2015年01月20日

玉砕4

日本の陸軍とは・・・
明治2年、大村益次郎らにより、創設された。

そして、昭和に入ると、それから、5,60年を経ている。
その陸軍の指導者たちは、実に、エリート意識旺盛である。

何故か・・・
明治5年、明治天皇から、軍人勅諭が発せられた。
軍人は、天皇の忠実な、赤子であり、この国の、安寧に尽くすことという趣旨が貫かれている。
これは、軍人にとっては、大変な名誉なことだった。

そして、明治22年に発布された大日本帝国憲法により、天皇の大権、つまり統帥権は、陸軍内の参謀本部に賦与されているという、事実である。
これが、後々で、大変な問題になるのである。
つまり、統帥権は、行政、立法、司法よりも、統帥権が上であるとし、陸軍がどのようなことをしても、内閣、議会、裁判所からの、指弾を受けないということになると、考えたのである。

であるから、陸軍の傲慢さが、ここから出る。

更に、明治の日清戦争、日露戦争の戦いで、常に勝利してきた。これらの戦争による、権益を失ってはいけないという、考え方。
明治からの歴史は、我々が、作ってきたという、考え方。

軍人とは、職業軍人のことである。
明治から、昭和20年8月まで、二十歳になれば、男子は懲兵検査を受けて、兵役を負う。兵役は、国民の義務だった。

誰もが、兵士になったのである。
しかし、職業軍人の場合は、違う。

コースが決まっていて、高等小学校卒業か、旧制中学一年終了時に、陸軍幼年学校の試験を受ける。
試験は、かなり難しいものだ。

陸軍幼年学校で学んだ後、陸軍士官学校に進む。
中には、旧制中学卒業の者も、一部試験を受けて、入学する。

彼らは、二十歳で卒業し、少尉として、陸軍内部に入る。
そこで、中尉になり、大尉になる頃は、25歳から30歳過ぎまでだ。

次ぎは、陸軍大学校の受験資格を得て、毎年、50名ほどの、陸大生が生まれる。
この生徒たちが、エリートである。
つまり、軍隊以外のことは、何も知らない。

軍部という場合は、それらの人たちを言う。
プライド高く、他を圧倒する権威である。

それは、当然、時代時代の形である。
敗戦後、軍隊は解かれて、何もなくなる。
そして、自衛隊が出来た。しかし、自衛隊は、実に肩身の狭い思いをするのである。
それも、時代である。

現在は、文民統制という。
それは、軍隊ではなく、政府に従うこと。つまり、国民の声に従うことになっている。

更に、アメリカ占領軍が創作した、日本国憲法の九条、平和憲法といれているが・・・
それにより、軍隊を嫌う風潮である。

敗戦後は、それで良かった。
軍備に使う金を、使わずに、日本は経済大国になった。
しかし・・・
時代である。

安全保障とは、生存権である。
生存が脅かされた時、どのようにするのか・・・
更に、他国が侵攻して来た際に、どのようにするのか・・・

北朝鮮に拉致された人々が、未だに、戻られない状況で、日本は、手も足も出せないでいる。
それは、戦争放棄という、実に、耳障りの良い言葉に隠されてしまったからだ。
自国民を救えない国は、有り得ないと、考えることが出来ないのである。
そんな国を、信じられるだろうか・・・
だが、日本は、そのままにしてきた。

今も、拉致被害者は、帰国出来ずにいる。

平和主義者は、一体、どうしたら、拉致被害者を取り戻すのかに、応えられない。
重大な国際法違反でも・・・

もし、海外で、拉致された場合は、国が速やかに、その安全を確保する。
それが、出来ないのである。
と、すれば、他国が、日本に侵攻した場合も、手も足も出ないということにもなる。

日本は、平和ボケして、そんな危機意識は皆無である。

中国が、尖閣諸島のみならず、沖縄にも手を伸ばしていることを、知らぬはずがない。
また、そんなことは、冗談だとでも、言う人たちがいる。

中国の歴史を俯瞰すれば、そんなことは、風に飛ぶことである。

更に、中国、ロシア、北朝鮮の核兵器に囲まれている、現状である。
アメリカの核兵器に守られている・・・
そして、平和を叫んでいれば、平和であると、思い込むのは、明らかに、アホである。

