2015年01月26日

国を愛して何が悪い169

古今集、紀貫之の、かな序を見る。

いまの世中、色につき、人のこころ、花になりにけるより、あだなるうた、はかなきことのみ、いでくれば、いろごのみのいへに、むもれぎの、人しれぬこととなりて、まめなる所には、花すすき、ほにいだすべき事にもあらずなりにたり。そのはじめをおもへば、かかるべくなむあらぬ。いにしへの世世のみかど、春の花のあした、秋の月のよごとに、さぶらふ人人をめして、ことにつけつつ、うたをたてまつらしめたまふ。

当時は、漢字、漢文の時代である。
それに、ひらがなの序をつけたということは、画期的なことである。
勿論、漢文の序も、つけてあるが。

ただ、これを読むと、何やら、少しばかり、心細い感じがする。

それを現代語にすると、
今の世の中は、華やかになり、人の心も浮ついて、とりとめも無い、儚い歌のみが、出てくるようになった。色好みの人の間に、埋もれ、埋もれ木のように、人には知れないものになった。真面目な、改まった場所に、持ち出せるものではなくなってしまった。
昔の天皇の時代は、そうではなかった。
春の花の朝、秋の月の夜ごとに、人々を召して、その時の風情を、歌に詠ませた。

万葉集を念頭におくならば、このくだりはすでに平安朝的な文学的解釈であり、万葉の中のほんの一部を伝え聞いただけとしか思われない。
亀井

全く、その通りで、平安期の文学的感覚による、解釈である。

亀井は、
初期万葉びとの世界が、すでに解らなくなっていると、言う。

初期万葉人は、政治的行動、流血を背景とした歌など、古今にはない歌を詠んでいる。

歌の生まれる、時代背景が、一変して、大宮びとの、時代なのである。

時代性、時代精神である。

奈良朝の後期に接続しているが、「行動的人間」の息吹といったものは消えている。そして一番不可解なのは、「うた」は信仰とともにあった。その信仰の変化について、彼は一言もふれてないことである。
亀井

亀井の言う、信仰とは、古代の神ながらと、仏教信仰である。
神ながらは、後に言われる、天神地祇を敬う心。

更に、亀井は、無常観も、多様に展開されてよさそうだとも、言う。
結局、古今でも、仏教に関しても、触れないのである。

しかし、万葉集から全く断絶してしまったと考えるのは、むろんあやまりである。自覚的というよりは、ごく自然なかたちで継続している部分がある。主として「よみ人しらず」に残る古調だが・・・
亀井

古今だけに目を向けていると、見落とすのである。
その時代や、その前後に採集されて、宮中に入って来た、神楽歌、催馬楽、風俗歌、民謡など、古今以後の、九世紀のもの、念頭に置くべきだ。

亀井が、挙げる、催馬楽、風俗歌、古今集の、読み人知らずから、取り上げる。

東屋の 馬屋のあまりの その 雨そそぎ 我立ち濡れぬ 殿戸開かせ
かすがひも 錠もあらばこそ その殿戸 我鎖さめ おし開いて来ませ 我や人妻

前半は男、後半は、女の歌。
殿戸を開けてくれという呼びかけに、かすがひも、錠もないから、開いて来ませ。私は、人の妻ではないと、快く迎え入れる歌である。

鶏は鳴きぬ てふかさ 桜麿が 彼がものを押しはし 来り居てすれ 汝が子生すまで

暁を告げる鶏が鳴き、女の元を去らなければならない時刻。てふかさ、とは、はやしことばで、桜麿とは、男の名、彼のものを押し付けて、交わりをした。腹にその子が、出来るまで。

小車錦の 紐解かむ 宵入を忍ばせ夫 よやな 我忍ばせ子 我忍ばせ よそ まさに寝てけらしも
月の面を さ渡る雲の まさやけく見る こやけく見る

いずれも、大胆な、野生的な、性欲の歌である。

古今の、読み人知らずを見る。

最上川 上れば下る 稲船の いなにはあらず この月ばかり

あなたの求婚を嫌ではありません。月の障りのある間だけ、待ってください。

春日野は 今日はな焼きそ 若草の 妻もこもれり 我もこもれり

今日だけは、焼いてくれるな。妻も我も、野中で、相抱いているのだから。

これらの歌を辿ると、奈良以前に戻るだろう。
万葉の香りがある。

この万葉の香りを歌う人たちは、皆、読み人知らずに入っている。
それは、地方農民、身分の低い人たち・・・
だが、その名を隠して、歌う人もいただろう。

その、読み人知らずの、歌の多くに、万葉の痕跡が残るのである。

色よりも 香こそあはれと おもほゆれ 誰が袖ふれし やどの梅ぞも

ひぐらしの 鳴きつるなべに 日は暮れぬと 思ふは山の かげにぞありける

ももくさの 花のひもとく 秋ののに 思ひたはむれ 人なとがめそ

別エッセイ、もののあわれについて、に、古今集を取り上げている。
そちらを、参照して下さい。

矢張り、読み人知らずの歌は、用語、語調の上では、万葉集を接続しているのである。
そして、古今調子への推移も、示している。
つまり、「みやび」という精神が宿り始めたのである。


posted by 天山 at 05:39| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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