2015年04月01日

玉砕13

昭和12年7月7日、北京郊外にある、盧溝橋で、日本軍と中国軍が衝突した。

これは、どちらが、先に発砲したのか・・・
実際は、共産党系の中国兵が入り込み、発砲したという。
要するに、日本軍と中国軍を戦わせるために・・・

一時は、停戦協定も成立したが、陸軍指導部の中には、徹底的に中国軍を叩いて、中国全土を制圧するという意見が強くなった。

中国の東北四省を満州国として成立させた後、全土を植民地化しようとの試みである。

中国全土には、反日、抗日のスローガンが広がり、国民党政府、蒋介石の指導下の南京に首都を置く軍閥と、毛沢東を指導者とする共産党が、対立を解消して、抗日で一体となり、日本軍と戦うことになる。

だが、国民党、共産党は、敵同士である。
後に、共産党は、日本軍と国民党軍を戦わせて、漁夫の利を得る。

当時の陸軍省、参謀本部には、二つの考え方があった。
一つは、中国全土を制圧して、ソ連との戦時体制を組むべきとするもの。
一つは、中国に深入りせず、本来の敵である、ソ連との間に、戦時体制を布くというもの。

ここで、解ることは、敵は、ソ連なのである。
ソ連の脅威に対して、日本は注意していた。

ソ連は、帝政ロシア時代から、侵略が伝統である。
その南下が、大問題なのである。
つまり、日本の生命線がやられるのである。

朝鮮戦争の際に、それをマッカーサーが実感し、日本に自衛隊の創設を要求したことは、有名である。
自存防衛なのである。

更に、ソ連の共産党を主とする、中国共産党が、成立しても、問題である。
そのため、中国で、何とか、阻止しなければならない。

これが、日中事変となる。
中国軍も、一歩も引かないゆえに、陸軍は増援部隊を広島から船出させたほどである。

それでは、天皇は、どのようなお考えだったのか。
これは、第二の満州事変ではないか。
御下問を受けた、参謀総長は、
陸軍では、ソ連は立たないと見ています。
と、応えた。すると、陛下は、
それは陸軍の独断であり、もし万が一、ソ連が立ったら、どうするのか。
と、重ねて問われる。
しかし、納得のいく答えは出ないのである。

その二三日後に、杉山元陸相が、
一ヶ月ほどで、片付けるつもりでおります。
と、応えている。
天皇は、その際、あまり、軍を追い詰めないとした。

しかし、辛亥革命後の中国の戦意は旺盛だった。
事変は、拡大の一途を辿る。

八月には、華中にも及び、陸軍は南京を攻略したが、中国側は、後方の漢口に遷都して、あくまで戦いを呼号した。

早期解決という、日本側の目論見を根底から、狂わせたのである。

さて、この際の南京攻略である。
これが、現在に至る問題となっている。
南京大虐殺と言われるが・・・

本当に、南京大虐殺を行なったのか。
南京には、20万人の市民がいた。
ところが、それが、30万人の虐殺と言われている。

辻褄が合わないのである。
更に、一般市民を虐殺するということは、考えられない。
戦闘は、軍同士である。

私は、様々な文献に目を通したが、南京大虐殺は、有り得なかったという。
一般市民で、日本軍を歓迎した人たちも大勢存在する。
何故か。
中国では、軍とは、匪賊、馬賊の集団であり、略奪強盗など、当たり前の集団で、一般市民には、とても迷惑な存在でしかなかった。

日本軍には、規律があった。
それに反すれば、軍法会議にも、かけられるのである。

勿論、戦争という、非常事態であるから、何らかの殺人めいたことも、有り得ただろう。
しかし、30万人の虐殺は、作り事である。
事実というものを、見つめると、現在言われる行為は、無いという。

南京は、歴史的にも、多くの騒乱の町だった。
大虐殺は、中国の歴史の方である。
数ヶ月にも及ぶ、虐殺が続いた反乱もある。

その行為を、すべて日本のものだと、見るのは、何かの作為がある。
東京裁判での、その罪は、アメリカの原爆の被害で、日本の市民が殺された数になる。
その埋め合わせのように、人数が調整されたという。

東京裁判は、日本を徹底的に叩くものであったし、また、裁判としては、考えられない暴挙である。
戦勝国が、敗戦国を裁くという、茶番である。

現在の中国共産党は、その不思議な数の死者数を、世界に向けて言うのである。
反日プロパガンダである。

最も、日本は、中国に侵攻したことは、事実である。
そして、植民地化するということも、事実である。
それに対しての、言い逃れは出来ない。

では、上海などに、進出して、植民地化していた、アメリカ、イギリス、フランスは、どうか。
彼らも、植民地政策を敷いていて、その権益を守るために、租界という、地域を作っている。
それは、無効か・・・

日本のみが、植民地にしたと言われる筋合いは、無い。
欧米も、植民地にしていたこと、事実である。
更に、彼らは、アジア一帯を、植民地にしていたのである。
それは、時代である。時代性ともいう。

その後、日本は、東南アジアの国に侵攻して、西欧列強の植民地を支配した。
その結果、大東亜戦争後、それらの国々は、独立したのである。

良い面も、悪い面も、見ておく必要がある。


posted by 天山 at 06:43| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月02日

玉砕14

軍部の独走を、時の内閣、近衛首相は、どう見ていたのか・・・
打つ手なしである。
軍部を制することが、出来ずにいた。

そして、昭和13年1月、何と、帝国政府は、以後、蒋介石政府を相手にせずと、声明を出すのである。
つまり、和平への道を断ったのである。

驕れるばかりの、軍部、陸軍であり、関東軍だった。

日本の歴史を俯瞰すると、驕れる者、ひさしからず、である。
必ず、その滅亡のときが来る。

天皇の御心にも、適わず、とんだ内閣となった。

さて、ここから、少しばかり寄り道をする。
アメリカを眺めてみたい。

アメリカも、日米戦争に至る道がある。
アメリカ建国は、北米大陸の原住民である、インデアンを虐殺して成った国である。
それは、イギリスから出た、白人たちである。

以後、アメリカ人は、兎に角、征服することが欲望になるのである。
これほど、征服欲旺盛な国はない。

当時は、白人が世界を牛耳ていた。
だから、日露戦争で、有色人種の日本が勝利したことは、論外中の論外な出来事である。

だが、西欧列強は、極東の日本と戦うという意識はなかった。
アメリカだけが、それを容認出来ずにいたのである。

当時の人種差別は、今、思い起こすことが出来ない程に、激しいものだった。
その思想の元は、イギリスである。
そこから出た、アメリカ人・・・

アメリカ建国から、続々と、白人たち、ヨーロッパの人たちも、移り住むようになっていた。
要するに、それは東から大陸に移住する民である。

だから、西へ西へと、侵攻する。
19世紀半ば、ゴールド・ラッシュが起こる。
アメリカ大陸横断鉄道が建設されることになる。

そのとき、チャイニーズ・クリーズという、奴隷的労働者、当時は、契約移民と言われたが、シナ大陸から西海岸に、多数移民するという、事態が起こった。
黒人労働者は、鉄道建設に向かなかったのである。