更に、アホは、死んでもアホなので・・・
説得は、効かない。
だから、拉致被害者の替わりに、北朝鮮と、被害者の交換をと、言う訳でもない。
つまり、人の事なのである。

日本の安全保障に関しても、人の事。
実に、おめでたい、人々がいる。

時代性と、時代精神がある。
その時代に、合わせる、乗る、そうして、初めて、未来がある。

50年前の仕事が、今も、仕事で有り得るか・・・
第一次産業なら、兎も角。





posted by 天山 at 06:37| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月21日

玉砕5

昭和4年、1929年、ニューヨークで株式大暴落。
アメリカの大恐慌である。

アメリカ経済は、一気に混乱する。
そして、恐慌は、世界に大きな影響を与える。

日本は、金解禁を、その二ヵ月後に実施する。
これについては、深く追求することをしない。

日本の生糸、綿糸は、アメリカが重要な市場だったが、アメリカ国内の需要が大幅に減った。日本のメーカーは相次いで、倒産してゆく。

更に、この時期、米作農家は、豊作が続くが、小売価格が安くなり、豊作貧乏になる。
農薬、農機具を購入して、近代化をはかっていたが、その赤字を背負いつつ、極度に生活は悪化した。

昭和10年までは、日本は、とても貧乏な国だったといえる。
その悲惨さを書く暇がない。

アメリカの不況と、日本の金解禁が重なったために、日本経済は、どん底になった。

昭和5年の輸出額は、前年と比べて、四割も減り、日本市場も、購買力が減り、輸入が四割も減る。

その結果、金が一方的に、流出した。
三億円の金が流れて、日本の円は、世界で最も弱い通貨となる。
自国の通貨が弱いということは、国の力も弱いということ。

だが、現在は、円安を歓迎するという、不思議。
何事も、急激に来るものは、おかしいのである。
円高は、日本の通貨が強いということだ。

アメリカの1930年代は、国民の経済生活は、困窮の極みになる。
更に、イギリス、フランス、オランダ、ドイツ、イタリアも、同じく。

勿論、それぞれの国の事情が違う。
イギリス、フランス、オランダ、スペインは、何せ、植民地を持ち、植民地の原材料で製品を作り、それを世界の市場で売り、その利益を本国で吸い取るという、身勝手である。

だから、植民地の人たちは、悲惨な生活を強いられた。
アジア、アフリカ・・・

勿論、植民地の人たちは、もう限界を感じて、独立を求めるようになる。
が、事は、簡単ではない。
植民地を手放す訳が無い。

西欧列強の強みは、植民地支配である。
それが、無ければ、すでに崩壊、壊滅していただろう。

私は、何度も、言う。最悪最低の国は、イギリスである。
植民地支配により、莫大な利益を得て、国を興してきた。
植民地がなければ、イギリスという国は、存在しないのである。

イギリスの、ゆりかごから墓場まで、という、福祉政策も、植民地支配の上に立っていた。
呆れる。

さて、注目する国は、ドイツである。
植民地を持たない国、ドイツは、共産党、社会民主党が、一定の勢力を持っていたが、やがて、ヒトラーの指導するナチスが、権力を握るようになる。

ヒトラーの考えは、第一次世界大戦で失った権益を、取り戻すことである。
更に、民族的宗教的な視点で、ユダヤ人への攻撃、排斥を強めること。
ヨーロッパの先進国の権益を武力で、収奪すること、そして、第三帝国という、巨大なドイツ帝国を樹立し、世界支配に乗り出すこと。

現在のイスラム過激派のテロに似る。

ヒトラーは、そのために、反対党を弾圧し、ヒトラーの下に、国民が忠誠を誓う徹底した、国家体制を作り上げた。

これも、第二次世界大戦の伏線である。

ヒトラーの政策、その政治体制を、ナチズム、ファシズムと呼ぶ。

さて、昭和5年6年の日本の社会の混乱を見て、陸軍の指導者たちは、政党政治に任せている限り、解決できないと、単純に考えた。
参謀本部の中核将校である、橋本欣五郎らが中心になり組織した、「桜会」のメンバーが、クーデター計画を練った。

それは、要するに、政党の要人を殺害し、陸軍中心の軍事政権を作り、国内改革を行なう。あわせて、満州の権益を更に固めるため、満州全域で武力行使を行い、中国の国民党、共産党を排除するというものである。

