 天山 at 05:44| もののあわれ第13弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月11日

もののあわれについて743

女宮の御もとにまうで給はで、大殿へぞ忍びておはしぬる。うちふしたれど目も合はず、見つる夢のさだかにあはれむ事もかたきをさへ思ふに、かの猫のありしさま、いと恋しく思ひいでらる、「さてもいみじきあやまちしつる身かな。世にあらむ事こそまばゆくなりぬれ」と、恐ろしくそら恥づかしきここちして、ありきなどもし給はず、女の御ためはさらにもいはず、わがここちにもいとあるまじき事といふ中にも、むくつけくおぼゆれば、思ひのままにもえ紛れありかず。帝の御めをも取りあやまちて、事の聞えあらむに、かばかり覚えむことゆえは、身のいたづらにならむ、苦しく覚ゆまじ。しかいちじるき罪にはあたらずとも、この院に目をそばめられ奉らむことは、いと恐ろしく恥づかしく覚ゆ。




女宮、つまり、女三の宮の姉、女二の宮のところにも、お出でにならず、父大臣邸に、こっそりお出でになった。横になったが、目も合わず、見た夢が、当るかどうかと、考えると、夢の中の猫の様子が、恋しく思い出される。
それにしても、大変な間違いをしたものだ。この世に、生きていくことが恥ずかしくなった。と、怖くて、何となく顔も上げられない気がして、出歩きもされない。
あちらの御身については、言うまでもなく、自分自身を考えても、けしからぬ事というばかりか、恐ろしいほどの事だから、自由に歩くことも出来ない。帝の后を誘惑して、それが評判になった場合でも、こんなに苦しむならば、この院に、睨まれるのが、恐ろしく恥ずかしく、思われるのである。




限りなき女と聞ゆれど、すこし世づきたる心ばへまじり、うへはゆえあり子めかしきにも、従はぬしたの心そひたるこそ、とあることかかることにうちなびき、心かはし給ふ類もありけれ、これは深き心もおはせねど、ひたおもむきに物おぢし給へる御心に、ただ今しも人の見聞きつけたらむやうに、まばゆく恥づかしく思さるれば、あかき所にだにえいざりいで給はず、「いと口惜しき身なりけり」と、みづから思し知るべし。




身分の高い婦人とは、申しながらも、少しは、訳知りもあり、表面は、教養があり、鷹揚でも、そうばかりではない気持ちもあるから、男の出方次第によって、言うとおりになり、愛し合うという、そういう方もいたが、この方は、深い考えもあるわけではないが、ただ一途に、怖がる性質で、丁度、今誰かが見つけたり、聞きつけたりしたかのように、目も上げられず、顔も合わせられない気持ちになるので、明るい所に出てお出でになることも出来ず、なんと情けない身なのだと、自分ながら、お分かりになる。

女三の宮の、心境である。




なやましげなむとありければ、おとど聞き給ひて、いみじく御心をつくし給ふ御事にうちそへて、また、いかにと驚かせ給ひて、渡り給へり。そこはかと苦しげなる事も見え給はず、いといたく恥ぢらひしめりて、さやかにも見あはせ奉り給はぬを、久しくなりぬる絶えまをうらめしく思すにや、といとほしくて、かの御ここちのさまなど聞え給ひて、源氏「いまはのとぢめにもこそあれ。今更におろかなるさまを見えおかれじとてなむ。いはけなかりし程よりあつかひそめて、見放ちがたければ、かう月ごろよろづを知らぬさまに過ぐし侍るぞ。おのづから、このほど過ぎば、見なほし給ひてむ」など聞え給ふ。かく気色も知り給はぬも、いとほしく心苦しく思されて、宮は、人知れず涙ぐましく思さる。




具合が悪いと、女三の宮が、申し上げたので、源氏は、聞きつけて、紫の上のことで、酷く心配していることの上に、更に、どういうことになるのかと、驚き、起こしになった。
どこが、どう苦しいとといふうに見えず、酷く恥ずかしがって、沈み込んで、顔も見せることをしないのを、長くなった、途絶えを、恨めしく思っているのかと、可愛そうで、あちらの病状などを、申し上げて、源氏は、これが最後かもしれない。今になって、薄情者と、思われたくないと思っている。小さな時から、育ててきて、今更、放っては、おけないから、このように、幾月も、何もかも捨てて、あちらの看病をしている。この時が終われば、お分かりになるでしょう。などと、申し上げる。
このように、何もご存知でないのも、お気の毒にも、心苦しくも思われて、宮は、人知れず、涙を流されるのである。




かんの君はまして、なかなかなるここちのみまさりて、おきふし明かし暮らしわび給ふ。祭の日などは、物見あらそひ行く君達かきつれて来て、言ひそそのかせど、なやましげにもてなして、ながめふし給へり。女宮をば、かしこまりおきたるさまにもてなし聞えて、をさをさうちとけても見え奉り給はず、わが方に離れいて、いとつれづれに心細くながめい給へるに、童の持たる葵を見給ひて、

