2015年03月02日

神仏は妄想である。516

依存性(縁起)をわれわれは空性であるというのである。その空性は仮の名づけであり、それは中道と同じことばである。依存しないで生じたものなぞ何もないのであるから、空でないものなぞ何もない。
ナーガールジュナ

ここでは、依存性は、中道で、空性と、名づけているという。
ブッダの言う、中道とは・・・
仮の名づけで、空性という。

ものが空であるということは、そのものが本体として存在するのではなくて、原因や他のものに依って生じてきているということである。
研究家

実に、解り易い。

空とは、無という言葉の意味ではない。
そこで、誤解が生じる。
しかし、言葉は、本体を持たぬから、誤解される。

空性とは、本体のない存在ということであり、存在の無ではない。

空という、本体があると、考えてはならないのである。

更に、空というものが、存在しないということでもない。

つまり、存在も、非存在も、超えるものである。
それが、ブッダの説いた教えである。

もし原因が結果と区別された本体をもち、行為とその主体と対象がそれぞれ区別された本体をもっているならば、どうして原因が結果になり、人があるものにはたらきかけるということができるのか。
研究家

不浄が浄と本体として区別され、煩悩が涅槃と、苦が苦の滅と区別されるなら、その間の掛け橋としての修道はありえない。
研究家

生成や変化は、ものが空である、ということの上に成り立っている。
空性を否定すると、すべての生成や変化は成り立たない。
それは、宗教、道徳の否定であるとなる。

本体は、作ることのできないものである。

上記から、修道、宗教、道徳という観念も、今考えているようなものではないかもしれない。

この空性を会得する人にはすべてのものが会得される。空性を会得しない人にはいかなるものも会得されない。
ナーガールジュナ

と、いうことは、悟るとは、空性を会得するということ・・・

このナーガールジュナに対して、ニヤーヤ学派や、アビダルマ仏教者が、批難するものを、研究家は、要約してくれる。

以下、
すべてのものに本体がないというけれど、それでは「すべてのものは空である」という彼のことばも本体がないはずである。その空のことばでものの本体を否定すめことがどうしてできるのか。実にものは存在しない火によって焼かれず、存在しない剣、存在しない水によって切られ、湿らされることはないように、存在しないことばによってものを否定することはできない。
しかし、これに反して、もしことばが本体をもつというならば、「すべてのものは空である」というナーガールジュナの主張は破れる。
少なくとも、ことばという一つのものは本体をもつからである。ことばというものは必ず対応する実在性をもっている。
「本体をもたないもの」ということばも、それがなりたつかぎり、対応する本体をもつ。したがって、本体をもたないものが本体をもつことになって、ナーガールジュナの表現は自己矛盾である。

「ものに本体はない」という否定が成り立つためには、その否定の対象である本体が、どこかに、存在しなければならない。

「ものに本体がない」という議論を論証する根拠はありえない。
すべてのものに本体がないのだから。もしなんらかの根拠を提出し、根拠という本体の存在を主張するとすれば、ものに本体がないということはうそになる。

上記の反論は、ことばというものには対応する実存がある、ということである。

そこで、研究家は、言う。
彼らの主張する実在とか本体とかいうものは、ことばのもつ意味の実体化されたものにほかならない。

中観者は、ことばが、存在するなどとは、いわない。
ことばも、空であるから。
批難は、検討外れ・・・

否定は、存在するものだけに言えると、論駁するが・・・

しかし、もし否定の対象は存在せねばならぬなら、反駁者は、空性を否定しようとするのだから、その否定の対象である、空性は、ある、ということになり、空性が、是認される。

すべてのものが空であるから、否定されるべきものも否定もあるのではない。だから、自分は何かを否定しているわけではない。
ナーガールジュナ

ブッダが、このような面倒なことを、説いたのか・・・
ブッダが、説いたというところから、始まるお話である。

哲学の世界としておこう。
まだまだ、お話はある。

元に戻ると、依存性は、中道であり、仮に名付けると、空性・・・
つまり、すべては、空ということになる。

空は、無という意味ではない。
縁起である、中道である。
日本の仏教を、仏教考えていると、仏教というものを、誤るということか。
とんでもない、世界が、あるということだ。
posted by 天山 at 06:36| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月08日

神仏は妄想である。517

言葉で語りえないものを、語り尽くすという、ナーガールジュナの言葉の数々を眺めてきた。

更には、言葉も、実は幻であるというのであるから、恐れ入る。

合理的、論理的に十分に、その勤めを果たしたと言って、よい。
何せ、ブッダは、一切、そのような議論を好まず、無視したのである。

特に、仏教以外の、外道と呼ばれる、考え方には、全く組しなかった。
しかし、時代性である。

ことばの仮構を超越した不壊なるブッダをことばで仮構する人々はみな、ことばの仮構によってそこなわれて如来を見ることがない。
如来の本性であるもの、それをこの世間の人々も本性とする。如来は本体なきものであり、この世間の人々も本体なきものである。
ナーガールジュナ

自分も、言葉で仮構しているのに・・・
だから、言葉で、語りえないことを、語ったことが、偉いのだ。

如来も、世間の人も、本性は、同じ。
更に、その本体も無いものと言う。

大した根性である。
如来も、世間の人も、同じ・・・

これが、後に、煩悩即菩提などいう、言葉の、遊びになったという。

この世間と区別され、この世間と離れたところに如来を求めてもむだである。とナーガールジュナはいう。ものの空性を見ることのほかに悟りはないし、その空性とは世間の人々、世間の事物のありのままの姿である。それを見ないで世間と如来を区別するのは、ただことばの上のことだけである。
専門家

専門家も、宗教家のようなことを、言う。

涅槃に入れば、このすべて(の輪廻の原因)は存在しないだろう。と説かれても、あなたは恐れない。この世において、それらは存在しない、と説かれてあなたはどうして恐れを生ずるのか。
解脱したときには自我もなく、身心も存在しない。もし解脱がそのような好ましいものであるならば、自我と身心を除去することが、この世においてだけ、どうしてあなたに好ましくないのか。
ナーガールジュナ

