天平仏教建造も、その一つである。
現在、その浪費の果ての、天平の名残を見ることが出来る。
多くの天平仏、そして国宝である、正倉院御物である。
「古代美術の精華」として誇り、天平の盛時をそこにみるのだが、実は天平仏教の一大偏向のたまものと言ってよい。要するにそれは過剰なのだ。いつの時代でも、異質の外来文化の強烈な影響をうけるとき、必ず伴う一種の「肥大化現象」のようなものかもしれない。
亀井
それは、唐化一辺倒のもたらした、大浪費であり、その過剰の故に、天平時代のエネルギーの、特徴が見えるのである。
だが
純粋な宗教的行為と芸術的行為との相克という主題は、この時代にはあらわれていない。
と、亀井は、言う。
私は、その芸術的行為が、信仰として、生きていたと思う。
信仰というもの、様々なタイプがある。
当時は、それが、信仰だったと、考えるのである。
天平13年、741年に、国分寺建立の詔が、発せられている。
その詔に、高さ一丈六尺の釈迦像を、国ごとに造らしめたことが書かれている。
これが、国分寺の本尊である。
また、各七十塔には、聖武天皇の、金字金光明最勝王経一部を置くことになっている。
この経典を、国家統一の精神的基軸たらしめたのである。
国分寺は、すべて国府の近くの景勝地に南面して、建てられた。
豪族、農民の労働奉仕とものに、大事業が行なわれたが・・・
容易にはかどらず、天平19年には、催促の詔が発せられている。
「仏教国家」というかたちでの強力な政治的統制を促進しようとしたことがうかがわれる。
亀井
国家統一・・・
それは、すでに天皇により、治まっているはずだが。
精神的統一か・・・
何故、それ程に、情熱を掛けて、行なわれたのか、不思議である。
その動機である。
それは、時代の不安である。
天平7年から9年にかけて、天然痘の全国的な大流行があったことが、続紀に記されている。それは、古代最大のものだった。
九州からはじまり、大和全域に侵入して、人民の死と、田畑の荒廃が続き、当時の人は、祟りを思うのである。
更に、天平9年には、藤原家の、危機の年だった。
不比等の四子、同時政界の首脳だった者も、天然痘で、死んだ。
聖武天皇の皇后、光明皇后の肉親である。
祟りの思想・・・
これは、長屋王の祟りか・・・
長屋王は、藤原の謀略により、自殺せしめられた。
天平元年のことである。
政略結婚に対する、長屋王の反対。
そして、藤原の勢力を危惧した、長屋王である。
光明皇后は、仏教信仰の篤い御方として、伝説化されているが・・・
一族に襲い掛かった不幸に、戦慄したことであろうと、亀井は、言う。
祟り信仰・・・
これにより、日本の哲学者の一人は、日本の信仰は、祟り神への、怖れの信仰であると、異なことを言うが、違う。
祟りとは、自然崇敬の日本古代人の、当たり前の感覚だった。
祟り神、神である。
自然が荒れると、荒ぶる神と、呼ぶ。
ここで、特徴的なことは、聖武天皇である。
皇太子時代から、仏教を学んでいた。
時代の不安と政治的危機に直面して、甚だしい心労をかさねたことがその詔からうかがわれる。
亀井
その、詔である。
兎に角、すべての責任は、私にあるという、詔が数多いのである。
原文は難しく掲載しないが。
朕の不徳を以って致すところなり・・・
百姓、おおみたから、の何の罪ありてか・・・
思うに朕が・・・
朕が訓導の明らかざるによりて・・・
おほみたからの、あづかるに非ず・・・
繰り返される、朕の責任である。
災害にのぞんでの天皇の自責(不徳と罪)とその告白が、聖武天皇の場合甚だ顕著だということである。
亀井
当時の、天災と病気には、打つ手がなかったのである。
我が身、一身にそれを受けるという、自覚は、政の主、統治者の主としての、自覚である。
国分寺の建立の動機の一つと、考えてもよい。
更に天皇は、藤原広嗣の乱を、天平12年に経験する。
それは、天皇側近の、僧玄ぼう、吉備真備をはぶくことを奏上したが、受け入れられず、九州を本拠として、反乱を起こした。
一時は、奈良中部にも不安を与えたのである。
聖武天皇の奈良脱出も、この頃である。