2014年12月19日

霊学189

そして人間の肉体に働き掛ける本性たちは鉱物的自然を形成する本性たちと同一である。人間のエーテル体に働き掛ける本性たちは植物界に生きる本性たちと同一であり、感覚する魂体に働き掛ける本性たちは、動物界で感覚的には知覚できぬ仕方で生きながら、その作用を鉱物界、植物界、動物界にまで及ぼす本性たちと同一である。
このような仕方でさまざまな世界がともに働いている。人間の生きる世界はこの共同作用の表現なのである。
シュタイナー

何故、このように、複雑して、説明するのか・・・
松尾芭蕉は、松のことは、松に、竹のことは、竹に聴け、と言った。
それで、十分に納得がゆくのである。

感性的世界をこのように把握した人は、上述した四つの自然界以外の本性たちについても理解をもつことができるであろう。このような本性たちの一例は民族霊である。
シュタイナー

この民族という言葉が、いかに、曖昧なものか。
シュタイナーは、野蛮極まりない、民族の末裔であろう。

おおよそ、西欧の民族の出所は、そのようである。
しかし、その民族を民族として判断すると、誤るのである。

民族精神とも、言っているが・・・

更に、時代霊、時代精神についても、同じである。

人間の周囲に生きているその他の高級、低級さまざまの多様な眼に見えぬ本性たちについても、このような見方によってはじめて霊的展望が開けてくる。
シュタイナー

見霊者が、サラマンダー(火の精)、シルフ(風の精)、ウンディーネ(水の精)、グノーム(地の精)として描いているものはすべてこのような低級な種類の本性たちである。
シュタイナー

それは、誤りである。
火、風、水、地の精は、低級ではない。
神と呼んでもいい精霊である。

まして、その精を見るとは・・・
簡単に、見霊者というが・・・

感覚的現実だけを認めようとする人がこれらの本性たちを混乱した幻想と迷信の産物と見做すことは当然である。それらが感覚的に知覚できる体をもっていないのだから、肉眼で見ることは当然できない。迷信とは、人がこれらの存在を現実にあるものと見做すことにあるのではなく、それらが感覚的に現象すると信じることにある。
シュタイナー

それらが感覚的に現象すると信じることにある
だから、比喩なのであろうか。

それでは、すべての書くものが、比喩なのであろう。
比喩にしては、作り過ぎている。

比喩だから、このような混乱を招く、著述を良しとするのだろうか。

このような表現の中に霊的現実の比喩を見る人が迷信家なのではなく、この比喩像が感覚的に実在していると信じる人や、この比喩像の感覚的実在を否定せねばならぬと信じるあまり、霊をも否定する人が迷信家なのである。
シュタイナー

何とも・・・
比喩像などという、馬鹿げた表現である。

魂界まで下降せず、その外皮が霊界の素材だけで織られているような本性たちについても述べる必要がある。人は、霊眼と霊耳を開くときには、それらの存在を知覚し、それらの仲間になる。
シュタイナー

これで、どれ程、勘違いしている人たちが、存在するのか。
それが、恐ろしい。

存在の高次の領域を明瞭に認識し、そこに生じる事柄の中へ理解力をもって入り込むことだけが、人間に本当の確信を与え、その真の使命を目覚めさせる。感覚には隠されている事柄への洞察を通して、人間は自己の存在を拡大する。その結果、拡大される以前の生活が彼にはまるで、「世界について見ていた」としか思えなくなるのである。
シュタイナー