柏木
くやしくぞ つみをかしける あふひ草 神のゆるせる かざしならぬに

と思ふもいとなかなかなり。世のなか静かならぬ車の音などを、よそのことに聞きて、人やりならぬつれづれに、暮らしがたく覚ゆ。




かんの君、柏木は、それ以上に、逢わないほうがよかったという、気持ちが強くなるばかり。寝ても覚めても、明けても、暮れても、嘆き暮らしているのである。
祭りの当日などは、物見に、先を争う、若殿達が連れ立って誘うが、気分が優れないと言い、物思いに耽って臥せていらっしゃる。女宮を大事にしているふうな態度はしていて、いっこうに、仲良くされず、自分の部屋に引き籠って、する事もなく、心細く、物思いに沈んでいるが、女の童が、持っている葵を御覧になり、

柏木
悔しいことだ。神がお赦しになったものでもないのに、葵を摘んで罪を犯してしまった。

と、思うのも、辛いもの。世間が、静かで、車の音が聞えるのを、人事として、我から招いた、つれづれに、一日を過ごしにくい感がする。

この、女宮は、女二の宮のこと。つまり、柏木の妻のことである。




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2015年05月12日

玉砕25

当時のアメリカの国内世論を見る。
ルーズベルト大統領は、国民に対しても、徹底した、世論操作をしている。

アメリカ国民は、孤立主義ムードが強かった。
ヨーロッパに関する関心も低い。
そして、第一次世界大戦で、戦争には、辟易していた。

アメリカ議会も、その国民の心情を反映して、欧州、極東への介入を危ぶみ、ルーズベルトを、アメリカ大統領から世界の大統領を目指すとして、祖国を、紛争に巻き込まないという、保証を求めていた。

ルーズベルト自身、いかなる戦争にも参加しない、という、公約を掲げて、当選したのである。

だが、世論は、巧みに操作された。
欧州の情勢に代わり、極東の危機が新聞をにぎわせる。

米民間の調査機関ギャロップ調査は、三分の二が、日本製品のボイコットに賛同し、四分の三が、対日武器禁輸を支持していると、報じた。
これは、前年の、二倍である。

そして、ルーズベルト大統領は、米国民の日本に対する憤激を抑えているのだという、印象を与えたのである。

だが、ここまで来たら、日本に対して、何らかの警告をしなければならないという、論調を導き出した。
その具体化が、昭和14年、1939年の日米通商航海条約の破棄通告である。

半年の間に、日米の関係が大幅に好転しない限り、条約が失効になるというものだ。
その後、両国関係の修復ならず、効力を停止した。

ルーズベルトは、その裏で、フィリピン・マニラと、ハワイ・真珠湾の軍備を強化し、ハワイ付近の洋上において、海軍の演習を実施することを、内談しているのである。
つまり、戦争準備である。

同時に、あらゆる禁輸令についての検討が、密かに、始められた。
それも、戦争準備である。

そして、日本の外交努力に対して、ハル国務長官は、
極東における横暴な権益拡張をわれわれに認めさせようとしている、との返答であり、アメリカの真の姿を日本に映したような言葉である。
権益を欲しているのは、アメリカであろう。

1940年の暮れ、大統領三選の目的を果たして、国内の人気取りを挽回したルーズベルトは、年末の慣例となる、ラジオ放送において、突然、ドイツに対する信念を明らかにした。

著名な民主主義の兵器・演説である。
ある国家がナチスと講和を結びえるのは、ただ全面的降伏という代価を開いて払った場合のみで、それ以外にはありえない。もしイギリスが敗れるようなことがあったなら、われわれはナチスの銃口の前で暮らすことになるだろう
として、ヒトラーが、英米にとって、供に天を戴かざる共通の敵であることを、公然と指摘した。
アメリカは、この時に当って、民主主義の兵器・となろう・・・
と、全国民に呼びかけた。

ヒトラーに追従する枢軸国と、いったん戦端をひらけば、中途半端な講和はありえず、相手国を無条件降伏の状態に崩壊させるまで、終わりがないという、覚悟を述べている。

この演説は、連合軍の第二次世界大戦を通じての、パックボーンになったのである。

この演説の具体的な現れの一つとして、武器貸与法が、翌年1941年1月10日、上・下院に提出された。

つまり、開戦ということで、決定していたのである。

枢軸国とは、日本を指す。

ヒトラーの野望は、欧州の統合であり、それに対して、イギリスのチャーチルが最も恐れていた。
チャーチルこそ、アメリカに参戦して欲しいのである。

世界最大の植民地政策の国、イギリスと、世界最大の戦争好き国家、アメリカである。
元を辿れば、キリスト教白人主義である。

相手が開戦を決めているのであるから、日本が、いくら外交努力をしても、せん無いことである。

だから、日本が決して飲めない、要求を平然としてくるのである。

国民大衆の愚かさは、アメリカだけではない。
多くの国、日本もそうである。
洗脳されたり、誤魔化される。
現在の、マスコミの報道もその一つである。

さて、アメリカは、日本に中国の利権を手放せという。
つまり、自分たちも、その分け前に預かりたいということである。

いつものことだが、アメリカは、自分の利権を他国に渡すようなことがあったか。
兎に角、奪う一方である。

その方法も、いつも穢い方法である。
アメリカの建国から考えても、真っ当に、進んで来た国ではない。

日本は、敗戦から、70年を経たが、未だに、アメリカの植民地としての、扱いである。
独立国とは、名ばかりの、名目だけの・・・

占領政策は、何も変っていない。

この頃は、アメリカの力も落ちてきたのか、日本に防衛の強化を言う。
このチャンスに、日本は、自衛、防衛の力を、格段に強化すべきである。
必要ならば、核兵器開発も視野に入れてもいいのである。

