柏木は、今なお、心の内を忘れられない。
小侍従という相談相手は、宮の御侍従の乳母の娘である。その乳母の姉が、あの、かんの君の御乳母だったので、昔から、親しく様子を伺っていて、まだ宮が幼い時から、大変、美しくいらっしゃるとか、陛下が大事にしている様子を、聞いていたので、こんな、恋心も、ついたのである。
かんの君とは、柏木のことで、衛門の督であり、今、中納言になった。
かくて院も離れおはしますほど、人目少なくしめやかならむを推しはかりて、小侍従を向かへとりつつ、いみじう語らふ。柏木「昔より、書く命もたふまじく思ふことを、かかる親しきよすがありて、御有様を聞き伝へ、たへぬ心のほどをも聞し召させて頼もしきに、さらにそのしるしのなければ、いみじくなむつらき。院の上だに、朱雀「かくあまたにかけかけしくて、人におされ給ふやうにて、ひとり大殿ごもる夜な夜な多く、つれづれにて過ぐし給ふなり」など、人の奏しけるついでにも、少し悔い思したる御けしきにて、朱雀「同じくは、ただ人の心安き後見を定めむには、まめやかに仕うまつるべき人をこそ定むべかりけれ」と宣はせて、朱雀「女二の宮のなかなか後やすく、行く末長きさまにてものし給ふなること」と宣はせけるを伝へ聞きしに、いとほしくも、口惜しくも、いかが思ひ乱るる。げに同じ御筋とはたづね聞えしかど、それはそれとこそ覚ゆるわざなりけれ」と、うちうめき給へば、小侍従「いで、あなおほけな。それをそれとさし置き奉り給ひて、またいかやうに、限りなき御心ならむ」と言へば、うとほほえみて、柏木「さこそありけれ。宮にたかじけなく聞えさせ及びける様は、院にも内にも聞しめしけり。「などてかは、さても候はざらまし」となむ、事のついでには宣はせける。いでや、ただ今すこしの御いたはりあらましかば」など言へば、小侍従「いとかたき御ことなりや。御宿世とかいふ事はべなるをもとにて、かの院のことにいでてねんごろに聞え給ふに、立ち並びさまたげ聞えさせ給ふべき御身の覚えとや思されし。この頃こそ、少しものものしく、御衣の色も深くなり給へれ」と言へば、いふかひなくやりたなる口ごはさに、え言ひはて給はで、柏木「今はよし。すぎにし方をば聞えじや。ただかくありがたきものの暇に、気近くほどにて、この心のうちに思ふことのはし、すこし聞えさせつべくたばかり給へ。おほけなき心はすべて、よし見給へ、いと恐しければ、思ひはなれて侍り」と宣へば、小侍従「これよりおほけなき心は、いかがあらむ。いとむくつけきことをも思しよりけるかな。何しに参りつらむ」と、はちぶく。
このような様子で、源氏もおい出であそばさない頃、見る人もなく、静かだろうと、推察して、柏木が、小侍従を呼び出し、懸命に頼み込む。
柏木は、昔から、こんなに死ぬほど思っていることを、こんな親しい縁者がいて、ご様子を聞き伝え、抑え切れない気持ちを聞いていただけて、頼みにしている。だが、全然、その甲斐がないので、たまらなく辛い。上皇様でも、こんなに大勢婦人がいて、誰かに負けているようで、一人でお休みになる夜が多く、所在なく日を送っていられる、などと、申し上げる人がいたとき、少しは、後悔した顔付きで、同じことなら、臣下の気楽な婿を取るのなら、心を込めて、お仕えするべき者を、婿にするのだった、と、仰せになる。更に、女二の宮は、かえって、心配もなく、将来末永く幸福に、暮らすだろう、と、仰せ下されたと、漏れ聞いて、お気の毒でもあり、残念でもあり、どんなに心が乱れていることか、まあ、同じ姉妹を頂戴したが、それはそれ、別のことに思えることだ、と、溜息をつくと、小侍従は、まあ、身の程知らずなこと。それをそれとお置き申し上げて、別にどのように。酷すぎるでしょう。と、言うと、
柏木は、にっこりとして、その通りなのだ。宮様のことを、恐れながら、お願い申し上げたことは、上皇様におかれても、主上におかせられても、お耳にあそばして、おられる。どうして、許してやって悪かろう、などと言うと、
小侍従は、とても出来る事では、ございません。ご運という事が、ございます。それが元で、六条の院が、口に出して、丁重に申し上げるのに、同じようにお願いして、邪魔をされるほどの、こ威勢と、思いますか。近頃こそ、少しは、貫禄がついて、お召しの物の色も濃くなりましたが。と言うので、こちらを問題にもせず、まくし立てる口達者に、言いたいことも、言い切れず・・・