恐ろしく、蒙昧な時代に生まれたせいなのか・・・
ここまでの、比喩を使い、表現するという、根性には、脱帽する。

そして、次ぎは、思考形態と人間のオーラ、についてが、書かれるが、省略する。
ただ、混乱を起こすだけである。

続いて、認識の小道、という、最後の章に入る。
ここでは、洞察するという、実に有意義な事柄が、書かれている。

シュタイナーは、一つの思想を描くために、多々、著述をしたのだろう。
そして、霊学という、新しい、学問足り得ない、分野を開拓した。

更に、これでは、シュタイナー教になるだろう。

霊界を語るには、比喩的表現のみ、実現できる。
霊界を、この世の言葉で語ることは、至難の業である。

決して、誤ってはいけないことは、このシュタイナーの霊界も、一つの姿であるということである。
霊界の、すべてを書き表したというならば、完全に誤るのである。

更に、霊界とは、この宇宙の中に存在している世界であり、この世、三次元の世界も、霊界の一部である。

同じ空間には、別次元の世界が、存在する。
次元が違えば、永遠に遠い。

霊界とは、この世を含めた、宇宙の多次元の世界である。
それを、一つの括りで、表現することは、完全に無理である。

そこを、誤らずに、霊界を追求するには、問題がない。
ただし、それは、確実に、不完全なものであるということを、認識するべきだ。



posted by 天山 at 02:50| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月22日

霊学190

認識の小道、に入る。

ここでは、多くの学ぶことがある。
日本では、内観、内省思考という方法である。

いかなる人も本書に述べられている霊学的認識内容を自分で獲得することができる。
シュタイナー

最初は、誤りである。
いかなる人も・・・
これでは、詐欺である。

日本仏教の大きな堕落は、最澄の、すべての人に仏性があるという、考え方だった。
そして、多くの宗教も、すべての人が神の子、すべての人に、仏の心があるというもの。

そんなことは、有り得ないのである。

勿論、すべての人が、それぞれの宗教や、シュタイナーに興味を抱き、更に、そのための、行などはしない。
そこに集う人が、すべての人になるのだ。

三蔵法師玄奘は、人間に五種あると言う。
その最後に、無性というものがある。
つまり、仏になれない者がいる。

当然のことである。
決して、神の子とか、仏に成るということの出来ない人がいるのである。

悪人は、絶えない。

この世も、霊界も、一筋縄では、行かないのである。
霊界という、広大無辺な世界・・・
それを、限定することも出来ない、世界である。

この著書の中で試みられているような論述の仕方は、高次の世界の思想像を提供するためにある。
シュタイナー

これは、自己申告である。

そしてみずから見霊能力を獲得するための第一歩とは、このような思想像を把握することにあるのだ、ともいえる。なぜなら人間は思考存在なのであって、思考から出発するときにのみ、自分の歩む認識の小道を自分で見つけ出すことができるからである。
シュタイナー

それは、当然のことである。
思考は、人間のみに、許されたものである。
それは、大脳化である。

シュタイナーを読む者が、それで勝手に、認識能力、更に、見霊能力を得たと思い込むのは、危険であり、恐ろしいことである。

ただ、救いは、批判、妄信的信仰を否定していることだ。

結論から言えば、百人には、百人の認識がある。
更に、人の数だけの、霊界がある。

シュタイナーは、霊界を語っているつもりで、この世の生き方、物の見方を、語っている。もし、そうではないとしたら、あまりにも、愚かである。

この世も、霊界の一部である、という、記述は、正しい。
霊的存在の、人間は、すでに、ある霊界、あるいは、魔界に属しているのである。

さて、先を進む。
他の者からの伝達を学びとることこそ、みずからの認識への第一段階なのだ。
シュタイナー

そして、延々とした、説明が続くが・・・
日本語で言えば、逢う人、皆、師である、と、言うことだ。

誰もが、師匠なのである。

自分が魂の根底から取り出してきたものだけではなく、他者がその魂の根底から取り出してきたものをも、人は「観る」ことができる。
シュタイナー

正しい霊的観察は、偏見によって曇らされていない心の中に、理解力を目覚めさせてくれる。自分の中の無意識的知識が他者によって見出された霊的事実に反応を示すのである。
シュタイナー

しばしば人は、健全な常識が承認できるような真の霊的研究の成果よりも、神秘的「沈潜」によって得られたものの方を、より以上に優れたものと信じがちであるが。
シュタイナー

霊的事実に反応を示すのである。

上記は、その反応を常識が承認できるものと、言う。
それでは、その常識について、を、延々と語らざるを得なくなる。
が、シュタイナーは、その常識については、省略する。

常識とは、哲学の大問題である。

常識の承認・・・

高次の認識能力を獲得しようとするとき、真剣な思考作業を課すことがいかに大切なことか、どれ程強調してもし過ぎることはない。
シュタイナー

今日「見者」になりたいと願う多くの人がまさにこの真剣で禁欲的な思考作業をいい加減にしているので、この点を強調することがますます必要になっている。
シュタイナー

つまり、当時の人たちは、思考より、感覚、感情を重んじていたのであろう。
それに対して、シュタイナーは、思考作業を言うのである。

思考作業とは、言葉の世界である。
この言葉に対する、感性が問題である。

思考を、無意味に抽象的思弁を重ねることと混同する人は、思考の本質を理解していない。確かにこのような「抽象的思考」なら、容易に超感覚的認識の息の根を止めてしまうであろうが、生きた思考は超感覚的認識の土台を築くことができるのである。
シュタイナー