核兵器廃絶などという、人たちは、世界の複雑怪奇さを知らず、単純素朴に、考えているのである。
気づいたら、属国になっていたという、笑えない話である。

ぼんやりとした、宗教団体にそんなことは、任せておけば、いい。
彼らは、祈っても、核兵器が無くならない事を、知らないのである。


posted by 天山 at 05:46| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月13日

玉砕26

真珠湾の奇襲攻撃・・・
この攻撃によって、アメリカの国内世論は、一致して、日本に対する敵意が、例を見ないほどに、高まった。

まさに、ルーズベルト大統領と、ハル国務長官の思惑は、見事に成功した。

対日宣戦布告、そしてドイツとの戦争にも、アメリカ国内は、何の依存もなかった。

さて、開戦当初は、真珠湾だけではなく、陸軍主体の、香港のイギリス軍攻略、マレー半島の上陸作戦なども、成功した。

開戦から、わずか三週間の間に、中国からアジアの国々までの、二万キロに及ぶ戦線で、日本軍は、勝利を収めた。

更に、香港だけではなく、フィリピン、マレー、ボルネオ、グアムなどにも、占領地域を増やしている。

昭和17年の前半は、日本軍が、破竹の進撃を続けたのである。

フィリピンの首都マニラも制圧し、司令部を置いていた、アメリカ南西太平洋地域軍総司令官ダグラス・マッカーサーは、アイ・シャル・リターンという言葉を残して、マニラを去った。

ここで、象徴的なシンガポールを陥落させたことを書く。
マレー半島とは、現在のマレーシア、シンガポール、タイとミャンマーの一部である。
中でも、シンガポールは、太平洋とインド洋の接触点であり、東と西を結ぶポイントでもある。
そして、イギリス植民地主義の、象徴とも言うべき地域である。

マレー進攻作戦は、マレー半島の各所要地に立てこもる英軍を撃破しつつ、極東支配の牙城といわれる、シンガポール島の攻略を目的とする。
それは、壮大なスケールである。

大量の輸送船を連ねて、海上を押し渡り、上陸し、約1000キロに渡る、マレー半島の長距離を行く。
そして、近代要塞に覆われたシンガポールの陥落である。

英領であった、マレーシアのコタバトに上陸し、激しい敵の抵抗を受けたが、突破した。そして、その後の、シンゴラとパタニは、無血上陸だった。
そこから、南下してゆく。

兎に角、日本軍は、シンガポールを目指したのである。

クアラルンプール以南は、それまでとは違い、地形が開けて、道路網の発達も、日本軍に都合がよかった。

マレー半島の先端を占めるジョホール州では、敵の徹底抗戦である。
上陸して、三ヶ月、1000キロの敵中突破を果たして、シンガポールを目前にした。

シンガポールを目前にしていた頃、ジャワ海では、ジャワ沖海戦が起こっていた。
セレベス島に上陸していた日本海軍の陸上攻撃機が、スラバヤ方面の空襲に向いつつあった、南方部隊は、敵発見の報に、ただちに、敵艦隊へ殺到した。

連合国艦隊は、ボルネオ東海岸の油田地帯、バリックパパンを出航して、マカッサル海峡を航行中であるはずの、日本軍輸送船団を攻撃する目的だった。

被害を出した同艦隊は、目的を捨てて、避退したが、日本側は勝利とも言えず、中途半端なものだった。

さて、シンガポールであるが、2月10日、砲火をまじえた総攻撃が終わった時点で、日本軍は、敵が翌日あたり、降伏するのではと、見当をつけていた。

そして、2月15日、マレー軍総司令官が、幕僚三名、通訳一人を伴い、第25軍司令官山下泰文中将と会見した。
バーシヴァル中将は、無条件降伏を承諾し、降伏に関する回答書に、サインしたのである。

次に見るのは、グアム、ウェーク島である。
二つの島は、日本軍にとって、東京、硫黄島、南海島、ウオッゼ、ミレなどのラインを結び、南東へ延びる作戦線の重要な、拠点である。

開戦と同時に、日本軍は、中南部太平洋方面への、進攻作戦を進めた。

この作戦は、海軍が主となり、陸軍は、南海支援隊をもって、グアム、ラバウルの攻略に協力する形である。

グアムは、アメリカ領である。
昭和16年11月下旬、南海支援隊は、ひそかに輸送船九隻に乗船して、四国、坂出港を出航した。
途中、小笠原諸島の母島に寄港。12月4日、母島を出航して、マリアナ諸島東方航路を経て、グアムに向う。

10日、零時から一時の間に白地に進入し、午前2時過ぎに、上陸を開始した。
そして、その日のうちに、島内要所をことごとく占領し、16時過ぎに、アガニア市にある、グアム政庁を占領して、総督マクミラン大佐以下368名と市民115名が捕虜となり、政庁付近の公会堂に収容された。

ウェーク島は、22日、上陸するが、敵の抵抗も激しかった。
しかし、全島の指揮官カニンガム米海軍中佐を捕虜としたとの報を受けて、梶岡少将は、23日22時15分、ウェーク島の占領を、打電している。