こういのを、一人勝手な妄想と言う。
昭和6年3月に、その計画が実行されるはずだったが、陸軍大臣の宇垣一成を首相にしようとしていたが、宇垣が計画に乗らず、中止になった。

当時、農業恐慌、工業恐慌で社会的混乱が起こるのは、政党政治、財閥のせいだとして、天皇に忠実な陸軍が主体になり、政治を行なえば、安定すると、考えられたのである。

時代は、いつも、激動である。
そして、その中で、未来を予測する事は、至難の業。
だから、自分の考えたことが、一番だと思う人々の群れがある。

だが、歴史は、現在を教え、未来を教える。
過去には、様々な智慧が隠されてある。

その際に、最も重要なものは、正しい情報である。
情報が正しければ、先を見ることが出来る。
そして、現在、正しい情報は、何処から出るのか。

決して、新聞、テレビなどの情報からは、事実を得られないし、また、それらは、情報操作をする。
真っ当な情報を得たいならば、自分で、インターネットなどにより、知ることである。

新聞、テレビ、学者、識者、その他諸々は、金のために、手前勝手な情報のみ、報ずるのである。
更に、どうでもいい、情報である。実に、呆れる。
posted by 天山 at 05:12| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月22日

玉砕6

昭和6年9月18日、満州事変が勃発した。

これは、陸軍、関東軍の仕業である。
つまり、自作自演の謀略。

奉天近郊の柳条溝で、満鉄の線路が爆破され、それを奉天軍の仕業であると、直ちに、各地で関東軍が、奉天軍を撃砕するのである。

張作霖の殺害の後、その息子である、学良は、日本に敵対し、反日、抗日の声が満州全土に広がっていた。
と、いわれが・・・
民衆は、どっちもどっち、である。

張作霖を支持していた民衆は、いないのである。
搾取されるばかりの軍隊、いや、匪賊の集団である。
当時の中国の軍とは、皆々、それらの集団だった。
真っ当な軍というものが、存在しない。

だが、謀略は、謀略である。
関東軍は、学良を追放して、新国家を樹立し、ソ連の脅威に備えようとしたのだ。

悪いことに、軍中央の制止を振り切って、独断でことを進めたのである。

だが、日本では、その関東軍の成果を、多くの国民が支持した。
しかし、関東軍は、単なる、現地派遣部隊である。
暴走したのだ。

それに対して、昭和天皇は、実に憂慮して、陸軍大臣、参謀総長に、不拡大を要望し続けたのである。
だが、軍は、何かと理由をつけて、行動を先行させた。

これが、後々に、無謀な計画を実行する陸軍の体質になる。
ただし、国民の多くが支持したということが、問題だ。

それ程、国民の経済状態は、暗く、激しく、惨めなものだった。
一つだけ例を上げれば、東北の農民は、その娘を売るという、実に悲惨な状況である。

日本や欧米九カ国が、中国の領土保全を誓約した、九か国条約、更に、国際紛争は武力によらず、平和手段で解決するという、不戦条約にも、違反した。

その頃の、天皇陛下は、独白して、怒っていた。
陸軍が馬鹿なことをするから、こんな面倒な結果になったのだ。
満州を張学良に還してしまえば、問題は簡単ではないか。

関東軍の逸脱・・・
天皇の命を受けるというはずが・・・
天皇の御心に、背くのである。
そして、以後も、背き続ける。
更に悪いことに、天皇陛下の御名を使い、徹底的に洗脳教育をする。