その思考作業を、単に、シュタイナーの著作にて、得られるとは、到底思う事が出来ないのである。

posted by 天山 at 06:01| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月24日

霊学191

思考の働きがなければ、心像の勝手気儘な跳梁と混乱した魂の働きとが生じるだけである。それは或る種の人たちにとって快いことかもしれない。しかしそれと高次の世界への参入とは何の関係もない。
シュタイナー

さらに、高次の世界へ真に参入するときにのみ、純粋な霊界の諸体験が現れる、という事実を考える人は、この問題が別の面をもっていることをも理解するのであろう。
シュタイナー

「見者」はその生活が絶対に健康でなければならない。ところが真の思考以上にこの健康をよく管理してくれるものはないのである。
シュタイナー

上記は、当然のことである。

高次の霊的能力開発のための修行には、思考を土台として、その上に立つ、思考できる人にならなければいけないのだ。
つまり、思考の健全化である。
が、果たして、シュタイナーの思考というものが、健康か、否かは、誰が判断するのか。

この前提は、人間の魂と、霊だけに当て嵌まる・・・
魂と、霊の、健康は、真の思考からということ。

霊学的思考世界を、信、不信に係わりなく、ただ受け容れようとする態度だけが高次の感覚を開くための前提となるのである。
シュタイナー

その、霊学的思考世界を、この、認識の小道、が説こうとしているのだろう。

私のいうことを信じなくてもよいが、それについて考え、それを君自身の思考内容にして見給え。そうするだけで、すでに君の内部で私の思考内容が生きはじめ、君はその真実を自分で認識するようになるだろう。
シュタイナー

これは、師匠が言う言葉だという。

君は、その真実を・・・
何とも、漠然としている。

そして、
それは人間生活や人間外の世界が開示するものに、偏見を排して、ひたむきに帰依することである。
シュタイナー
と、言うのである。

つまり、逢う人、皆、師だけではなく、逢うものの、すべての世界が・・・ということか。

偏見を排して・・・
果たして、人間が、偏見を排して、物事を見ることが、出来るのか。
甚だ、疑問である。

人間は、生まれてから、すでに、様々な、偏見を持つことを、強いられる。
その生まれ、環境、教育、そして、様々な、対応である。

一体、何を持っての、偏見なのか・・・
宗教というものを、一つ取り上げても、その態度は、偏見に満ちているはずである。

自分を消し去るときにだけ、他のものが彼の内に流れ込む。自分を無にして、対象への帰依を高度に所有することだけが、いたるところで人間をとりまいている高次の霊的諸現実を受け容れさせる。人は自分自身だけで、この目標に向ってこの能力を意識的に育成することができる。
シュタイナー

能力を意識的に育成することができる・・・
この、能力とは、真の思考世界への認識か・・・

自分を無にして・・・
果たして、そんなことが、出来るだろうか。
そして、自分を、無にするとは、何か、である。

自分を、空虚にすることか・・・
自分の思考世界を、無にして、帰依することか・・・

この、帰依という言葉にも、問題がある。

シュタイナーの著作は、注意深く生きるために、と私は考えている。

あるいは、何か判断を下したくなるような状況にあるとき、判断するのを我慢して、とらわれず印象に心をゆだねるのである。
シュタイナー

それは、理解する。
印象に、心を委ねる・・・
それは、芸術などに接した際に、特に、顕著に起こることである。
それを、すべての事象に、当て嵌めることか・・・

事物や出来事が、自分に語りかけてくるようにすべきである。そうしてこのことを自分の思考の世界にまで拡げる。自分の中に何らかの思考内容を作り出そうとする働きを抑え、もっぱら外部のものに思考内容を作り出させる。
シュタイナー

実に、注意深い行為である。

それは、日本では、内観、内省といわれる、所作である。
それにより、自分が何によって、生かされて、生きているのかを、知ることになる。
それは、何も、霊的能力でも何でもない。

果たして、シュタイナーの言う、霊的能力とは・・・
日本では、当たり前のことなのかもしれない。

事物に対する、注意力である。
それを、高次の世界云々とは・・・

違う。
当たり前の行為なのである。

今まで、シュタイナーは、散々に、語り尽くしてきた。
そして、今、また、それを語り尽くそうとしている。

シュタイナー学であり、霊学とは、別物であるかもしれない。
勿論、シュタイナーが、それを、霊学ということを、否定するものではない。


posted by 天山 at 06:13| 霊学3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月26日