当時のシナは、アヘン戦争、太平天国の乱などで、シナ大陸から、幾らでも人を集めることが、出来た。

アメリカ人は、シナ人たちも、黒人のように扱うことが出来ると、考えていた。
差別思想である。
ところが、シナ人たちは、違った。予想に反したのである。

西部に流れる白人以上の、知能と、勤勉の習慣を総体として、身に付けて、更に、金を貯めること、増やすことを、知っていた。
だから、彼らは、それにより、土地を買ったり、店を開いたり、ついには、金鉱の採掘権まで、手に入れる成功者が出たのである。

更に、19世紀後半になっても、続々と、白人たちがアメリカに渡って来た。
東ヨーロッパで、ロシアにより住む場所を奪われた人、イギリスに収奪された、アイルランドの人たちなど。

この白人移民たちは、東海岸に住むことは出来ない。
そこには、200年以上も前から、白人たちが居住していた。
そこで、彼らは、西へ、西へと進む。

そこで見たものは、シナ人たちの、生活である。
唖然とした。呆然とした。

有色人種が、生活している。更に、相当な生活水準である。

これが、シナ人殺し、シナ人居住区への襲撃の始まりである。

シナ人排斥運動を始めた者もいる。
一体、どんな権利があってのことか・・・
それは、単なる差別思想である。

現在は、あまり気にしないことだが、当時の差別思想は、全く、とんでもないものだったということだ。
色付き人間は、人間以下で、動物に近いと考えられていたのである。
勿論、それは、彼らの勝手な考え方である。

私が、常々言う、白人の野蛮さは、そこからのものだ。
独善的、排他的・・・白人の作り上げる宗教は、皆々、そのようなものである。

シナ人の村を全滅させれば、その村は、すべて我が物になるという、考え。
インディアンに対するものと、同じである。

結果、1902年明治35年、シナ人排斥は、ワシントンの連邦政府を動かし、シナ人移民を、完全に禁止するという、法律を生み出した。

東から来る白人は許すが、西から来る有色人種は、許さないのである。

私は、現在も、根本的にアメリカ人の心性は、変わりないと考えている。
その後の、アメリカを見れば、一目瞭然である。
建国の浅いアメリカが、世界の警察を名乗るようになるのだ。

そして、侵攻、侵略を掟のようにして、植民地化するのである。
勿論、日本も、ペリー来航の頃から、狙いをつけていた。

自由、平等などの思想は、白人のみにいえるのである。
色付き人間は、該当しない。

このような、強欲な白人たちが、世界を支配していたということを、再度、考えるべきだ。
現在のイスラム、テロリストの行為も、最初は、白人キリスト教徒が、行なっていたことである。
テロリストの行為を非難することが、白人に出来るのかと、言いたい。
過去の反省をすることなど、一度もないのである。


posted by 天山 at 06:18| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月03日

玉砕15

そして、シナ人に代わり、太平洋を渡って来たのが、日本人の移民である。
その多くは、日清戦争後、1890年頃からである。

その当時は、アメリカ人たちが、フロンティア精神の消滅を感じ始めた頃である。
であるから、日本人に対する、白人の敵意のようなものが、あった。

日本人の移民は、勤勉で、教育レベルも高い。
更に、日露戦争に勝ったのであるから、白人に負けないという信念があった。

西海岸の良好な農地の多くが、日本人の開拓、所有するところとなった。
これに対する、白人たちの怒りと嫉妬は、凄まじいものがあった。
特に、アイルランド人の敵意は、甚だしいものがある。

しかし、シナ人のように、殺すことは、出来ない。
シナ人の場合は、清朝政府は、国民の渡航を禁止していたので、許可なく国を出た者は、清国民にあらずとしていたからである。

だから、いくら殺しても、清国政府から、文句が来ることはなかった。
だが、日本は、政府から強い抗議が来る。
国際問題に発展することもある。

そこで、彼らは、法律を作る。
各州ごとに、次から次と、排日移民法を成立させたのである。

そこで、日本政府は、事態を解決すべく、外交努力を続けた。
ところが、好転の兆しなく、後退するばかりである。
ついには、1908年、明治41年、日米紳士協定が成立し、日本移民は、アメリカに出さないということになった。

日本政府は、約束を守った。
だが、日本移民が禁止されようと、アメリカ人が、日本人を憎む。
そして、日本人の土地を欲したのである。

その間に、第一次世界大戦が起こった。1914年から18年である。
その時は、一旦戦争のために、アメリカの人種問題は、休止状態になった。

この世界大戦が、日米を含む、連合軍の勝利に終わり、翌年、1919年、国際連盟の結成が決まった。
この規約作成の時に、日本は、連盟に参加する国家は、人間の皮膚の色によって、差別を行わない、という内容の条文を規約に盛り込もうと提案した。

ところが、この人種差別廃止は、多くの共感を呼んだが、その主張は、採択されないのである。
何故か・・・
人種差別によって、経済が成り立つ先進国が多く、賛成多数にも関わらず、アメリカの大統領により、全員一致ではないからと、否決されたのである。

ここで、注目すべきは、人種差別によって、その国の経済が成り立っていたと言うことである。
つまり、植民地政策である。
それを正当化するのである。

更に、日本人も、その有色人種の一つであるということが、明確になった。

実に野蛮な思想である。
もし、日米戦争が起きなければ、それが、延々と続いたかもしれない。

さて、アメリカの状況である。
その三年後の、1922年、大正11年、アメリカの最高裁判所は、白人と土着人、およびアフリカ人の子孫だけが、アメリカに帰化できるという、判定をして、すでに帰化申請をして許可されたが、アメリカ市民となっていた、日本人の帰化権を剥奪したのである。