昭和7年1月、戦火は、上海にまで、飛び火した。
日蓮宗の僧侶五人を、中国軍が連れ去り、海軍陸戦隊と銃火を交えたことから、好機到来と、陸軍が派兵を断行した。

天皇は、南京政府との交渉経過を聞き、その強固な態度に、
それでは、日支親善ということは、当分できない。
と、仰せられた。

更に、速やかに、停戦に持ち込むように、ご要望された。

それは、国際連盟の総会が、三月はじめに開催される予定で、満州問題を巡り、対日批判が見込まれたせいもある。

派遣軍の幕僚たちは、勝ちにはやり、首都南京の攻略を求めたが、白川司令官が、天皇の意を重んじ、それを抑えて、3月3日に、停戦布告を発した。

それから、中国側と協定を結び、撤兵にかかったが、その直後、白川大将は、上海の天長節祝賀式で、朝鮮人テロリストの手榴弾を浴びて、それが元で一ヵ月後に亡くなった。

その際に詠まれた、昭和天皇御製がある。
をとめらが 雛祭る日に たたかひを
とどめしいさを おもひでにけり

つまり、戦いに勝ちしいさお、ではなく、戦いをとどめしいさお、なのである。
戦いを止めたことを、評価されている。

天皇は、本当に御心に叶う大将の死を悼んだ。
陸軍は、面従腹背の将校が多かったといえる。

だが、国民は、天皇の平和希求をよそに、軍部に同調し、満州が支配下になったことを、喜んだ。

戦争をするということは、様々な要因があるが・・・
何より、国民の支持が一番である。
それは、国柄を別にしても、同じく。

更に、軍部の傲慢振りを書けば、あくまでも、天皇を表にして、天皇の名の下に、すべてを進めていた。忠義なる赤子である。
大陸経略が、天皇の意志、御心であると、説いたのである。

こうして、新国家満州国の建設が始まる。
目まぐるしい程の、進行状態である。

奉天軍残党の討伐。
その執政に清朝の皇帝廃止、溥儀の擁立。

その頃の、日本の政治は、腐敗。そして、打ち続く、農民の困窮。そして、テロ。

一部青年将校と右翼急進派を、国政一新を目標とするテロ行為に、駆り立てた。

それもまた、天皇の嫌うところだった。
彼らも、また、天皇の名を表にして、行為するという・・・

何度も書いているが、天皇は、君臨しても、統治せずの姿勢を貫かれるのである。
だから・・
政治家、国民が、皆々、天皇の御心を思い、その御心に添うことなのである。
天皇に相応しい、政治家、国民たるべきである。


posted by 天山 at 06:04| 玉砕 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月26日

国を愛して何が悪い169

古今集、紀貫之の、かな序を見る。

いまの世中、色につき、人のこころ、花になりにけるより、あだなるうた、はかなきことのみ、いでくれば、いろごのみのいへに、むもれぎの、人しれぬこととなりて、まめなる所には、花すすき、ほにいだすべき事にもあらずなりにたり。そのはじめをおもへば、かかるべくなむあらぬ。いにしへの世世のみかど、春の花のあした、秋の月のよごとに、さぶらふ人人をめして、ことにつけつつ、うたをたてまつらしめたまふ。

当時は、漢字、漢文の時代である。
それに、ひらがなの序をつけたということは、画期的なことである。
勿論、漢文の序も、つけてあるが。

ただ、これを読むと、何やら、少しばかり、心細い感じがする。

それを現代語にすると、
今の世の中は、華やかになり、人の心も浮ついて、とりとめも無い、儚い歌のみが、出てくるようになった。色好みの人の間に、埋もれ、埋もれ木のように、人には知れないものになった。真面目な、改まった場所に、持ち出せるものではなくなってしまった。
昔の天皇の時代は、そうではなかった。
春の花の朝、秋の月の夜ごとに、人々を召して、その時の風情を、歌に詠ませた。

万葉集を念頭におくならば、このくだりはすでに平安朝的な文学的解釈であり、万葉の中のほんの一部を伝え聞いただけとしか思われない。
亀井

全く、その通りで、平安期の文学的感覚による、解釈である。

亀井は、
初期万葉びとの世界が、すでに解らなくなっていると、言う。

初期万葉人は、政治的行動、流血を背景とした歌など、古今にはない歌を詠んでいる。

歌の生まれる、時代背景が、一変して、大宮びとの、時代なのである。

時代性、時代精神である。

奈良朝の後期に接続しているが、「行動的人間」の息吹といったものは消えている。そして一番不可解なのは、「うた」は信仰とともにあった。その信仰の変化について、彼は一言もふれてないことである。
亀井

亀井の言う、信仰とは、古代の神ながらと、仏教信仰である。
神ながらは、後に言われる、天神地祇を敬う心。

更に、亀井は、無常観も、多様に展開されてよさそうだとも、言う。
結局、古今でも、仏教に関しても、触れないのである。

しかし、万葉集から全く断絶してしまったと考えるのは、むろんあやまりである。自覚的というよりは、ごく自然なかたちで継続している部分がある。主として「よみ人しらず」に残る古調だが・・・
亀井