もののあわれについて715

源氏「これはまた具して奉るべき物侍り。今また聞え知らせ侍らむ」と、女御には聞え給ふ。その序に、源氏「今はかくいにしへの事をもたどり知り給ひぬれど、あなたの御心ばへをおろかに思しなすな。もとよりさるべき中、えさらぬ睦びよりも、横さまの人のなげのあはれをもかけ、ひとことの心寄せあるは、おぼろけの事にもあらず。まして、ここになど候ひ慣れ給ふを見るるも、はじめの心ざし変はらず、深くねんごろに思ひ聞えたるを、いにしへの世のたとへにも、「さこそうはべにははぐくみげなれ」とらうらうじきたどりあらむも賢きやうなれど、なほ誤りても、わがため下の心ゆがみたらむ人を、さも思ひ寄らずうらなからむためには、引き返しあはれに、いかでかかるにはと罪えがましきにも、思ひなほる事もあるべし。おぼろけの昔の世のあだならぬ人は、たがふふしぶしあれど、一人一人罪なき時には、おのづからもてなす例どもあるべかめり。さしもあるまじき事に、かどかどしく癖をつけ、愛敬なく人をもて離るる心あるは、いとうちとけ難く、思ひぐまなきわざになむあるべき。多くはあらねど、人の心の、とある様かかるおもむきを見るに、ゆえよしといひ、さまざまに口惜しからぬ際の、また取りたてて、わが後見に思ひ、まめまめしく選び思はむには、ありがたきわざになむ。ただまことに心のくせなくよき事は、この対をのみなむ、これをぞおいらかなる人と言ふべかりけるとなむ思ひ侍る。よしとて、またあまりひたたけて頼もしげなきも、いと口惜しや」とばかり宣ふに、かたへの人は思ひやられぬかし。




源氏は、これは、別に、一緒にして差し上げる物があります。そのうちに、お話しましょう。と、女御に申し上げる。
そのついでに、源氏は、もう、このように、姫君は、昔の事を、だいたいお分かりになったことですが、紫の上の、心遣いを、疎かにせぬように。元々、親子、夫婦の親しみよりも、他人が、かりそめの情けをかけたり、ちょっとした事で、好意を寄せるのは、並大抵のことではありません。まして、御方が、こちらに、いつもお付きして、おいでなのを、目にしながらも、最初の気持ちが変わらず、深く好意を寄せているのですから。昔から、世間での例を見ても、「あんな表面は可愛がっているが」と、頭が良さそうに、推量するのも、利口みたいだが、矢張り、間違いであっても、自分に対して、内心では、邪険な人を、それをそうとも気づかず、裏表なくしていたら、その子のために、放って、代わって、心を動かし、どうして、こんな子にと、罰が当りそうな気になり、改心することもありましょう。並々ならぬ仇敵ではない人は、意見の相違は、色々合っても、お互い、めいめいが、本当に罪が無い場合は、いつしか考え直す例もあります。
それほどでもないことに、角を立て、難癖をつけ、無愛想に、人を無視する性質の人は、仲良くなりにくく、同情のし甲斐がない。そう多くはないが、人の心の色々な様子や、動きを見ると、趣味とか、それぞれに、まんざらでもない、才能があるようです。誰でも、一人一人、得意な分野があり、取り得のないものもないが、といって、特に、自分の妻にと思って真面目に選ぼうとすれば、中々、見当たらないもの。本当に、気立ての良い、立派なところは、この紫の上だけを、穏やかな人と、言うべきだと思います。
立派な人と言っても、あまりに、締まり無く、頼り無いのも、残念なもの。と、だけおっしゃるが、もう一人の方はと、想像される。

女御は、明石の娘。
もう一方の方とは、女三の宮のこと。




源氏「そこにこそ少し物の心えてものし給ふめるを、いとよし。むつび交して、この御後見をも、同じ心にてものし給へ」など、しのびやかに宣ふ。明石「宣はせねど、いとありがたき御気色を見奉るままに、明け暮れの言種に聞え侍る。めざましきものになど思し許さざらむに、かうまで御覧じ知るべきにもあらぬを、かたはらいたきまで、かずまへ宣はすれば、かへりてはまばゆくさへなむ。数ならぬ身の、さすがに消えぬは、もて隠され奉りつつのみこそ」と聞え給へば、源氏「その御ためには、何の心ざしかはあらむ。ただこの御有様を、うち添ひてもえ見奉らぬおぼつかなさに、ゆづり聞えらるるなめり。それもまた、とりもちてけちえんになどあらぬ御もてなしどもに、万の事なのめに目安くなれば、いとなむ思ひなく嬉しき。はかなき事にて、物の心えずひがひがしき人は、立ち交らふにつけて、人のためさへ辛きことありかし。さなほし所なく、誰ももののし給ふめれば、心安くなむ」と宣ふにつけても、「さりや、よくこそ卑下しにけれ」など思ひ続け給ふ。
対へ渡り給ひぬ。




