2015年01月10日

神仏は妄想である。513

少し一服するために、仏教史から、ナーガールジュナに関して、俯瞰してみる。

以前、インド思想史を紹介したが、仏教のみの、歴史を取り上げていない。

前一世紀に大乗仏教が、発生した。
つまり、仏陀滅後、400年ほどを、経る。

そして、ナーガールジュナの思想が出てくるのが、それから、200年以上経つ。
仏陀滅後では、500年から、600年後である。

そこで、仏陀の教えたことという風に、論述をたててゆく。

それは、すべて、既に存在していた思想に対する、批判と否定から、はじまる。
ナーガールジュナは、賢くで、自分には、論は無いと言う。

論のない者を、論敵とすることは、出来ない。
そこで、ナーガールジュナの独断場となる。

ちなみに、否定という形は、西洋思想では、カントなどに、見られる。

西欧の近代哲学における、経験論と合理論の暗黙の前提を、根底からゆるがす、役割を果たした。
カントもまた、自説というものを、あまり持たないのである。

古来から、思想における批判的な見方というのは、否定の思想を持つのである。

ただし、何かを主張するとして、それを極端にまで進めると、その主張の反対の主張も成り立つという状況が起こる。

ナーガールジュナの否定の理論は、合理的、論理的であると、認めることが、出来るが・・・
それにしても、やり過ぎる。

ただ、仏教思想が、固定化してゆく時代背景にあって、それは、刺激的である。

思想史の上から見ると、そのような存在は、時代性として、必要なものとも、思える。
そして、更に、生生発展して行くのである。

さて、もう一つ、重要なことは、日本では、漢訳された経典、書物しかない。
サンスクリット語で書かれた、中観の思想が、漢語に翻訳されたという、事実は、大きい。

更に、それらに、註釈が加えられて・・・
それも、勿論、漢語である。

中々、理解するには、難儀なものだっただろうと、思う。
それらが伝わった、チベットやビルマでも、難しいとされたものである。

日本の仏教を見ると、その大半が、鎌倉仏教になる。
それでは、中々、インド思想史にある、仏教思想は、理解出来ないし、また、それが、仏教の思想なのかと、驚くだろう。

鎌倉仏教は、民衆に広がった仏教であり、難しい理論など、必要のないものだった。
言うなれば、説教仏教であり、それぞれの宗派の開祖が、独自に噛み砕いて、伝えたものである。

それを、仏教と呼んでいいのか、解らないが・・・
兎も角、日本人は、それが仏教だと、思っている。

浄土宗、浄土真宗、曹洞宗、日蓮宗・・・
極めて、特異な仏教である。

その前の、真言宗、天台宗、そして、奈良仏教・・・
奈良仏教になると、誰も知らないほどである。

さて、実際、中国を経て、日本に到達した、ナーガールジュナの「中論」は、理解されたのかといえば、中国でも日本でも、理解されなかったという。

勝手に、一部分を取り出して、云々することは、あっただろうが・・・
それが、また、漢語に訳されるとなると・・・

後々に、西洋の学者、勿論、日本の学者によって、理解の手引きがはじまった。
その評価は、論理的、合理的である。

だが、最も、根本的なところは、神秘主義にあるという。

それを、直感的神秘主義と言う。
そこに至ると、少し、まごつくのである。

つまり、神秘主義とは、語ることが出来ないのである。
しかし、それを、ナーガールジュナは、語る。

その神秘主義から、得たものを、既存の思想を否定する形で、更に、思想を深めているという。

神秘主義、直感的なものを、合理的に説明するとなると、相当な、困難がある。
しかし、既存の思想を否定することで、それを為すことが出来るのである。

つまり、既存の思想ゆえのものである。

本体という言葉が出るが、本体とは、空である。
そして、その本体を語るために、既存の思想の否定をする。

空の思想を、説いた、般若経を継承し、哲学的に発展させる。

その、空というものを、直観する、神秘的体験で、得るということになる。
確かに、思想家は、そのようである。
直観というものも、哲学に必要不可欠といえる。

その、直観、神秘主義は、インドのヨーガから来ているといえる。

ユガ論という、経典もあるほどだ。
それを唐時代の、玄奘が求めて、天竺へと、旅をする。

瞑想という行を通じて、直観で、物事を考える。
神秘主義・・・
それを、説明する。
ナーガールジュナに対する、評価は、それである。

ただし、私は、神仏は妄想である、を書き続けている。
ナーガールジュナ、竜樹という人の、思想を否定するものではないが・・・

通常、考える仏という姿は、竜樹によって、変容させられる。
一番、残念なことは、馬鹿は、救われないということである。

そんなことは、無かったはずである。
仏陀は、そして、大乗は、衆生を救うことに、主たる意味を見ていたはずである。

しかし・・・
竜樹の思想は、あまりにも、難解過ぎるのである。
それを、理解出来なければ、仏になれない。
涅槃に行くことが、出来ない。

それは、ウソである。

神秘的直観を、語り尽くしたというのは、人間ではない。
化け物である。



posted by 天山 at 06:01| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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