古今だけに目を向けていると、見落とすのである。
その時代や、その前後に採集されて、宮中に入って来た、神楽歌、催馬楽、風俗歌、民謡など、古今以後の、九世紀のもの、念頭に置くべきだ。

亀井が、挙げる、催馬楽、風俗歌、古今集の、読み人知らずから、取り上げる。

東屋の 馬屋のあまりの その 雨そそぎ 我立ち濡れぬ 殿戸開かせ
かすがひも 錠もあらばこそ その殿戸 我鎖さめ おし開いて来ませ 我や人妻

前半は男、後半は、女の歌。
殿戸を開けてくれという呼びかけに、かすがひも、錠もないから、開いて来ませ。私は、人の妻ではないと、快く迎え入れる歌である。

鶏は鳴きぬ てふかさ 桜麿が 彼がものを押しはし 来り居てすれ 汝が子生すまで

暁を告げる鶏が鳴き、女の元を去らなければならない時刻。てふかさ、とは、はやしことばで、桜麿とは、男の名、彼のものを押し付けて、交わりをした。腹にその子が、出来るまで。

小車錦の 紐解かむ 宵入を忍ばせ夫 よやな 我忍ばせ子 我忍ばせ よそ まさに寝てけらしも
月の面を さ渡る雲の まさやけく見る こやけく見る

いずれも、大胆な、野生的な、性欲の歌である。

古今の、読み人知らずを見る。

最上川 上れば下る 稲船の いなにはあらず この月ばかり

あなたの求婚を嫌ではありません。月の障りのある間だけ、待ってください。

春日野は 今日はな焼きそ 若草の 妻もこもれり 我もこもれり

今日だけは、焼いてくれるな。妻も我も、野中で、相抱いているのだから。

これらの歌を辿ると、奈良以前に戻るだろう。
万葉の香りがある。

この万葉の香りを歌う人たちは、皆、読み人知らずに入っている。
それは、地方農民、身分の低い人たち・・・
だが、その名を隠して、歌う人もいただろう。

その、読み人知らずの、歌の多くに、万葉の痕跡が残るのである。

色よりも 香こそあはれと おもほゆれ 誰が袖ふれし やどの梅ぞも

ひぐらしの 鳴きつるなべに 日は暮れぬと 思ふは山の かげにぞありける

ももくさの 花のひもとく 秋ののに 思ひたはむれ 人なとがめそ

別エッセイ、もののあわれについて、に、古今集を取り上げている。
そちらを、参照して下さい。

矢張り、読み人知らずの歌は、用語、語調の上では、万葉集を接続しているのである。
そして、古今調子への推移も、示している。
つまり、「みやび」という精神が宿り始めたのである。
posted by 天山 at 05:39| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月27日

国を愛して何が悪い170

初期万葉の場合など、壬申の乱をはさんで、政治的悲劇を経験した人物ほど名歌を残しているが、それは生活の振幅のひろさと、生命力の緊張を示すものであり、鎮魂の深さと大きさを保証するものであった。彼らは歴史と時代を背負っていたのである。古代信仰ともむろん関係があるが、この意味をもふくめて、政治からの距離が、古今集の作者たちの弱さになっている。同時に、こういうかたちで「文学」というものになったのである。
亀井勝一郎