源氏は、あなたは、少し物の道理が解っていられるようなので、安心です。仲良くして、姫君のお世話も、心を合わせて、して下さい。などと、声をひそめて、おっしゃる。
明石は、仰せはなくとも、有り難いご好意を拝見しております。朝夕、口癖のように、申し上げております。こちらが、決まり悪くなるほどに、お目をかけて頂きますので、かえって、恥ずかしい気になります。つまらない私のような者が、兎も角、生きていますのは、世間の評判も、よろしくない気が引ける思いが、いたします。粗相のないように、お隠しいただいてばかりです。と、申し上げると、源氏は、あなたのために、好意があるのではない。ただ姫君のご様子を、始終付き添い、お世話する事の出来ないのが、気がかりで、あなたに、頼んでいるのだろう。それもまた、あなたが取り仕切って、親らしい扱いをしないために、何も穏やかで、体裁よくゆくので、とても安心して嬉しい。少ししたことでも、物の解らぬ、ひねくれ者は、仲間に入ると、傍の人まで、迷惑をかけることもある。そんな欠点はなくて、どちらもいられるので、安心だ。と、おっしゃるにつけ、その通り。よくここまで、謙遜して来た事だ、などと、御方は、思いなさる。
源氏は、対へお出でになった。

姫君の本当の母親が、世話をすることを、紫の上が考えて、そのようにしたことの話である。
明石が生んだ子を、紫の上が、引き取り、育てて、母親の身分よりも、高い身分となった、姫君である。




明石「さもいとやむごとなき御心ざしのみまさるめるかな。げにはた、人より殊に、かくしも具し給へる有様の、ことわりと見え給へるこそめでたけれ。宮の御方、うはべの御かしづきのみめでたくて、渡り給ふこともえなのめならざるは、かたじけなきわざなめりかし。同じ筋にはおはすれど、今ひとときは心苦しく」と、しりうごち聞え給ふにつけても、わが宿世はいとたけくぞ覚え給ひける。




明石は、あのように、紫の上を大事にされるお気持ちが、深まるばかりです。本当に、それは、紫の上が、誰よりも、あれほどに整っていらっしゃる方で、無理もないと見えますのが、ご立派です。宮の御方は、表向きの扱いばかりで、お出掛けになるのも、充分だといえないことも、勿体無いことです。紫の上と、三の宮は、同じ血筋でいらっしゃるけれど、一段とご身分が高くて、お気の毒です。と、陰口を申し上げるのも、自分の運命も、たいしたものだと、思うのである。




やむごとなきだに、思すさまにもあらざめる世に、まして立ちまじるべき覚えにしあらねば、すべて今は恨めしき節もなし。ただかのたえ籠りたる山住みを思ひやるのみぞ、あはれにおぼつかなき。尼君も、ただ「福地の園に種まきて」とやうなりし一言をうち頼みて、のちの世を思ひやりつつながめい給へり。




ご身分の高い宮でさえ、思い通りに行かないものなのに、まして、お仲間入りできるような身分ではないから、何もかも、これ以上、何の不足もありません。ただ、入道が世を捨てて、籠もった深山の生活を思いやるだけが、悲しくて、心配です。尼君も、「幸いの国めあてに、種をまいて」とあった、一言を、頼みに、後世のことを考えて、物思いに、沈んでいらした。