昭和17年、一月は、グアムから、トラック島、現在のチューク諸島に、そして、ニューブリテン島の、南東太平洋方面における連合軍の有力な基地である、ラバウルを占領する。

この時の、トラック諸島は、日本の統治下にあり、太平洋の要衝の一つだった。

こうして見て行くと、日本軍は、次々と、攻略に成功している。
この間に書かれている、連合軍とあるが、それらは、大半がアメリカ領であり、アメリカ軍の支配下にあった。

太平洋も、アメリカが大半を支配していたことである。
つまり、植民地化である。
そして、イギリスである。

中国も、アヘン戦争以後は、西欧列強が、様々に支配、統治して、植民地化していたのである。
勿論、アジア一帯が、植民地だった。

日本の言う、大東亜圏というのは、このことである。
第二次世界大戦は、太平洋戦争ではない。
大東亜戦争なのである。

この日本が言う、大東亜戦争を、敗戦後、マッカーサーが禁止したのである。
それ程、日本に対して、敏感だったということだ。

世界的に、日本は、悪であるというイメージを作るためにも・・・


posted by 天山 at 05:45| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月14日

玉砕27

フィリピンである。
開戦当日の、12月8日のうちに、勝敗が決した。

比島米英軍に対する、航空撃滅戦は、日本軍が一日をもって、西太平洋の制空、制海権を、おおむね手中におさめた。
これは、マレー上陸軍と時を同じくした。

香港攻略軍も、同様である。

フィリピンは、大小様々な、おびただしい数の島からなる。
大本営、南方軍が指向していた、フィリピン攻略作戦の主たる目的は、最大のルソン島にある、首都マニラの陥落と、第二のミンダナオ島のダバオの占領である。

マニラは、アメリカの極東支配の根拠地であり、フィリピン全土の政治、経済、軍事の中枢である。
ダバオもまた、南フィリピンの、政治、経済、軍事の中心である。

この二つの要塞をおとせば、各地は、残敵掃討程度の戦闘で終わると見ていた。

昭和16年12月8日の朝、南部台湾一帯に、濃霧が垂れ込めた。
これにより、未明に予定されていた攻撃隊の発進時刻が、大幅に遅れた。
しかし、これが、後で幸いしたことが分る。

その長い時間待ちの間に、第十一航空艦隊司令部は、当日の作戦の手直しをした。

当初は、ニコススフィールドなど、マニラ周辺の基地を叩く予定だったが、その手前の、クラークフィールドと、イバ両基地に集中するようにした。

ここで、ゼロ戦の優秀さが、証明されたという。
米陸軍の最新鋭兵器として知られた、P40との空戦が、持続力ばかりではなく、空戦性能においても、格段に優れていることが、証明された。

ルソン島の、敵航空基地には、大型爆撃機の、B17が配備されていたが、ゼロ戦の機銃により、その大半が、地上で炎上し、破壊されたのである。

日本軍は、米比軍が、後退などせず、マニラに留まり、迎え撃つだろうと予想していたが・・・
マニラを空にして、バターン半島に、避退したのである。

日本軍の部隊は、バターン半島より、北方の多くの基地を攻略した。

敗戦後、喧伝された。バターン死の行進、というのは、コレヒドール島の降伏に先立ち、4月9日、バターン半島が陥落した際に、俘虜の護送の途中で起きた悲劇である。

バターン半島の目の前にある、コレヒドール攻撃のため、俘虜を現在地に留めておくわけにいかず、バターン半島南端の、マリベレスからクラークフィールド北方にあったオドンネル基地まで、護送しようとしたのである。

その数、米兵1万2千、フィリピン兵6万4千、難民2万6千という記録である。
その大半がマラリアにかかり、乏しい食料は、底をついた。
予定していたトラックの台数が、不足して、やむなく、マリベレスからサンフェルナンドまでの、88キロの行程を歩かせることになった。
だが、炎天下のもと、疲弊した俘虜たちは、バタバタと倒れた。

多くの死者が出たのである。
だが、この行軍じたいが、敗戦後、米軍側が弾劾したような、事前の組織的計画のものに実行されたものではなかったのである。

戦争には、このような不幸が当然にしてある。
戦勝国が敗戦国を裁くのだから・・・
何とでも、言う。

結果、バターン島は、敵の抵抗を受けることなく、5月6日、島内を掃討した。
ウェンライト中将は、全在比米軍の無条件降伏を申しでて、マニラ放送局を通じて、投降命令を発し、各地に幕僚を派遣して、自分の意見を伝達させた。

次に、香港を見る。
香港は、イギリス領である。つまり、植民地である。

香港島と、九龍半島からなる。
城門貯水池以南の九龍半島と、香港島とが、ビクトリア港をはさんで向かい合い、一連の要塞をなしていた。

香港島は、全島がおおむね山地であり、海正面における、堅固な要塞であり、陸正面に対して、最後の複郭陣地をなしていた。

当時守備するイギリス軍兵力は、マーク・ヤング総督以下、陸軍一万名と少数の海空軍部隊である。
12月13日、日本軍の降伏勧告を拒絶した。
そこで、砲爆撃を開始する。
そして、香港島に上陸。