更に翌年、1923年、移民に関する憲法修正が、上院に提出された。
その内容は、日本移民の子供にも、絶対アメリカ国籍を与えないというものである。

ここに、アメリカの闇がある。
自由、平等などと声高らかに言うが、全くの闇である。
更に、人権に関しては、今も、アメリカは、人権尊重の国だと言うが・・・
全くの、ウソである。

それまでの憲法の規定は、アメリカで生まれた者は、無条件でアメリカ国籍を与えるということになっていた。
それを覆して、過去にまでさかのぼり、適用するという、暴論である。

日本移民の一世は、アメリカの土地を取得するために、子供たちの名義で土地を買っていたが、それも、閉ざすというものである。

排日感情の強さ・・・
これが、日本人の反米感情を生む。

1924年5月、帰化に不適当なる外国人に関する移民法にクーリッド大統領は署名した。
これにより、一方的に、紳士協定は、破棄された。

恐るべき愚劣である。
そして、恐るべき、人種差別である。
それが、現在まで続くアメリカである。

日英同盟を結び、対等の関係であったが、アメリカでは、劣等民族の扱いである。

それまで親米的だった日本人も、それ以降、対米感情が悪化し、反米となってしまった。

そして、その日英同盟を潰すという、アメリカである。
1921年、大正10年、ワシントン会議が開かれた。
そこでは、第一次世界大戦の戦勝国、九カ国が集う、国際軍縮会議である。

海軍の軍縮に関する問題である。
そこでも、日本側が不利になるもの。
そして、日英同盟を廃止するという、アメリカの圧力である。

それは、当事者の意に反するものだった。
実際、日英同盟は、日本にとって、アングロサクソン支配体制での世界では、好都合の同名である。
何せ、五大国の、英、米、仏、伊、日の中で、日本だけが、有色人種国家である。
もし、日英同盟が廃止されると、諸外国は、露骨に排日感情を噴出させるだろう。

また、それは、日露戦争の勝因の一つであり、ロシアの南下を牽制する目的で、イギリスが日本に協力的だった。
日英同盟は、日本にとって、官民挙げて、支持していたのである。

イギリスもまた、それにより、十分に恩恵を受けていた。
極東に武力を置くことなく、極東貿易の利益を満喫できたのである。

posted by 天山 at 07:11| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月06日

玉砕16

日英同盟は、アメリカにとって、不都合だった。

日露戦争までは、日本に好意的だったアメリカも、それ以降は、日本を仮想敵国として、太平洋に着々と、海軍を増強しつつあったのだ。

そして、日米が争うことになれば、同然、日英同盟によって、イギリスは、日本の味方をする。
それは、アメリカにとっては、実に不利である。
大西洋のイギリスと、太平洋の日本と、二つの海を支配しなければならない。

ここで、はっきりと、1921年から、アメリカが日本を仮想敵国だと、意識したことである。これが、後々に続く、大戦の意義になる。

日本が一人勝手に、開戦をしたのではない。
アメリカが、日本を引きずり込んだのである。
ここが、問題である。
アメリカの利益、国益に適うことならば、アメリカは、遠慮などしない。

どんなに穢い手を使っても、思い通りにするという、アメリカの根性を、覚えておくべきである。

勝てば、善になるという、暴論を持つ国、アメリカである。

アメリカは、何が何でも、日英同盟を潰す考えであった。
そして、日本の切なる願い、必至の抵抗にも関わらず、同盟は、廃止された。
その代償として、何の役にも立たない、日米英仏四カ国条約が締結される。

ここで、もう一つ書いておくことは、同時にイギリス帝国の自治領だった、カナダが、対米関係を考慮して、日英同盟の廃止を、熱心に主張したことである。

カナダは、当時、日本の移民の排除に、熱心な国であり、アメリカの排日政策に、共感していた。
それも、人種差別の思想である。

アメリカの日本敵視政策は、日英同盟がなくなったことにより、ますます露骨なものになった。
そのために、徹底的に、シナを利用しようとしたのである。

当時のシナには、プロテスタント系の牧師がいて、アメリカには親シナ派の文化人が大勢いた。
そのため、アメリカの反日勢力は、シナの反日運動を、支援していたのである。

現在に至る、反日は、元を辿れば、アメリカに行き着く。
韓国の反日も、元はアメリカからのものである。

よって、シナの反日運動は、必ず、アメリカの反日運動と結び付いたのである。

日本にとって、日露戦争後、最大の暗雲の一つであったという。

現在は、日米同盟が結ばれているが・・・
これは、共に、国益を考えれば、必要不可欠であろう。
だが、アメリカの根性を覚えておく必要がある。

今に至る問題の種は、アメリカが蒔いたものである。
その歴史を公にする事は、アメリカにとって、不都合なことばかりである。
だが、それを前提に、日米同盟を考えておく必要がある。

国際社会は、複雑怪奇である。
敵が味方になったり、味方が敵になる。
その時、その時の状況により、コロコロと変わる。
そして、変えるべきなのだ。

日本のように、清廉潔白は、通用しない。
狡賢く振舞うこと。それに尽きる。

国益を最重要と考えれば、手段を選ばないのが、国際社会である。
特に、大東亜戦争以前のアメリカは、その最たる国だった。

そして、もう一つは、ソ連のスターリンである。
敵同士を戦わせて、漁夫の利を得ると言う。

大東亜戦争、第二次世界大戦の、戦犯を挙げるとすれば、スターリン、イギリスのチャーチル、そして、アメリカの、ルーズベルトとなる。

そのソ連との衝突が起こったのは、日中事変が始まり、一年後のことである。

発端は、朝鮮・満州と、ソ連が国境を接している、張鼓峰に、ソ連軍が進出して、陣地を構築したことだった。
現地の日本軍は、逸りたち、日中事変が長引く中での、ソ連の出方、戦闘力を試すためにも、この際は、張鼓峰のみに限定して、戦うべきだ、という主張である。
が、軍中央は、慎重だった。

中国戦線で、首都漢口に兵を進めている最中である。
その上、ソ連と長期紛争は出来ないと、二の足を踏む。

だが、好結果を生むと言う、強硬論が勝ちを占めた。

朝鮮軍は、勇躍して態勢を整え、攻撃にととりかかろうとしていた。
が、急電が入った。

それは、陸相と参謀総長が、上奏を願い出ると、天皇は、侍従武官長に、
もし、武力行使を許せということなら、自分は許す意志はない。だからそのためなら参内に及ばない、
との内意を伝えた。