明石が、我が娘である、姫君に話して聞かせている。

あはれにおぼつかなき
悲しみと、心配の気持ちを、あはれ、と表現する。

posted by 天山 at 06:22| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月29日

もののあわれについて716

大将の君は、この姫宮の御事を思ひ及ばぬにしもあらざりしかば、目に近くおはしますを、いとただにも覚えず、おほかたの御かしづきにつけて、こなたにはさりぬべき折り折りに参りなれ、おのづから御けはひ有様も見聞き給ふに、いと若くおほどき給へる一筋にて、うへの儀式はいかめしく、世の例にしつばかり、もてかしづき奉り給へれど、をさをさけざやかにもの深くは見えず、女房なども、おとなおとなしきは少なく、若やかなるかたちの人の、ひたぶるにうち花やぎざればめるは、いと多く数しらぬまで集ひ候ひつつ、物思ひなげなる御あたりとは言ひながら、何事ものどやかに心静めたるは心の中のあらはにしも見えぬわざなれば、身に人知れぬ思ひ添ひたらむも、また、まことに心地ゆきげに、とどこほりなかるべきにしうちまじれば、かたへの人に引かれつつ、同じ気配もてなしになだらかなるを、ただ明け暮れはいはけたる遊び戯れに心入れたる童の有様など、院はいと目につかず見給ふことどもあれど、ひとつさまに世の中を思し宣はぬ御本性なれば、かかる方をも任せて、さこそはあらまほしからめと、御覧じ許しつつ、いましめ整へさせ給はず。さうじみの御有様ばかりをば、いとよく教へ聞え給ふに、少しもてつけ給へり。




大将の君、夕霧は、この姫宮との結婚も、考えないこともなかったので、目に見られる所に、おいであそばすのを、平気でいられず、何かの用事のとき、こちらには、しかるべき時に、いつも伺うのが普通で、いつしか雰囲気や、ご様子を、見聞きもするにつけて、あまりにも若く、おっとりとしているばかりで、表向きの扱いは、堂々として、世間が喩えにするほど、院は大事にされている。だが、これといって、奥ゆかしさは見られず、女房なども、しっかりしたのは少なくて、年若い美人が、ただただ華やかにし、洒落好きなのが、とても多く、数え切れないほど、集まって、お仕えしている。
何の苦労もないお住まいとはいうものの、何につけても、騒がず、落ち着いている女房は、考えていることが、はっきりと解らず、我が身に、誰も知らない悩みを持っていても、本当に楽しそうに万事思い通りに運んでいる人たちと一緒だと、周りに影響されて、同じ調子、態度に合わせるものだから、一日中、子供みたいに、遊び、戯れに熱中している、女童の様子など、院は、関心しないと、御覧になることも、一度ならずある。が、一律に、世間を考えて、おっしゃったりしない性分なので、こういうことも、勝手にさせて、そうしていたいのだろう、と、見て見ぬふりをしつつ、叱って、止めさせることもしない。宮ご自身の、なさりようを、充分に教えされるので、少しは、直されたが。

夕霧の観察した、姫宮の様子である。
何とも、まったりとした、文である。




かやうの事を、大将の君も、「げにこそあり難き世なりけれ。紫の御用意気色の、ここらの年へぬれど、ともかくも漏りいで見え聞えたる所なく、静やかなるをもととして、さすがに心美しう、人をも消たず、身をもやむごとなく、心憎くもてなし添へ給へること」と、見し面影も忘れ難くのみなむ思ひいでられける。




このようなことも、大将の君は、なるほど立派な女は、なかなかいないものだ。紫の上の、お心がけや、態度は、もう長年経ったが、何も人の目に触れ、耳に触れることがなかった。静かなことを第一として、それでいて、ひねくれず、人をないがしろにしない。自分自身も、気高く奥ゆかしくして、いられることだと、昔、垣間見たお顔も忘れられず、つい、思い出されるのである。




わが北の方も、「あはれと思す方こそ深けれ、いふかひあり、すぐれたるらうらうじさなど、ものし給はぬ人なり。おだしきものに、今はと目なるるに、心ゆるびて、なほかくさまざまに集ひ給へる有様どもの、とりどりにをかしきを、心一つに思ひ離れ難きを、ましてこの宮は、人の御程を思ふにも、限りなく心ことなる御ほどに、取り分きたる御気色にしもあらず、人目の飾りばかりこそ」と見奉り知る。わざとおほけなき心にしもあらねど、「見奉る折りありなむや」と、ゆかしく思ひ聞え給ひけり。




自分の妻である、北の方も、可愛いと思う心は強いが、しっかりして、人に優れた才覚などは、ない人だ。安心出来る。もう大丈夫だと思い、暮らしていると、気が弛み、矢張りこのように、色々集まる婦人方が、それぞれ立派なので、一途に愛情を感じるのだが、中でも、宮様は、ご身分のことを考えても、最高の特別のお生まれである。だが、格別のご寵愛があるでもなく、世間体を飾っているだけのこと。と、見受けられる。特別に、大それた気持ちではないが、お顔を拝する機会があるだろうかと、心引かれる思いがするのである。