柏木は、もういい。昔のことは、申さずにおく。ただ、こんな珍しい、人目のないときに、お傍近くで、この心の中に思うことの、少しのほどを、申し上げられる手立てを、考えてください。見に不相応な望みなどは、全然なく、見ていてください。怖いことですから、考えてもいません。などと、おっしゃるので小侍従は、これ以上、不相応な望みなど、考えられますか。本当に、気味の悪い事を、考えています。何で、こちらへ参ったのでしょう。と、口を尖らせて言う。
柏木「いであな聞きにく。あまりにこちたくものをこそ言ひなし給ふべけれ。世はいと定めなきものを、女御、后もあるやうありて、ものし給ふ類なくやは、ましてその御有様よ。思へばいと類なくめでたけれど、内々は心やましきことも多かるらむ。院の、あまたの御中に、また並びなきやうにならはし聞え給ひしに、さしもひとしからぬきはの御方々にたちまじり、めざましげなる事もありぬべくこそ。いとよく聞き侍りや。世の中はいと常なきものを、ひときはに思ひ定めて、はしたなくつききりなる事な宣ひそよ」と宣へば、小侍従「人におとされ給へる御有様とて、めでたき方に改め給ふべきにやは侍らむ。これは、世の常の御有様にも侍らざめり。ただ御後見なくて、ただよはしくおはしまさむよりは、親ざまに、と譲り聞え給ひしかば、かたみにさこそ思ひかはし聞えさせ給ひたれめ。あいなき御おとしめ言になむ」と、はてはては腹立つを、よろづに言ひこしらへて、柏木「まことは、さばかり世になき御有様を、見奉り慣れ給へる御心に、数にもあらずあやしきなれ姿を、うちとけて御覧ぜられむとは、さらに思ひかけぬことなり。ただ一言、ものごしにて聞え知らすばかりは、何ばかりの御身のやつれにかはあらむ。神仏にも思ふこと申すは、罪あるわざかは」と、いこじきちかごとをしつつ宣へば、しばしこそ、いとあるまじきことに言ひかへしけれ、もの深くからぬ若人は人のかく身にかへていみじく思ひ宣ふを、えいなびはてで、小侍従「もしさりぬべきひまあらば、たばかり侍らむ。院のおはしまさぬ夜は、御帳のめぐりに人多く候ひて、おましのほとりに、さるべき人かならず候ひ給へば、いかなるをりをかは隙を見つけ侍るべからむ」と、わびつつ参りぬ。
柏木は、ええもう、聞きづらいことを。酷く強すぎる言い方をするものだ。縁は、分らないもので、女御とか、后という人でも、事情があって、そんなことがある例もなくはないだろう。それ以上に、そちらの待遇だ。考えれば、またとないほどご立派であるが、内々では、ご不満が沢山あろう。上皇様が、大勢のお子様の中で、特に第一にいつも、可愛がっていらしたのに、たいして身分もよくないご婦人方と一緒になり、抑え切れないこともあるに違いない。よく聞いています。世の中は、無常なものなのに、一方にだけ決めてしまい、無茶な言い方をされるものではない。と、おっしゃると
小侍従は、誰かに負かされているご様子だといって、結構な方と、ご再婚されることができましょうか。このご結婚は、世間普通のご結婚ではないそうです。ただ、お世話役なしで、御身が固まらないでいらっしゃるよりは、親代わりに、とお譲り申し上げされたので、お互いに、そういうものと、思いあって、いらっしゃるようです。つまらない悪口をおっしゃる。と、しまいに腹を立てるので、何かと弁解して、
柏木は、本当に、あれほど、またとないお姿を、いつも見慣れているお方に、人数でもないみすぼらしい姿を、繕わず見ていただこうとは、全然、考えもしないことです。ただ、一言、障子越しで、お耳に入れるだけなら、どれほどご迷惑なことでしょう。神様、仏様にも、自分の思う事を、申すのは、罪になることではありますまい。と、大変な誓い言をしながら、おっしゃるので、暫くの間は、とても出来ない話しだと拒んでいたが、思慮の深くない若い子で、この人が、これほど命懸けで、大変な言い方をするので、とても反対しきれず、
小侍従は、もし適当な隙があれば、工夫しましょう。院がおいであそばさない夜は、御帳台の周りに、女房が大勢お付きしていて、宮様のお傍には、ちゃんとした人が、必ずお付きしています。どんな機会、隙を見つけられるでしょう。と、困りつつ、帰っていった。