だが、二人は、それでもと、願い出るので、天皇は応じたが、参内して侍従武官長から詳しく聞いた、閑院宮参謀総長は、それでは仕方が無いと、諦めて退出した。
遅れた板垣刳陸相は、武力行使の余儀なきことを、天皇に力説した。
天皇は、
関係大臣との連絡はどうなったのか
との質問に、
外相も海相も賛成いたしました。
と、述べるが、実は、外相も海相も、兵の配備には同意したが、武力行使には、反対であることを、天皇は知っていた。

そこで、天皇は、
元来、陸軍のやり方は、けしからん。満州事変といい、先般の盧溝橋といい、中央の命令に服さず、出先の独断で、あるまじき卑劣な方法を用いることが、しばしばである。朕の軍隊として、まことに、けしからんことだと思う・・・
との、お言葉。
更に、
今後は朕の命令なくして、一兵だも動かすことはならん。
陸相は、青くなり、退出した、

そして、とても陛下のお顔を見上げるこは出来ない。ぜひ、辞めたい。
更に、閑院宮参謀総長も、共に、辞意を固める。

そこで、近衛総理が慌てて、間に入り、天皇から、
陸軍大臣、参謀総長とも、なおこのまま、続いてやるように
との、内意が出て、二人は辞意を翻した。

昭和天皇は、立憲君主の立場をはみ出したが、それほどに、陸軍の態度が酷いということである。



posted by 天山 at 06:34| カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月07日

玉砕17

結局、張鼓峰事件は、小規模な衝突を繰り返したが、天皇の意向により、無抵抗に近い撤退をした。そのために、追撃のソ連軍により、かなりの損害を出した。

そして、停戦協定にこぎつけたのは、発端より、一ヵ月後のことである。

だが・・・
一年も立たぬうちに、再び、ソ連との紛争が勃発する。
満州と外蒙古が国境を接する、ノモハンに、ソ連の後押しを受けた、外蒙古軍が、突然、侵入してきたのだ。

国境といっても、標識がない、地帯である。
満州国が独立した際に、ハルハ河を国境と定めたが、外蒙古は、満州側に食い込んだ、ラインを引いた。

ソ連の狙いは、威力偵察、更に、日本軍への牽制である。
軍中央では、ソ連の策に、警戒したが、関東軍は、ここでも猪突したのである。

ソ連、外蒙古軍の補給線は、長い山岳地帯である。
それは、至難のことと、目に物見せると、関東軍は、奮い立った。

関東軍の気持ちは、理解出来る。
当時、現場にいれば、ソ連の脅威は、確実である。
しかし、天皇は、戦争を極力抑えての、行為をもって、対処したかったのである。

結局、戦いは、関東軍と、ソ連軍の死闘になった。
双方共に、航空機、戦車、重火器を投入してりの、本格的激戦である。

だが、ソ連軍は、関東軍を遥かに凌いだ。
関東軍は貧弱な輸送力を持っていたのみ。
地上戦は、圧倒的な機甲部隊と、火砲陣で、関東軍は、歩兵部隊が主力である。

将兵たちは、ハルハ河畔に散華したのである。
これが、世に言う、ノモハン事件である。

その大敗振りに、天皇の逆鱗もなく・・・
関東軍司令官は将来を戒め、謹慎ぐらいは止むを得ざるべし
との、お言葉である。
一緒の、諦めに似たお言葉である。

ここで、陸軍と、海軍の差について言う。
海軍は、伝統的に、対米重視であり、南進策をとっていた。
陸軍の、対ソ連重視、北進策は、国を危うくするものとして、対立してきたのである。

大東亜戦争でも、海軍は、乗り気ではなかった。
しかし・・・それは、後々に書く。

ここで、再度、天皇陛下と、陸軍の関係を見ると、陸軍は、陛下が、知らず知らずに、諦めて、陸軍の方法に、馴らされる状況を望んでいたといえる。

更に、畏れおおくも、陸軍は、陛下を利用して、兵士たちを教育したということだ。

ちなみに、ノモハン事件の日本の被害は、戦死者、行方不明者、約二万人で、戦傷病者も約、二万人である。

ここで、陸軍が何故、天皇陛下と、時の政府に対して、勝手な行動を取ったのかという問題の、種が、憲法にあるということを言う。
明治憲法である。

その第一章、天皇の項目の、第十一条では、
天皇は陸海軍を統帥す
とあるのだ。

これは、行政府、立法府とは関係が無いということである。
極めて、重大な問題だった。しかし、明治初期は、元老制度があり、問題はなかった。
つまり、元老たちの意見は、天皇の意見として、認識されたからだ。

だが、元老がいなくなった状態では、憲法の欠陥が、目に見えて現れたのが、軍部のあり方である。

そして、内閣のことを、軍部が尊重せずとも、問題がなかったのである。

1930年、昭和5年前後、人種問題、ソ連革命問題、ブロック経済問題、軍縮問題など、日本にそれらが押し寄せてきた時、明治憲法に内在していた欠陥が、吹き出てきたのである。

それが、統帥権の問題である。
満州事変までは、それが表に出ることはなかった。
しかし、満州事変により、それが、明確になった。

それにより、日本は、満州事変以降、外交政策に対する世界の信用を失うことになる。
それは、統帥権を振りかざして、軍部が独走したためである。

日本は、二重政府の国か、ということになった。

であるから、憲法から言えば、満州事変を起こした軍部は、憲法に違反していないという、事実である。
更に、軍部は、政府も議会も、自分たちを抑えることが出来ないと、知っていた。

ちなみに、もう一つ加えれば、明治憲法には、内閣総理大臣は、存在しないのである。
つまり、責任内閣の制度なく、内閣の規定もなく、内閣総理大臣の規定もない。

確かに、初代首相は、伊藤博文であるが・・・
内閣、首相の存在は、憲法の条文にはないのである。

首相の権限が明示されていない、つまり、他の大臣と法制上は、全くの同権である。だから、大臣が一人でも辞職すれば、内閣は、潰れてしまうのである。
そいうことが、多々起こった。