衛門の督の君も、院に常に参り、したしく候ひ慣れ給ひし人なれば、この宮を父帝のかしづきあがめ奉り給ひし御心掟など、詳しく見奉り置きて、さまざまの御定めありし頃ほひより聞え寄り、院にもめざましとは思し宣はせずと聞きしを、かくことざまになり給へるは、いと口惜しく胸痛き心地すれば、なほえ思ひ離れず。その折りより語らひきにける女房のたよりに、御有様なども聞き伝ふるを、慰めに思ふぞはかなかりける。「対の上の御気配には、なほおされ給ひてなむ」と世人もまねび伝ふるを聞きては、柏木「かたじけなくとも、さるものは思はせ奉らざらまし。げに類なき御身にこそあたらざらめ」と、常にこの小侍従といふ御乳主をも、言ひ励まして、「世の中定めなきを、大殿の君もとより、本意ありて思し掟てたる方におもむき給はば」と、たゆみなく思ひありきけり。




衛門の督の君、柏木も、上皇御所に常に参上して、お傍近くに仕えていたので、女三の宮を、朱雀院が大事にされていることを、仔細に拝見していた。色々なご縁談があった頃から、申し出て、院も嫌なやつと思いではないと、おっしゃることもないと聞いていたので、このように、六条の院、源氏に、嫁いだのは、まことに残念と心が痛む思いがするので、今尚、諦めきれないでいる。その求婚の頃から、親しくなった女房の口から、宮様の、ご様子などを聞くのを、慰めにしていたのは、儚いことだった。
対の上、紫の上には、やはり、負けていると、世間の人も噂しているのを聞くと、恐れ多いことだが、自分なら、そんな思いはさせなかったと思う。だが、いかにも、自分が、そんな貴い身分には、相応しくないと、いつも、この小侍従という、御乳母子を攻め立てて、この世は、無常だ。六条の院が、もともとお望みで決心された、出家をされたらと、熱心に、小侍従の周りをうろついていた。

物語は、柏木と、女三の宮との関係に進む。
結局、女三の宮は、柏木の子を生むのである。

少しばかり、複雑になってゆく、物語である。

posted by 天山 at 05:39| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月30日

もののあわれについて717

三月ばかりの空うららかなる日、六条の院に、兵部卿の宮、衛門の督など参り給へり。おとど出で給ひて、御物語などし給ふ。源氏「静かなる住まひは、この頃こそいとつれづれに紛るることなかりけれ。公私に事なしや。何わざしてかは暮らすべき」など宣ひて、源氏「けさ大将のものしつるはいづかたにぞ。いとさうざうしきを、例の小弓射させて見るべかりけり。好むめる若人どもも見えつるを、ねたう、出でやしぬる」と問はせ給ふ。大将の君は、丑寅の町に、人々あまたして、鞠もて遊ばして見給ふと聞し召して、源氏「乱りがはしき事の、さすがに目にさめてかどかどしきぞかし。いづら、こなたに」とて御消息あれば、参り給へり。若君達めく人々多かりけり。源氏「鞠持たせ給へりや。誰々かものしつる」と宣ふ。「これかれ侍りつ」源氏「こなたへまかでむや」と宣ひて、寝殿の東面、桐壺は若宮具し奉りて、参り給ひにし頃なれば、こなた隠ろへたりけり。




三月頃で、空がうららかに晴れている日、六条の院に、兵部卿の宮、衛門の督などが、参上された。源氏が出て、ご対談があった。
源氏は、静かな暮らしだが、この頃、実に退屈で、気の紛れることがない。国も、我が家も、平穏無事だ。何をして、一日を暮らそう、などとおっしゃり、今朝、大将が来ていたが、何処にいる。何とも、物寂しいが、お決まりで、小弓を射させて、見るものだった。好きらしい若い連中が、見えたのに、惜しいことだ。帰ったのかと、お尋ねになる。
大将の君、夕霧は、東北の町で、大勢の人々に、蹴鞠を見せていると、お耳にして、源氏は、無作法なものだが、しかし眠気の覚める類のものだ。さあさあ、こちらへ、と、あり、お言葉が伝えられたので、参上された。
若殿らしい方々が多い。
源氏は、鞠を持たせたか。誰々が来たのだ。と、おっしゃる。誰と誰が来ました。
源氏は、こちらへ来て貰えないか、とおっしゃり、寝殿の東座敷、明石の女御は、若宮をお連れして、参内された頃で、こちらには、人目が少ない。