ここまで行けば、どうして、神仏は妄想である、と言わないのか、不思議。
それを言っては、お終いなのか。

要素の存在を立ててその後にこれから離れる、という考え方は、恒常的な自我を主張する非仏教者が誤っているのと同じように誤りである。
専門家

ならば、何故、日本仏教の愛好家たちは、それを言うのか・・・
曰く、
この世は苦しみである。それは欲望に執着するからである。
欲望が満たされなければ、苦しみ、満たされると、楽しむ。

だが、
そのような苦楽が真実に人を救うものでないことは誰にでもわかっている。
と、専門家は言う。

人を救う・・・
本当に、人を救えると、思っているのか・・・

それなら、アホである。
この世に、人を救うものなど、何一つない。
あるとすれば、自分だけである。
更に、救いとは、何からの、救いか・・・
何故、救われなければならないのか・・・

愛着を滅して悟る、ということもこれと変わらない。初めから愛着に本体のないことを知るに及ばないのである。
専門家

神仏を想定して、何かからの救いというものを、求めるとは、洗脳である。
生まれたことが、罪であるとか・・・
煩悩の凡夫であるからとか・・・

更に、自虐である。

人を支配するなら、自虐的にすることである。
すると、自ら、救いを求めて、神仏に祈る。
勿論、そんな存在は無いが。

霊学から言えば、相手は、霊である。
その霊の、存在レベルの差だけである。

自我と、身心を除去すること・・・
こんな恐ろしいことが、出来るのか。

不浄に執着することが顛倒「てんどう」であるならば、浄に執着することも顛倒である。そのような執着も執着されるものもないと知ることによって顛倒そのものもなくなる。空性とはそういうことである。そこでは分けられた二つの対立する世界が、本体がない、ということをとおして一つになる。
ナーガールジュナ

顛倒とは、逆さま、誤った考え方のこと。

それは、般若経の哲学者たちが見た、不二の世界と同じものである。
神仏と人は、同じ本体を持つということだ。

我は、神であり、仏であると、思えば良い。

この世が幻であり、夢である、ということは、実は、この世を、一義的に固定したことばによって理解しようとすると、断滅でも恒常でもない幻としかいえなくなる、ということではなくてはならない。だからナーガールジュナが、世界は幻だ、といったことは、ことばは幻である、といったことになるのである。夢であり、幻であるものは、真実である不二の、空の世界でなくて、ことばの世界である。
専門家
と、専門家も、言葉で、解説するのである。

ちなみに、日本人は、古来から、言葉は、神であると、認識した。
言霊とは、まさに、言の霊として、対処してきた。
言葉は、日本人の場合は、幻ではなく、霊、神、カムである。

これから、ナーガールジュナの教えを整理して見ることにする。

posted by 天山 at 07:18| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月09日

玉砕7

昭和6年の終わりから、昭和7年の一月にかけて、関東軍は、満州全域を制圧した。

ところで、満州国の建設が、植民地だというならば、それ以前に、西欧列強の植民地であったことだ。
それゆえに、中国は全国統一など出来ない状態である。

しかし、現在言われるのは、単に、日本が植民地支配をしたという、一点である。

当時の、陸軍は、満州、蒙古を日本の領土として、五族協和、つまり、漢民族、蒙古、朝鮮、日本、満州人の、国家を作ろうとしていた。

少なくとも、王道楽土の国家にするという、意欲があった。
それでは、当時の中国の、様々な、軍、それは、すべて匪賊の集団であるが・・・
どんな国を目指したのか。そして、それは、中国人が、求めていたことか。

全く、規律の無い、匪賊の集団である。
そして、略奪、強盗は、当たり前の集団である。

単に、日本が植民地にしたという、理屈では、解せないものがある。

ただし、当時の日本政府、若槻礼次郎内閣は、この事変を、局地的な段階にとどめ、満州一帯に広げることに、反対した。
しかし、陸軍の指導者たちは、関東軍を増派して、徹底的に奉天政府を叩けというものだった。

そして、国民は、その軍部を支持し、賞賛したのである。

陸軍大臣の南治郎も、陸軍の考え方であり、昭和6年12月、若槻内閣は、閣内不一致で、辞職する。

新しい内閣は、立憲政友党の総裁犬飼毅が、首相に就いた。
蔵相は、高橋是清が就き、即座に、金輸出再禁止を行なう。更に、国内の不況を乗り切るために、幾つかの政策を実施する。

そのお陰か、国民の生活も徐々に落ち着いたものになるのだ。

だが、時代は、いつも騒乱、激動である。
昭和7年にテロが起こる。

それは、陸軍主体の政権と、満州蒙古政策の、追認を目指したものだった。

その二月に、金解禁政策を採用した、井上準之助元蔵相が、襲われた。
三月には、三井財閥の番頭、団琢磨が、財閥が金解禁と、再輸出の政策転換で、ドルを売り買いして、莫大な利益を得たとして、テロリストに暗殺される。

血盟団と称された、テロ集団・・・
決行者は、井上日召の下に集った、茨城県の農村青年たちで、一人一殺、という考えに共鳴していたのである。
当時のエリート、東京帝大生なども、加わっていた。
更に、世の中が、テロ容認の風潮である。

歴史を俯瞰すれば、必ず、世の中という漠然とした、空気があることに、気づく。
何事も、一人勝手にすることが、出来ないのである。

国民、庶民という存在を無視しては、理解出来ないのである。
戦争に対する思いも、結局は、国民感情に行き着く。

国民の心をつかむもの、それが、国の主体となる。
その良い例が、天皇陛下の存在である。
時々に、その事態に関しての、昭和天皇の考え方を、付け添えて行く。

五月、井上と親しい海軍の仕官が、陸軍士官学校の生徒を誘い、更に、茨城県水戸市にあった、農本主義団体に加わる、農村青年たちが、テロ活動を起こした。
5・1事件である。

