ナーガールジュナ
ここでは、依存性は、中道で、空性と、名づけているという。
ブッダの言う、中道とは・・・
仮の名づけで、空性という。
ものが空であるということは、そのものが本体として存在するのではなくて、原因や他のものに依って生じてきているということである。
研究家
実に、解り易い。
空とは、無という言葉の意味ではない。
そこで、誤解が生じる。
しかし、言葉は、本体を持たぬから、誤解される。
空性とは、本体のない存在ということであり、存在の無ではない。
空という、本体があると、考えてはならないのである。
更に、空というものが、存在しないということでもない。
つまり、存在も、非存在も、超えるものである。
それが、ブッダの説いた教えである。
もし原因が結果と区別された本体をもち、行為とその主体と対象がそれぞれ区別された本体をもっているならば、どうして原因が結果になり、人があるものにはたらきかけるということができるのか。
研究家
不浄が浄と本体として区別され、煩悩が涅槃と、苦が苦の滅と区別されるなら、その間の掛け橋としての修道はありえない。
研究家
生成や変化は、ものが空である、ということの上に成り立っている。
空性を否定すると、すべての生成や変化は成り立たない。
それは、宗教、道徳の否定であるとなる。
本体は、作ることのできないものである。
上記から、修道、宗教、道徳という観念も、今考えているようなものではないかもしれない。
この空性を会得する人にはすべてのものが会得される。空性を会得しない人にはいかなるものも会得されない。
ナーガールジュナ
と、いうことは、悟るとは、空性を会得するということ・・・
このナーガールジュナに対して、ニヤーヤ学派や、アビダルマ仏教者が、批難するものを、研究家は、要約してくれる。
以下、
すべてのものに本体がないというけれど、それでは「すべてのものは空である」という彼のことばも本体がないはずである。その空のことばでものの本体を否定すめことがどうしてできるのか。実にものは存在しない火によって焼かれず、存在しない剣、存在しない水によって切られ、湿らされることはないように、存在しないことばによってものを否定することはできない。
しかし、これに反して、もしことばが本体をもつというならば、「すべてのものは空である」というナーガールジュナの主張は破れる。
少なくとも、ことばという一つのものは本体をもつからである。ことばというものは必ず対応する実在性をもっている。
「本体をもたないもの」ということばも、それがなりたつかぎり、対応する本体をもつ。したがって、本体をもたないものが本体をもつことになって、ナーガールジュナの表現は自己矛盾である。
「ものに本体はない」という否定が成り立つためには、その否定の対象である本体が、どこかに、存在しなければならない。
「ものに本体がない」という議論を論証する根拠はありえない。
すべてのものに本体がないのだから。もしなんらかの根拠を提出し、根拠という本体の存在を主張するとすれば、ものに本体がないということはうそになる。
上記の反論は、ことばというものには対応する実存がある、ということである。
そこで、研究家は、言う。
彼らの主張する実在とか本体とかいうものは、ことばのもつ意味の実体化されたものにほかならない。
中観者は、ことばが、存在するなどとは、いわない。
ことばも、空であるから。
批難は、検討外れ・・・
否定は、存在するものだけに言えると、論駁するが・・・
しかし、もし否定の対象は存在せねばならぬなら、反駁者は、空性を否定しようとするのだから、その否定の対象である、空性は、ある、ということになり、空性が、是認される。
すべてのものが空であるから、否定されるべきものも否定もあるのではない。だから、自分は何かを否定しているわけではない。
ナーガールジュナ
ブッダが、このような面倒なことを、説いたのか・・・
ブッダが、説いたというところから、始まるお話である。
哲学の世界としておこう。
まだまだ、お話はある。
元に戻ると、依存性は、中道であり、仮に名付けると、空性・・・
つまり、すべては、空ということになる。
空は、無という意味ではない。
縁起である、中道である。
日本の仏教を、仏教考えていると、仏教というものを、誤るということか。
とんでもない、世界が、あるということだ。