淳仁天皇の三年、758年、万葉集の歌が、この年で終わっている。
明らかに、一つの時代の終焉を告げている。
この頃から、9世紀にかけて、上代以来の名門が、次々と没落している。
政治的紛争の中心は、藤原氏一族である。
それは、皇族と強力な血縁関係を結び、天皇、皇后、皇太子の廃立や追放を、ほしいままにした。
それにより、古代天皇は、質的に変化したと言える。
天武天皇以来の、皇親政治は、完全に終焉したのである。
その古代からの、名門の中に、空海の佐伯氏も入る。
更に、平城京から、平安京への遷都である。
それは、政治家経済的な理由や、奈良朝仏教の頽廃からの離脱という、面もある。
唐文化の影響は、7世紀から始まるが、平安京への遷都共に、一段と徹底した。
勿論、大和に対する、復古の思想は、存在していた。
だが、大和自体は、すでに窒息状態になっていたと、思われる。
そこで、空海の出現である。
亀井勝一郎による、空海の直面した課題を、掲げてみる。
その第一は、八世紀末の、国分寺中心の仏教内容と、僧尼の頽廃である。
奈良仏教は、六宗が存在するが、空海は、それにも途方にくれた。
信仰上の問題だけではない。
同時の僧尼の実体、貴族たちの、生き方への批判。
当時は、出家と在家の厳しい区別のない時代である。僧の姿をかりて、風俗を乱す者も出た。
宗教の最大の敵は、それ自体の内部に醸成される惰性だ。すべての頽廃はそこに発すると言ってもよい。これに対して、いかに抵抗するか。「窮極の救い」とは何かという問いとあわせて、空海の直面したところであろう。すべて出家の動機には必ず無常観があるが、この無常観を、惰性におちいる危機においていかに運用するか。それは同時に、惰性にひそむ頽廃と快楽から、いかにして自己を脱却させるかという心の戦いにもむすびついてくる筈である。これらの点で、空海はどのような特徴を示したか。
亀井
鋭い、批評である。
確かに、真っ当に、無常観を観ずれば、上記のような批評が成り立つ。
しかし、当時は、それほどに、無常観が、支配的だったのか、疑問だ。
無常観は、一つの観念である。
確かに、仏教が深く入り込めば込むほどに、その無常観に対する思いが、深くなるだろうが・・・
奈良の仏教自体に、無常観を説くように思想があったのか。
今でも、実に甚だしく、面倒な哲学的な問題を、取り扱っていた。
逆に、空海によって、無常観というものが、明確にされたのかもしれない。
亀井の批評は、現代に通ずるものであり、現代の眼から、見たならば、実に有意義な提案である。
仏教の存在は、無常観よりも、もっと、政治的なものだった。
だから、奈良の仏教は、政治に関与し過ぎて、堕落したのである。
仏教が、庶民に広がるまでには、まだ時間がかかる。
あえて言えば、鎌倉仏教によって、民衆に公開されたといってよい。
空海の才能と、天才的な頭脳によって、空海自身の問題として、成り立つものだと、思える。
つまり、時代を先に、進んでいたのか・・・
次に、亀井が上げるのが、宗教的実践、つまり行としての、祈祷をいかにするかという、問題である。
仏教が、浸透するために、直接の媒介となったのは、病気と天災と死の恐怖である。
特に、病気は、切実な問題だった。
だから、僧は、看護師の役割も負ったのである。
そして、その一つの大きなものが、祈祷である。
空海は、後に述べるが、その祈祷の方法に、実に巧みな技を施した。
今では、催眠術の最大の効果を上げたといえる。
第三の問題は、国分寺建立を巡る、造型能力を、宗教的にいかに評価し、理論的基礎を与えるか、である。
天平仏教は、それだった。造型による、仏教である。
そして、仏像を拝むという姿勢を作り出した。
だがそれは、仏教における、第二義的な道である。
本来は、仏に帰依し、戒律を守り、乞食修行をしつつ、教化することが、第一義の道であるはず。
勿論、今の仏教も、それが、最も疎かである。
それは、日本仏教の性格になってしまった。
本来の、仏教というものとは、あまりに掛け離れている。
釈迦ブッダの仏教は、そのようなものだった。第一義の道である。
しかし空海は、私の言う第二義の道をも、第一義の道と同格のものとして、曼荼羅のなかに包括しようとした。
亀井
ここに、空海の、仏教、すなわち密教がある。
空海の、創作のものなのである。
それは、明らかに、空海の、天才的詐欺のようなものだと、私は言う。
だが、それについては、別エッセイ、神仏は妄想である、に、詳しく書いているので、省略する。
兎に角、空海の存在は、亀井の言うように、精神史から見れば、画期的なものだった。