内閣や、議会が、軍隊を統帥するという、規定も無いのである。

軍部の暴走は、そういう事実があって、成り立っていたということだ。

ただ、思うに、歴史は、様々な角度から、俯瞰して見渡す必要がある。
決して、一面的ではない。
そして、それらのことは、未来の歴史感覚で、左右される。
が、それもまた、愚かなことである。

当時の時代感覚を持って、理解するべきである。
そのために、多面的なものの見方が必要なのだ。

良し悪しの問題ではないのである。





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2015年04月09日

玉砕18

ノモハン事件の前後の様子を、俯瞰する。

日本は、中国との戦争により、アメリカ、イギリスとあまり良い関係ではなくなった。その代わりに、ドイツが近づいてきた。

最初は、昭和11年11月締結した、ソ連のコミンテルンの進出を防ぐという意味の、日独防共協定という、穏やかな結び付きだった。

だが、この協定は、明文化されていなかったが、アメリカ、イギリスに対抗し、民主主義国家に、一元制国家の利害をぶつけるという、意味を持っていた。

この頃、民主主義というイメージは、日本では、マイナスなものだった。
一元制国家とは、ファシズム体制というものであり、天皇におかれては、嫌うものだった。

実際、日本は、日本独自の民主主義が存在していたのである。
それが、天皇を主にした、君臨すれども、統治せずという姿勢である。

さて、日中戦争が起こると、ドイツは、蒋介石政府の、軍事顧問を引揚げるという状態だった。

更に、ドイツのヒトラーは、イタリアのムッソリーニとも、提携して、ヨーロッパの中に、ベルリン・ローマ枢軸同盟を作り上げた。

昭和12年11月に、イタリアも、日独防共協定に加わり、日独伊防共協定が、出来上がる。

この三国の、提携に対して、日本国内では、親英米派が、強く反対している。彼らは、ドイツと手を結ぶことに、ためらいを持ったのである。

それは、ゲルマン民族の優位性を掲げ、排他的なことからである。
また、天皇も、イギリス王室に、親近感をもっていることも、密かに指摘して、英米と、国交断絶を恐れた。

また、実業家たちは、アメリカの市場を失うという、懸念もあった。

そして、海軍の中にも、批判をもつ者もいたのである。

ドイツとの提携を主張したのは、陸軍の将校、外務官僚の一部、そして、知識人たちの、東亜新秩序派であり、結果は、彼らの主張が広く、国民に受け入れられたといえる。



posted by 天山 at 08:07| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月10日

玉砕19

1938年、ドイツのヒトラー政府は、ヨーロッパの新秩序という方針で、オーストリア、チェコスロバキアを併合した。
その後、ポーランドをうかがう構えを見せた。

それは、昭和13年である。
更に、翌年にかけて、ヒトラーは、幾つもの外交攻撃をかけている。

イタリアの間に、軍事同盟を結び、三国防共協定を、更に軍事色の濃いものにし、アメリカ、イギリスを仮想敵国とする、三国同盟に格上げしたいと、日本に要求してきたのである。

ヒトラーは、執拗に、三国同盟を要求し、その一方では、ソ連と、不可侵条約を結んだ。
ソ連とは、お互いに、軍事的侵略は、行わないということである。

ただし、それは、すぐに破られることになるが。

その、ドイツがソ連と不可侵条約を結んでいる最中に、関東軍とソ連軍が、衝突を繰り返し、以前に書いた通り、昭和14年、1939年、大規模な衝突を行なった。
それが、ノモハン事件である。

このドイツと、ソ連の不可侵条約を、時の首相である、平沼首相が、欧州の天地は複雑怪奇と言い、内閣を投げ出した。
それ程、ヒトラーの作戦は、狡猾で、意味不明に思えたのである。

ヒトラーの真意を測りかねる・・・
政策を進めることが出来ない。

そして、日本では、一時的に親英米派が、力を盛り返したが、これもすぐに、消える。

ドイツは、ソ連と不可侵条約を結んだ、一週間後の、1939年9月に、ポーランドに進駐し、軍事力で、ヨーロッパを席巻することを、内外に宣言した。

これは、イギリス、フランスへの、敵対行為であった。
それぞれの国は、9月3日、宣戦布告して、軍事的対決の時代に入ることになる。

この日から、第二次世界大戦が、始まる。

そして、日本が敗戦する、1945年8月15日まで、続くのである。

さて、日中戦争は、終わっていない。
蒋介石の率いる、国民党軍と、毛沢東が率いる、共産党軍が、抗日反日の戦いをしていた。共に、敵同士だが、抗日反日では、同じである。

日本は、国民党の幹部を引き出し、傀儡政権を成立させようとしたが・・・

その中国側の背後には、アメリカ、イギリスの援助がある。
つまり、すでに、英米は、日本を敵にしていたのである。

その魂胆は、簡単である。
中国の利益を、自分たちも、求めていたのである。
これが、国際社会の複雑さである。

満州国を認めないが・・・
それは、自分たちの国益のために、欲したと考えるといい。

国益とは、実に単純なものである。
だが、そのために、複雑怪奇なことを、仕出かすのだ。

当時の日本国内では・・・
昭和20年、尽忠報国、挙国一致、などいう言葉が、現れた。
つまり、膨大な軍事費のせいで、国民の生活が苦しくなっていたのである。
だから、苦しみに耐えるということが、美徳とされた。

その前に、昭和13年には、国家動員法、という法律が公布されていた。
戦争のために、国の経済、政治、文化、言論のすべてが、統制されるということだ。

議会の意向に関わらず、政府の勅命により、どのような政策も、可能になったのである。

そして、翌年から、政府は、次々と、統制法令を発していた。
例えば、賃金を抑える、賃金統制法である。
益々、国民の生活は、苦しくなる。

燃料の不足もある。

戦争の苦労を思い、威勢のよい、スローガンが叫ばれた。

統制経済とは・・・
極めて、洗脳的である。
だから、共産主義思想などは、受け入れられないだろう。

ここで、昭和15年の、皇紀2600年のことを、見る。
皇紀とは、天皇の歴史である。
そして、それは、日本の歴史でもある。

その祝いが、昭和15年に行われた。
ある著者が、昭和20年までは、天皇制国家だったと、書くが・・・

それは、誤りである。
天皇の存在しない、日本という国は、考えられないのである。

神話・・・
だが、神武天皇即位から、確かに、皇紀をもって、自国の歴史に思いをはせることが出来る。
神武天皇は、神話の中の、想像の人物ではない。
実在の人物である。