翌日、九龍半島すべての掃討を完了した。

最後に島西部の復郭陣地で抵抗していたイギリス軍の中から、白旗が掲げられ、12月25日、香港島を攻略するのである。

兎に角、日本軍の最初の進軍は、成功裏に終わっている。

この強さは、何か・・・
軍の統制のとれた兵士たちの、軍規であったと、考える。
勿論、その戦いに勝った後の、意識の相違と学びが、日本軍の弱点となるが・・・

ここで、この日米両軍の戦略構想の相違を見ると、戦争全体の決着をどうつけるかという、戦争終末促進案の違いとも関連する。

アメリカは、実に固い意識で、参画したのであり、限定戦争ではなく、無限戦争の意識である。
相手国の息の根を完全に止めるまで、止めないという意識。
ゆえに、中途半端な形での、講和などは、有り得なかった。

日本の意識は、ある程度占領地を広げて、重要な局地戦に大勝し、講和に進めるという意識である。

つまり、大東亜戦争、第二次世界大戦とは、日本とアメリカの戦いが主たるものである。
連合国軍・・・
実際は、アメリカ軍との戦闘なのである。

昭和天皇の本心、御心は、いかがなものだったのか・・・
それは、民主主義のアメリカやイギリスと戦争はしたくないのである。
逆に、ドイツ、イタリアという、成り上がり者の、独裁者の国を嫌った。

民主主義という形は、日本の歴代天皇が持っていた、精神である。
敗戦後に、アメリカから、民主主義を学んだのではない。
それは、日本に元から存在した精神である。

勿論、それも、日本流にして存在していたのである。



posted by 天山 at 07:26| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月15日

玉砕28

マレー沖海戦は、昭和16年12月9日、午後3時10分、マレー半島東方洋上を哨戒中だった、伊号65潜水艦が、仏印の最先端である、マレー岬の南南東約420キロ付近で、英戦艦二隻が、北方に向けて航行中であるのを、発見したときから始まる。

当時、世界最強の不沈戦艦といわれた、プリンス・オブ・ウェールズと、高速戦艦レパスルである。

なんと、日本軍は、この二隻を撃沈したのである。

警戒航行中の戦艦を、航空機だけの攻撃で沈めたのは、世界の戦争史上において、初めての出来事である。

それまでは、航空機で、戦艦を沈めることは、出来ないと、されていたのである。

イギリスのチャーチルは、開戦の報告に、狂喜したが、その翌日は、地に堕ちた体験をしたわけである。

日本軍が、真珠湾攻撃で、奇襲攻撃をして、アメリカが参戦したことを、立ち上がって喜んだチャーチルである。
勿論、喜んだのは、多々いる。

ドイツ、ヒトラー、イタリア、ムッソリーニ、そして、世界中の有色人種たちである。
決して、敵わないと考えていた有色人種は、喝采したのである。
日露戦争の際も、そうだった。
そして、今度は更に、歓喜したのである。

白人に立ち向かう国、日本は、世界の注目を集めた。
何百年もの、白人支配の下で圧制されていた、植民地の人々の感激は、いかばかりだったのか、測り知れないものがある。

この、日本の行為が、その後、植民地の人々に、独立の気運を作ったといえる。

戦争に到る、様々な要因と、そして、戦争後に訪れる、意識の変革。
それは、多面的に、眺めることが、必要である。

さて、日本は、戦争の長期化を見通しがないままに、進めたといえる。
だが、一つだけ、明確なことは、なるべく、ジャワ、スマトラ、ボルネオの石油を手に入れて、自給自足の体制を整えるということだった。
資源の無い日本・・・
大戦争を決意するとすれば、それ以外に、取るべき道はない。

フィリピン、マレーの攻略は、当時の蘭印、つまり、オランダ領東インドと呼ばれていた、インドネシアへの、ルートを拓くという意味を持っていた。

日本軍は、昭和17年、1942年2月に、ジャワ島に進攻することになった。

バリ島、スラバヤ、バタビアの各海戦は、いずれも、ジャワ全島攻略を巡る、必然的に起きた、海上戦闘であった。

当時の、ジャワ島周辺には、米英蘭三国の、東洋艦隊がいすわり、抵抗の気配濃厚である。

バリ島沖海戦は、バリ島攻略に向った、日本軍輸送船団を、連合国軍艦隊が阻止することで、2月19日の夜から、20日未明にかけて、展開された。

実は、バリ島の攻略は、大本営の規定方針にないものだった。
しかし、蘭印攻略作戦実施の途中で、東部ジャワ攻略のための、航空基地として、クローズアップされたものである。
特に、現地海軍の、強い主張を、陸軍・南方軍総司令部が受け入れて、実現の運びとなった。

現在、観光地として、日本人の多くが出掛けるが、まさか、バリ島沖海戦など知るよしもないだろう。
更に、その隣のロクボク島に、司令部も置かれたのである。
それは、現地の人に聞いて、私も知った。

バリ島沖海戦は、第四次海戦まで、行われたのである。

そのバリ島では、日本軍に米を奪われたため、バリ島始まって以来の食糧不足に陥った。

その際に、米を運ぶことを断った人たちが、日本兵に暴行された。
私は、その生き残りの老人にも、出会った。
申し訳ないと、私が言うと、もう、昔のことなので、忘れたと、言ってくれたことが、救いだった。