首相官邸を襲い、犬飼首相を暗殺。

テロリストたちは、政党政治に対する、苛立ちがあり、議会政治に、とどめを刺そうとした。

陸軍内部にあり、強力に国家改造を進める将校、民間の右翼活動家の、北一輝、大川周明などは、天皇が常に、陸軍の軍事活動に不安を漏らしているとの噂を信じて、その側近が、曲がった情報を天皇に伝えていると、考えた。

では、彼らは、どういう政治を求めたか・・・
それは、天皇の政治、天皇親政を求めたのである。

この感情を理解しなければ、解らないことが多い。

天皇が、表に出て、直接指示して欲しいと願ったのである。
何故か・・・
天皇は、国民の気持ち、声を聞かれる、御方だと、信じたのである。
勿論、天皇は、いつも国民の側にあり、お言葉を述べられる存在である。

だが、昭和天皇は、この事件の後に、非常の決意を持って、内外の収拾をはかり、鈴木侍従長を、西園寺公の邸に遣わして、後継首相の人選につき、異例の内意を伝えさせた。

当時、西園寺が、元老として、後継首班を奏請する慣例があった。

昭和天皇の意向である。
首相は人格の立派なるを要す。
政治の幣を改善し、陸海軍の軍紀を振粛するは、一に首相の人格如何に依る。
ファッショに近きものは絶対に不可なり。
憲法は擁護せざるべからず。然らざれば明治天皇に相済まぬ。
外交は国際平和を基礎とし、国際関係の円滑に努むるべし。

更に、陸軍に対するお言葉も、あった。

いかに、昭和天皇が、バランスの取れた、人柄が解るというもの。
そして、優れた、政治的感覚を持たれていたのである。

だが、軍は、益々暴慢を募らせた。
更には、天皇に対しても、陸軍の一部の者が、
今の陛下は凡庸で困る
と、言うのである。
つまり、陸軍の考えを受け付けないということだ。

侵略に反対する天皇を、凡庸だと、言うのである。
これが、後々に、人命軽視の思想となる。
それが、玉砕である。

posted by 天山 at 06:17| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月10日

玉砕8

昭和天皇は、敗戦後の回想で、
自分が、民主的に振舞おうとつとめたため、かえって、軍をつけあがらせることになった。
と、回想している。

しかし、私が言いたいことは、軍部に対しての、国民の支持は、圧倒的だったということだ。
大衆というものを、疎かにできないのである。

天皇の平和希求の願いが、軍部によって、破られたが、国民は、軍部を支持したということを、覚えて欲しい。

そ後も、クーデター騒ぎが、幾つか発生した。
神兵隊事件、三月事件、十月事件・・・・
国内は、騒然としたのである。

だが、世論は、将兵たちを英雄視したということ。

であるから、満州国に対しても、国民は大歓迎したのである。

昭和7年3月、満州国が発足した。
執政には、溥儀を就任させた。元首である。
溥儀とは、清国の最後の皇帝である。

それを世界に、発表した。
中国国民政府は、当然反発する。
そして、国際連盟に、提訴する。

そこで、国際連盟は、リットン調査団を派遣する。
英、米、仏、独、伊の五名からなる。
すでに、侵略していた国も入っているから、笑う。

更に、加えて言うと、米などは、満州の権益を狙っていたのである。
それが、後々で、解ってくる。

その調査報告では、
満州国は、日本の侵略で生まれたが、中国の日本排斥の動きも、そのひとつの原因になっているというものだ。

当然といえば、当然である。

そして、国際連盟は、対日勧告案を42対1、棄権シャム、現在のタイであるが、可決した。
日本は、国際連盟の決定に従えということになる。

日本だけが、反対した。当然だ。
それにより、日本は、国際連盟から、脱退したのである。
昭和8年3月のことである。

脱退を天皇は、承認しなければならない。
それを、詔書を発するという。
その際に、天皇は、次の二点を挿入した。
脱退のやむなきに至ったのは、誠に遺憾であること。
脱退後も国際間の親交と、協調を保つこと。

だが、軍部は、更に、中国本土まで派兵しようとする暴論が出たのである。
天皇は、参謀総長、首相、陸相らに対して、再三、中止を要請したが、出先機関の軍は、従わずである。

天皇に対する崇敬と、軍部に対する支持。
一体、何故、相反することが、起こるのか。
それは、天皇の御心は、公にされないからである。

君臨しても、統治せず、という、大前提に立って、天皇は、渋々と、承認しなければならないのである。

もし、昭和天皇が、親政を行い、平和を求めたなら・・・
きっと、暗殺されたはずだ。
それは、大東亜戦争開戦にも言える。

さて、当時の状況について・・・
世界の政治体制は、第一次世界大戦の戦勝国により、決まっていた。
国際連盟も、平和を訴えていたが、世界の権益は、米英を中心にした国に、分割されている。
それを維持するために、ベルサイユ条約、ワシントン条約、ロンドン海軍軍縮条約などの、国際法上の、補完が行われていた。

日本は、その世界分割には、加わっていない。
更に、アジアは彼らが、思うままである。

海軍軍縮条約では、日本の力が削がれていた。

世界最低最悪の国である、イギリス、そして、準じて、アメリカである。
侵略を欲しいままにしているのである。

植民地がなければ、イギリスの経済は、破綻したのである。
更に、豊かになる為に、植民地を欲する。

日本が唯一、アジアの中で、独立国として存在していた。
ちなみに、タイも、独立国であるが・・・
列強諸国に対する挑戦は、日本のみである。

列強は、世界恐慌以来、自国を中心に、ブロック経済体制を作り、他国との通商には、莫大な関税をかけて、締め出しを図っている。

日本は、満州、朝鮮などの資源を開発して、ブロック経済体制を作り、それに対抗しようとしていた。

ところが、列強は、中国支援という形で、その権益を守ろうとしていた。
そして、日本に対しては、条約違反を持ち出し、非難するという、形である。

それが、以後の日本の開戦へと続く思いになる。

米英は、日本も植民地にしたかったのである。
アジア全域をその手に治めたかった。

現在でも、世界史といえば、欧米の歴史である。
様々な歴史を無視して、西洋史を中心にしている。

冷静に見ても、おかしいのである。
白人主義、更に、白人キリスト教が、最も、おかしいのである。
人種差別も、そこからのものである。

軍部の横暴を言うが、米英の横暴を言わないのは、不公平である。

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2015年03月12日

玉砕9

当時、陸軍、右翼系の考え方の他にも、新米英派の人たちの、考え方もあった。

知識人、官僚、企業家、更に、宮中関係者などの中に、陸軍の膨張政策に反対するものである。
満州事変も批判された。更に、満州から、手を引くべきだと言う、考え方もあった。