弱さになっているものから、文学への道である。
文学への意識とも、言える。

更に、女性歌びとの、衰退である。
平安期の女房文学を待つしかない。

その平安期には、女文字としての、ひらがなの世界が、ひときわ目立つ。
物語への世界である。
勿論、源氏物語に、象徴される。

9世紀後半の文学の状況は、紀貫之を外して、考えられない。
当時、最も広い、洞察を加えた人と言える。

貫之は、漢文の素養の深い人であった。
9世紀の唐化の波をくぐり、和歌の世界に覚醒したと、言える。

当時の宮廷の歌は、唐歌、つまり漢詩である。
対して、和歌は、やまとうた、である。
その、やまとうたを、恢復しようとしたことは、かな序において、明らかだ。

同時に、歌にまとわりついていた、物語が、次第に物語として、独立してゆくのである。

言わば漢詩と物語と、この双方から限定されたところに彼のいう「和歌」があり、また物語との対比において「短歌」の確立があったと言ってよかろう。
亀井

そして、貫之の試みは、ひらがなの採用である。

伝口誦を漢文字で表現しようとした過程を、第一の言語革命期とよぶならば、ひらがな文の成立と普及は、第二の言語革命と言ってよい。
亀井

当時は、公用語、そして男文字は、すべて漢字である。
そこに、ひらがなを採用するということは、一種の批判精神が宿る。

現在に言われる、批評精神を持ち得た人が、貫之と言える。

その晩年、七十を越してから、土佐日記を書いている。
「をとこもすなる日記といふものを、女もしてみんとするなり」との、書き出しである。

古今という、勅撰集に、ひらがなの序を書いたことも、ひらがなにて、日記を書いたことも、画期的な試みだったはずだ。

土佐日記は、女になりすまして、書いたものであり、これは、痛烈に当時の、文学以前の意識に対しての、革命的な挑戦と言える。

土佐日記の内容については、省略する。

「万葉から古今へ」とは決して歌中心だけの問題ではない。万葉の「うた」という混沌として複雑な精神生活の所産から、短歌と物語と日記という風に分化してゆく次元のちがった精神生活への移行であり、貫之はちょうどその曲がり角に立っているような人である。
亀井

更に、密教から、浄土信仰への移行の時期でもある。
そして「神ながら」の古代信仰も次第に、変質して行く過程である。

それは、10世紀の精神として・・・
外的行動よりも、内向的な思索への道への、目覚めの時期でもある。

密教的なものと、浄土教的なものとの、融和を考えるのである。
そのためには、少しばかり、空海の起こした、密教を眺める必要がある。

それは、9世紀前半の空海の出現と、密教の成立である。
亀井は、精神史の上では、重大な事件だと、言う。

確かに、空海の密教は、大陸の漢字文化が伝わったような、事件であったと、思える。
奈良の仏教の、堕落と頽廃を、蹴散らしてしまうほどの、エネルギーである。

最澄と空海は、新しい仏教を提唱したと言ってもいい。
その宗教性については、別の話である。
歴史的事件である。

平安期の最大の特徴は、十世紀から十一世紀にわたる藤原の全盛期にみられるが、しかし九世紀前半における空海(弘法大師)の出現と密教の成立は、日本精神史上の重大な事件であって。まずここから語らなければならない。・・・民族変貌期の巨大な頂点を示すとともに、日本人の思考方法にひとつの規範を与えたからである。
亀井

空海の時代・・・
それを俯瞰すると、奈良の平城京から、京都の平安京への、遷都がある。
淳仁天皇の三年、759年、万葉集の歌がこの年で、終わる。
一つの時代の、終焉を思わせる。

この頃から、九世紀へかけて、上古以来の名門が次々と、没落する。
政治的紛争の、中心は、藤原氏である。

それは、皇室と、強力な血縁関係を結び、天皇、皇后、皇太子の擁立、追放を欲しいままにした。
その、陰謀は、極めて知的で、陰惨である。
七世紀の、蘇我氏の比べても、血族相克の規模が広く、そして永続する。

この過程で、古代天皇の有り様が、変質したといえる。
天武天皇以来の、皇親政治は、完全に消滅した。

更に、天智系が、天皇位を確保することになる。
それらの、諸事情は、省略する。

藤原家の内紛も続くが、大伴、佐伯などの、古代からの、名家が没落するのである。
空海は、その佐伯家の一族である。

没肉した、家系の一族であり、その政治的権力は、無きものとなった。
空海が、出家した理由も、その辺りにあるとみる。

posted by 天山 at 05:28| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月29日

国を愛して何が悪い171

空海が、最澄と共に、唐へ渡ったのは、桓武天皇の延暦23年、804年である。
密教の体系化は、その後であるが、それ以前に空海は、三教指帰、を著している。

それは、儒教、道教、仏教の三つの教えを検討しているものだ。
内容は、省くが、登場人物は、五人である。
三つの教えにそれぞれ、一人、そした、それを招いた主人が、一人、更に、当時の不良青年の五人である。