その海戦でも、兵士の戦死がある。
確かに、戦いには、勝ったが・・・

さて、次ぎは、スラバヤ沖海戦と、バタビア沖海戦である。
バタビアとは、現在のジャカルタである。

共に、ジャワ全島攻略作戦の過程で生起した、海上戦闘である。

七月下旬を期して、ジャワ島東部のクラガシに上陸予定の、陸軍兵力、第十六軍の第四十八師団を乗せた輸送船を、直接護衛する、第四水雷戦隊と、これを支援する第五戦隊および、第二水雷戦隊が、スラバヤ沖で、連合軍の水上部隊と衝突したのが、スラバヤ沖海戦である。

ここでも、敵は損害を出して、現場から逃れて、日本軍の勝利である。

バタビア沖海戦は、ジャワ島西部に上陸予定の陸軍部隊を乗せた、輸送船団五六隻を護衛した、第五水雷戦隊と、これを支援する、第七戦隊が、ジャワ海に入り、何度か敵艦隊と遭遇していたが、決戦にまで至らなかった。

その後、東部ジャワ攻略部隊が、一手に引き受けた戦闘の形で、3月1日未明、船団は、西部ジャワ・バタビア付近の、バンダム湾と、メクラ湾方面の二手に分かれて、無事入泊する事が出来た。

戦闘が起きたのは、これ以降である。

日本軍の攻撃は、実に激しいものだった。
敵は、戦意を喪失して、その主砲は、全く沈黙である。
沈没寸前の敵艦二隻に対して、容赦の無い攻撃を加えた。

ここでも、日本軍の勝利である。

ただこの時、混戦乱戦が続くうちに、味方の輸送船団に、魚雷を放ったという話がある。
輸送船の佐倉丸が、沈没し、三隻も相当な損害を受けたのである。





posted by 天山 at 06:29| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月18日

玉砕29

ビルマ戦線を見る。

ビルマ戦線を、二期に分けると、第一期は、南部ビルマの飛行基地の占領と、ラングーン、現在のヤンゴンの、攻略である。

そして、第二期は、更に北へと進攻の輪を広げて、イギリス増援部隊と、中国重慶軍を撃破して、ビルマ全域を占領することである。

だが、大本営にあっては、ビルマ作戦に関して、明確な方針があったわけではない。
開戦前、南方作戦の総合的な、計画を検討した際には、作戦の右翼はタイに留めて、ビルマは、攻略の範囲に入っていなかった。

その後、次第に積極姿勢に転じていった。
それは、当面は、蒋介石率いる軍に対する、支援ルートと、イギリス軍と中国軍合同の拠点と見られていた、ラングーン占領であった。

昭和13年、広東、武漢があいついで日本軍に落ちると、蒋介石は、四川省の重慶に、その政府を移した。
重慶に後退した蒋介石政権は、その後、列強の軍事援助を得て、徹底抗戦を呼号した。

中国、蒋介石軍に対する、列強の援助により、日中戦は、終わりの無いものになった。
何故、援助をしたのか・・・
列強の中国における、植民地政策と、その利権を担保するためである。

11月6日、大本営は、南方攻略作戦の具体化のため、従来の第二十五軍の編制を解き、新たに、南方軍として、第十四、第十五、第十六、第二十五軍、南海支隊の編制を、令した。

その他の、細かなことは省くが、インドシナ山系を実際に、踏破した部隊の苦労は、並大抵ではなかった。

タイ、バンコクから、ビルマへのルートをそれぞれに進軍する日本軍である。

タイとビルマ国境地帯の、山脈一帯は、トラが出没するといわれる、密林に隈なく覆われていた。

当時のビルマにおける、英国軍の兵力は、歩兵、砲兵を基幹とする、兵員約四万人で、モールメイン地区、東部シャン州、ラングーン付近、マンダレー地区に、重点的に配備されていた。

数多くの悲劇があるが、中でも、シッタン河における戦闘は、大変な被害を出した。
敵味方共に、目の前の河に飛び込んで、そのまま濁流に呑まれ去った者も多数いたのである。

だが、日本軍は、勝ち続ける。

ラングーンの無血占領は、昭和17年、フィリピンからタイに転進した、第五飛行集団が、ラグーン方面の爆撃を開始した。

3月6日、第三十三師団が、シッタン河の渡河後、三日間にわたる強行軍により、ラングーンに前進中、ラングーン方向に突進すべき、との軍命令を受けた。
それぞれの隊が、ラングーンを目指す。

その途中でも、敵に遭遇するが・・・
結果、敵はラングーン市街から、退却するのである。

ビルマ戦線では、インパール作戦が有名だが・・・
それ以前に、進攻の有様がある。
そして、ビルマ戦線、インパール作戦からの撤退における、地獄の有様が起こるのである。

さて、次に、MO作戦、モレスビー作戦を見る。

連合艦隊の主力が、陸軍と共同して、フィリピン、マレー半島、蘭印、つまりインドネシア方面の攻略作戦を進めていた時期、南洋部隊は、陸軍南海支援の協力を得て、別途太平洋正面の作戦を、推進していた。