天皇は、制度ではない。
伝統である。

そして、神武天皇以前の、神話が存在する。
民族の物語が存在するということは、民族の共同幻想を作り上げることが出来る。

どんな民族にも、神話と、物語が存在する。
それによって、民族の共同幻想が、作られるからである。
それが、欠如すれば、民族感覚は、成り立たない。

確かに、明治以降の学校では、天皇を、現人神として、教えた。
それには、訳がある。

明治維新で、政治的権力を握った、長州などの下級藩士が、権力基盤を固めるために、国論統一の方法として、利用したのである。

歴代天皇で、自ら、我は現人神と仰せられた天皇はいない。
ただ、昔、宮廷歌人たちが、天皇を神として、歌うことである。
その神とは、上という意味であり、唯一絶対の神という、欧米の神認識ではない。

そして、この現人神という、天皇の神格化によって、玉砕が行われたといって、いい。
それは、軍部の洗脳である。



posted by 天山 at 07:11| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月13日

もののあわれについて734

源氏「げにけしうはあらぬ弟子どもなりかし。琵琶はしも、ここに口入るべきことまじらぬを、さ言へど、もののけはひ異なるべし。おぼえぬ所にて聞き始めたりしに、めづらしきものの声かな、となむ覚えしかど、その折りよりはまたこよなくまさりにたるをや」と、せめてわれがしこにかこちなし給へば、女房などは少しつきしろふ。




源氏は、いかにも、悪くは無い弟子たちだ。琵琶は、私が口出しするようなことはないのだが、そうは言っても、雰囲気が違うようだ。思いがけない所で、初めて聞いたときは、珍しい琵琶の音だ、と思ったが、そのときより、また格段に上手になった。と、無理に、自分の手柄にするので、女房たちは、少し、つっつきあうのである。




源氏「よろづの事、道々につけて習ひまねばば、才といふもの、いづれもきはなく覚えつつ、わがここちにあくべき限りなく習ひとらむことはいとかたけれど、何かは、そのたどり深き人の今の世にをさをさなければ、かたはしをなだらかにまねび得たらむ人、さるかたかどに心をやりてもありぬべきを、琴なむ、なほわづらはしく、手ふれにくきものはありける。このことは、まことに跡のままに、たづねとりたる昔の人は、天地をなびかし、鬼神の心をやはらげ、よろづの物の音のうちに従ひて、悲しび深きものも、喜びにかはり、いやしく貧しき者も、高き世き世にあらたまり、宝にあづかり、世に許さるるたぐひ多かりけり。




源氏は、何事も、様々なその道を稽古すれば、才能というものは、すべてきりがないように思われて、自分の気持ちに満足するまで、習得するのは、大変に難しい。何の、そこまで行った人は、今の世には、めったにいないので、一部でも、無難に学んだ人は、その一面でも、満足して、いいわけだが、琴は、何と言っても、面倒で、手の出しにくいものである。この琴は、誠に伝えられたままに、習得した昔の人は、天地を自由にし、鬼神の心を和らげ、すべての楽の音が、琴の中に従い、悲しみの深いものも、喜びに変り、賎しく貧しい者も、高貴な身となり、宝を得て、世に認められる人々が、多かった。




この国に弾き伝ふるはじめつかたまで、深くこの事を心得たる人は、多くの年を、知らぬ国にすぐし、身をなきにして、このことをのねび取らむと惑ひてだに、しうるは難くなむありける。げにはた、あきらかに、空の月星を動かし、時ならぬ霜雪を降らせ、雲雷を騒がしたるためし、あがりたる世にはありけり。書く限りなきものにて、そのままに習ひとる人のありがたく、世の末なればにや、何処のそのかみのかたはしにかあらむ。




我が国に、弾き伝える当初までは、深くこのことを知る者は、幾年も、見知らぬ国で過ごし、我が身はないものと、覚悟して、この道を習得しようと、さ迷い、為し遂げることは、難しかった。そして、また、確かに、空の月や星を動かし、季節はずれの霜や雪を降らせ、雲や雷を騒がせた例が、上古の代には、あったものだ。このように、きわまりないもので、伝えられた通り、習い取る人は、ほとんどいず、末の世だからか、どこに、その当時の、一部分でもあろうか。




されどなほかの鬼神の耳とどめ、かたぶきそめにけるものなればにや、なまなまに学びて、思ひかなはぬ類ありける後、これをひく人よからず、とかいふ難をつけて、うるさきままに、今はをさをさ伝ぬる人なしとか。いと口惜しきことこそあれ。琴の音をはなれては、何ごとをかものを整へ知るしるべとはせむ。げに、よろづの事おとろふるさまは易くなりゆく世の中に、一人いで離れて、心を立てて、唐土高麗と、この世に惑ひありき、親子を離れぬ事は、世の中にひがめるものになりぬべし。などか、なのめにて、なほこの道をかよはし知るばかりの端をば、知りおかざらむ。調ひとつに手をひきつくさむ事だに、はかりもなきものななり。いはむや、多くの調、わづらはしきごく多かるを、心に入りしさかりには、世にありとあり、ここに伝はりたる譜といふものの限りを、あまねく見合はせて、のちのちは師とすべき人もなくてなむ、好み習ひしかど、なほあがりての人には、あたるべくもあらじをや。ましてこの後といひては、伝はるべき末もなき、いとあはれになむ」と宣へば、大将、「げにいとくちをしく恥づかし」と思す。



されど、あの鬼神が、聞き入り、耳をかたむけた楽器であるせいか、不十分な練習では、思い通りにならないことがあってから、これを弾く人には、災いがあるという、言いがかりがあり、嫌なものだから、今では、めったに、弾き伝える人がいないようだ。実に、残念なことだ。琴の音以外に、どの弦楽器を、音律を整えるようとしようか。いかにも、何もかにもが悪くなってゆく様は、あっけないほどの、今の世だが、その中で、一人だけ、世間から離れて、志を立て、唐、高麗と、現世をうろつきまわって、親子と別れるということは、世のすねた者になるということ。どうして、程ほどで、しかも、この道をだいたい知る程度の、糸口を一応知らないで、おれようか。一つの調べを弾きこなすことすら、底知れず、難しいものだ。いわんや、多くの調べ、厄介な曲が多い。熱中していた頃には、この世に、あらん限りの、日本に伝わる、譜という譜を。ことごとく、全部調べて、とうとう、師匠として、得る者もなくなるまで、喜んで研究したいのだが、それでも、昔の名人には、到底およびもつかない。まして、これから後というと、琴が伝わるほどの子供がいないのが、寂しい。などと、おっしゃるので、大将は、お言葉通り、残念で、顔も上げられないと、思われる。

posted by 天山 at 08:18| もののあわれ第13弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月14日