しかし、それらは、徹底的に批判され、軍部の言い分が、世の中に通った。

日本の国策は、陸軍の指導部により、動き始めたといってよい。
そこから、昭和10年代に至る、大東亜共栄圏という、考え方が出来上がる。

これは、良し悪しを言うのではない。
当時の、状況である。

満州国への出稼ぎ、開拓移民なども、増えている。
つまり、軍部の力が強く、国民にも、それが支持されたのである。

経済が立ち直ってくると、更に、軍部のあり方に、肯定的な意見が多くなる。
それは、満州事変のせいで、経済が活性化したのだという、思いである。

何事も、国民の支持を受けなければ、事は動かないという、良い例である。
現在の政治も、選挙によるもの。
政治を担当する政党が、国民の支持を受ける。それが、民意とされる。
民主主義である。

陸軍指導部の人たちは、日本が、高度な国防国家になるべきだと、考えた。
それも、当然である。
世界は、欧米に屈しているのである。
特に、アジアは、大半が、その植民地である。

実に、不公平な世界情勢であるということだ。

実際、大航海時代にまで、遡り、その有様を見つめなければならない。
有宿人種は、白人のために、存在するのではない。

これについては、別エッセイ、国を愛して何が悪い、に書き付けているので、省略する。

さて、その力を持つ陸軍の中にも、派閥が存在した。
一つは、統制派であり、もう一つは、皇道派である。
統制派は、陸軍が政権を握り、陸軍の考え方を実行するという派閥。
そして、皇道派は、その名の通り、世界に比類なき天皇を戴いた国、日本であるから、天皇の直接統治、親政政治を求めていた。

ここで、当時は、内閣の陸軍大臣が、陸軍の中から、選ばれるということを、知るべきだ。
陸軍の意志を政治に反映させるという存在である。

そして、陸軍内部の人事権を持っていたのが、統制派である。
昭和10年に、皇道派の、真崎甚三郎、教育総監が、罷免された。

それが、統制派の、軍務長、永田鉄山の差しがねと怒った、青年将校の一人、相沢三郎が、日本刀を抜き、軍務局長室に入り、永田を斬り捨てた。

これが、統制派と皇道派の、対立のピークに達した事件である。

陸軍内部では、互いの派閥が憎悪で、高まる。

それから、あの有名な2,26事件へと、続く。

その顛末を書く。
2月16日は、吹き荒れた前夜の大雪が、降り積もり、未明になって、止んだ。
その雪明りの中で、積雪を蹴って、日本史上、空前のクーデターが、決行された。

青年将校の多くは、第一師団所属であり、軍上層部は、彼らの暴発を防ぐため、昭和11年4月、第一師団を満州へ移転させるという、師団ぐるみの島流しを発令した。
土壇場に追い詰められた将校たちは、移転前に決起しようと企てる。

野中四郎大尉、栗原安秀中尉らの首謀者は、数日前から、26日を決行日に決めていた。
午前三時、同士将校たちの配属する、数個中隊に、それぞれ非常呼集がかけられ、兵士たちは、完全軍装を整える間も慌しく、営庭に整列した。

彼らの大半は、入営して一ヶ月あまりの、農村出の新兵で、冷害と疲弊、搾取の痛苦を身をもって知っていた。
中隊長の説く、昭和維新断行論に、心から共鳴していたのである。

これより、夜間演習を行なう。
靖国神社に参拝する。
などと、部隊ごとに、営舎を出発した。

そして、途中で、真の目的を申し渡されると、逡巡する者なく、士気天を突く勢いである。

動員数は、1400数名に達した。
目指すは、岡田啓介首相、斉藤実内大臣、鈴木貫太郎侍従長、高橋是清大蔵大臣、湯が原温泉で、休息している、牧野伸顕前内大臣、警視庁と、更に第二次として渡辺錠太郎教育総監、そして朝日新聞である。

午後五時を合図に、各所に一斉突入して、機関銃、拳銃を乱射し、軍刀を揮い、斉藤、高橋、渡辺は、即死した。
岡田首相も即死と発表されたが、風呂場に隠れ、更に、女中部屋に隠れて、救出された。
鈴木侍従長は、重傷である。
牧野は、旅館の裏山に逃げた。

おおよその、状況である。
2,26事件の顛末である。

だが・・・
これが、天皇陛下の逆鱗に触れる。

天皇絶対論を唱え、天皇の軍隊を勝手に動かし、腹心の重臣たちを殺戮するとは、不埒極まる。
その天皇の激昂は、最後まで、周囲を震撼させたのである。

ここで、解ることだが、天皇陛下を絶対視するとか、天皇の権威を最大限に生かすとか・・・
そういうことを、昭和天皇は、実に嫌ったということである。

更に、通常の君主は、我が身の権力の絶対化を推進するが・・・
天皇陛下におかれては、逆に、その力を削ぐような考え方であったということだ。

このような、君主は、世界に二人といないのである。


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2015年03月13日

玉砕10

天皇陛下に報告するため、参内した、陸相川島義之が、恐る恐る、陛下に
将校らの行為は、不祥事ではあるが、陛下と国家への至情から発したものであり、その心情を理解して頂きたい旨・・・
と、奏上すると、
天皇は色をなし
朕が股肱の老臣を殺戮す。此の如き凶暴の将校ら、その精神においても何の赦すべきものにありや・・・
速やかに、暴徒を鎮圧せよ
と、厳命した。

