2014年12月22日

霊学190

認識の小道、に入る。

ここでは、多くの学ぶことがある。
日本では、内観、内省思考という方法である。

いかなる人も本書に述べられている霊学的認識内容を自分で獲得することができる。
シュタイナー

最初は、誤りである。
いかなる人も・・・
これでは、詐欺である。

日本仏教の大きな堕落は、最澄の、すべての人に仏性があるという、考え方だった。
そして、多くの宗教も、すべての人が神の子、すべての人に、仏の心があるというもの。

そんなことは、有り得ないのである。

勿論、すべての人が、それぞれの宗教や、シュタイナーに興味を抱き、更に、そのための、行などはしない。
そこに集う人が、すべての人になるのだ。

三蔵法師玄奘は、人間に五種あると言う。
その最後に、無性というものがある。
つまり、仏になれない者がいる。

当然のことである。
決して、神の子とか、仏に成るということの出来ない人がいるのである。

悪人は、絶えない。

この世も、霊界も、一筋縄では、行かないのである。
霊界という、広大無辺な世界・・・
それを、限定することも出来ない、世界である。

この著書の中で試みられているような論述の仕方は、高次の世界の思想像を提供するためにある。
シュタイナー

これは、自己申告である。

そしてみずから見霊能力を獲得するための第一歩とは、このような思想像を把握することにあるのだ、ともいえる。なぜなら人間は思考存在なのであって、思考から出発するときにのみ、自分の歩む認識の小道を自分で見つけ出すことができるからである。
シュタイナー

それは、当然のことである。
思考は、人間のみに、許されたものである。
それは、大脳化である。

シュタイナーを読む者が、それで勝手に、認識能力、更に、見霊能力を得たと思い込むのは、危険であり、恐ろしいことである。

ただ、救いは、批判、妄信的信仰を否定していることだ。

結論から言えば、百人には、百人の認識がある。
更に、人の数だけの、霊界がある。

シュタイナーは、霊界を語っているつもりで、この世の生き方、物の見方を、語っている。もし、そうではないとしたら、あまりにも、愚かである。

この世も、霊界の一部である、という、記述は、正しい。
霊的存在の、人間は、すでに、ある霊界、あるいは、魔界に属しているのである。

さて、先を進む。
他の者からの伝達を学びとることこそ、みずからの認識への第一段階なのだ。
シュタイナー

そして、延々とした、説明が続くが・・・
日本語で言えば、逢う人、皆、師である、と、言うことだ。

誰もが、師匠なのである。

自分が魂の根底から取り出してきたものだけではなく、他者がその魂の根底から取り出してきたものをも、人は「観る」ことができる。
シュタイナー

正しい霊的観察は、偏見によって曇らされていない心の中に、理解力を目覚めさせてくれる。自分の中の無意識的知識が他者によって見出された霊的事実に反応を示すのである。
シュタイナー

しばしば人は、健全な常識が承認できるような真の霊的研究の成果よりも、神秘的「沈潜」によって得られたものの方を、より以上に優れたものと信じがちであるが。
シュタイナー

霊的事実に反応を示すのである。

上記は、その反応を常識が承認できるものと、言う。
それでは、その常識について、を、延々と語らざるを得なくなる。
が、シュタイナーは、その常識については、省略する。

常識とは、哲学の大問題である。

常識の承認・・・

高次の認識能力を獲得しようとするとき、真剣な思考作業を課すことがいかに大切なことか、どれ程強調してもし過ぎることはない。
シュタイナー

今日「見者」になりたいと願う多くの人がまさにこの真剣で禁欲的な思考作業をいい加減にしているので、この点を強調することがますます必要になっている。
シュタイナー

つまり、当時の人たちは、思考より、感覚、感情を重んじていたのであろう。
それに対して、シュタイナーは、思考作業を言うのである。

思考作業とは、言葉の世界である。
この言葉に対する、感性が問題である。

思考を、無意味に抽象的思弁を重ねることと混同する人は、思考の本質を理解していない。確かにこのような「抽象的思考」なら、容易に超感覚的認識の息の根を止めてしまうであろうが、生きた思考は超感覚的認識の土台を築くことができるのである。
シュタイナー

その思考作業を、単に、シュタイナーの著作にて、得られるとは、到底思う事が出来ないのである。



posted by 天山 at 06:01| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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