2014年10月30日

神仏は妄想である。507

ナーガールジュナがここでほんとうに問題にしているのは、「過ぎ去られるもの」と「過ぎ去る運動」という二つの概念の関係であって、運動という位置の移動が可能であるかどうかということではない。
研究家

そして、更に、
したがってナーガールジュナは概念を否定したのでもなければ、概念の矛盾を指摘したのでもない。概念に形而上学的実存性を賦与することを否定したのである。
中村 元

次第に理解不能になってくる。

さて、この「中論」は、何をしているのだろうか。
それは、プラサンガという論法である。
それを、訳せば、きびゅう論法と言われる。

その意味は、決して自説を主張することなく、論敵にとって、願わしからざる結論を引き出すこと、である。

ナーガルジュナの論敵は、多数存在する。

この問題の論敵は、上座部の、一派である、説一切有部の、「法有」の立場を相手にしているのである。

法有とは、経験的事物としての「もの」が有る、という意味ではない。自然的存在としての「もの」をして、それぞれの特性において「もの」として有らしめるための「かた」「本質」としての「もの」が有る、という意味である。「・・・であるあり方」が有る、と主張するのである。
中村 元

益々、面倒になってくる。

したがって法有の立場では作用としてみないで、作用を作用としてあらわし出す「かた」「本質」が形而上学的領域において実存していると考える。
中村

それに対して、ナーガールジュナは、論破しているのである。
それを、破邪と言う。

それで、早く終わりたいので、
論敵のもっているこの困難は全く「法有」という哲学的態度から由来している。もちろん「中論」の主要論敵である有部は「去ること」というダルマ(法)を認めていたのではなく、いわゆる運動を否定していたといわれる。しかしながら「去ること」も一つの「あり方」であるから、一般に法有の立場に立てば「去ること」をも実体視せねばならず、そうだとすると種々の困難が起こることをナーガールジュナは強調したのである。
中村

と、いうことで・・・

呆れる。

結局、ナーガールジュナさんは、自然的存在の領域における、運動を否定したのではなく、法有の立場を攻撃した、ということ。

話を変更すると・・・
どんな哲学、思想でも、見方を変えると、色々と、批判することが出来るのである。

上記は、中観派といわれる、グループで、自分たちには、誰も適わないと、信じていた。そして、現在も、それを解説する者が、多くいるが、それを論破する人はいない。
だから・・・
「空」の思想として、成り立っている・・・のか

中村氏は、この問題を、プラトンの「本質」「かた」と比べている。
以下、長いが引用する。

もしも現象界の変化やすがたを成立させるもとの範型としての本質、「かた」があるならば、それは変化しないものであるかという議論はプラトーンの対話編にもみられる。
「ソクラテス・・・次のことを考えてみようじゃないか、本当に名を立てた人々は万物が何時も行き又流れると考えて立てたのかどうか・・・わし自身の見るところでは、かれらはそう考えたのだから・・・しかし実は、ことによったら、そうではなく、その人たちはみずから一種の渦の中に陥っていて混乱し、またわれわれをひきずって更に投げ入れる。わしが度々夢みることを、畏敬すべきクラチロス君、考えてみたまえ。われわれは言って亜よいかどうか、美自体とか善とかそのように存在するものの一々があると。
クラチロス 無論あるように思われます。ソクラテス。
ソクラテス かのもの自体を考えてみようじゃないか。ある顔が、あるいは何かそのようなものが美しかどうかではない。それらはすべて流れるように思われるから。そうではなくて美自体は何時もそれが現在あるとおりの性質そのものではないか。
クラチロス そうにきまっています。
ソクラテス さて、それが何時も出て行くならば、それを正しく呼びかけることができるかね、まず、かのものであると。次には、このようなものであると。それとも必ずわれわれが言うと同時にそれはすぐ他のものになり、出て行き、もうその状態をつづけないのか。
クラチロス 必ずそうなります。
ソクラテス さて決して同じ状態にあらぬものがどうしてかのあるものであり得ようか。と言うのも、少なくとも同じ状態にあれば、少なくともその時間の間は無論ちっとも変化しない。また何時も同じ状態にあり同じものであるならば、少なくともそれがどうして変化したり運動したりしようか、自己の姿を失わずして。
クラチロス 決してしません。

「中論」は論争の書である。
東アジアの伝統的な表現では、破邪を目指しているという。

「中論」の破邪、それは、否定の論理であり、あらゆる概念の矛盾を指摘して、事実に反してまでも、概念を否定したのであると、西洋の学者により、解釈されている。と、言う。

元に戻ると、「中論」の態度としては、「空」の定まった教義など、持たないのである。

つまり、自らの主張を持たない。

ルジュナさんは、
もしもわたくしに何らかの主張があるならば、
しからば、まさにそのゆえに、わたくしには理論的欠陥が存することになるであろう。
しかるにわたくしには主張は存在しない。まさにそのゆえに、わたくしには理論的欠陥が存在しない

その弟子も、
もしも事物が有るとか、無いとか、有りかつ無いとかいう主張の存在しない人―――
いかに長い時間を費やしても、かれを論詰することは不可能である。

更に、その解説者、チャンドラキールティは、
中観派にとってはみずから独立な推論をなすことは正しくない。何となれば二つの立論の一方を承認することはないからである。

だって・・・

論敵から、身を守る・・・
そのために、主張は無いと言うのである。
だから・・・
理論的欠陥は存在しない・・・

素晴らしい、屁理屈の世界である。
それが、「空」の思想の原点だ。

ホント、神仏は妄想である
なのだ。



posted by 天山 at 06:50| 神仏は妄想第九弾 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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