本庄武官長が、暴徒という言葉は、天皇への軍部の重大な反発を招くと、
暴徒というお言葉は、お控え下さいますように
と、言うと、
朕の命令なしに、軍隊を勝手に動かしたことは、朕の軍人ではなく、暴徒である。
と、仰せられた。

いかに、陛下が、激昂していたかが、解る。

事件発生の急報に対して、陸相の参内が遅れたことも、天皇の不満を駆り立てた。

更に、陸相をはじめとする、軍首脳部は、ただ狼狽するばかりで、反乱将校たちに迎合し、
決起の趣旨については、天聴に達せられた。
諸子の真意は、国体顕現の至情にもとづくものと認む。
襲撃を賞賛するような、陸軍大臣の告示を出したのである。

このような経緯を経て、反乱将校たちは、26日の夕方頃までには、成功を確信する状況にあった。

しかし、27日の未明、天皇の激怒に驚き、おののいた軍首脳部は、ようやく厳戒令を施行して、反乱軍の拠点、赤坂の山王ホテル一帯から、住民の避難を命じた。
だが、対決にまでは踏み切れずに、首脳将校らは、折衝を重ねた。

何とか、説得によって、無血解決をというのだが、苛立った天皇は、頻繁に本庄武官長を呼び、
もう出動したか
戦端を開いたか
と、矢のように、催促する。

その度に、言い逃れのような言葉である。
天皇も、ついに、
師団長らは、職務を解せざりしものと認む。朕自ら近衛師団を率いて、これが鎮定に当らん。直ちに、乗馬の用意をせよ。
との、仰せである。

昭和天皇の生涯で、唯一、感情を吐露した事件である。
未曾有のクーデターである。

さて、クーデターを企てた将校たちが、天皇の激昂により、形勢が非になることを、肌で感じ始めた頃、吉報が、もたらされた。

弘前第八師団で、大隊長を務める、秩父宮が、応援に乗り出したというのである。
秩父宮は、天皇親政を望んでいた。

しかし、それは、昭和天皇と激論になっていた。
5・15事件の頃、天皇に対して、しきりに御親政を説かれたが、昭和天皇は、憲法の停止もまた止むを得ずと激され、相当の激論となった。

天皇は、侍従長に、祖宗の威徳を傷つけることは、自分の到底同意し得ざるところで、親政というのも、憲法に基づいて、大政を総攬せり。また、憲法の停止などは、明治大帝の創制されたものを破壊するもので、断じて、不可なり、との仰せだった。

その秩父宮が、即日上京すると聞いて、反乱軍は、百万の援軍を得た思いがし、逆に、宮内省は、色を失った。

更に、当時、秩父宮を陛下に擁して陛下に代わりうるとの、考え方もあったのである。

つまり、軍部が昭和天皇に対して、隠れて批評していたのである。

だが、兎に角、秩父宮に対して、反乱軍の加担者の収奪されることを阻止することが出来た。更に、昭和天皇に、帰順させるべき方法が取られた。

秩父宮も、陛下を補佐するということで、収まったのである。

それは、犠牲者たちが、武士道から外れた残忍な方法で、殺されたことも、秩父宮を不快にさせた。

頼みの秩父宮からも、見捨てられ、反乱軍将校は、刻々と追い詰められた。
更に、天皇からの、再三の催促に窮して、色々と言葉を濁すが、結果、天皇は、
一刻も早く鎮圧せよ
との、お言葉に、腰の定まらなかった軍首脳部も、最後の腹をくくらざるをえなかった。

すでに、近衛、第一師団と、近県の兵合わせて、二万五千人が、反乱軍を包囲していた。
そして、抵抗すれば、天皇陛下の御為という挙兵の名分は消えて、永久に逆賊の汚名を着ることになる。

将校たちは、互いに抱き合い、号泣した。
そして、栗原中尉の提案で、勅使を乞い、見事に自決して、最期を飾ろうということになった。

山下少尉は、涙ながらに、川島陸相と宮城に赴き、
勅使を賜り、死出の光栄を与えられし、これ以外、解決の手段なし
と、本庄武官長に告げた。

その本庄日記には、
陛下には非常なる御不満にて、自殺するならば勝手になすべく。この如き者に勅使なぞ、もっての外なりと仰せられ、また、師団長が積極的に出づる能わずとするは、自らの責任を解せざるものなりと、いまだかつて拝せざる御気色にて厳責あらせられ、直ちに鎮定すべく厳達せよと厳命・・・

武官長は、再び、勅使の派遣について、
彼らは誤った動機に出たとしましても、国家のためを思う一念で致したことと存じますので・・・
と、再考を進言したが、
それはただ、私利私欲のためにせんとするものに非ず、といい得るのみ
と、天皇は、取り合わない。

そして、直ちに、各占拠地に、伝令され、下士官、兵士も、決死の覚悟を決めて、火蓋が切られようとした。
posted by 天山 at 06:58| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月14日

玉砕11

歴史に残る、名文句が登場した。

下士官、兵に告ぐ
今からでも遅くないから、原隊に帰れ
抵抗する者は全部逆賊であるから、射殺する
お前たちの父母兄弟は国賊になるので、皆泣いておるぞ

そして、多数のビラ、更に、ラジオ放送である。

お前たちは上官の命令を正しいものと信じ、絶対服従をして誠心誠意活動してきたのであろうが、既に天皇陛下の御命令によって、お前たちは皆原隊に復帰するよう、勅命が出されたのである。・・・
天皇陛下に叛き奉り、逆賊としての汚名を永久にうけるようなことがあってはならない。
今からでも決して遅くないから、直ちに抵抗をやめて軍旗の下に復帰するようにせよ、そうしたら、今までの罪も許されるのである。・・・