もののあわれについて735

源氏「この御子たちの御中に、思ふやうに生ひいで給ふ、ものし給はば、その世になむ、そもさまでながらへとまるやうあらば、いくばくならぬ手の限りも、とどめ奉るべき。二の宮、今よりけしきありて見え給ふを」など宣へば、明石の君は、いとおもただしく、涙ぐみて聞きい給へり。




源氏は、この御子たちの中に、思い通りに、成人される方がおいでなら、その方が、大きくなられた時には、まあ、その時まで、生きながらえるものならば、たいしたものではない私の技は、全部、お伝え申そう。二の宮は、今から、そんな感じがありそうだ。などと、おっしゃるので、明石の君は、大変光栄に思い、涙ぐんで、聞いていらっしゃる。




女御の君は、筝の御琴をば上に譲り聞えて、寄り臥し給ひぬれば、あづまをおとどのお前にまいりて、け近き御遊びになりぬ。「かづらき」遊び給ふ。はなやかに面白し。おとど折り返しうたひ給ふ御声、たとへむ方なく愛敬づきてめでたし。月やうやうさしあがるままに、花の色香ももてはやされて、げにいと心にくき程なり。




女御の君は、筝の御琴を、紫の上にお譲りして、ものに寄りかかり横になったので、和琴を源氏に差し上げて、打ち解けた演奏になった。葛城を、合奏される。明るく、愉快である。源氏が、繰り返し歌われるお声は、たとえよえもなく、味わいがある。ご立派だ。月が、次第に上がってゆくにつれて、花の色も、香も、一段と引き立てられて、いかにも、奥ゆかしい限りだ。




筝の琴は、女御の御つま音は、いとらうたげになつかしく、母君の御けはひ加はりて、ゆのねふかく、いみじく澄みて聞えつるを、この御手づかひはまたさまかはりて、ゆるるかにおもしろく、聞く人ただならず、すずろはしきまで愛敬づきて、輪の手など、すべてさらに、いとかどある御ことの音なり。かへり声に、皆調かはりて、りちの掻合ども、なつかしく今めきたるに、琴は、こかの調、あまたの手のなかに、心とどめて必ずひき給ふべき、五六のばちを、いとおもしろくすまして弾き給ふ。さらにかたほならず、いとよくすみて聞ゆ。春秋よろづのものにかよへる調にて、かよはしわたしつつ弾き給ふ。心しらひ、教え聞え給ふさま違へず、いとよくわきまへ給へるを、いとうつくしくおもだだしく思ひ聞え給ふ。




筝の琴は、女御の爪音が、大変可愛らしく、心にしみるようで、母君の弾き具合も入り、ゆの音が深く、とても澄んで聞えた。
紫の上の、弾かれるものは、また別で、様子が違い、ゆったりと趣きがあり、聞く人は、見事に、心が揺らぐほど魅力があり、輪の手など、何から何まで、すべてが、しっかりとした、弾き振りである。
かへり声に、すべての調子が変って、律の掻き合わせは、親しみがあり、現代的な中に、琴は、四個の調べ、沢山の弾き方の中で、注意して弾かなければならない、五六のばちを、見事に、澄んでお弾きになる。少しも、子供っぽくなく、十分に澄んだ音である。
春秋すべてのものに、通じる調子で、次々と、相応しい弾きぶりをされる。気の配り方は、教えられたものと、少しも違わず、大変良く理解していることを、源氏は、実に可愛らしく、名誉なことと、思うのである。




この君達のいとうつくしく吹き立てて、せちに心入れたるを、らうたがり給ひて、源氏「ねぶたくなりにたらむに。こよひの遊びは長くはあらで、はつかなる程にと思ひつるを、とどめがたき物の音どもの、いづれともなきを、聞きわく程の耳敏からぬたどたどしさに、いたく更けにけり。心なきわざなりや」とて、笙の笛吹く君に、土器さし給ひて、御ぞ脱ぎてかづけ給ふ。横笛の君には、こなたより、織物の細長に、袴などことごとしからぬさまに、気色ばかりにて、大将の君には、宮の御方より杯さし出でて、宮の御装束一領かづけ奉り給ふを、おとど、源氏「あやしや。物の師をこそ先づはものめかし給はめ。うれはしきことなり」と宣ふに、宮のおはします御几帳のそばより、御笛を奉る。うち笑ひ給ひて取り給ふ。いみじき高麗笛なり。少し吹き鳴らし給へば、みな立ち出で給ふに、大将たちとまり給ひて、いとめでたく聞ゆれば、いづれもいづれも、みな御手を離れぬものの伝へ伝へ、いと二なくのみあるにてぞ、わが御才の程ありがたく思し知られける。




この若君たちが、可愛らしく笛を高く吹いて、一生懸命に努めるのを、可愛く思い、源氏は、眠たくなっているだろうに。今夜の音楽は、長くは無く、ほんの暫くと思っていたが、やめられない楽の音が、どれもこれも、優れているのを、優劣を決めるほど、耳が良くなく、くずくずして、すっかり夜が更けてしまった。考えの無いこと、と、笙の笛を吹く君に、土器を差して、御衣を脱いで、お授けになる。横笛の君には、こちらから、織物の細長に、袴など仰々しくない程度に、形ばかりにて、大将の君には、宮の御方から、杯を出して、宮の御装束一領を、お授け申し上げるのを、源氏は、変だな。先生にこそ、第一にご褒美を下さるはずだが。情けない話だ。と、おっしゃると、宮がいらっしゃる御几帳の横から、御笛を捧げる。
お笑いになり、お取りになる。素晴らしい高麗笛である。少し吹き鳴らしされると、皆、立って出て行くところだが、大将が立ち止まり、御子が持っていらっしゃる笛を取り、とても結構に高々とお吹きになる。それが大変、見事な音色なので、どなたたちも、皆、源氏の教えを頂き、またとないほど、お上手になった方々ばかりなので、ご自身の御才能の程が、めったにないほどなのだと、お分かりになるのだった。




