シュタイナー
つまり、現在生きている人間は、魂界、霊界との中に存在しているということである。
何度も言うが、シュタイナーは、強迫的に同じことを、繰り返して書いている。
人間は体的存在であるときにも、この三つの世界の中を同時に生きている。
ということである。
つまり、人間は、霊的存在なのである。
これで、充分である。
感覚的世界は人間をとりまくものの一部分であるに過ぎない。
シュタイナー
当然である。
魂的、霊的部分は、知覚されず、残されている、ということだ。
それに、気づくこと。
感覚的事物もその周囲の魂界、霊界と同じ素材からできておりながら、ただ感覚的に知覚される性質によってこれらから独立しているだけなのである。
シュタイナー
比喩的に語れば、感覚的事物とは濃縮された魂的、霊的存在なのであって、この濃縮の結果、感覚がそれを知覚することができるようになったのである。
シュタイナー
比喩で語らなくてもいい問題である。
現実の世界、魂界、霊界は、一緒である。
ただし、次元が異なる故に、感じ方が問題なのである。
隣にいても、永遠に遠いのである。
あえて、難しくする必要は無い。
感覚的世界の事物が濃縮された霊的本性たちに他ならないからこそ、思考内容を通して自己をこれらの霊的本性にまで高める人間は、思考しつつ事物を理解することができるのである。
シュタイナー
これは、日本人ならば、説明抜きで、知っていることである。
感覚的事物は霊界から生じたものであり、霊的本性の別形式に過ぎない。
シュタイナー
様々な、霊界通信を読むと、その通りである。
霊界の事物の方が、更に、明確である。
この世は、霊界の写しである。
もっと言うと、幽界の写しに近い。
シュタイナーの霊界は、特殊な世界であると、言える。
その説明から、見れば、特殊なのである。
感覚的世界の霊的原像は霊界のさまざまの領域に現れる。これらの原像は第五、第六、第七領域ではまだ生きた胚種として存在するだけだが、下位の四領域では霊的構成体にまで自己を形成する。思考によって感覚的事物を理解する人間の霊は、このような霊的構成体の影像を知覚するのである。この構成体がどのようにして感覚的世界にまで自己を濃縮させたのかは、外界を霊的に理解しようとする者にとって、重要な問題である。
シュタイナー
外界は、人間の感覚的直観にとって、四つの領域に、はっきり分けられる。
何度も聞いた、話である。
鉱物的、植物的、動物的、人間的段階である。
そして、また、それぞれの説明が入る。
この、繰り返しによって、書籍が、分厚いものになっている。
シュタイナーの霊界は、鉱物界である。
そこから、植物、動物、人間的理解をしている。
外から眼に見える経過として現れる鉱物界や植物界の形成は、霊界の上位の三領域の霊芽が下位の諸領域の霊姿にまで形成されていく純霊的な経過が感覚的に濃縮されたものである。結晶化の過程に対応する霊界の原像は、形態をもたぬ霊芽が残りなく霊姿に転化される過程である。この経過が濃縮され、感覚がその結果を知覚できるまでになると、そこに
感覚世界における鉱物の結晶体が現れるのである。
シュタイナー
これも、比喩なのであろうか。
そのままである。
それが、シュタイナーの霊界なのである。
ここでは、第一元素、第二元素、第三元素などの説明があるが・・・
省略する。
人間は植物と動物がもっている能力以外に、感覚を表象と思考内容とに作り変え、衝動を思考の力で統禦する能力を身につけている。
シュタイナー
実際、生きている人間に講義をして、生きている人間が、それを理解する。
現世から、見る霊界の諸相である。
当然、見てきたような・・・という、感覚がある。
それを、比喩であれ、明確にしようとすれば、する程、おかしくなるのである。
その情報の出所が何処なのか、それが、問題である。
つまり、それが、シュタイナーの霊界となるのである。
シュタイナーから出た、教育法など、多数あるが・・・
否定はしない。
それも、一つの方法である。
更に、注意深く生きるための、方法でもあると、言える。