NHK中村アナウンサーの名調子は、鬼神もを泣かしめた、兵士たちは、動揺して、士気が急速に、衰えた。

兵士たちは、ここかしこで、徐々に脱落し、原隊に復帰し始めた。
将校たちも、それを止めない。
野中中尉は、自決し、残り全員は法廷闘争を目指して、投降した。

天皇陛下の怒りにより、未曾有のクーデターも、ついに、一滴の血もみずに、鎮圧されたのである。

この皇道派といわれる陸軍の派閥は、これで、消滅することになる。
そして、統制派が、実権を握る。

その昭和天皇が、敗戦後の自省で、
張作霖事件で田中義一首相への言葉と、2・26事件でとった態度は、多少憲法から外れるところがあった。
との、意見を述べられた。

憲法に対する、天皇陛下の御心・・・
今一度、国民は、よくよく、昭和天皇に添って、考えるべきである。

君臨しても、憲法の下に従うという、その御心である。

只今の陛下も、憲法に従い、粛々と御行為をなさる。
皇室は、何一つ、財産を持たず、ただ、国民のために、存在するという、その意義を、国民は、再考すべきである。

そして、雲の上の人・・・というならば・・・
一般の国民が、天皇陛下のように、生きられ無いということを考えるべきだ。
通常ならば、狂う。
24時間、陛下は、公人であらせられるのだ。

であるから、その存在を、ただ、崇敬するのみである。


posted by 天山 at 05:34| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月16日

玉砕12

天皇陛下の怒りを招いた、軍部、つまり、陸軍である。
しかし、その後も、エリート意識からか、その傲慢さは、消えないのである。

時の後継内閣首班の大命を受けた、広田弘毅外相は、陸相に寺内寿一大将を当てようとしたが、寺内は、
広田氏の時局認識に、軍部は疑念を抱いている。
と、拒絶。

広田は、自由主義傾向が強く、入閣予定者の面々にも、軍の好まぬ人物が数名いることへの、あてつけだった。

広田の譲歩と、予定者の入れ替えで、ようやく内閣は成立した。
天皇は、異例の勅語を、寺内陸相に与えた。
それは、つまり、軍部の専横を強く戒めたものである。
だが、寺内は、それを握り潰して、軍首脳部には、知らせなかった。

ここでも、いかに、軍部が天皇の御心と、乖離があったかということだ。
要するに、武器を扱う権力というものが、いかに、絶大かということ。

軍を統制することが、最も大事なことだと、気づく。

さて、その寺内に、昭和12年1月の衆議院で、代表質問に立った、政友会の議員、浜田国松が、
明治大帝の軍人勅語には、軍人は政治に係わらず・・・とあるが、最近の軍の行動には、目に余るものがある。政治運動をするなら、軍服を脱ぎ、サーベルを捨ててやるべきである。内閣も、軍を正すにこそ、全力を注ぐべきである。
と、質問したのである。

これは、当時としては、大変勇気のあることである。

そのやり取りは、省略するが・・・
議場から割れるような拍手があったが、陸軍は、一歩も引かず、浜田を除名するか、議会を解散するかせよ。さもなくば、陸相を辞職すると、脅した。

だが、議会も、政友会も、屈しない。
陸相は、辞職した。

更に、軍部は、後任も送らないということで、広田内閣は、総辞職したのである。

陸相は、軍部から登用するという規則だった。

次ぎの首相には、宇垣一成である。
退役の陸軍大将だったが、かつて陸相時代に、軍縮に応じて、四個師団を削除したため、軍部の反感を買っていた。
そのため、軍部は、またも、陸相を送らないと、拒否を続けた。

戦前は、文官が陸海軍の大臣になる資格なく、軍人の大将、中将に限られていた。
その少し前に、法改正をして、現役者に限ることにしていたのである。
それまでは、退役の者でもよかった。

陸軍大臣の任命、選考権は、完全に軍の手の中にある。
軍が大臣を送らなければ、組閣は無理である。

唯一の道は、天皇の御力を借りることである。

宇垣は、
陛下のお口から、陸軍大臣を出すように、おっしゃっていただきたい。
と、湯浅倉平内大臣に懇願した。

陸軍が大命を阻止するのは、天皇大権の反抗であるが、そこまでしては、天皇と軍の溝が深まると、湯浅の婉曲な断りに、宇垣は、
陛下の陸軍によって阻止せられることは、痛恨の極みであります。
と、上奏文にしたため、無念さをふるわせて、大命を拝辞した。

矢張り、軍部というものに、問題があった。
それが、敗戦にまで続く、闇である。

そして、中々、決まらない内閣である。
そこで、登場したのが、近衛文麿公爵である。

近衛は、2・26事件の直後に大命を受けたが、健康を理由に、辞退していた。

国民は、近衛に期待した。

近衛家は、連綿として、続いた直系である。
摂政、関白につく資格を持つ、五摂家の筆頭で、臣下最高の家柄を誇る。
皇室との血縁も、深い。

近衛は、46歳、長身で貴公子然として、国民に人気があった。
ここでも、国民の支持である。
国民の支持を母胎にして、何事も、行われる。つまり、民主的である。

昭和12年6月、近衛内閣が成立した。

近衛ならば、軍部の専横も抑えることが出来るという、希望である。
一部国民も、天皇の御心に叶わぬ、軍部に対しての失望もあったといえる。

だが、その近衛首相が、貪欲な軍部の中国進出に対して、引きずられることになる。

幻想は、ひと月も持たなかったのである。

アメリカとの戦争・・・
それは、避けられない、用意周到な作戦が立てられていたが・・・
その戦争の罠に嵌るというのは、矢張り、軍部のあり方だった。

更に、戦争が始まり、人命軽視の思想は、軍部の思想である。
そして、最も、悲劇なことは、軍部は、天皇の存在を、有効に生かして、兵士を洗脳したことである。

それもこれも、天皇は解っていて、すべての責任を負われる覚悟で、マッカーサーと対面した。
マッカーサーの言葉の中に、
天皇の責任といえぬものに対しても、責任を負うという・・・
という天皇に、感激した話がある。