やり水などのゆきあひはれて、よしあるかかりの程を尋ねて立ち出づ。太政大臣殿の君達、頭の弁、兵衛の佐、大夫の君など、過ぐしたるもまだかたなりなるも、さまざまに、人より勝りてのみものし給ふ。




遣水など合流して、広場になって、趣ある蹴鞠の場所を求めて、出て行く。
太政大臣の若殿は、頭の弁、兵衛の佐、大夫の君など、年のいった者も、まだ幼い者も、それぞれに、他の人たちよりも、立派な方ばかりである。




やうやう暮れかかるに、風吹かずかしこき日なりと興じて、弁の君もえ静めず立ち交じれば、おとど「弁官もえをさめあへざめるを、上達部なりとも、若き衛府司たちは、などか乱れ給はざらむ。かばかりの齢にては、あやしく、見過ぐす、口惜しく覚えしわざなり。さるはいと軽々なりや、この事のさまよ」など宣ふに、大将も督の君も、皆おり給ひて、えならぬ花の蔭にさまよひ給ふ、夕映えいと清げなり。をさをさ、さまよく静かならぬ乱れごとなめれど、所がら人がらなりけり。ゆえある庭の木立のいたく霞みこめたるに、いろいろひも解きわたる花の木ども、わづかなる萌黄の蔭に、かくはかなきことなれど、良き悪しきけぢめあるを挑みつつ、われも劣らじと思ひ顔なる中に、衛門の督のかりそめに立ちまじり給へる足もとに、並ぶ人なかりけり。かたちいと清げに、なまめきたる様したる人の、用意いたくして、さすがに乱りがはしき、をかしく見ゆ。




だんだん、日が暮れかかるが、風がなくて、よい日だと面白がる。弁の君も、我慢できずに、仲間に入ったので、源氏は、弁官さえ落ち着いていられないらしい。上達部であろうとも、若い衛府の役人たちは、どうして飛び出して、遊ばないのか。皆の若さでは、不思議に、見ているだけでは、残念なこと。実のところ、全く、軽々しい。この遊びは、などと、おっしゃる。大将も、督の君も、お下がりになり、美しい桜の木陰で、蹴鞠をされる。夕日を受けた、姿が大変、美しい。
決して、体裁もよくなく、静かでもない、無作法な遊びであるが、それも、場所により、人によるものである。趣きある庭の木立の、霞が深く立ち込めた所に、色とりどりの蕾のほころぶ花の木、わずかに、芽の吹き出した柳の木陰に、このような、つまらない遊びであるが、上手下手の違いがある競争をして、自分も負けないという顔付きの中で、衛門の督が、ほんの少しばかり仲間入りされた蹴り方に、及ぶ者はいなかった。
容姿が大変に綺麗で、やさしい感じのした人が、心遣いも十分に、それでいて、活発なのは、見事である。




御階の間にあたれる桜の蔭によりて、人々、花の上も忘れて心に入れたるを、おどとも宮も、隅の高蘭に出でて御覧ず。




階段の柱間に面した、桜の木陰に集まり、誰もが、花のことも忘れて、熱心に、蹴鞠をしているのを、源氏も、兵部卿の宮も、隅の欄に出て、御覧になるのである。




いとらうある心ばへども見えて、かず多くなり行くに、上臈も乱れて、冠の額少しくつろぎたり、大将の君も、御位のほど思ふこそ例ならぬ乱りがはしさかなと覚ゆれ、見る目は人よりけに若くをかしげにて、桜の直衣のややなえたるに、指貫の裾つかた、少しふくみて、気色ばかり引き上げ給へり。かろがろしうも見えず、もの清げなるうちとけ姿に、花の雪のように降りかかれば、うち見上げて、しをたる枝少し押し折りて、御階の中のしなの程にい給ひぬ。




大変、巧みな技が数々と現れて、回が進んで行くにつれ、身分の高い人々も、礼儀構わず、冠の額際も、少し弛んできた。大将の君も、ご身分の高さを考えればこそ、いつにない、崩れ方だと、思われるが、見たところ、誰よりも、一段と若く立派である。桜襲の直衣の、やや柔らかくなったものに、指貫きの裾が、少し膨らんで、心持引き上げて、いらした。羽目を外しすぎたとも、見えない。こざっぱりした、くつろぎの姿に、花が雪のように降り掛かるので、ふと見上げて、たわんでいた枝を、少し折り、階段の中段に腰を掛けていらっしゃる。

何とも、風情のある、風景である。
これも、あはれなる、風景なのだ。
posted by 天山 at 07:18| もののあわれ第12弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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