珊瑚海海戦とも言う、モレスビー作戦は、日本軍の作戦を阻止した、連合軍の機動部隊と、常夏の美しい珊瑚海において起こった、空母同士の戦闘である。

モレスビー作戦は、ツラギ、ポートモレスビー、ナウル、オーシャン攻略作戦の、略称である。

第一作戦が終わり、第二段作戦は、ニューギニア東部のポートモレスビー攻略を中心とするものである。

昭和17年、1942年の一月頃から、計画していたものだ。

開戦前は、第一段作戦で手一杯だったが、海軍は、開戦前から、大陸である、オーストラリアの存在を気にしていた。

そこは、連合軍艦隊の基地となるだけではなく、アメリカ本土で生産される、航空機、潜水艦が展開して、日本軍の占領地の防衛、海上交通が、脅かされるという、懸念である。

ハワイから、オーストラリアに至る、海上交通路の要衝にあたる、サモア、フィジー両諸島と、ニューカレドニア島を攻略する安を示し、陸軍もこれを了承した。

その、外郭作戦としての、MO作戦だった。

しかし、この時、山本連合艦隊司令官長は、大本営の対米戦争観に、興味を示さなかったという。
長期戦の、不敗は、無理とでも思ったのか・・・
独自の作戦構想を貫徹しようとしていた。
それが、ミッドウェー作戦である。

4月10日、連合艦隊司令部より、第二段作戦の兵力部署が、発令された。そして、ポートモレスビー攻略をMO作戦と呼称することに決したのは、当日である。

4月23日、南洋部隊指揮官・第四艦隊司令官井上中将は、ポートモレスビー攻略命令を発した。
概要は、ツラギが、5月3日、ポートモレスビーが、10日、ナウル、オーシャンが、15日である。

実は、連合軍側は、暗号解読という手段で、日本軍の作戦を察知していた。
ただ、攻略の日時までは、特定出来なかった。

その過程は、省略する。
結果的に、戦いは、日米互角であった。

だが、世界戦史上、初の空母対空母の戦闘に相応しく、兵力ほか与えられた彼我の条件は、ほぼ同じである。
その後の、戦闘経過も、ほぼ互角に推移したのである。

そして、日本軍は、東部ニューギニア戦を続けて行く。
ニューギニア戦線として、有名である。

いずれ、そのニューギニア戦線も、地獄の形相となり、飢餓地獄と化し、玉砕するのである。



posted by 天山 at 06:08| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年05月21日

もののあわれについて744

女宮も、かかるけしきのすさまじげさも、見しられ給へば、何事とは知り給はねど、恥づかしくめざましきに、物思はしくぞ思されける。女房など物見にみな出でて、人少なにのどやかなれば、うちながめて、筝の琴なつかしくひきまさぐりておはするけはひも、さすがにあてになまめかしけれど、「同じくは今ひときはおよばざりける宿世よ」と、なほ覚ゆ。

柏木
もろかづら 落葉を何に 拾ひけむ 名はむつまじき かざしなれども

と書きすさびいたる、いとなめげなるしりうごとなりかし。




女宮、女二の宮は、夫の、つまらなさそうな様子が、つい、良くわかるので、どういう訳か分らないが、顔向けできず、じっとしていられずに、煩悶している。女房など、祭見物に、皆出てしまい、人も少なく、静かなので、物思いに耽り、筝の琴を、やさしく手遊びに弾いているご様子は、さすがに、上品で、美しくはあるが、同じ事なら、もう一つ上の方を、得たかったが、及びかねた運命と、今なお思う。

柏木
もろかずらの、落葉のほうを、どうして拾ったのだろう。名は、嬉しい、かざし「姉妹」だが・・・

と、遊び半分書き付けているとは、失礼な陰口です。

最後は、作者の言葉。
柏木は、女二の宮と、三の宮を比べているのである。




おとどの君は、まれまれ渡り給ひて、えふとも立ちかへり給はず、しづ心なく思さるるに、使者「絶え入り給ひぬ」とて、人まいりたれば、さらに何事も思しわかれず、御心もくれて渡り給ふ。道のほどの心もとなきに、げにかの院は、ほとりの大路まで人立ち騒ぎたり。殿のうち泣きののしるけはひ、いとまがまがし。われにもあらで入り給へれば、女房「日頃はいささかひま見え給へるを、にはかになむかくおはします」とて、候ふかぎりは、われもおくれ奉らじと、まどふさまども限りなし。御修法どもの壇こぼち、僧なども、さるべきかぎりこそまかでね、ほろほろと騒ぐを見給ふに、さらば限りにこそはと思しはつる、あさましきに、何事かはたぐひあらむ。




源氏は、たまたまお出でになって、すぐにお帰りになることも出来ず、落ち着かない気持ちで、いるところへ、使者が、息がおなくなりになりました。と、参ったので、全く狼狽して、お心も真っ暗になり、お出ましになる。
道々気が気でなく、いかにも、二条の院は、近くの大路まで、人立ちがして、騒いでいる。御殿の中では、大声で泣く様子で、不吉な予感がする。
無我夢中で、中に入ると、ここのところ、数日間は、少し具合がよろしかったのに、急にこのように、おなりです。と、お付きの女房達が、皆、後を慕って、死にたいと、うろうろしている様は、この上も無い。
幾つもの壇を壊して、僧なども、残るべき人は、残るが、他の者は、帰ろうとしているのを御覧になると、それでは、もう最後だと、思い切る、心の驚き。他に、またとあるだろうか。