つまり、天皇は、軍部も日本人である。
日本と日本人の、責任は、歴代天皇が、負ってきたものであるという、大御心である。
これを、現在の日本人は、忘れているようだ。

天皇は、国体であらせられる。
そして、国体とは、国民のことである。

天皇に逆らう者も、天皇からは、我が身のものなのである。
矢張り、世界に二人といない、存在と言わねばならないのである。

天皇の、別名は、御一人である。
ごいちにん、と読む。

posted by 天山 at 05:54| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月18日

もののあわれについて728

入道の御門は、御行をいみじくし給ひて、内の御事をも聞き入れ給はず。春秋の行幸になむ、昔思ひ出でられ給ふ事も交りける。姫宮の御事をのみぞ、なほえ思し放たで、この院をば、なほ大方の御後見に思ひ聞え給ひて、うちうちの御心よせあるべく奏させ給ふ。二品になり給ひて、御封などまさる。いよいよはなやかに御勢添ふ。




法王陛下は、御修行を立派にされて、御所の事に対しても、耳をおかしにならない。ただ、春秋の行幸には、昔がしのばれるのであった。姫宮の御事だけは、今も思いきれず、六条の院、源氏は、表向きの御後見役として、内輪の細かなお心遣いをされるように、主上にお頼みする。それで宮は、二品に進まれて、御封なども増えるので、益々、華やかに御勢いが増すのである。

親王の位は、一品から、四品まである。




対の上、かく年月に添へて、方々にまさり給ふ御おぼえに、「わが身はただ一所の御もてなしに、人にはおとらねど、あまり年つもりなば、その御心ばへもつひにおとろへなむ。さらむ世を見はてぬさきに、心と背きにしがな」と、たゆみなく思しわたれど、さかしきやうにや思さむとつつまれて、はかばかしくもえ聞え給はず。内の帝さへ、御心よせことに聞え給へば、おろかに聞かれ奉らむもいとほしくて、渡り給ふ事、やうやう等しきやうになりゆく。さるべき事、道理とは思ひながら、「さればよ」とのみ安からず思されけれど、なほつれなく同じさまにて過ぐし給ふ。東宮の御さしつぎの女一の宮を、こなたに取り分きてかしづき奉り給ふ。その御扱ひになむ、つれづれなる御夜がれの程も慰め給ひける。いづれもわかず、うつくしくかなし、と思ひ聞え給へり。




対の上、紫の上は、このように年月の経るにつれて、それぞれに良くなってゆく、婦人方の評判に比べて、我が身は、ただ殿様、源氏のお一方の扱いで、誰にも負けずにいるが、年を取りすぎたら、殿の愛情も終いには、衰えるだろう。そんな仲にならぬ前に、進んで、世を捨てたいと、諦めずに考えるのだが、生意気と思われると憚られて、はっきりとは、申し上げられない。
今上陛下までが、御援助を特別にして、差し上げるので、疎略なと、お耳にあそばすことがあれば、気の毒で、源氏のお通いされる回数は、次第に、紫の上と、同じになってゆく。それも当然、無理のないことと、思う一方で、思ったとおりと、心中は穏やかではない。が、それでも、素知らぬ顔で、今まで通りにしていらっしゃる。
東宮のすぐ下の、女一の宮を、こちらで特に大切にして、養育される。そのお世話に、する事もない独り寝の夜も、気を紛らわせておられる。どの宮も、可愛く愛しいと、思い上げていた。

御夜がれ
つまり、床を共にしないということ。




夏の御方は、かくとりどりなる御孫あつかひをうらやみて、大将の君の典侍腹の君を、せちに迎へてぞかしづき給ふ。いとをかしげにて、心ばへも、程よりはざれおよずけたれば、おとどの君もらうたがり給ふ。すくなき御つぎと思ししかど、末にひろごりて、こなたかなたいと多くなり添ひ給ふを、今はただこれをうつくしみあつかひ給ひてぞ、つれづれも慰め給ひける。




夏の御方、花散里は、あれこれの孫宮たちのお世話を妬み、大将の君の典侍腹の子を、せがんで引き取り、養育される。
美しく、気性も、年の割りには、聡くませているので、殿様、源氏も可愛がる。子が少ないと思っていたが、孫は沢山になり、こちら、あちらで、次々に多く増えるので、今はただ、この孫たちを可愛がり、世話することで、退屈も、慰めるのである。

典侍の腹の子・・・
それは、源氏の乳母の子である、惟光の娘である。その娘に産ませた子。
その源氏の孫を、源氏の女である、花散里が育てるという。
大将である、夕霧も、花散里に育てられた。




右の大殿の参りつかうまつり給ふこと、いにしへよりもまさりて親しく、今は北の方もおとなびはてて、かの昔のかけかけしき筋思ひ離れ給ふにや、さるべき折りも渡りまうで給ふ。対の上にも御対面ありて、あらまほしく聞え交し給ひけり。




右の大殿、右大臣、髭黒のことである。
しげしげと、参りお仕えするのは、昔以上に隔てなく、今は北の方も、立派な夫人となり、院も、あの昔の色めかしいことは、諦めたのか、何かの折には、よくお越しになる。
対の上にも御対面があり、仲睦まじく付き合っていた。

この、北の方は、玉葛である。




姫宮のみぞ、同じさまに若くおほどきておはします。女御の君は、今はおほやけざまに思ひ放ち聞え給ひて、この宮をばいと心苦しく、をさなからむ御女のやうに、思ひはぐくみ奉り給ふ。




姫宮だけが、相変わらず、若いままで、おっとりとしている。
女御の君は、今は主上にお任せ申し上げて、この姫宮のみを気に掛けて、まるで、幼いお嬢様のように、守り育てているのである。

以上は、皆々の近況である。






posted by 天山 at 05:58| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月19日

もののあわれについて729

朱雀院の、今はむげに世近くなりぬる心地して、もの心細きを、さらにこの世のこと顧みじと思ひ捨つれど、対面なむ今一度あらまほしきを、もし恨み残りもこそすれ、ことごとしきさまならで渡り給ふべく、聞え給ひければ、おとども、源氏「げにさるべき事なり。かかる御気色なからむにてだに、進み参り給ふべきを、ましてかう待ち聞え給ひけるが心苦しき事」と、参り給ふべきこと思し設く。