結果は、仏教の教えが一番というものである。
24歳の時の、著作であるから、空海が、いかに多くの知識を得ていたかということが、伺われる。

12歳の頃から、母方の叔父に漢籍を教えられたという、秀才である。
それは、朝廷に仕えるために、教えられたが・・・

青年空海の、周囲に存在した、様々な、歴史的混乱と、奈良朝末期の、廃頽した雰囲気である。

空海の危機意識の現れる、時代背景がある。
それが、三教指帰、に表れている。

儒教も道教も、「無常の暴風」の前には何ものでないことを論証させる。空海自身の求道の方向を、この乞食に託しているわけで、最も力をこめて語っているのは無常観である。
亀井

切実として、無常を感じた空海が、目指したものが、仏教の教えにあったのだ。

仏教への帰依の動機として当然だが、ここで注目したいのは、美女の死体の描写に入念の筆をふるっている点である。
亀井

美女の死体の、描写・・・

つまり、人間の無情を切々として、説くのである。

美女をめぐる快楽に対して、死体を以ってする応酬であり、無常観想像力の駆逐である。こういう美文調が連綿とつづいてゆくのだ。・・・
原文の成立が十八歳の頃とすれば、当時彼の得たかぎりの知識と、学んだかぎりの漢文の能力を、最大限に発揮したものと言ってよかろう。むろん三教の真髄を徹して語ったものではない。儒教道教についての叙述も平凡である。奈良朝末期の思想界に流布していた教説を、唐文を模してとりいれ、少なくとも仏教が自分にとっての最後の目標であることを宣言すればよかったのだ。
亀井

空海の、二十歳前後から、唐へ渡る、三十歳までの、十年間は、殆ど不明である。
諸国を廻り、山岳に隠れて、修行を続けたのである。

山岳信仰の修行は、すでに存在していた。
更に、密教系の経典も、すでに日本に入っていたはずである。

凄まじいエネルギーを感じる。
空海の、教えに関しては、別エッセイ、神仏は妄想である、に書いているので、具体的な仔細は、ここでは、省略する。

歴史的事実のみに、目を向ける。

外国の多種多様な書物が伝来して、人々を知的困惑の状態におとしいれるのは、民族変貌期の当然の現象だ。
亀井

その、困惑の中での、空海の存在である。
後に、天皇にも帰依されて、天下を取るほどの勢いを見せた。

人間はいかにして迷妄を去って、悟りの世界に入りうるか。いわゆる「転迷開悟」は、各宗に共通の根本の課題だ。・・・
究極の救いとは何か。空海は自覚してそれを求めた最初の人だが、いかなる場にも自己を限定せず、あたうかぎりの心と行動の振幅を示したところに、彼の固有性とともに苦悩があったと思う。
亀井

求道という、行動を続けた空海は、時代の人となるのである。

空海は、一体、何をしたのか・・・

高野山と平安京と奈良にわたる朝野の生活の幅の広さと、著述、詩作、造型指導、私学経営、社会事業など、その活動は、多岐に渡る。

その理由を亀井は、
大日如来は空海の邂逅した窮極の、理想の如来であった。古代インドの太陽神崇拝に発したと言われるが、光明遍照とも訳されている。宇宙に偏在する大生命の光源ともいうべきもので、仏教自体のもつ汎仏論的性格を、彼はこのようなかたちで徹底した。換言すればそれは仏性の極限である。
と、なる。

そして、その大日如来と共に成るのである。
仏と人間の距離を滅却して、吾自身が金剛身となる。

そのように、空海が、考えた。そして、それを、実行した。
つまり、万能の人間である。

日本の精神史から見れば、それは、大変な時期となる。
そのような、人物が出たということである。

亀井は、日本史上最初の、普遍的人間、と言う。
その評価は、人それぞれでいい。

唯一つ、亀井が見逃れていることがある。
それは、奈良の六宗との係わりである。
最澄は、奈良の六宗を認めず、その堕落にあった、彼らを、やや追放した天皇、朝廷であった。そこで、奈良六宗は、空海に、命綱を見出した。
つまり、空海は、完全否定をしなかった。

空海が、都に出るための準備を、奈良の六宗がしている。
空海を通して、政治的権力を、求めたと思われる。

ただし、それにしても、空海の行動は、画期的である。
そして、遂に、天皇の信頼をも、得ている。
皇居の前に、寺院を建立して、その威力を見せ付けたのである。

更に、その祈祷と、教えは、多くの人に、希望を与えた。

posted by 天山 at 06:19| 国を愛して何が悪い3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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