源氏「さりとも物怪のするにこそあらめ。いとかくひたぶるにな騒ぎそ」と、しづめ給ひて、いよいよいみじき願どもをたてさせ給ふ。すぐれたる験者どものかぎり召し集めて、験者「かぎりある御命にてこの世つき給ひぬとも、ただ今しばしのどめ給へ。不動尊の御本の誓あり。その日数をだにかけとどけ奉り給へ」と、頭よりまことに黒煙をたてて、いみじき心をおこして加持し奉る。院も、「ただ今一たび目を見合はせ給へ。いとあへなく、かぎりなりつらむ程をだに、え見ずなりにける事の、くやしく悲しきを」と思し惑へるさま、とまり給ふべきにもあらぬを、見奉るここちども、ただおしはかるべし。いみじき御心のうちを、仏も見奉り給ふにや、月ごろさらにあらはれ出でこぬ物怪、ちひさき童に移りて、よばひののしるぼとに、やうやう生きいで給ふに、うれしくもゆゆしくも思し騒がる。




源氏は、それでは、物の怪の仕業だろう。そんなに、むやみに騒ぐな。と、静めて、今まで以上に、大変な願を、次々と、立てられる。効験のある行者たちだけを、集められて、ご寿命が尽きて、この世が終わりになさったとしても、もう暫く、お命を延ばしてください。不動尊の御本願もある。その日数六ヶ月だけでも、生かして上げて、ください、と、頭から、黒い煙を立てて、大変な熱心さで、加持をする。
院、源氏も、ただもう一度、目と目を見合わせて欲しい。全くあっけなく、臨終のところさえ、見ることが出来なかったのが残念で、悲しいのだと、心も静まらない様子で、お命も、危なそうなことを拝する、一同の気持ちを、想像して見てください。大変なご心中を、仏も御覧になったのか、この幾月の間、全く姿を現さなかった物の怪が、小さい女の童に移り、大声で怒鳴るころ、次第に息をし始めたので、嬉しくもあり、恐ろしくもあって、お心も騒ぐのである。




いみじく調ぜられて、物怪「人は皆さりね。院ひとところの御耳に聞えむ。おのれを月ごろ調じわびさせ給ふが、情なくつらければ、同じくは思し知らせむと思ひつれど、さすがに命もたふまじく、身をくだきて思し惑ふを見奉れば、今こそかくいみじき身を受けたれ、いにしへの心の残りてこそ、かくまでも参り来たるなれば、物の心苦しさをえ見すぐさで、つひにあらはれぬること。さらに知られじと思ひつるものを」とて、髪をふりかけて泣くけはひ、ただ昔見給ひし物怪のさまと見えたり。あさましくむくつけしと思ししみにし事の変はらぬもゆゆしければ、この童の手をとらへて、引きすえて、さまあしくもせさせ給はず。源氏「まことにその人か、よからぬ狐などいふなるものの、たふれたるが、なき人の面伏なること言ひいづるもあなるを、確なる名のりせよ。また人の知らざらむ事の、心にしるく思ひいでられぬべからむを言へ。さてなむ、いささかにても信ずべき」と宣へば、ほろほろといたく泣きて、

物怪
わが身こそ あらぬさまなれ それながら そらおぼれする 君はきみなり

いとつらし、つらし」と泣きさけぶものから、さすがにもの恥ぢしたるけはひ変はらず。なかなかいとうとましく心憂ければ、物言はせじと思す。




ひどく調伏されて、物の怪は、他の人は、皆、出て行って、院、お一方のお耳に、お入れ申す。私の事を、幾月も祈り、苦しめるが、情けなく、辛くもあるので、同じことなら、思い知らせて差し上げよう。と、思いはしたが、それでも、お命も危ないほど身を粉にして、うろうろしていらっしゃるのを拝すると、今でこそ、こんなに酷い姿になっているが、昔の気持ちが残っていればこそ、こんな所まで、参上したのだから、お気の毒な様子を知らないふりは、出来ず、とうとう姿を現したのです。決して、知られまいと思っていたのに。と、髪を振り乱して泣く様子は、全く、昔御覧になった、物の怪の姿と見えた。
情けなく、恐ろしいと、深く心に思った、あの様子そのままなのも、不吉で、この女の童の手を、しっかりと捕らえ引き据えて、変な真似は、させない。
源氏は、本当に、その人か。悪い狐などという、気の狂ったものが、死んだ人の名誉を汚すことを言い出すこともあるというが、名を名乗れ。それでなければ、他の誰も知らない事で、私の心に、はっきりと思い出されるようなことを言え。そうすれば、少しは、信じよう、と、おっしゃると、ぽろぽろと酷く涙を流して、

物の怪
私は、こんな変わり果てた姿になっていますが、昔の姿そのままで、知らぬふりをするあなたは、昔のままです。

酷い方、酷い方、と、泣き叫ぶのだが、そのくせ恥ずかしがっている様子は、昔と、変らず、かえって、ぞっとして、情けない気がするので、何も言わせまいとするのである。





posted by 天山 at 06:26| もののあわれ第13弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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