シュタイナー
変なことを、書くものである。
この領域での人間こそが、本来の人間そのもの・・・
違う。
どの領域でも、人間である。
それは輪廻転生を重ねつつ、その都度、外的存在として顕現するところの自我の真の姿である。
シュタイナー
したがって「霊界」の第五領域を生きる自我は意図と目標の王国にいる。
シュタイナー
第五領域の自我は前世の諸成果のうち物質界と魂界の不完全さと結び付いている部分を取り除き、今自我がともに生きている「霊界」の意図を、この経験でもって一層成熟させる。
シュタイナー
ただ日常の利害関係を超えて生きた少数の自我だけが「霊界」の上位の諸領域の中で実を結ぶことができる。
シュタイナー
つまり、誰も、第五領域に行くことが、出来ないということである。
ところが・・・
実を結ばない霊もいるとのこと・・・
第五領域と同質の霊性をわずかしか獲得しなかった人間には、来世の運命(カルマ)の中に、この欠陥に応じた結果が現れるように生きようとする衝動が生ずる。その結果、次ぎの人生においては苦しみの多い生活が与えられる。そのときになってそれが当人にとってどれ程深い苦悩の対象となるにしても、「霊界」のこの領域にいたときには、それこそ自分にとってまったく必要な運命なのだ、と彼は感じていたのである。
シュタイナー
更に、
本書で「霊我」と名付けられたものは、この領域に生きているのである。
と、言う。
要するに、霊の上昇を説いている。
上位の領域に入ることが、正しいのである。
それを、延々と説明する。
霊界と、一口に言っても、宇宙大の如くである。
シュタイナーの霊界も、その一部であると、判断する。
シュタイナーの言う、霊界を通らずとも、転生する霊は、数多い。
例えば、宗教霊界に直接赴く、霊である。
子供が、亡くなれば、即座に、その国の霊界、或いは、宗教霊界に参入する。
そこでは、シュタイナーの言う、説明抜きの世界が存在する。
そのような、難しい世界ではない。
実に、単純明快な世界である。
勿論、それも、霊界である。
シュタイナーの語る霊界は、特殊な霊界である。
シュタイナー以後、その霊界を確認した報告を、見たことが無い。
更に、シュタイナーは、自分が語る霊界の、どの領域に存在しているのか・・・
解らない。
「霊界」の第六領域の人間は、すべての行為を宇宙の真実在にもっとも適った仕方で遂行するであろう。なぜなら彼は自分のためになるものではなく、宇宙秩序に則って生起すべきものだけを求めるのだから。
シュタイナー
「霊界」の第七領域は人間を「三つの世界」の果てにまで導く。人間はこの領域で、さらに一層高次の世界から上述してきた三つの世界の中へ、宇宙的使命の達成のために移植された「生命核」たちに向かい合う。
シュタイナー
こうなると、漠然として、信じるしかなくなる。
一体、何の目的で、シュタイナーは、このような記述を行なったのか。
その他の、書籍を読んでも、妄想ではないのかと、思われる記述が多々見られる。
そのルカ福音書の解釈における、仏陀とイエス・キリストの関係などは、全く根拠が無い。
更には、その時代の把握の仕方は、シュタイナー独自のものであり、それを、証明する何ものも存在しない。
勿論、神秘学、霊学などは、オカルトであるから、その説を提示する人のものである。それを、受け入れるか、否かは、それぞれの人に、委ねられる。
次ぎは、物質界、並びに魂界、霊界とこの物質界との結び付き・・・
と、進むが、もう、説明は充分すぎるほど、聞いた。
その中から、特徴的なものを取り上げて、足早に進むことにする。
霊的感覚、超感覚意識なるもの・・・
それは、人が百人いれば、百通りの物の見方がある。
更に、能力者と言われる人たちも、それぞれで、違う。
その人のレベルの合わせた、霊界、超感覚世界が披露されるのである。
超心理学なるものも、存在するが・・・
それも、オカルトに至るのである。
見えない世界を扱うということは、それを当然として、受け入れるしかない。
ただ、それを知識、教養として、得る事で、生きるに対して、何らかの、意味を得るならば、良しとする。
問題は、人間が死んだ後、どうなるのか、である。
死後の世界は、存在するのか。
霊というものは、存在するのか、ということである。
確実に、霊が存在するという、姿勢があるから、霊学が成り立つ。