大将殿は、君達を御車に乗せて、月の澄めるにまかで給ふ。道すがら、筝の琴のかはりていみじかりつる音も、耳につきて恋しく覚え給ふ。わが北の方は、故大宮の教へ聞え給ひしかど、心にもしめ給はざりし程に別れ奉り給ひにしかば、ゆるるかにも弾き取り給はで、男君のお前にては、恥ぢてさらに弾き給はず。何事もただおいらかに、うちおほどきたるさまして、子どもあつかひをいとまなくつぎつぎし給へば、をかしき所もなく覚ゆ。さすがに腹あしくて、もの妬うちしたる、愛敬づきて、うつくしき人ざまにぞものし給ふめる。




大将殿は、若君達を御車に乗せ、月が澄んだ所を、御退出になる。その途中、筝の琴の普通とは違う、素晴らしい音も、耳について忘れられない思いがする。ご自分の、北の方は、亡き大宮が教え申し上げなさったが、面白くならぬうちに、死に別れされたので、ゆっくりと習うことが出来ず、夫君の前では、恥ずかしがって、全然、お弾きにならない。何もかも専ら、おっとりとして、おうような方で、子供の世話を休む暇なく、次々にされるので、風情もない感じがする。それでも、怒ることがあり、焼きもちを焼くと、愛敬があり、可愛らしい人柄で、いらっしゃるようだ。









posted by 天山 at 06:49| もののあわれ第13弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月15日

もののあわれについて736

院は対へ渡り給ひぬ。上は、とまり給ひて、宮に御物語など聞え給ひて、あかつきにぞ渡り給へる。日高うなるまで大殿こもれり。源氏「宮の御琴の音は、いとうるさくなりにけりな。いかが聞き給ひし」と聞え給へれば、紫「はじめつ方、あなたにてほの聞きしは、いかにぞやありしを、いとこよなくなりにけり。いかでかは、かくことごとなく教え給はむには」といらへ聞え給ふ。源氏「さかし。手をとるとる、おぼつかなからぬ物の師なりかし。これかれにも、うるさくわづらはしくて、暇いるわざなれば、教へ奉らぬを、院にも内にも、琴はさりとも習はし聞ゆらむ、と宣ふと聞くがいとほしく、さりともさばかりの事をだに、かく取りわきて御後見にとあづけ給へるしるしには、と、思ひおこしてなむ」など聞え給ふついでにも、源氏「昔よづかぬ程をあつかひ思ひしさま、その世には、暇もありがたくて、心のどかに取りわき教へ聞ゆることなどもなく、近き世にも、なにとなくつぎつぎ紛れつつ過ぐして、聞きあつかはぬ御琴の音の、いでばえしたりしも、面目ありて、大将のいたくかたぶきおどろきたりし気色も、思ふやうに嬉しくこそありしか」など聞え給ふ。




院、源氏は、対へおいでになった。紫の上は、お残りになり、宮にお話などされて、夜明け近くに、お帰りになった。
日が高くなるまで、お休みである。源氏は、宮の御琴の音は、立派なものだった。どうお聞きになったのか、とおっしゃると、紫の上は、初めのころ、あちらで、少しばかり耳にした時には、どんなものかしらと思いましたが、とても上手になられて。それはそうでしょう、こんなに、こればかりをお教えになったのですから。と、お答えになる。
源氏は、そうなんだ。手を取り取り、頼りになる先生なんだ。誰にも彼にも、うるさく面倒で、時間がかかることなので、お教えしなかったが、院も主上も、琴は、いくらなんでもお教え申すだろうと、おっしゃると耳にして、お気の毒で、いくら何でも、そのくらいはせめて、このように特別に、お世話役として、お預け下さったことには、と、思い立って、などと、おっしゃるついでにも、昔、あなたがまだ小さかった頃、世話をしたが、その頃は、暇もなくて、ゆっくりと、特別にお教えすることが出来なく、近頃でも、何となく次々と、取り紛れて日を送り、聞いて上げられなかった、お琴の音が、出来のよかったのも、私には、名誉なことで、大将が、ひどく不審顔で、驚いていた様子も、願い通りで、嬉しいことだった。などと、おっしゃる。




かやうのすぢも、今はまたおとなおとなしく、宮達の御あつかひなど、取りもちてし給ふさまも、いたらぬことなく、すべて何事につけても、もどかしくたどたどしきこと交らず、ありがたき人の御ありさまなれば、「いとかく具しぬる人は、世に久しからぬ例もあなるを」と、ゆゆしきまで思ひ聞え給ふ。さまざまなる人の有様を見集め給ふままに、取り集め足らひたる事は、まことにたぐひあらじとのみ思ひ聞え給へり。今年は三十七にぞなり給ふ。見奉り給ひし年月のことなども、あはれに思し出でたるついでに、源氏「さるべき御祈りなど、常よりも取り分きて、今年はつつしみ給へ。もの騒がしくのみありて、思ひいたらぬこともあらむを、なほ思しめぐらして、大きなることどももし給はば、おのづからせさせてむ。故僧都のものし給はずなりにたるこそ、いと口惜しけれ。大方にてうち頼まむにも、いとかしこかりし人を」など宣ひいづ。




紫の上は、こういうことも、今はまた年輩らしく、孫の宮たちの、お世話なども引き受けていらっしゃる様子も、何一つしくじりもしない。すべて何事につけても、非難されるようなことも、おぼつかない点もなく、またとない人柄ゆえ、全く何から何まで、備えている人は、長生きしない例もあるというが、縁起でもないことまで、心配される。色々な婦人方の人柄を、お知りになっていられるため、何から何まで揃うという点では、実際、またといないと、思っていらっしゃる。今年は、三十七歳におなりになる。
一緒に暮らしていらっしゃる年月の事なども、しみじみとした思い出しなさることの機会に、源氏は、適当なお祈りなど、いつもより、特別にして、今年は、お慎みなさい。何かと忙しいばかりで、気のつかないこともあるだろう。矢張り、色々お考えがあり、しっかりした法事も、幾つかなさるなら、私の方で、させよう。故僧都など亡くなってしまったのが、本当に残念だ。普通に頼むとしても、大変力になる方だったのに。などと、おっしゃるのである。

あはれに思し出でたるついでに
思い出が、あはれ、なのである。
懐かしい、しみじみとした感情。


posted by 天山 at 07:03| もののあわれ第13弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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