朱雀院が、今はすっかり、死ぬ時期が近くなってしまった気がして、何やら心細いが、この世の事は、心にかけぬと、思い捨てた。だが、対面は、もう一度だけしたいと思う。もし、恨みでも残れば大変だと。大袈裟ではなく、お越しいただきたいと、申してきたので、源氏も、なるほど、無理も無い。このようなご内意がなくとも、姫宮から進んで、お伺いされるべきなのだ。それどころか、こうしてお待ちしていられるとは、お気の毒なことだ。と、お見舞いされる支度をされる。




「ついでなく、すさまじきさまにてやは、はひ渡り給ふべき。なにわざをしてか御覧ぜさせ給ふべき」と思しめぐらす。「このたび足り給はむ年、若菜など調じてや」と思して、さまざまの御法服のこと、斎の御設のしつらひ、何くれと、さまことに変はれる事どもなれば、人の御心しらひども入りつつ、思しめぐらす。




ついでもなく、何の愛想もなしに、簡単に出掛けるわけにはいかない。どんな趣向を凝らして、お目にかけようかと、思案される。今度は、丁度五十歳になられる年に、若菜などを整えて、と思いつき、色々の法服のことや、精進を差し上げるご準備、なにやかにやと、御出家ゆえ、勝手が違うので、皆の意見も取り入れ、工夫を凝らすのである。




いにしへも遊の方に、御心とどめさせ給へりしかば、舞人楽人などを、心ことに定め、すぐれたる限りを整へさせ給ふ。右の大殿の御子ども二人、大将の御子、典侍の腹の加へて三人、またちひさき七つよりかみのは、皆殿上せさせ給ふ。兵部卿の宮の童孫王、すべてさるべき宮たちの御子ども、家の子の君達、みな選びいで給ふ。殿上の君達も、かたちよく、同じき舞の姿も心ことなるべきを定めて、あまたの舞の設をせさせ給ふ。いみじかるべき度の事とて、みな人、心を尽くし給ひてなむ。道々の物の師、いとまなきころなり。




御出家以前も、音楽の方面には、お心をひかれていらしたので、舞人、楽人などを、特に気をつけて、選び、堪能な者ばかりを、揃えた。右の大臣の子たち二人、大将の子は、典侍の腹のを加えて、三人で、その他、七歳以上の子は、皆、童殿上をさせる。
兵部卿の宮の子の、王孫など、しかるべき宮家の子たちすべて、また良家の若君たちも、すべて選ばれる。殿上の若殿ばらも、容姿端麗で、同じ舞姿といっても、また格別な者を選び、沢山の舞の支度をさせる。晴れがましいこの催しゆえ、誰も皆、一生懸命になっていている。その道々の師匠や腕の確かな者たちは、大忙しの、この頃である。




宮はもとより、琴の御琴をなむ習ひ給ひけるを、いと若くて院にも引き分かれ奉り給ひしかば、おぼつかなく思して、朱雀「参り給はむついでに、かの御琴の音なむ聞かまほしき。さりとも琴ばかりは弾き取り給ひつらむ」と、しりうごとに聞え給ひけるを、内にも聞し召して、今上「げにさりとも、けはひ異ならむかし。院の御前にて、手つくし給はむついでに、参りきて聞かばや」など宣はせるを、おとどの君は伝へ聞き給ひて、「年頃さりぬべきついでごとには、教へ聞ゆる事もあるを、そのけはひはげまさり給ひにたれど、まだ聞召し所ある、もの深き手には及ばぬを、何心もなくて参り給へらむついでに、聞召さむと許しなくゆかしがらせ給はむは、いとはしたなかるべき事にも」と、いとほしく思して、この頃ぞ御心とどめて教へ聞え給ふ。




女三の宮は、もとから琴のお琴を、習っていたが、小さいとき、父院にもお別れされたので、院は心もとなく思い、起こしになるついでに、あのお琴の音を、是非聞きたいものだ。いくらなんでも、琴だけは、ものになったことだろう。と、陰で申されたのを、主上もお耳にして、仰せの通り何と言っても、人とは違うだろう。院の御前で、奥義を見せられるとき、私も、参上して、聞きたいものだ。などと、仰せられるのを、源氏は人伝に聞いて、今まで、機会ある度に、教えて差し上げた事もあるが、弾き具合は、上達されたが、まだお聞かせするほどの、冴えた音色を出すまでに至っていない。何の用意もなく、お伺いした際に、ついでにお聞きになろうと、強く望まれたら、きまり悪い目になるのではないか。と、気の毒に思い、この頃は、本気になって、教えて差し上げる。




調ことなる手二つ三つ、おもしろき大曲どもの、四季につけて変はるべき響き、空の寒さぬるさを調へいでて、やむごとなかるべき手の限りを、取り立てて教へ聞え給ふに、心もとなくおはするやうなれど、やうやう心え給ふままに、いとよくなり給ふ。源氏「昼はいと人しげく、なほ一度もゆしあんずるいとまも、心あわただしければ、夜々なむ静かに、事の心もしめ奉るべき」とて、対にも、その頃は御いとま聞え給ひて、明け暮れ教へ聞え給ふ。




珍しい曲を、二つ三つ、面白い大曲で、四季につれて変化する響き、空の寒さ、暖かさ加減を調子に乗せて、秘曲中の奥許しの手ばかりを、特に念入りに教えて差し上げる。危なっかしい様子でいらっしゃるが、だんだんと会得されて、弾きこなせるようになってゆく。源氏は、昼は、人の出入りが多く、矢張り、揺し案じて弾く間も、気ぜわしいので、毎夜、静かに、秘密の奏法も、じっくりと教え申しましょう。と言い、対の上、紫の上にも、その頃は、お暇を頂き、朝から晩まで、教えて差し上げる。

矢張り、敬語の敬語が多い。
兎に角、相手が身分ある人であり、更に、作者も、登場人物が、皆、身分の高い人たちであるから、敬語になる。

教へ聞え給ふ
教えて差し上げる・・・
教えることも、差し上げる、のである。




posted by 天山 at 06:04| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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